相性
「ミカエラさん」
王城内を心魂工房へ向けて走る最中、それまでの沈黙を破りカナタが呼んだ。
「何かな? 工房へならもう間もなく……」
「そっちじゃ、なくて」
以心伝心の如く、否定したのはイツォルである。
駆けつつのやりとりではあるが、三名とも当然のように、息を切らす無様は見せない。
「また、『すまない』なんて思ってはいませんか」
案ずるような声音に、ミカエラは苦笑した。正鵠を射られている。
「組み分けのこと、気に病んでる?」
「お見通しか」
「はい」
イツォルの指摘通り、自分たちとネスフィリナ、ケイトを別集団としたことには意図がある。それはアーダル王の目を、わずかなりとも攪乱せんという目論見だった。
テトラクラムまでの逃避行において、追撃の手はあまりに的確だった。照準したものへの誘導能力を思えば、犬無しの法の力もあったろう。だが襲撃のタイミングは常に追い立てるのに完璧で、ゆえに別の監視があることをミカエラは憶測していた。
そしてその監視の目として、第一に想像できるのが自分だった。
心魂工房で受けた施術の際、己の体には様々な仕込みが為されている。自覚できるもの、できないものを含めて。そのひとつとして、位置情報以上のものを提供する機能が組み込まれていてもおかしくはなかった。
一方でネスフィリナは、その種の手術歴のない、言うなれば天然ものだ。
ミカエラやセレストのように十把ひとからげの人間ではなく、また我法使いのような運用しにくさもない。
研究素材としての価値も高く、そこに余計な術式を施して本来の性能を損なう愚は回避されて当然と言えた。彼女が情報発信源という危惧はほぼないだろう。
よってミカエラは、最大警戒されるであろうイツォルと、無意識の情報漏洩を行いかねない自身を同一班に編んだ。
どちらに監視がつくか明白にするのに、絶好の機と考えたからだ。もし推察通りなら、ネスとケイトの両名への注意は鈍るか、上手くすれば皆無になる期待も持てる。より自由にふたりが王城内を動く手助けともなるだろう。
加えて何より今ならば、救援信号ひとつでテラのオショウが駆けつけてくれる。深刻な危機からはほど遠い。
とはいえこれは、無断でカナタとイツォルを危険に晒す行為でもある。ミカエラの罪悪感はここに端を発するものであった。
「セレストさんやネスフィリナさんより付き合いは短いです。でもだからと言って、浅い仲でもないつもりです」
「ん。だからそれくらいは、ちゃんとわかる」
責める色は一切なくカナタが続け、軽く顎を引いてイツォルが同意を示す。
見抜いた上でこのふたりは、今までそれを表には出さずにいたのだ。ミカエラが悔いを抱える挙措を見せねば、ずっと口を噤んでいたことだろう。
ありがたいことだ、とミカエラは思う。ならば今、わざわざそのことを告げるのは、単にミカエラの精神面を慮ってのことである。
「感謝する」
多くは言葉にせず、だからミカエラはそれだけを返した。
すると両名揃って顔を緩めた。十二分に伝わったのだ。
「待って」
が、束の間じたそんな空気を、イツォルの声が引き締めた。カナタが眼差しを鋭くし、我知らず浮かんでいた笑みを、ミカエラもまた瞬時に消す。
「アンダーセンさん、この先の塔が工房……で、あってる?」
「ああ。見忘れもしないさ。あの尖塔の下にあるものこそが心魂工房だ」
それはかつて、ミカエラにとって希望の象徴だった。が、今となっては悪夢の温床としか見えない。実に自分勝手なことだと、ミカエラは自身を冷笑する。
「人数が控えてる気配はない。でも塔の前にも、見通せない空間ができてる」
「ふむ……」
イツォルは前夜のうちに、遠距離から城内の観測を行っている。見通せさえすれば、確保対象の位置も詳らかなのだから、そうしない向きはないというものだ。
しかしながらこの際、王城の何ヶ所かに、霊術観測を拒むスポットがあると判明した。場所の知れている心魂工房以外にもこれはあり、最優先探索地点として皆に記憶されていた。
だが工房塔前のこれは、その時点では発見されなかったものだ。となれば確実な待ち伏せであろう。
「切り込みましょう」
カナタにしては好戦的な言葉に聞こえるが、実態は異なる。
今回の夜襲は迅速をもっとも尊ぶのだ。カナタの拙速は、考慮した上での勇断であった。
「承知した。その前に再確認だけしておこう。最優先はセレストの身柄。アーダル王ナハトゥム、心魂工房洞主も確保できれば万々歳だが、欲張り過ぎは身を滅ぼす。いいかな?」
最悪なのはそのセレストが、更なる我法を受け、完全な敵対者として現れた場合である。
生け捕りというものは、単なる殺害よりも一層に困難だ。
そうした意味で、イツォルの目が遮断されているのは不安材料だった。何者が待ち受けるのか、判断がつかない。それでも、ここで時を浪費することこそが愚だ。
「はい」
「ん」
頷きあい、歩みを再開する。
忘却我法への警戒はほとんど不要と逆説的に結論されていた。それはまず確実に、近距離から長時間の接触を必要とするものである。でなければ先にミカエラが述べた通り、誰にも知られず全てを忘却させることが可能だからだ。
ゆえにこの法の存在を知覚する者が複数人で行動すること、それ自体が対策となる。
敢えて言うなら囮役のオショウが単独行動であるのだが、あれはまあ例外でよかろう。
進んだ先に現れたのは、濃霧のような白だった。
ぶよぶよと蠢くドーム状の外面では、いくつもの霊術紋が複雑に輝いている。どこからか投影される式のようだった。
「陣図か」
それは十二洞府が秘伝とする、空間改変術式の総称だ。石兵八陣なる殺戮の罠が著名であろう。
門外不出の術であるが、おそらくそれが秘術であるということを忘却させられた洞主が、うかうかと漏洩したに違いなく思われた。
だが巨石を用いて築くかの陣とは異なり、これは空間に無理やり描いた急ごしらえだ。それほどの機能は備えまい。
一行の接近を感知したか、白い霧が口を開いた。ここから入れ、と言わんばかりに。だがその奥はやはり白々と濁ったままで、何が待ち構えるか見透かせはしない。
ミカエラが弓を張り、矢を精製した。イツォルは短槍を構える。
曲刀の鞘を払ったカナタを先頭に乗り込めば、霧の幕を抜けた先にあったのは石畳の空間だった。
が、天井はなく、壁もない。見渡す限りの薄闇が、地平線まで広がっている。果てのない、ひと目でわかる異常な空間だった。
「ごめん。外、見えないし、聞こえない」
イツォルが囁く。意味するのは外界との完全な隔絶だ。
最前抜けてきたばかりの入り口も既に姿を消して、つまるところ逃げ道はない。また、加勢も呼べない。
前者はまだいい。だが、後者はよくなかった。
伝令としてイツォルが機能しなくなるということは、ネスとケイトが危地に陥っても、そこへオショウを派遣できないことを意味する。
「一刻も早く切り抜けないと、ですね」
「ああ」
応じつつ、ミカエラはその視力で周囲を走査――するまでもなく、間近にひとつの影が現れた。
「ようこそ、無限界牢へ」
それは手足が長く背丈が高い、どこか蜘蛛めいた印象の男だった。
「これなるは永劫無限に続く回廊。どこまで逃げても、どこへも逃げれません。果てのない過程です」
「出迎えいただけるとは感涙の極みだ、洞主殿」
穏やかな口調とは裏腹に、ミカエラがひと呼吸に数矢を放つ。
が、それらの全ては届かなかった。
洞主が防いだわけでない。ミカエラの矢はただ数歩の距離を進む間に勢いを減じ、洞主の体を射抜く前に地に落ちたのだ。まるで果てない距離を飛び続け、疲れ果てたかのように。
「距離自在の陣か」
彼我の距離を歪める陣図と見て、ミカエラが追撃の手を止める。
洞主が突然目の前に現われたのも、この機能の一端だろう。
カナタとイツォルも、無闇に踏み込むは無駄と判断。前衛としてミカエラを守る形に位置取り、この状況に知識がある彼の指示を待つ。
「ああ、素晴らしい。このような機会は後日決してあるまい。イツォル・セム。千里眼、順風耳。その家伝術式が是非とも欲しい」
恍惚の息を吐き、洞主はイツォルの全身を舐めるように見た。
不快げに眉を寄せ、その視線を遮るべくカナタが恋人の前に出る。
「もちろん貴様もだ、ラーガムの聖剣。その術式、その血筋。私には知りたいことばかりだよ」
相対したことのない異質の欲望に、少年少女は思わず一歩退いた。
「全てを教えてもらう前に、ひとつだけ教えてやろう。セレスト・クレイズなら、もうここにはいない。既に陛下が説得済みだ。小賢しく立ち回っているようだが、つまり貴様らは私に捕らえられ、王女殿下とアプサラスの巫覡は陛下の手に落ちるというわけだ。確定執行も興味深いが、確保した相手の優先権を得るという約定だ。ひとまず貴様らで満足するさ」
後半は会話ではなく、ほとんど一人語りの様相だった。
この男も何かを忘れ、壊れている。そのようにミカエラは見た。
「簡便な術式の陣だ。精密な動作はありえない。だから私は彼を狙い続けよう。その間にイツォル君、君は陣図の核を見つけて欲しい。カナタ君は万一の備えを。優先は無論、イツォル君だ」
陣図とは要を置いて用いる術だ。それを穿てば術式は簡単に崩壊する。
イツォルの目ならそれを見いだせないはずもなく、また距離操作で探る視覚を惑わそうとするのなら、自分の矢が洞主を射抜いて終わらせるばかりだ。
正式でも精巧でもないこんな陣では、精密な複数機能の執行は叶わない。そしてどのような仕込みがあろうとも、カナタなら対応してのけることだろう。
突破は容易い。我々三人ならば。
「おっと、そうはいかない」
だがミカエラの指揮に対し、洞主は指をひとつ鳴らした。
同時にぬっと、イツォルの真横に影が生じる。成人男性の背丈を倍して大きなそれはアーダルの霊動甲冑。両肩に二門の巨砲を備えた、獣型の具足である。
「あは、ははは」
乾いた少女の笑いが、機体のうちから漏れた。
「誰も戻らない。誰も帰らない。犬だって、食べちゃったからもういない。だから幸せにならなくちゃ。アンタたちを挽いて潰して粉にして。パンを焼いて。王様に。幸せに」
それは空臼。
犬無し――兄と同型に封入された我法使いの残りの声だ。
カナタが割り入って一刀を振るう。想像以上に俊敏な動作で、獣型具足は後ろへ跳ねてそれを躱した。
我法使いの自我は明らかに薄れ、壊れている。そのぶんだけ甲冑側からの同調が強度を増し、反応速度も比例して上昇しているのだ。
「任せて」
「引き受けます」
「すまない!」
戦闘には相性というものがある。
霊術矢を生み出し射かけるミカエラのスタイルでは、霊動甲冑の装甲を貫くのは難しい。それはテトラクラムへ落ち延びる際にも思い知らされたことだ。
しかし、である。
聖剣を抜刀するれば、巨大具足の両断すら叶うだろう。
だがしかし、この甲冑に封入されるは我法使いなのだ。
「挽法・空臼ぅぅ!」
少女の咆哮とともに、ごりごりと臼を挽く音。
射干玉の闇が、半ば実体を持ち粘りつく漆黒が、甲冑の周囲から広がる。世界を犯す。
これに踏み入ればカナタとて視界を喪失する代物だった。
更にその黒の中から甲高く、霊素収束音がした。打神二門の斉射準備である。
照準を担っていた犬無しの法は最早ない。砲撃は速く、焼却の範囲は広い。加えて、闇夜に鉄砲とは躱せぬものの例えである。空臼の闇からいつ放たれるともしれない霊術砲火を回避し続けられる人間などありはしない。
それはそのような思考から成る少女の、或いは霊動甲冑の戦術であった。
ゆえに、今一度この言葉を繰り返す。
戦闘には相性というものがある。
「ひとつ」
小さく呟いて、イツォルが槍を投じた。
元々手にした短槍を、ではない。ミカエラの矢の如く、霊素を収束さえて作成した幻影の槍を、である。
空臼の闇が、ちょうど洞主の視線を遮る位置にあったのも、彼女の位置取りの賜物だ。
陣図の妨害を受けることなくそれは飛び、狙い違わず獣型甲冑の砲口へ突き刺さる。
新型霊動甲冑の装甲にはKB式錬鉄が用いられている。尋常の刃どころか、半端な霊術砲火すら受けつけない。だが可動部、特に砲口は別だった。そこに霊素を拒む素材は用いれないからだ。
結果として、穂先は打神内部を深く抉った。刻まれた呪紋が損なわれ、活性化していた霊素は暴走。打神の破壊力は自らを爆散させる形で解放される。
その衝撃を肩骨の粉砕として少女は知覚し、絶叫を上げて身を捩る。
「ふたつ」
その動きすら、イツォル・セムは捉えている。
千里眼のみならず、彼女は順風耳であるのだ。見えずとも、それ以上に音を聞く。
我法の生む闇中であろうと、斯様に大きく音を発する存在の位置など、白昼以上にお見通しだった。
再度投擲された霊術槍がもう一方の打神へも着弾。再びの爆音と絶叫が上がる。
もし空臼の法が音すら消せたのなら、このような結果はなかったろう。
だがそれはできないことだった。
何故なら彼女は待っていたのだ。見たくない今を、目を閉じて拒絶しながら。聞きたい声が届くその時だけを、待っていたのだから。
そうして希望は届かず、彼女はまた思い知らされる。
絶望とは見えない場所からやってくるのだということを。
「嫌だ。なんでアタシ、アタシたちばっかり。ずるい。いやだ。アタシだって」
機体内でぼろぼろと泣きながら、支離滅裂を叫びながら、空臼に逃げの思考はなかった。
そうしたら王様の役に立てないからだ。それでは幸せになれないからだ。
激痛を無視して損壊した腕を動かし、盾籠手を構える。
「カナタ、横一文字」
「了解」
我武者羅な突撃の前兆音に対し、イツォルが短く告げる。
カナタに我法の闇は見通せない。だが彼は、その言葉を微塵も疑わなかった。
「この身、既にして一剣なれば。危地において恐れず、死地において惑わず。而して、須臾を揺蕩え」
やはり短く頷いて、指示の通りに聖剣を抜き打つ。
それはセレストにより改変された術式である。常時起動ではなく、ただ一刀の間のみ効果を発揮させるものだ。負担は無論、著しく少ない。
ただ一度振るわれた剣の軌跡が、金色の斬線として空間に滞留する。
受けるは死を意味する、斬撃の無限回リピート。空臼の甲冑が飛び込んだのは、まさにそれが横たわる位置へだった。
盾籠手は武器としても扱われる、霊動甲冑ではもっとも強靭な部位である。同一箇所へ億万回の斬撃を受けでもしない限り、断たれることなどありえない。
だが聖剣は、通常なら発生しないそれを為した。
空間に刻み込まれた剣撃は火花を生じつつ盾籠手を斬断。次いで腕へ、更に胴へ抜けて、甲冑を真っ二つに斬り開く。剣閃自体の切れ味もさることながら、装甲を切り裂いた力の半ば以上は、甲冑自体の速度が生んだものだったろう。
自機と同じく半分になった少女は、うつ伏せたまま自問する。
こんなにも満ち足りているのに。何も欠けてなどないはずなのに。幸せをもらったはずなのに。
どうして、どうしてこんなにも胸が痛いのだろう。この喪失感は一体何処から来るのだろう。
ぽっかりと大きな穴が、心に開いているようだった。
眼裏を誰かの面影が掠めた気がした。耳に誰かの声が聞こえた気がした。けれどそれは人型の形をした空白のままで、何ひとつ確かにならない。
――やだよ。誰か、誰か助けてよ。
思うけれど、誰に助けて欲しいのか、それすらももうわからない。
ただ寒かった。ひどく寂しかった。
忘却した答えには至れず、けれど踏み外してしまった感触だけが強くある。
――ごめんなさい。ごめんな……さ……。
歔欷はどこへ届くこともなく、やがて途絶えた。
何もかも忘れ果てた娘は、甘い死へ沈んで全てを忘れた。
両断された甲冑が、その上下とものたうちを止めたのを見届けて、カナタは身構えを解く。
痛ましいものを見る目をするその胸を、イツォルが軽く手のひらで叩いた。
まぶたを閉じて息を吸い、呼気と共にまた開く。
自分は魔皇と岩穿ちの薫陶を受けた戦士である。割り切りのつけ方くらい、心得ているつもりだった。




