堅固法身
僧、大龍に問う。
「色身は敗壊す、如何なるか是れ堅固法身」
龍云く、
「山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」
――堅固法身
「テラのオショウ、か」
やや平静を取り戻し、ナハトゥムが呟く。
「魔皇に匹敵する君とは、もっと盤面を整えてから相対したかったな。その方が、色々と都合がよかったのだけれど」
慎重を期する王としては、オショウとラーフラは後回しの予定だった。
人類の天敵と、その天敵を降した異界人。警戒に警戒を重ねて当然の敵手であろう。
ゆえに当初の計画としては、オショウを除くテトラクラム主力を捕らえ、研究と研鑽を重ねたのち、そのふたりに取りかかるつもりでいたのだ。
だが王都襲撃を目論むテトラクラム一行にオショウの姿があるのを認め、王は既に決断していた。
テラのオショウをも自家薬籠中の物とすることを。
勝算がナハトゥムにはあった。この新型甲冑たちに対する王の自負は、それほどのものであったのだ。
「でもまあ、よく来てくれた、というべきかな? こちらから迎えに行く手間は省けた。ついでに手早く戦力差を認めて降伏してくれれば、更にもうひと手間省けて嬉しいのだけれどね?」
先頭の、唯一王の居室外に踏み出している霊動甲冑の腕が動き、オショウの来た方角を指した。
「火力も、装甲も、機動性も。この十七領全て、テトラクラムに派遣した二領より性能は上なんだ。機械化歩兵風情の制圧に時間を要した君で、勝負になるはずがないだろう? 君たちに勝機なんてない。だから無闇に張り切るのはやめてもらえるかな。意味を成さない、成果を伴わない努力なんて無駄と同義だ。回し車を回し続けて褒められるのなんて、愛玩動物くらいなものだよ」
語るうちに甲冑群への自負は、王の中でぐんぐんと増していく。
希望的観測が現実の光景として、次第に認識されてゆく。
「頑張れば叶うなんて決まりはない。粉骨砕身の果てにただの徒労が待ち受けるなんてのはざらだよ。だからボクがそれよりもっと簡単に、幸福を君たちに与えてあげようと言っているんだ。その場で足踏みを続けるよりも、寝転んで夢を見る方が幸せさ。誰だってそう思うに決まって――」
だから、オショウの動きを察せなかった。
否。
そうでなかったとしても、一挙手一投足に注視していたとしても、オショウのいつ動いたとも知れない動きを観測するのは至難だったろう。
事実、ケイトやセレストですらも、彼の動き出しを知覚できていなかった。
それは、斯くもゆったりとした、自然極まる歩みだった。
イツォルの中継により、ケイトたちと王が相対して以降の会話はオショウにも筒抜けである。ゆえに彼は、この王へは問答無用との決断を下していた。
よって王が気づいたその時には、もうオショウの背中が目の前にあった。
無論、わざわざ背筋を見せつけに行ったではない。それは後ろ回し蹴りのモーションの中途が、一瞬視界に焼きついただけに過ぎない。
真言蹴。
気は呼吸により練り上げられるとは、仏道において常識である。ゆえに僧兵たちは格闘戦の最中においてもそれを乱さない。逆に言えば、乱せない。
しかしある時、これをよしとしない者が出た。
読経もまた、練気と同じく僧兵の本分である。一方を重視し、もうを損ねる偏りはよろしからぬとその者は考えた。右の頬を打ったなら左の頬も、と釈尊も述べている。
生涯を賭した彼の精進の結果、生み出されたのがこの蹴技であった。
精密に制御された気を纏う蹴り足は、大気を裂く折、真言に酷似した唸りを上げる。そしてそれは真言と同様の神秘を発するのだ。体を翻して回転し、より長く蹴りを疾走させることにより、僧兵たちは無言にて経を誦す法へ至ったのである。
独特の音律を伴う一撃が炸裂し、霊動甲冑が宙を舞った。
後方の僚機数領を巻き込んでようやく停止したその胸部装甲には蹴り足の形がそのまま、足跡としてくっきりと刻印されていた。
最前から王が口にするように、新型霊動甲冑の装甲材にはKB式錬鉄が用いられている。
これは人肉とその呪いを溶かし込むことにより優れた鉄鋼を得る供犠式製鉄であり、カイユ・カダインが禁忌として語った仕業だった。忌み技であるのは、古の名工の名を冠しつつ斯様な略称で呼ばれることからも明らかだ。
王は新型甲冑に不要となった人体のあまりを、この製鉄法に活かしたのである。カダインの冒涜は、王にとって望むところでもあった。
邪法として名高いだけあって、得られる鋼材の質は至上だった。
加工に応じて硬く、それでいてしなやかであり、人由来の成分ゆえか、霊素に干渉し霊術砲火への耐性も備える。
それを容易く陥没させるオショウの蹴撃の威は、推して知るべしであろう。
無論ながら、霊動甲冑は装甲が凹んだ程度で機能停止することはない。
しかしながら蹴られたそれは、そのままぴくりともしなかった。
動揺の声を漏らす王を尻目に、オショウは涼しい顔である。
ソバットがもたらす真言効果の通念が同調技法の切断に有効だとは、機械化歩兵らを無力化していく過程で得た気づきであった。
とはいえ、機能不全を起こしたのはただ一領。
数領が直ちに隊伍を組み、オショウへと殺到せんとする。が、いずれも届かない。腕のひと振りで発生した結界により、その悉くが押し留められていた。
跳ね返され、王の居室に封じ込められた格好となったた甲冑たちは、立て続けに霊術刃を展開。石壁と結界を破らんとするが、これもまた叶わないことだった。並の霊術障壁なら薄紙の如く切り裂く刃たちは、オショウの結界に毛ほどの傷も残せない。
元来、僧兵が秀でるは守りになのだ。彼の結界を破らんと欲するならば、蟲人の誘導式甲虫弾でも持って来いというものだった。
「セレスト・クレイズ」
そんなオモチャの兵隊たちから目を切って、オショウは名を呼ばわった。霊術師へ向けて合掌し、深く一礼する。
「俺は尊公に、敬意を表する」
ある僧が師僧に問うた。
『人は必ず老いる。物は必ず壊れる。果たして永遠に変わらない、不滅の真などあるのだろうか』、と。
師僧応えて曰く、『山花が咲けば錦である。谷川の湛える水は藍である』。
錦の如く咲いた花もいずれは散る。
藍を湛えて波ひとつない谷川の水も、深くではうねり、また流れている。
不変と見えるものの中にすら、そのような変化が横たわっている。
しかし年ごとに違う山中の花に、毎年人は錦を見る。
行き過ぎて帰らない水流れに、人は藍の同色を見る。
動の中に、揺るがず確かな静があり、本質は決して失われない。
仮にひとたび消え失せようと、時の巡りと共に、それは必ずまた現れる。
時を迎えれば花は咲き、川は尽きることなく流れ続ける。
変化のうちにも、決して変わらぬ真がある。
知らず人はそれを感得し、そう知覚されるものこそが本物なのだ。
一瞬とは永遠である。人の命がそうあるように。
この永遠の中で、セレストは確固たる己のかたちに至っている。
それは決して独善ではない。
たとえばこの一件は、悪く言えば彼の裏切りから始まっている。
だが彼を知る者の中に、疑う者はなかった。
関係の深いミカエラ、ネスはもちろん、オショウ自身を含むテトラクラムの面々の中に、セレストの変心を思う人間はひとりもなかった。彼はそうではないと、誰もが彼の真を信じていた。
そして記憶を喪失したセレストもまた、セレスト自身を裏切らなかった。実に彼らしく振る舞い続け、望まれていた通りに舞い戻った。
彼への信に、彼は応えた。理想を体現する英雄の背を示し続けた。
過日、アプサラスにて語らった日々から、オショウは理解している。それが天性に非ず、克己努力で至った場所だと知っている。
ゆえに一層、眩く思う。
己を斯様に錬磨したセレスト・クレイズを、それこそ太陽のように。
幾度忘れようと、幾たび欠けようと、変わらぬ芯を心に抱ける。オショウはそのありさまを、この上なくそれを美しく思う。忘れ果て、変わり果て、それでも同じ行動を繰り返す。等しい善性を現し続ける。
そんなセレストの在りように、オショウは永遠を観た。即ち、堅固法身である。
「尊公は尊公のまま、人の心を惹きつけ、安堵へ導く。見事と思い、俺もまた斯く在りたく思う」
思うは深い。が、しかしオショウはその全てを語らない。自らの舌が巧みに回るものではないと知るからだ。
ただ訥々と肝要のみを告げ、あとは衷心を眼差しと身体とに籠めるばかりである。
「なんだかよくわからねェが、ちょいと買い被りが……」
難解な賛辞を受けて、セレストは戸惑うように頭を掻いた。
困惑のまま否定しかけて、そこで首を横に振る。
――もし、オレがそうだってんなら。そうなれているというのなら。
――あの人も、あの人から受け継いだものも、今だ生きてるってことだ。
「いや、折角の誉め言葉だ。ありがたく頂戴するぜ」
思い直しての破顔に、オショウが「うむ」と頷いた。
頷いて、巌のような面に笑みを浮かべた。
「よってその尊きへ、一臂、合力の武を奉る」
同時に、彼は結界を解除。
障害が消失し、新型甲冑たちが今度こそオショウへ殺到する。
王は結界を、自力で排除したと考えていた。自らがかけた負荷が、耐性限界を超えたものだと誤認していた。
だがナハトゥムの本当のお粗末さはそこにない。
隠れ潜み続けた彼女は理解していないのだ。
自身が攻めかかりうる状況とは本来、相手からの攻勢もありうる状態であることを。
正面から一領、その背後にもう一領。それらの先駆けとして、散って左右から一領ずつ。
それが新型甲冑群の先陣である。
同士討ちも辞さない密度の、ただひとりに対して過剰の攻め手であるが、これもまたナハトゥムの性と言えよう。彼女は自らが無意識に恐れるものに対して、全身全霊を以て拒絶を示す。
だが結論から言えばこの猛攻は、何の成果ももたらせず終わる。
最先鋒、オショウの左側面から斬り込んだ機体の霊術刃が、攻めかかりと同時に吹き散らされた。振るわれたオショウの、手刀の働きである。
利剣の名号。
前腕を鎧う気にて、手刀を文字通りの刃へと変える仏技である。
ひと声にあらゆる罪業を滅ぼす阿弥陀仏の功徳に似て、それはあらゆる色を斬り裂く威を秘めていた。先陣を切った一領は、そのまま袈裟切りに両断される。
無論、オショウの動きはそこで終了しはしない。
踏み込みに用いた左足を軸足に変え、続けて放たれるは右足刀。逆サイドから攻めかからんとした甲冑の胸が、これに蹴り穿たれた。自慢の装甲は此度も用を為さず、霊動甲冑は上体に円形の大穴が空けられ吹き飛ぶ。
ぴたりと中で停止した蹴り足が更に旋回。横一文字の右回し蹴りに薙ぎ払われ、正面の一領が斬断される。その後背へ返す刀として閃くは、打ち降ろしの右裏拳。最後の一領は左肩口から真下へ、唐竹割りに近い形で斬り伏せられる。
破壊的錬気を通念させられた甲冑たちは、装甲と同時に同調を消し飛ばされ、ただの鉄塊と成り果てた。
ここまで、瞬きの間の出来事である。
かつてソーモン・グレイは、オショウの武威をこう評した。
『坂の上から自分目掛けて鉄球が転げてきた場合、人間の選べる行動というのは限られている』、と。
まさのその通りのありさまと言えようか。
「……え、は?」
物理的衝撃は大きかったが、精神的衝撃もそれと等しく大きなものであったらしい。
王の口から間の抜けた声が漏れたのは、たっぷり十数秒を経てのことだった。
「ふ、ふざけるな! ふざけるなふざけるなふざけるな! これだけの陣容を整えるのに、どれだけの時間と労力を要したと思っているんだ? 損害だ。人類にとっての大損害だ! なんで、一体どうしてこんなひどいことができるんだ!?」
「わかる。わかるぜ陛下。オレも初見は言葉がなかった。まさか魔皇を素手で殴り飛ばすびっくり人間がいるとは思わなかったからな」
ぽかんと口を開けたままのネスの隣で、腹を抱えて爆笑するのはセレストである。
「だがここまで来ると、もうご愁傷様としか言えねェや。いや無敵かよ」
「ぐ……っ」
セレストの嘲弄に、もう抗弁の音も出ない。
切歯扼腕のナハトゥムへ、「陛下」と静かな声が囁いた。
「わたくし思うのですけれど、泣き言は今はすべきことではございません。それよりも喫緊に、なさらなければならないことがおありでしょう?」
指摘され、はっと我に返った時には遅かった。
合掌したままのオショウが、すうと間合いを詰めてきている。足を全く動かさない、床を滑るとしか思えない移動は、迦楼羅天秘法の応用だ。
残り十二領を射程に収めた彼は合掌を解除。腰を沈め、両肘を後方へ引いて拳を貯める。
同時に透明な気迫が炎のように吹き荒れ、甲冑群の動きを拘束した。
金剛身法。そして千手嵐撃。
秒間千撃。40分の1秒ごとに25を数える連撃が、練気圧を伴い数秒もの間、吹き荒れる。無差別範囲攻撃の乱打と見えて、それは精妙にコントロールされたラッシュだった。
ざあっと、王城の床を驟雨が打つ。
その正体は小石ほどにまで打ち砕かれた甲冑胴部の残骸であった。十一領は武装も装甲も何もかもを陶物の如く割れ砕け、無惨にも飛散したのだ。
のちの供養のためであろうか。生体部品を納めた頭部のみが、嘘のように無事のままあちこちに転げている。
「もうっ、見えていましたのに! 途中までは数えられましたのにっ!」
場違いな無念を訴えるケイトの声など、もう王の耳には入らなかった。
ずしり。
ただ一領残った――いや、残された霊動甲冑の前へと、オショウが一歩、踏み出してきている。
彼は、手指で不思議な形を象っていた。
胸の前の右手、軽く垂らすようにした左手。どちらの手もが、それぞれの親指と人差し指で輪を作っている。
来迎印であった。
「これより、尊公の前へと参ずる」
ずしり。
更に一歩、オショウが近づく。
来迎印とは元来、阿弥陀仏が迎えに訪れる際に示す印相である。臨終の人々を極楽浄土に導くサインなのだ。
が、総合戦闘術たる仏道においてこれは、いささか異なる意味合いを持つ。
僧兵的翻訳を施されたその示唆するところとは浄土送り。つまり、「今から行ってぶん殴る」。ニアリーイコールで、「今から行ってぶち殺す」との宣告に他ならない。
「見事、逃げ散ずればよし」
ずしり。
更なる一歩と共に、オショウが印を解いて腕を伸ばした。
最後の一領の頭部が、むんずと巨きな手に掴まれる。
「さもなくば――」
その言いと同時に兜首が胴部から引き千切られ、同調は強制切断。
王宮内に配置した全ての端末を喪失し、ナハトゥムの知覚もまた暗転した。