ブッダカウント・ワン
イツォル・セムは恐ろしい。
テトラクラムに隔意、敵意を抱く者たちにとって、これは共通の認識だろう。
単純戦力として見るならば、確かに彼女は微才である。
いくつもの武芸に熟達し多彩ではあるが、これという強みがない。一流どころだが、上澄みとの間には明確な壁が存在している。
でありながら、イツォル・セムはテトラクラム随一の脅威なのだ。
都市全域を覆うその目、その耳もさることながら、敵対者がもっとも恐れるのはその隠行――つまりは暗殺である。
謀を敏く知覚し、速やかにして密やかな報復の死をもたらす存在。守られて後方にある者にとって、寝首を掻かれるほど恐ろしいことはない。
しかもこの隠行術は、数名程度なら同行者を許容するのだ。
ラーガムの聖剣、アーダルの太陽、テラのオショウ。そういった規格外を伴って、ある夜不意に枕元を訪れる可能性すらありうる。魔皇討伐に際し、刺客戦術の要となったも当然の能力と言えた。
ゆえにアーダル王ナハトゥムは、これへの対策をいくつか施している。
そのうちの最たるものがミカエラの目だ。
ミカエラ・アンダーセンの視覚を王が共有できるとは、先に記した通りである。
神眼と称されるミカエラの視力は並々ならず、得られる情報量も比例して多い。また、その性質ゆえ彼は索敵、斥候の役割を自らに任じる。テトラクラム一行の去就はおよそ筒抜けと言っていい状態だった。
欲を言うなら、これに犬無しの我法が加えられれば更に万全であったのだが、失われてしまったものを嘆いたところで意味はない。死者のことは忘れて、前へ進むのが幸福というものだ。
思いながら、ナハトゥムはミカエラの視界を窃視する。
彼の瞳が映すのはアーダル王城だった。闇の聳えるその城壁を、早くもミカエラは睨み据えている。
テトラクラムよりの帰還を祝して、そろそろ歓迎してやるべきだろう。
王はくすくすと笑い、手を振って指示を送った。無論、アーダル国軍にではない。己の私兵たちへ、である。
残念ながらその中に、セレスト・クレイズの姿はない。
心魂工房洞主の報を受け急遽我法の再執行はしたものの、調整具合は未だ万端からほど遠い。今少し時をかけて、より直接的に誘導してやる必要がある。
様子見でアンダーセン邸を襲撃させた時のように、不完全なまま法の圏内から遠出させるのは、現状において悪手だ。
「霊素許容量が大きいと、やはり法への耐性も増すのかな? だとすると、仮説の補強にもなるね」
ひとりごちてから、ほくそ笑む。
だが太陽は必ず落ちる。何故なら今宵、セレストは更なる絶望を得るからだ。
直情的なその性格に反し、牢内の彼は大人しかった。まるで何かを待つかのように。
それはネスフィリナとあの子の仲間たち――今夜の招待客たちに違いない。
だから、幽けきその希望を潰す。全て捕らえて、どんな期待ももうないと教え込むのだ。そうして訪れた絶望と悲嘆を、忘却で甘く満たしてやろう。
その前に、と王は席を立った。
赴いた先は王城内の一室。本来ならば謁見者を控えさせる間である。
「あ、おうさま。おうさまぁ!」
そこにいたのはひとりの少女だった。
過日テトラクラムを襲撃し、撃退された我法使い、空臼である。
がりがりに細く痩せこける肢体は、しかし悪い待遇を意味するものではない。あれ以来――兄を失って以来、彼女は、食物を受けつけなくなってしまった。辛うじて嚥下できる水だけで、どうにか生き延びる始末だった。
「たすけ、助けてください。アタシ、幸せにならないとなのに。なら忘れなくちゃ、忘れなきゃいけないのに、ずっと、こびりついて」
訴えの通り、彼女の耳には犬無しの声が、最期の言葉が染みついている。
――お前は、お前だけでも生き延びて、それで……!
――幸せになれ。
最後まで聞けなかったはずのその先を、どうしてか聞き及んでしまっている。
だのに空臼は思い出せない。この声の主が誰なのか。彼をなんと呼ぶべきなのか。
法による忘却と結果生じた胸の洞が、彼女の心を蝕み、苛んでいた。
よろよろと頼りない少女の歩みがもつれた。
ひどく転倒し、そのまま立てず。けれど必死に這いずって、空臼は王の足へ縋る。
そのさまを、ナハトゥムは蔑む目で見た。
為せると信ずれば必ず為り、為らぬと臆せば決して為らぬ。
我法とはそうしたものである。傲慢でなければ強くなれない。世界すらも押しのける我なかりせば、法の執行など及びもつかぬことである。
ゆえに、依存は法と自身を弱めるものだ。
侮りの色を隠しもせず、しかし身を屈めて王は囁く。
「いいよ。おいで」
少女の額に白い指が触れる。触れて、じっくりと浸透させる。
法の伝達は、体温を伝えるのに似るとの認識が王にはある。直接の皮膚接触がもっとも早いが、それでも遅い。法の執行速度が今後も課題となるだろう。
「あ、は。あはは……」
やがて少女の面が、文字通りの忘我に蕩けた。久方ぶりの笑顔が浮かぶ。
これで大丈夫。もう大丈夫だ。王様がくれるお仕事を、また頑張ろう。
一生懸命働いて、たくさんお金を貰って、いっぱいご馳走を買って、それから。
それから――どこに帰って、誰と一緒に食べるのだっけ?
自身のかたちも忘れ果て、少女はただ、甘い虚ろに身を委ねる。
痛みも苦しみもなくなれば、後に残るは幸福ばかり。
導法・至福。
それは、幸せへ導く法である。
*
「来る」
小さく言って、イツォルが一同を見やった。
彼女の耳は多数の足音を、武装した兵士たちの起こす訓練された息遣いを捉えている。
順調なのはここまで、ということだ。
テトラクラム一行が位置するのは、既にしてアーダル王城内部。城壁を越えた中庭である。
アーダル城は華美ながら堅固ではない。王を重視しない国風があり、外交の場ではあるが軍事的重要拠点ではないと見做されているからだ。警備防備の手も薄く、イツォルの隠行に加えて王城を守る騎士、王城に住まう王女の手引きがあれば侵入は容易だった。
城中の見取り図どころか要人の退避を考慮した抜け道までも、ミカエラとネスは知悉しているのだから、これを防げと言う方が無理押しだろう。
しかしながらこの容易さは、当然アーダル王が仕立てたものでもある。
大々的に敵対行動を取られるよりも、城内に取り込んでから押し包んだ方が外部に事態が漏れにくく、また後始末も簡便だ。
つまるところ、ここからが本番となる。
「妥当なところだ。ならば後は」
そうした認識の視線を受けて、ミカエラが応じる。
「暴れ放題ですわね!」
「うむ」
「違います。手筈通りです」
先走るケイトと付和雷同のオショウへ、カナタが訂正を差し込んだ。
ケイトのこれは無自覚にすることが多いが、今回は意図した、雰囲気を操作するためのものと承知している。
イツォルの隠行で全ては片付かないとは、もちろん全員の認識するところだ。
戦場においては、一瞬は砂金以上に貴重となる。よって侵入発覚後の行動も既に取り決められていた。
頷きあった一行は二班に別れる。
一班はミカエラ、カナタ、イツォル。王城にある心魂工房を襲撃し、洞主の捕縛を目的とした一団だ。
もう一班はケイトとネス。こちらは遅滞なく城内を巡り、セレスト・クレイズを救出確保することを主眼とした構成である。
セレストの身柄奪還を成功条件に据えた作戦行動だった。
どうにかして身柄を抑えれば、後はネスフィリナの精神干渉か、我法使い本人の法の解除かによって、セレストの記憶を元に戻すことができる。そのように信じた上での決定である。
口にはしないが、懸念はあった。
ネスの同調が我法に干渉できない可能性もある。我法とは不自由なものであるから、我法使い当人が、自らの法を随意で解除できない可能性もある。
何より、記憶が封じられるのではなく破壊されていた場合、それは二度とは再生しまい。癇癪を起して花瓶を割るのは簡単だが、割れた花瓶を元通りにするのが不可能だとは、誰しもが知ることである。
だがそれでも。
アーダルの太陽がたとえ別人に成り果てていたとしても。
彼を王の手駒のままとしておくよりは、数段勝る結果のはずだ。
また、ミカエラとネスが別行動であるのも、ミカエラの発案によるものである。
城中案内の都合もあるが、ここにはそれ以上に危惧が含まれていた。自分かネスフィリナのどちらかの位置情報を捉える術を、アーダル王が保持していると彼は考えている。
よって別行動を取ることで、どちらに目がついているかを確かめんとしたのだ。
当然ながら、これは敵地で戦力を分割する愚である。
一方のみならず双方の位置情報を把握されていた場合、完全に自ら弱みを晒す行為だ。
が、このためにどちらの班にも所属しないオショウがいる。
戦力として見地から見た彼の長所とは何であるか。
それは機動力だとミカエラは評価する。
迦楼羅天秘法なるオショウの技は、この地では類を見ない高機動飛翔術だ。移動時の加速度に耐えるには十二分の訓練を要するから、オショウ以外の人間を連れ歩くには適さない。
しかしこの超高速移動法を存分に活用すれば、オショウは何箇所もの戦場に同時存在する戦力となりうる。つまり彼は、複数回切れる切り札なのだ。
ゆえにミカエラは今回、彼にふたつの任を託した。
ひとつは後詰め。イツォルの霊術信号による救援要請と、導石による相互位置認識が可能にする迅速な増援である。
「オショウ君」
「うむ」
言い交わすうちに城内から姿を見せた兵たちへ、オショウが一歩踏み出した。静かに、ゆっくりと合掌する。
次いで拳へと握り変えた両腕を腰だめに落とす。
金剛身法。
体内の気が高速循環を開始。練気圧により、オショウを中心に大気が渦巻く。
ミカエラが託したそしてもうひとつとは囮だった。
前述の通り、アーダル城の警護は手薄だ。それは建造物のみならず、組織的な部分にも該当することである。
イツォルが担うような高速情報伝達手段は乏しいどころか皆無であり、指揮系統もろくすっぽ確立されていない。混乱必至の現場である。
そうした環境において際立つ状況があれば、遠巻きながらもそこへ集まるのが心理というものだ。
だからオショウには派手に暴れてもらう。この点において、「暴れ放題」というケイトの言に誤りはない。
「それでは皆様、またのちほど!」
「はい。セレストさんも含めて、また後で」
オショウに合わせて動き出すべく身構えながら、ケイトとカナタが言い交わす。
ミカエラも、ひとつ思い出して呼びかけた。
「ネス君。先日の一件についてだが、私には怒るつもりも権利もない。私自身も、同じ振る舞いをしようとしていたからね」
ミカエラの言う一件とは、テトラクラム直前での襲撃についてである。
この折、ネスは自らの身命を擲ち、ミカエラのみを逃そうとした。
「だが今回はもう少し自分を大切にして、周囲を頼ってくれると嬉しい。自分のために君が傷ついたと知れば、必ず悔いる男がいる。それにまあ、大人は見栄を張りたいのだよ。ほんのちょっぴり先を行くばかりだが、それでもそのために、年月重ねているのでね」
「!!」
ぺこりと頭を下げて謝意を示してから、出ない声の代わりにミカエラに抱きついた。
そのさまを目の端に眺め、ほんの微かにオショウは笑う。そうして、丹田臍下に力を込めた。
オショウの正面には、兵たちが集結しつつあった。
国軍ではないらしく、予想よりも数は少ない。百に満つまい。
だがいずれもが、その肉体の一部を絡繰りに――霊動甲冑のパーツに酷似した器具へと置き換えていた。
アーダルの機械化歩兵である。甲冑類似の兵装を使用する、甲冑よりも汎用性の高い機動部隊だった。この種の機械化手術の成功率は低いが、王は重篤な傷兵に声をかけ、好んでこうした兵士を作っている。
が、見るからに練度は低い。陣形を形作るにも、明らかにもたついている。テトラクラムの練兵の方が、ひいき目ならず高度だった。
もちろんオショウに、用意が整うのを待つつもりはない。
期待されるのは大暴れであり、そして生かしたまま、可能ならば無傷での無力化だ。
短く息を吐くと、再び両手を打ち合わせた。
金剛身法の始動モーションに似通うが、違う。
拍掌。それは武技としての名もない、ただの気当たりである。が、並の気当たりでもない。テラのオショウという、宇宙でも異世界でも実戦を重ねた精兵の気当たりである。
びりびりと肌を震わせる熱気が走り、歩兵たちが大きく仰け反る。ただそれだけでいくつかの機械化部分の呪紋が損なわれ、機能を喪失した。
次いで突き出されるは双掌。
線のように細い結界が兵らの隙間をすり抜け走る。厚い城の石壁もまた、その糸のような厚みだけ貫かれた。
更にオショウが手のひらの形を変える。両の指先が内へ来るよう手首を捻り、門扉をこじ開ける格好で体の外へ、左右へと腕を広げていく。
肉体の動きに従って、射出された結界が押し広げられた。唖然とする者、抗おうとする者を問わず機械化歩兵たちを結界壁は押しのけて、オショウの体ぶんの通路を作る。
数センチだけ結界に穿たれていた大地はこれに合わせて抉れ、結界下部にはこんもりと土が盛り上がる。
当然ながら石壁もまた、ばりりと開扉された。破砕の痕が、元からそこにあった通路の顔をして口を開ける。矩形の結界に支えられ、しかし崩壊することはない。
「行け」
「それでは!」
出来立ての通路を、いの一番にケイトが駆けた。詫びを含んだ会釈でミカエラが続き、目礼しつつカナタとイツォルが、最後にネスが、わずかにオショウの背に触れてから仲間たちを追った。
結界に阻まれて、無論兵たちに邪魔立てできない。ただ城内への侵入を見送るしかない。
唯一、場に留まるはオショウであるが、こんな暴挙をしてのけた輩に、自らつっかける者はない。顔を見合わせる機械化歩兵たちへ、更なる声が浴びせられた。
「遮る者あらば、その気骨を評し加減は省く」
手向かいするなら容赦なくぶっ潰す発言――ではなく、これはオショウなりの降伏勧告だ。
言葉は拙いが、説得力とは物理攻撃力に比例するものである。
ひとりが武器を投げ捨てると、後は早かった。次々に地面に鋼の落ちる音が続く。
うむ、とオショウは得心して頷いた。鳴かぬ雉と尾を振る犬はうたれぬものだ。
が、その時である。
戦意喪失した者たちの瞳が、ふっと夢見るように色を失った。
機械化部位からの逆同調である。
新型甲冑と同じく、機械化歩兵たちの絡繰りは同調機能を有している。これにより主従が転覆。彼らは機械の体を繰る兵ではなく、兵の肉体を繰る機械となった。
絡繰りに指示を封入し、意のままにするがアーダル王であることは言うまでもない。
これこそが、ナハトゥムが機械化手術を奨励した理由であった。我が命を一切の躊躇なく実行する手駒を、王は欲したのだ。
捨てた得物を拾いもせずに、兵たちがオショウへ群がる。
無論、訓練や経験のある動作ではない。ただ最も敵と見なした相手を襲うばかりの雑な挙動だ。
だが同士討ちの危惧すらなく殺到するそのさまは、オショウにあるものをもたらした。
戦いとは、意志の衝突である。
曲げられない己の内にあるものをぶつけ合う行為である。
それが生を浪費する結果となろうとも、死力を尽くし競い合うさまには一種の崇高がある。
蟲人との戦もそうだった。
意思疎通のない生存競争であり、憎しみも恨みもあった。
けれどその一方で、しばしば不可思議な敬意の表出も見られた。
だが。
だが、と思う。
これは違う。まったく意志の介在しないこれは違う。ラムザスベルで目にした我法、魂食と同じだ。全てを自分で塗りつぶし、他を排そうとしている。
唾棄すべきものだと感じ、感情のカウントがひとつ進んだ。
合切を恣にして憚らないアーダル王へ、オショウが抱いた思いの名を怒りという。
生じた胸中の激情に振り回されることなく、オショウの体はするりと動いた。
迦楼羅天秘法。兵らの腕が伸びる先へ、彼の体は既に無い。
一瞬で視界から消え失せた敵を求め、絡繰りどもは宿主の目を用いて索敵――するよりも、オショウからの反撃が速い。
独鈷掌。紫電として具現した気を纏った掌打が機械部位を撃ち抜いた。絡繰りは強烈な気を通念され、高熱を受け溶けたかの如く変形。同時に糸が切れたように、その兵士も昏倒する。
「うむ」
自身の与えた効果に満足し、ひとつは頷く。
少しばかり手間がかかろう。オショウには殺さずの縛りがあり、いささかながら数は多い。
だが問題はない。パケレパケレの世話の方が余程に難事だ。
改めてオショウが構える。
感情も躊躇もないはずの絡繰りどもが、どうしてか怯えたように退いた。




