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リア住怒りの鉄拳 ~仏の顔もサンドバッグ~  作者: 鵜狩三善
ボーズ・ミーツ・ガール
6/62

片翼飛行

 カヌカ祈祷拠点駐留軍総指揮官の名を、エイシズ・ターナーという。

 仰々しい肩書きを見ればまるで歴戦の古強者のようだが、そうではなかった。まだ少年と呼んで差し支えのない(よわい)の彼は、たまさかここへ任ぜられていた若輩である。

 人魔必争の地を選んで設けられた祈祷拠点だが、魔軍なき平時においては安閑たる辺境でしかない。

 その総指揮官とは実務を祈祷拠点付きの副官たちに委ね、ただ椅子に座ってさえいればよい立場を意味し、エイシズのような貴族子弟が経歴への箔づけとして利用する通過点であった。

 つまるところ彼の不運は、その任期中に皇禍が発したという一点に尽きる。


 魔軍侵攻の急報が届いた当初、エイシズは己の責任の重大さに震えた。最前線の最高指揮官という立場は、魔軍と対峙し続けるという現実は、食を受け付けなくなるほどに彼の心を蝕んだ。

 しかし、数日もせぬうちに彼は気づく。

 魔族が現れたその(のち)も、全てが副官たちにより遺漏なく執り行われているという事実に。(よろず)はエイシズの前を素通りして決定され、変わらず彼はお飾りだった。

 そうしてエイシズは理解する。

 自分にはする事も、出来る事もないのだと。それからは大人たちの邪魔をせぬよう、じっと席にだけ座す日々だった。


 やがてアーダルからセレストたちが、ラーガムからカナタたちが着陣。

 彼ら人類精鋭による魔族との前哨戦は負け知らずで、戦況は優勢と見えた。圧倒的戦果を目の当たりにして、拠点の兵たちの士気も大いに振るった。

 だからアプサラスの手勢を待たずに出立すると告げられた時も、さしたる不安は覚えなかった。彼らの振る舞いは相変わらず英雄めいて自負と自信に満ち溢れていて、その勝利に少しの疑いを挟む余地もなかった。

 一行を見送ったエイシズは、こうして何事もなく此度の皇禍は終わるのだろうと考えていた。

 この日、その時までは。



 カヌカ祈祷拠点に火の手が起きたのは、セレストたちの出陣からしばしが過ぎた頃である。

 各所に生じた猛烈な炎により一時的な混乱が生じたものの、駐留軍はただちに統制を取り戻すや消火活動を放棄。拠点中央部の祈祷塔へと集結し、これを守るべく布陣した。

 同時的に生じた火災は魔軍の仕業以外になく、未だ姿を見せぬ襲撃者の目的を祈祷塔の破壊、ひいては封魔大障壁の解除と断じたからである。

 祈祷塔を内包し、整然たる方円の陣が組まれた。大盾を備えた兵がぐるりと外周を受け持ち、その内側に槍兵、弓兵、霊術師が射程の順に層を作る。

 場は空気が、肌を切るほどに張り詰めた。

 炎の熱を浴びながら、煙にひどく燻されながら、誰もがこそりとも音を立てない。いつ、どこから現れるかも知れぬ魔に対し、全軍が知覚を研ぎ澄まして備えていた。

 ただ静かに。緊張は不吉を孕んでその水位を増し──ついに、それが破れる。


 轟音と共に兵舎の壁が吹き飛んだ。

 開口と同時に炎を吹き出した大穴から、隊伍(たいご)目掛けて投じられたものがある。気づいた外周が盾で受けるも勢いは殺し切れず、着弾地点の数名が巻き込まれ、鎧を凹ませながら打ち倒された。

 陣形の穴を塞ぎつつも周囲の者々が確かめれば、飛来物の正体は人だった。人の、(むくろ)であった。恐ろしい速度で複数の鋼に衝突したその全身は、生みの親が見ても気づけぬほどに無残な変形を遂げていた。


 突如出現した凄まじい死に、兵たちが息を呑む。

 波紋めいて伝わる、わずかな動揺。

 その呼吸を狙い澄まして、次の刹那、同じ穴から別の何かが続けて飛び()でた。

 今度の影もまた、人の形をしていた。してはいたが、しかし人ではなかった。

 火の粉を纏い、駐留軍の甲冑を装ったそれは、躍り出た速度そのままに兵士の上に着地。あろう事か鎧ごと、紅を散らせてその肉体を踏み壊す。次いで、両の腕を無造作に突き出すや、それぞれの手のひらにひとつずつ、手近な兵の頭を掴み込んだ。

 金属が握り潰される、異音がした。

 兜ごと首を失った胴体が、鮮血を振りまきながら地に転がった。子供の握り拳ほどに圧縮された鋼と肉の塊を指を開いて落下させ、


(まぎ)れ込むのに化けてはみたが、どうも窮屈でいけねぇ。そろそろ、戻るぜ」


 独白めいて呟くと、それは自らの纏っていた鎧に手をかけた。ぶちぶちと、まるで紙きれか何かのように金属をむしり取り、筋骨隆々たる銅色(あかがねいろ)の素肌を(さら)け出す。

 体躯が、みりみりと膨れ上がった。(たちま)ち、兵たちの背丈を軽々と倍する高さにまでに伸び上がる。

 更に赤銅の色合いを強めたその肌は、鋼鉄の威容を放っていた。全身には(こぶ)の如き筋肉の束が隆起し、披露した怪力の所以(ゆえん)を知らしめる。


 蟻も漏らさぬ密度で組まれた陣形に、波が引いたような空白が生じた。

 総員が大盾を構え、正体を見せた魔を取り巻いたのである。

 瞬きの間に鈍色の壁が出来上がったかのような光景だったが、しかしその実情は包囲とは異なる。

 兵たちは皆、ただそれを恐れて遠巻きにしたのだ。だがこの怯懦(きょうだ)を、一体誰が責められようか。


「機を窺い数を絞り、隠密の内に玉体を穿つ。これは手前らのお得意だろうが。やり返されて怯んでんじゃあねぇ。きっちり対応して見せろや。さもなけりゃ……」


 返り血に濡れた両手を(はた)き、魔族は獰猛に笑う。

 じろりと、(そび)える祈祷塔を()め上げた。


「手前らの大事なあれを、ぶっ壊しちまうぜ?」

(ひる)むな! 大障壁を抜いてきた以上、あれは五王六武に類するものだ。難敵なのは知れた事だ。だが怯むな。我らは最前線。(おび)えて逃げれば、後背(こうはい)の民が死ぬぞ」


 威圧を込めた眼光を跳ね除けるように、副官の激が轟いた。


「槍を構えろ。矢を番えろ。霊術師は速やかに宣誓を解け。狙えるなら打倒を狙え。だが倒せなくても構わん。既に我々の希望は出陣した。彼らが魔皇を討つまで、ただ足止めをすればいい。それで十分だ。それは勝利も同然だ」


 崩れかけた雰囲気を押しとどめた采配に、魔族は内心で舌なめずりをする。

 この魔がカヌカ祈祷拠点を訪れたのは、(ひとえ)にテラのオショウに(まみ)える為であった。ムンフとパエルを続けざまに討ち取った男と、雌雄を決すべくであった。

 祈祷塔の破壊は言うなれば物のついで、ただの暇つぶしのようなものだ。

 だが手強く抵抗し、楽しませてくれる敵があるというのなら、まずはそちらを堪能するのもやぶさかではない。


「ではお望み通り、宣誓しようか。我は皇に身命捧げ奉る六武が一、ディルハディ」


 圧倒的自負の現れか。

 己に向けられる穂先、矢尻、術印のいずれも意に介さず、魔族は仁王立ちで腕を組む。

 一瞬の惑いの後、副官の腕が振り抜かれた。総攻撃の指示である。誘いの隙であろうと隙は隙。一種の無防備が生じているのに間違いはない。

 ディルハディの巨躯へ向け、一斉に槍が投じられ、矢が放たれた。その後を追い、曲射軌道を設定された霊術が、或いは炎、或いは雷、或いは氷の形を成して乱れ飛ぶ。

 だが。


「──この身、血肉に非ずして傷つくる事能わず」


 その悉くに対して、干渉拒絶が発動した。武具はあらゆる破壊力を失って地べたに転がり、霊術式は構成を喪失して無に帰った。

 野太く通ったその声音に、再び動揺の波が広がる。

 解自体はこの上なく明白だ。

 血と肉、つまりは手足を始めとした五体髪膚(ごたいはっぷ)を用いての暴力であるならば、ディルハディを害しうる。ただそれだけの話である。実に単純で明快で、だからこそ対応は困難極まりない。

 それは、人の積み重ねの一切を否定する宣誓だった。 

 生まれは脆弱な人類が、魔族に拮抗すべく重ねてきた時間と積み上げられた歴史。そこより生じたのが武具であり、防具であり、霊術であり、これらを駆使する戦闘技法である。

 それら人類の研鑽と叡智の全てを否定された時、人が魔族の暴威に抗う(すべ)はない。

 生得(しょうとく)の差はそれほどに著しいのだと、最前線の兵たる駐留軍は骨身に染みて知っていた。


 その上敵手はただの魔ならず、魔王の腹心たる六武の一角である。

 これと()(こう)正面から殴り合って、勝利できる人間がいるなどとは到底に思えなかった。赤熱した鋼鉄のような、暴力の凝固のようなこの魔を徒手空拳で圧倒するなど、絵空事でも有り得まい。


「どうした。人間ってのは体ばかりじゃなく心までも脆いのか。もっと気張りやがれ。張り合いがねぇだろう?」


 立ち竦む兵士たちへ向け、ディルハディは足元の死体を蹴り飛ばす。さして力を込めたとも見えぬのに、元人体は千々(ちぢ)に爆散。一部の硬く、重いパーツが鋭い弾丸と化して盾と鎧とを貫き、新たな犠牲者を量産した。 

 魔族が、一歩を踏み出す。

 途端、預言者を前にした海の如くに軍勢が割れ、祈祷塔までの道が(ひら)けた。

 誰もが阻まねばと思った。だが、誰も動けなかった。場は、完全にこの暴君の支配下にあった。


 ──否。

 一人だけ、いた。

 腰に帯びた剣を投げ捨て、手甲を外して裸の拳を剥き出しながら、ただ一人進み出る者がいた。

 エイシズ・ターナーである。


「閣下!」


 焦る声が届いたが、無視した。

 期待などされていないのはわかっていた。何もできないと理解もしていた。

 けれど前に出る者がないのなら、自分こそが行くべきだと思った。


「来い、化物」


 そうして、彼はディルハディの眼前に立ち塞がった。拳を己の手のひらに打ち付ける。

 才能も経験もない彼であったが、勇気の持ち合わせだけはあった。なけなしのそれを振り絞り、上げた声だった。


「僕が相手をしてやる。僕が、相手になってやる」


 対してディルハディは、苦笑気味に頭を掻いた。


「度胸は認める。認めるが、震えてるぜ、小僧。声も、膝もだ」

「知った事か。来い」


 魔族は不満げに息を吐き、少年を見る。やがて諦めたように首を回した。


「ま、仕方ねぇ。それでも立ちはだかるってんなら、手前は俺の敵だ」


 巨体が、動くとも見えずに動いた。告げた時にはもう、エイシズの眼前にある。

 少年の頭へと、無造作に魔族の手が伸びた。ひどく大きな手のひらだった。

 これが己の死だと、エイシズは直感する。潰されるのだ。先の二人の兵と同じく、自分の頭もやわらかな果実のように握り潰されてしまうのだ。はっきりと、そう悟った。

 死を覚悟した刹那、脳裏を過ぎったのは父母の顔で、つまりまだ、彼はそんな年頃だった。

 だが諦めに目を閉じかけた、その時。

 ひとつのシルエットが、エイシズの上に差した。

 それが宙を舞う男とその荷物の落とす影であるとは、この時の彼には理解の及ばぬ事である。

 

「ぬあッ!?」


 直後。

 ディルハディの上体が仰け反った。のみならず巨躯は浮かされ地面と平行に吹き飛んで、現れた折の逆回しのように兵舎の中へと叩き込まれる。

 兵たちの、エイシズの頭上の駆け抜けた男が──オショウが、魔族の胸板にドロップキックを炸裂させたのだ。


 それにしても美しい蹴りだった。

 鞠めいて体を丸めた姿勢から、転瞬、爆ぜるように蹴り足が繰り出される。質量と速度とが十全に乗り、尚且つ高度も、長身を思い知らせる体の伸びも申し分がない。

 力強い筆致の水墨画めいて、シンプルな美に満ちた蹴りであった。

 更に瞠目すべきは、これが四人の人間が乗る鉄の椀という重荷を抱え、その内部へ衝撃を伝えぬように配慮しながらの一撃という事だろう。

 尋常ならぬ技量の一端を披露しつつ魔族を蹴り飛ばしたオショウは、迦楼羅天秘法ヴァーハナ・スラスターにより姿勢を制御。空中で鉄椀を担ぎ直すや、ずしりと両足の裏で大地を踏みしめる。

 地を揺るがせた重量の大半以上は、無論担いだ椀によるものだ。


「……」


 衝撃の事態に、当然ながら誰の声もない。

 ただ唖然と、ただ呆然と、オショウを見守るばかりである。


「オショウ様! 降ろして、降ろしてくださいまし!」


 いささか間の抜けた沈黙を破ったのは、涼やかな少女の声だった。

 出処を求めて視線を上げれば、巨漢の肩に収まった珍妙極まりない乗り物から、ひょこりと顔を出している者がある。それはエイシズとさして齢の変わらぬ、可憐な娘だった。

 発せられた要望に応え、オショウがゆるりと優しい動きで鉄椀を土に置く。

 すぐさま身軽に椀の(ふち)を乗り越えた彼女は、自らの足で地に立つや辺りを見回し、そしてエイシズを認めてにっこりとした。


「ご勇姿、拝見しましたわ。ご立派でした。わたくしも、斯くありたいと思います」

「あ……あの、貴方は……?」


 (かぶり)を振ってエイシズが言葉を絞り出すと、少女はぽんと手を打って、


「いけません、また先走りましたわ。まずはご挨拶、そう、ご挨拶を申し上げなければですわね。わたくし、ケイト・ウィリアムズ。アプサラスのケイトと申します。そしてこちらはテラのオショウ様。わたくしに合力(ごうりき)してくださっている、万夫不当の御方ですの」


 きらきらと信頼に満ちた眼差しを向けられ、巨漢は何とも言えぬ顔で手を握ったり開いたりしている。

 その様から目を転じて椀を見れば、かつて船の一部であった(おぼ)しきその横腹には、確かにアプサラス王家の紋章が刻まれていた。


「貴女がアプサラスの……。しかし、樹界に船が落ちたとの報告を受けています。一体どうやってこんな短時間で……」


 我ながら馬鹿な問いだという自覚があった。

 状況を顧みれば、如何に信じがたくとも回答はひとつなのだ。この巨漢があの鉄の大椀を担いで、ひた走って来たのに違いないのだ。

 困惑気味の彼の表情を読んだケイトがこくりと頷き、「オショウ様のなさる事ですから」と想像の肯定をした。


「ではそれを担いだまま、界獣を振り切って?」

「流石に全てからは逃げ切れませんでしたわ。なので」

「うむ。やむを得ず、蹴殺した」

「けころ……」

「あまり深く考えてはいけませんわ。なにせ、オショウ様のなさる事ですから」


 ケイトがもう一度繰り返す。

 人の味を覚えた界獣は、一軍を以て討伐に当たるべき脅威である。単独で文字通り一蹴したなど、通常ならば笑殺すべき発言だった。しかしこのテラのオショウなる人物は、たった今、眼前で六武を蹴り飛ばしてのけている。

 己の常識が足場を失っていく感覚に、若き総指揮官は目を覆った。


「ともあれ、これ以上歓談の時間はなさそうですわね。どうやら今は、あちらが最優先のようです」

 

 声の調子を僅かに変え、ケイトが動かした視線の先。

 そこにはオショウを()めつけ仁王立つ、ディルハディの姿があった。まるで彼以外は視界にないかの如き眼光だった。


「お下がりくださいませ。わたくしと、オショウ様が引き受けます」


 ゆるりと進み出たオショウが、魔族の威圧を受け止める。

 ふたつの視線が絡み合い、きな臭く火花を散らした。空気が緊迫で熱を(はら)み、触れなば砕けるガラスのように凝固していく。


「手前か。手前がテラのオショウだな?」

「うむ」


 その中をディルハディは悠然と進み、互いの表情が伺える距離で足を止めた。


「ムンフを殺ったのが、手前だな?」

「うむ」

「あれは俺様の弟分でよ。まだひよっ子だったが、これからを期待してた奴でもあった。……ああ、こう言えば誤解されそうだが、違うぜ。あいつの仇討ちってのとはちょいと違う。俺様は強い人間が好きでよ。手前のやり口を見て、やり合えるのを楽しみにしてたのさ」


 魔には元来、性別も性格もありえない。魔皇より全てが発する魔族という種の形態からすれば、それらは不必要なものだからだ。

 しかしながらどうした理由か、五王六武やそれに準ずる上位個体は、こうした独特の個性を備える事が確認されていた。

 無論それは皇への忠誠を根源、第一とした上での個我である。だがこのディルハディのように、行動原理として時に強く発露する場合があった。

 

「テラのオショウ。手前に一騎打ちを申し入れる。よもや、逃げねぇだろうな?」

「うむ」

「オショウ様!」


 間髪入れぬ返答に抗議を叫んだのは、当然ながらケイトである。


「相手の言いを容れてはいけません。何を企んでいるかわかったものではありませんもの。それにオショウ様はもう半日も走り通しで──」

「今一度(ひとたび)宣誓しよう。我は皇に身命を捧げ奉る六武が一、ディルハディ。我が身、血肉に非ずして傷つくる事能わず!」


 咆哮めくディルハディの声音がびりびりと大気を震わせ、ケイトの口を閉ざさせた。先の宣誓を耳にしなかった彼女だが、これでエイシズがあのような無謀を行った理由を理解した。理解せざるをえなかった。

 霊術も武具も用いず、あの巨躯に自分が立ち向かうのは不可能だ。

 憂い顔で、ため息をついた。


「……お聞き及びの通りですわ、オショウ様。わたくし、一臂(いっぴ)の力にもなれそうにありません。であれば、自分に出来る事をしたいと思います」

「うむ」


 ケイトは手早く治癒霊術を執行。

 オショウの肉体を賦活し、僅かなりともその疲労を拭う。


「ご負担をかけてばかりですけれど、また、頼ってしまってよろしいですかしら?」

「うむ」


 何でもない事のように頷いてから、オショウはディルハディへと向き直る。その背を、いつしかエイシズは憧憬の眼差しで見つめていた。

 するべきを見定め、為すべきを担う。

 それは、彼がなりたいと願っていた背中だった。


 ケイトとエイシズの、そして兵たちの注視する中、オショウはゆるゆると流れるような足運びで魔族との間を詰める。

 ばしりと己が手のひらに拳を打ち付け、それから人差し指だけでディルハディは差し招く。


「さあオショウ。技(くら)べ、力競べといこうぜ。存分に、殴り合おうぜぇ」

「一騎打ちに腕競べか。これまで関心がなかったが、今は不思議と心が踊る。どうやら俺の内にも修羅が棲んでいたものらしい。まったく──」


 その口元に太い笑みが浮く。


「──仏騒(ブッソウ)な事だ」


 笑みながら、オショウは緩やかに双掌を合わせる。

 次いで握った両拳を腰だめに落とし、体内の気を高速循環。金剛身法(ゴンゲン・スタイル)により急激な練気圧の変化が発生し、彼を中心に球状の衝撃波が吹き荒れた。

 颶風(ぐふう)の如きそれを、しかしディルハディは期待の面持ちのまま受け止める。

 

「参る」


 直後、オショウは迦楼羅天秘法ヴァーハナ・スラスターにより加速。真っ向から速度と質量、そして全身の運動を統合した鋭槍(えいそう)の穂先めいた裏蹴りを魔族の腹筋に叩き込む。

 だが先の奇襲とは異なり、ディルハディには気構えがある。両足は根が生えたようにしっかと踏ん張っている。宙を舞う代わりに、線を引くように地表を抉りながら滑って後退し──そして、それだけだった。

 ディルハディはオショウを見やって歯を剥き出す。

 不意打ちで炸裂したドロップキックのダメージが、少しも残留しない事からも知れるように。

 干渉拒絶により身を守っていたムンフやパエルとは違い、この魔族は自身の宿す素の耐久力のみで、オショウの一撃に耐えうるのだ。


「じゃ、お返しといくぜ」


 蹴り足を引き戻す停滞を見逃さず、ディルハディが拳を引き、突き下ろす。腰が入り体重の乗った、筋力だけに頼らぬ武術の(ことわり)を備えた動きだった。

 爆発物さながらの剛拳が、オショウの胸板に直撃する。

 体重差もあったろう。彼の足は魔族のそれに倍する軌跡を土に刻み、ようやく止まる。

 

「オショウ様!?」

「うむ」


 ケイトの悲鳴に、オショウはちらりと目をやって頷いた。無事を見て取り、彼女がほっと胸を撫で下ろす。

 追撃を仕掛けずに待ったディルハディが、そこへ「おい」と割って入った。


「おい。手前、どうして避けなかった」

「尊公がそのようにしたからだ。これは、競べなのだろう?」


 魔族は毒気を抜かれたように瞬きをし、それから愉快げに大きく笑った。


「面白ぇ。手前、面白ぇな! ムンフも手前に負けたんなら以て瞑すべきだ。いや、いい男だ。実にいい男だ。だがよ」


 笑いを収め、足を踏み直してディルハディが構える。応じて、オショウも調息をした。


「だが次からは技を使え。力だけなら俺様が有利だ」

「うむ。ならば忌憚なく」

「そうだ。お互い全力じゃねぇとな。なんせ腕競べだからなあ!」


 次の仕掛けはディルハディからであった。巨体とは思えぬ速度で距離を踏み越え、猛烈な一打を繰り出す。最前の試しのものよりも、遥かに凶悪な威を誇る拳だった。

 対してオショウは、避けずに腰を沈め身構えた。

 迫り来る壁の如き巨拳に対し繰り出されたのは千手連撃サハスラブジャ・テンペスト。秒間千撃。40分の1秒の()に放たれる25の連打を正確に同一地点に集束させる事により拳の軌道を逸らし、空を切らせる。

 ディルハディは即座に逆腕(さかうで)を振るうが、結果は同様だった。

 しかも、オショウのそれは防ぎのみに終わっていない。魔族の両人差し指の付け根は、重ねて打ち込まれたオショウの拳によりぐずぐずに破砕されている。

 普通ならば痛みに呻くべき負傷だが、しかしディルハディは異なった。

 自身の鉄拳が砕かれるなり躊躇なく間合いを詰めきり、オショウに肘鉄を打ち下ろす。当たれば卵殻の如くに頭蓋を砕くであろうそれを、恐れげもなく右脇に飛び違える事でオショウは回避。

 やや前傾した姿勢から、瞬速の掌打を放つ。


 三鈷掌ヴァジュラスタブ・スリー

 紫電を(まと)った三連撃が、ひと刹那のうちに魔族の腿と両の脇腹に叩き込まれる。

 (たなごころ)からオショウの爆気が通念し、内部で炸裂。打撃の接触面とは逆側の血肉を爆ぜ散らし、大皿でも隠せぬような破壊痕を穿つ。


「があッ!」


 決着を予感するほどの深手を負いながら、それでもディルハディは退かずに攻めた。

 攻撃の直後に生じる毛ほどの隙を逃さずに、真っ向正面から再びの鉄拳を突き入れる。交差させた両腕とそれを(くる)む硬気、そして極小の結界でオショウは殴打を受け止め、


「む……!」


 想定以上の膨大な衝撃が爆裂し、今度はオショウの足が浮いた。拳の勢いそのままに、大きく殴り飛ばされる。

 ディルハディの拳威を読み違えた理由を、オショウの目は確認していた。

 最前打ち砕いたディルハディの両指。それが既に癒えていた。打撃部位として死んだはずの拳は、今や完璧な形で握り込まれている。

 のみならず。

 腿と背中に空いた大穴も、恐ろしい速度での再生を遂げていくところだった。

 さらけ出されていた骨周りに肉が盛り上がり、筋繊維同士が手を伸ばしあうようにして結合。忽ちに薄皮が張り、フィルムの逆回しのように傷口は消えて失くなる。


「ま、そういうわけだ」


 オショウの視線を受け、ディルハディは牙を剥いて哄笑した。


「魔族ってのはこういうもんさ。尾を生やしたのがいれば火を吐くのもいる。羽を持つのがいれば鱗があるのもいる。同じように、俺様の体はこうってわけだ。よもや卑怯たぁ言うまいな?」


 傲然と(うそぶ)くもむべなるかな。

 驚異的な剛力とタフネスに加え、この魔は異常なまでの再生能力をも備えているのだった。

 パエルとの戦闘と墜落、そしてその()半日に渡る樹界横断行。如何にオショウとて疲労が滲む行程である。練気の精度も落ちている。この状況下で相対する敵手として、ディルハディは最悪の部類であった。

 ならば、とオショウは思考する。


 ──ならば、ただ一撃(ひとう)ちにて撃ち倒すまで。


 総合戦闘術たる仏道の基本理念は色即是空。

 (しき)とは即ち物質を意味し、この一切を空へ、虚無へと帰せしめんとするものである。

 物質的影響に強靭な抵抗力を持つならば、精神面から魂魄を破砕すればよい。その為の技は編まれ、練られている。


「どうやら俺様が機動で劣るのは間違いがねぇ。だがよ、殴られんのを覚悟でいきゃあ、手前の隙は狙い澄ませる。要は、どっちが早く相手を壊せるか、だ」


 己に分があるが如き物言いをしたが、しかしディルハディにもまた余裕はない。当然ながら、彼の再生能力は無限でも無尽蔵でもないのだ。

 加えて。


 ──なんだってんだ、あの硬さはよ。


 吐き捨てるように、思う。

 先ほど受けられた一打。それは並みの人間ならば、受けた腕が胴にめり込みそのまま体がひしゃげる程のものである。彼の筋力が生み出す破壊は、破城槌(はじょうつい)にもおさおさ引けをとらぬのだ。

 しかしながら、受けられた。受け切られた。

 派手に吹き飛びこそしたものの、あれは半ば以上(おの)ずから飛んでいる。オショウは両足の裏でぴたりと着地を決めて、そこから小揺るぎもしない。ダメージなどまるでないに相違なかった。

 魔族の巨大にして強大な拳を、オショウは恐れもなく見極め、捌いてのけているのだ。

 常在戦場にて研ぎ澄まされた精神力と、小型高速戦闘艇(擬宝珠)の知覚拡大を受ければ光速にすら対応する反応速度。

 両者を車輪として駆動する、それは金城湯池の守りだった。


 思惑のうち、双方の動きはしばし止まり──そして三度(みたび)先手を取ったのはオショウだった。

 その速力、機動力を活かして行うは、ディルハディを中心に据えた幻惑するが如き円運動。

 幾回もの変化の後に稲妻の如く切り込み、魔族の右膝目掛け、鞭のような蹴りを放つ。オショウにとってはミドル、ディルハディにとってはローとなる一打だった。

 先の思案とは裏腹めいた小技だが、一撃必倒の秘拳にはより一層の練気を要する。一時的にでもこの魔の挙動を封じ、数呼吸分の猶予を得ねばならなかった。

 無論、そう容易く魔族の(たい)は崩れない。

 蹴打のフォロースルーを、迦楼羅天秘法ヴァーハナ・スラスターによりオショウはキャンセル。前言通り機動の停止を狙って唸りを上げた裏拳を鼻先にやり過ごし、続けざまに鉈の如き蹴撃を放つ。

 同一箇所に蓄積させられた痛手により、ディルハディの膝ががくりと落ちた。

 その一瞬を逃さずオショウが繰り出したのは、足の甲ではなく踵だった。インサイドキックめいた動きで、いい位置に来た膝の皿を、斧のように踏み砕く。


 持国。増長。広目。

 それは八百八の大悪鬼を踏みしだく四天の名を冠し、蟲人の甲殻をも蹴り砕く三連の足技であった。さしものディルハディも苦悶に呻く。

 意によらずして(ひざまず)かされた六武へ向け、またしてもオショウが動きの兆しを見せる。

 ゆるりと上がる蹴り足。強制的に学習させられた下段へと、ディルハディの防ぎの意識が向く。とはいえ砕けた膝では、足を上げての防ぎが叶わない。身を(かが)めるようにして降ろした腕で、オショウの一打を絡め取らんとする。

 しかし、それこそが誘いだった。

 刹那。

 稲妻のように魔族の顎を、オショウの爪先が薙いだ。上体を少しも揺らさぬまま、彼は腰から下だけで蹴りの軌道を変えてのけたのだ。

 多聞から毘沙門への騙し技。足下(そっか)へ向いた心の隙を狙い撃つ、戦慄の右ハイキックである。

 ディルハディの両腕がだらりと垂れた。束の間ながら、その意識が刈り取られる。


 確かな手応えを得ると同時に、オショウは両足を大きく開き、腰を沈めた。左掌を突き出し、逆の拳を腰だめに引く。

 深く吸い、また吐く。

 金剛身法(ゴンゲン・スタイル)により全身に充填していた気を、より高密度に練り上げ、循環させ、圧縮する。やがてそれは蛇体めいてのたうつ三昧(さんまい)の真火として可視化され、幾重もの螺旋を描いてオショウの腕に絡みついた。

 その右拳に、紅蓮が装填される。


 体を崩しかけたディルハディが、かっと目を見開いたのはその時だった。確かな意識を取り戻した眼光が、オショウを見据える。

 そして、咆哮。

 おそらくはただ勘だけで、次に繰り出される一撃が必殺のものと察したのだろう。未だ再生しきらぬ膝の代わりに拳を大地に打ち付け強引に体勢を変え、逆腕(さかうで)を投げつけるように振り落とす。

 燦然(さんぜん)と燃え立つその闘志に、オショウはただ感嘆した。

 この魔は恐るべき高速再生能力を有する。だが最前からの反応を見れば知れる通り、それは肉体の破壊に伴なう痛みを減じはしない。彼の痛覚は尋常のものである。

 でありながら一瞬たりとも怯まぬ克己を、決して折れぬ戦意を見事と思い、雄敵であると思った。奇妙ながら、厚い交誼を得たようにすら感じている。

 故に、手心はない。


(ふん)!」


 ディルハディの挙動よりも速く。

 オショウの正拳が、魔族の胸板を撃ち抜いていた。肉を穿ち骨を砕いて、めこりと穿たれる、拳の痕跡。

 凄惨な打撃痕を覆い隠すように、その直上に種字が浮く。通念したオショウの火炎が(かたど)るそれは、不動明王を意味する一文字(いちもんじ)であり、火生三昧(かしょうざんまい)の刻印であった。

 超人的精度で投射された字形が視認できたのは、しかしひと刹那だけの事。

 転瞬、種字を核に、放射状に炎が爆ぜた。

 

 降魔の利拳フォアフィスト・オブ・カーン

 それは拳により肉体を、炎により魂魄を破砕、強制的に入滅せしめる秘奥である。

 吹き抜けた仏理的爆風の余波により、兵舎の火災の悉くが鎮火。また陣を組む兵たちの半数がよろめいて膝を突き、更に半数がそのまま心神の喪失により気絶した。

 そうして風が止み、静寂(しじま)が落ち。

 やがて、声が漏れた。


「……ああ、畜生め」


 (よど)みなく残心を取るオショウへ向けて、ディルハディは破顔する。子供のように。


「強ぇなあ、手前」


 (おお)きな体が揺れ、地響きを伴って大の字にどうと倒れた。

 オショウは「うむ」と呟くと、身構えを解いて黙祷をした。




 *




 寝台の上に胡座をかいて、彼は微睡(まどろ)んでいた。

 所はカヌカ祈祷拠点の兵舎に焼け残った一室である。ディルハディとの一戦の後、オショウは一人、この部屋で休息を取っていた。否。正確には、取らされていた。

 兵たちの治療と情報交換に駆け回るケイトへ付き添おうとしたところ、


「これまでずっとオショウ様に頼りっぱなしですもの。少しはわたくしに任せてくださいませ」


 とにべもなく断られ、そのままここへ押し込められたのである。ケイトは時折、逆らい難く強引な娘だった。

 しかし、実際に疲労が深いのも確かである。

 このままでは十全の働きをしかねると、兵士としての本能が告げている。故にオショウは浅く眠った。それは同時間の数倍、数十倍の睡眠効率を誇る瞑想法によるものである。

 不思議な事に、夢は見なかった。

 従軍複製僧兵の精神安定上の措置として、睡眠を取れば刷り込まれた記憶が、「和尚様」と慕われる己の姿が現れ出るのが常である。

 しかし今日、彼はその夢を見なかった。

 ただひどく澄んだ笑みをする少女の横顔が、眠りの淵を()ぎったように思う。



 束の間の平穏を破ったのは、小さなノックの音だった。

 まぶたを開きながら応じると、ドアを開けて現れたのはケイト・ウィリアムズである。手にした盆には、湯気の立つティーポットと、ふたつのカップとが載せられていた。


「申し訳ありません。おやすみでしたかしら」


 オショウがベッドにいるのを見て取って、ケイトがちょこりと謝罪をする。首を振って否定してから、おや、と思った。

 彼女の出で立ちが変わっていた。

 ひとまとめに結った髪を後ろに流し、青色の兜を目深に被っている。籠手を嵌めた左前腕には固定式の小さな盾。鎖帷子を纏った腰には剣をひと振り釣り下げて、すっかりの戦支度だった。


「……似合いません事?」


 オショウの視線に気づいて、少し拗ねたようにケイトが言う。盆から外した片手が動いて、気忙しく兜に、鎧に、剣に触れた。

 簡素な武具は華美な衣服よりも余程に彼女の魅力を引き出すようで、まるで戦乙女のような凛々しさがある。問われてそう思いはしたものの、オショウの舌は動かない。女の装いを褒めた経験はなかった。

 応答がないのに内心落胆しつつ、ケイトは幾分か早足に歩いて、備え付けのテーブルに盆を降ろした。バランス感覚が良いらしく、茶器はこそりとも音を立てない。

 空いた両手で兜を外し、きょろきょろと置き場を探してから、寝台の足側に乗せた。次いで両の籠手もそこへ添える。どうやらこれらを身につけていたのは、手を空けて盆を運ぶ為であったらしい。

 それから二脚引き出した椅子の片一方へ腰掛けて、彼女はオショウを手招いた。


「わたくしと同郷の方がいらして、郷里のお茶をわけてもらえましたの。オショウ様にもご賞味いただきたくて、淹れてまいりましたわ」


 再びポットを手にするとふたつのカップに分けて注ぎ、どうぞ、と卓についたオショウへ差し伸べる。

 背筋を伸ばしてそれを受け取り、そっとオショウは口をつけた。

 琥珀色の液体は、紅茶のような芳香を漂わせていた。含めばわずかに渋く、加糖してあるのか、やはりほのかな甘味が続く。舌に熱いほどの温度もあって、甘露のようにじわりと体に染み入った。

 取っ手のあるティーカップを、湯呑のように諸手(もろて)で包む仕草が可笑しかったのだろう。ケイトが優しく目を細める。


「お口に、合いましたかしら?」


 ちびちびと舐めるように味わう図をしばらく眺めてから問うと、「うむ」といういつもの返答に加えて、「美味だ」との賛辞が添えられた。満足して、ケイトはふんわりと笑む。

 それからしばし、言葉はなく、けれど満ち足りた沈黙が続いた。

 けれど、いつまでもそんな空気に甘んじていられぬのは明白である。


「それではオショウ様、今後についてのお話をしたいと思いますわ。よろしいでしょうか?」

「うむ」


 覚悟を固めて切り出したケイトに、オショウはゆっくりと頷いた。

 知識感染を受けたとはいえ、それでこの世界の(よろず)に精通したとはとても言えない。

 また住職という指揮階級にあったとはいえ、オショウは一兵卒に過ぎぬ身だ。富嶽三十六計を修めた軍師とは異なり、大所高所(たいしょこうしょ)(けん)はなかった。

 よって行動の指針は、彼女に頼るばかりである。


「まず状況ですけれど、少しよくありませんの。ここで合流するはずだったアーダルとラーガムの最精鋭は、わたくしたちが墜とされたとの報を受けて、既に魔皇征伐に出立してしまったそうですわ。ですから」


 遠いどこかを見る眼差しで、ケイトは告げる。


わたくしは(・・・・・)、その後を追います。今、飛龍を用意していただいていますの。上手くすれば追いつけるはずですわ」


 含みのある物言いに、オショウが怪訝な面持ちになる。

 けれど問いを挟ませず、ケイトはぐっと彼に顔を寄せた。


「ご覧くださいな。わたくしの瞳、今はちゃんと茶色をしているでしょう? でもオショウ様と初めてお会いした時は、大分赤かったはずですわ。あの時案じてくださいましたわよね。『目を悪くしたのか?』と。ええ、実際悪くしたところだったのです。オショウ様をお喚びした時の消耗で色を無くして、少し見えなくなっておりましたの」

 

 口早に、決めてきた文言(もんごん)を彼女は暗誦(あんしょう)してのける。


「実はわたくし、どんな大規模霊術も確実に執行できる一族の生まれなのです。本来なら儀式と祈祷塔の支援が要るような術だって、独力で起動できてしまうのですわ。ただし術式に不足した分の代償は、命を削って支払う事になりますけれど」


 確定執行のウィリアムズ。

 それは彼女が、敢えてオショウへ感染させなかった知識だった。

 術式の起動により損耗した生命力は、色の、そして機能の喪失という形で顕在する。ケイトの瞳の色合いの変化も視力の低下も、その現れであった。

 だが召喚術式の執行が、数日で回復できる程度の消耗で済んだのはむしろ僥倖と言えた。

 もし祈祷塔のバックアップを欠いていたなら、彼女の命はそこで絶えていた事だろう。


「ならば、魔皇必滅の術は」

「はい。オショウ様のご想像の通りですわ。何の補助もなしに、干渉拒絶の一切を無効化して魔皇を討つ霊術式ともなれば、それは異界干渉に比肩する程のものです。きっと命を落とすまで行く事でしょう。ええ、そうですわ」


 そこで透明に彼女は笑んだ。

 憂いも(かげ)りも、何もなく。


「わたくし、死にに行くのです。アーダルの太陽とクランベルの聖剣、そしてそれに付き従う方々。彼らの力で魔皇を倒せればよいのですけれど、おそらくは無理でしょう。魔皇の干渉拒絶は五王六武に比しても傍若無人と語り継がれておりますから。ですからわたくしは最終手段。絶対に躊躇ってはならない最終手段なのですわ」


 魔皇の(もと)まで護衛をせよ、と。

 彼女は初めからそう告げていた。魔皇を共に討て、ではなく。


「でもオショウ様はお優しいですから、きっと自ら死を選ぶ振る舞いをお許しになりませんわよね。わたくしをお叱りになって、ひょっとしたら体を張って、魔皇に挑んでくださってしまうかもしれません。ですから、こうする事にしました」


 オショウが何を言う(いとま)もなかった。

 微かに憂いを帯びた瞳が彼の顔を見つめ、そして囁く。


「契約の対価として命じます。眠りなさい、テラのオショウ」


 告げられたのは術式ですらない、ただの言葉に過ぎなかった。

 しかし命じられたその通りに、オショウはがくりと卓に伏した。全身が脱力し、糸を断たれた操り人形さながらの有様だった。

 起動したのは召喚主の被召喚者に対する、絶対命令権。命を救い世界を渡らせるその代償としてただ一度きり用いれる、自害を命じる事すら可能な強制力である。

 大きな力を持つ者を喚ぶ召喚術式に組み込まれた安全弁であり、やはりオショウには教えなかった、これこそがケイトの伏せ札だった。


「勿論──勿論、オショウ様がご同道くださるのなら、こんなに心強い事はありませんわ。でも、それはできませんの」


 ため息をしてから立ち上がり、そっとオショウの体を抱きかかえる。四苦八苦の末、どうにかその巨躯を寝台に押し込むと、ケイトは兜を手に取り被り直した。


「だってオショウ様は、わたくしの召喚に応じてくださった方ですもの。わたくしの手を取った方ですもの。それはオショウ様が生きたいと強く望む、何よりの証しですわ。そのような方を死地には伴えません」


 小さな独白は震えていた。

 決して取り乱さぬつもりだったのに。覚悟など、とうの昔に固めたはずであったのに。

 自分は、揺らいでばかりいる。

 情けない事だとケイトは思う。


「この身に代えて、魔皇は必ず討ち倒します。後は陛下が万端取り計らってくださるはずですわ。ですからオショウ様はご安心くださいまし。安心して、ここでお待ちくださいまし」


 下した(れい)の効果時間は、およそ一昼夜ほど。彼が目覚める頃には、全てが終わっているはずだった。

 少しだけ迷ってからケイトは手を伸ばし、オショウの髪をそっと撫でる。

 想像していたよりも、ずっとやわらかな感触がした。


「こんな振る舞いをして、身勝手でひどい女ですけれど。でも最後にお礼を言わせてくださいな。わたくし、オショウ様にお会いできてよかったです。ほんの数日でしたけれど、この旅路はとても楽しいものでしたわ。絶対に楽しいなんて言えないはずなのに、なのにとてもとても、素敵な思い出になりました。この時間がずっと続けばいいのになんて考えてしまうくらいでした。でも、だからこそ。同じように日々を(いと)おしむ方々の為に、わたくし参らねばなりませんの。ええ、なんて事ありません。楽勝です。楽勝ですわ」


 沢山の大好きで大切なものの為になら、少しも怖くなんてない。そう、自分に言い聞かせる。

 ドアを開け、最後に一度だけ振り返った。


「さようなら、オショウ様。幾久しく、お健やかに」




 *




 小走りに兵舎を出ると、そこには単身、エイシズが待ち受けていた。


「お願いした飛龍は?」


 何を訊かれるよりも早く、ケイトは我から声をかける。

 露骨な振る舞いだったが、察しのよいエイシズはそれ以上を言わなかった。頬に残る涙の跡についても、何も問わなかった。


「あちらに、用意ができています」


 彼の指さす先に、一頭の小型龍が鞍を載せて(うずくま)っている。

 この祈祷拠点で飼われる、緊急伝令用の飛龍だった。

 航続距離と積載量では飛空船に劣るものの、短距離の飛翔速度において遥かに勝る生物である。ケイトはこれで魔軍の頭上を越え、空から魔城へと乗り込むつもりだった。

 敵軍の主幹戦力たる五王六武は最早二王を残すのみであり、また同志たる人類精鋭が先行して戦端を開いている以上、魔皇の御座までの潜入は(かた)くなかろうと踏んでいる。


「ただ、飛龍はどれも気性が荒いんです。特に慣れない人には……」


 足早なケイトを追いながら、エイシズが言う。

 その言葉の通り、龍は二人を認めると、長い首をもたげて低く唸った。口に枷をつけているとはいえ、その爪も尾も、容易く人を死傷せしめるものだ。

 当然ながらエイシズは歩を止めたが、ケイトは意にも介さない。


「大丈夫ですわ。わたくし、動物には好かれる方ですの」

「ウ、ウィリアムズ殿!?」


 一方の籠手を外しながら歩み寄り、無造作に龍へと腕を伸ばす。

 白い手のひらが幾度かその喉をくすぐると、飛龍は心地よさげにまぶたを閉じ、警戒を解いて首を下ろした。


「ね?」

「……」

 

 得意げに振り向く彼女に、エイシズはやれやれと(かぶり)を振る。

 どうやら常識外れなのは、テラのオショウばかりではないらしい。


「ところでターナー様。もうひとつだけ、お願いしてもよろしいかしら?」


 不敬な想念を巡らせたところで呼ばわられて、彼はどきりと胸を抑える。


「なんでしょうか?」

「オショウ様の事ですわ。あの方はとても疲れ果てていて、今はぐっすり眠っていらっしゃいます。きっと一昼夜は目を覚まされないでしょう。何もないとは思いますけれど、わたくし、勝ってくるつもりですけれど、でももし万一があった時には、どうかよろしくお守りくださいね」


 エイシズが強く、幾度も繰り返し首肯すると、娘は心底からの安堵を浮かべて鞍に(またが)った。


「では、行ってまいります」


 告げて、ケイトは見惚れそうに透明な笑みを浮かべた。浮かべてのけた。

 それは帰らずを覚悟した顔だった。死に場所を見定めた者の横顔だった。


 龍が羽ばたき、飛び立つ。

 思わず数歩その影を追い、やがて置き去られたエイシズは、背筋を伸ばして敬礼を空へと送る。

 彼ばかりではなかった。遠巻きに見守っていた幾人もの兵士たちが、同じように直立不動で彼女の出陣を見送っていた。

 いつまでも、見送っていた。

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