待つとし聞かば
アーダル王城の一角に、余人の立ち入りを禁じられた塔がある。
それは心魂工房洞主に与えられた特別の施設だ。洞主はそのうちに籠もり、王の依頼と自身の執念を形とすべく、日夜研究に耽っている。
よって塔は、いくつもの施設を備えている。
数と用途の知れぬ機材を内蔵したた部屋たちの他に、実験材料を――その一種に区分される実験動物を捕らえておく檻も、また。
セレスト・クレイズが大きなくしゃみをしたのは、そんな牢獄の寝台の上でだ。
寝心地は悪く、敷かれた寝具は甚く薄い。そもそも長逗留を前提にしていないのだ。周囲を取り囲むのは眺め飽きた石壁ばかりで、おまけにその一面はご丁寧にも鉄格子である。
通気が良すぎていささか冷えるというものだった。
「さァて、誰に噂されたもんかね」
寝台の上に胡坐をかいて、セレストは鼻を擦った。
彼の呟きが自嘲の色を帯びるのは、自分の噂をしそうな相手の顔がさっぱり思い出せないからだ。
とある騎士の邸宅を襲撃した夜以降、セレストはこの牢獄に勾留されていた。
夜襲は、攫われた第三王女を迅速に奪還したいという王城よりの依頼でしたことである。よって拘束は、無論ながらその罪を問われてのことではない。
任務の遂行中、セレストは凄まじい違和感に襲われた。自分の中から、何かが消え失せているという強烈な感覚だった。
戸惑いに端を発し、セレストの頭脳は状況の異質を再認識。騎士と王女が繰る甲冑を見逃し、追撃を拒絶した。
これが、王城の逆鱗に触れたものらしい。対霊術兵装入りの機械化歩兵に捕縛され、入獄の憂き目を見た。
どうやら自分に依頼を持ってきた一味は、自分を自家薬籠中の物としたと認識していたようなのだ。それがわずかながらも破られ、憤りのまま経過観察に至った、というところだろう。
――ど忘れ、ってのが一等近いか。
囚われてのち、幾度となく確認した自分の症状はそれである。婆の一件以降、ほとんどの記憶が消え失せていた。
彼の認識においては、心魂工房で霊素許容量拡大手術を施された後からこの状況までがほぼ直結している。
それゆえ洞主の持ってきた王女奪還の話を借りを返す心地で引き受けたのだが、違和感ののちに顧みれば、如何に自身の記憶が虫食いだらけなのかがわかる。
だから誰を、何を信じればいいのか、さっぱり見当がつかなかった。
虫食いなど推論で埋めうるだろう、などとあいつなら言うだろうとも思う。だがふと浮かんだ「あいつ」とやらがどこのどいつかとなると、まるで心当たりが失せてしまう。
向精神系の霊術式、もしくは我法の影響下にあるのは明らかだった。
――まあ、こうも珍妙な働きを為すなら我法の方だな。
腕を組んで、首を回す。
ないない尽くしの状況だが、ひとつ、自分がいけ好かない真似をさせられたことだけはわかっている。腹立たしいことだった。
腹立たしいと言えば、もう一点。
この忘却の我法使いは、我法使い自身にとって都合の悪い記憶の全削除を目論んだはずだ。だがそうはなっていない。大部分は消されたものの、セレスト・クレイズは自身の欠損に気づき、また欠けた過去が培った自我を保持したままである。穴空きながら、積み重ねてきた自分というものを残留させている。
そうできた理由は、セレストには備えがあったからだ。
どうした必要からかはわからない。が、自分は精神に接触する異能に対し防御策を講じていた。
そして不思議と確信できる事実であるが、これは敵対者への防備ではなかった。おそらくはいずれ広範囲に伝えるために準備したであろう、簡易術式であるのだ。
誰にでも執行可能な霊術であり、だから誰も、その異能を恐れない。よって、同調能力が忌み嫌われる理由はなくなる。
「お前の力なんざ大したもんじゃねェのさと」、誰かにそう嘯てやる。そんな技術だった。
他人のためにしてきた仕業で自分が守られるなど、とんだお笑い種だろう。
――オレは特別じゃなけりゃならないってのに、不甲斐ねェ話だ。
気に入らないとばかりに鼻を鳴らすと、セレストは腕を広げて寝転び、他にすることもなく壁を眺めた。
この不遜な男が囚われの身のままなのには、当然ながら理由がある。
それはこの獄の特殊性によるものだった。
封術牢。或いは拒霊監獄。工房塔に誂えられているのは、そう呼称される特殊な檻だ。壁面に投影された呪紋により霊素の侵入を一切を拒んでいる。
霊素を滞留、蓄積する祈祷塔とは真逆の性質を備えた施設であり、霊術師のために作り上げられた代物だった。
如何にセレストが規格外の霊素許容量を備えようと、取り込むべき霊素自体が周囲になければ霊術の執行は叶わない。
霊素とは世界を巡り、遍く満たすものである。はじまりの竜の、限りない愛と憎しみとを乗せて。
そのように、祖竜教会は語る。
よって霊術とは竜の恵みであり、詠唱とは竜との対話であるのだ、と。
如何なる信仰も持たないセレストに、その真偽はわからない。
が、霊素の遍在は確かに認識するところであり、獄中にそのひと欠片たりとも感知できないのは確かなことだった。
囚われの姫君なぞ柄でないことを自認しつつ、セレストがまだ動かないのはこのためである。霊術の執行のみが彼の能力ではない。だが、彼を構成する要素の大きなひとつであることに異論は出るまい。
よって、転げたままセレストは思考を凝らす。
焦点は我法使いの正体。忘却の陰に潜む黒幕についてだ。
ここしばらくの考察により、疑うべきは三名にまで絞られていた。
ひとりは心魂工房洞主。セレストに数々の霊術式を仕込んだこの男ならば、我法の仕込みもまた容易い。
ひとりはアーダル王。気づいて記憶の残滓を注視すれば、驚くほどに姿のない王である。
最後のひとりが、あの女だ。
綻びた過去を繕って、セレストはその顔を思い浮かべる。
名は知らない。或いは忘れてしまっている。が、面立ちとその存在は思い出せた。それは、この王城に長く務める女官長である。アーダル王の世話を一手に担い、王に代わってその指示を人々に触れ回る役柄を務めている。常に王の傍に侍る以上、某か特殊な技能の持ち主なのであろう。
少なくとも、仕込まれた忘却の発動を担ったのはこの女だった。
第三王女奪還の依頼を受ける前、自分は何か別件で王城へ出向いた。
王への謁見に際して、女官長はセレストへ礼服へ召し替えることを強く求めた。根負けした彼が肩を竦めると、女官長は自ら着替えの世話を担った。
この時女官長はセレストと近い距離に位置し、身体の接触も生じさせている。つまり、法の圏内にセレストを置くには非常に都合のいい距離を獲得したことになる。
次に会ったら覚えてやがれと、セレストは脳内の泣かすリストにその顔を追加した。
「少しは身の程を理解したかね」
そこへ、声がかかった。
鬱陶しく見やれば、予想通りの人物が鉄格子の前にいた。
手足が長く背丈が高い。どこか蜘蛛めいた印象の男――心魂工房洞主である。
「あァ? 誰だよお前。初対面の相手にゃ名乗るもんだろ。はじめまして、だ」
記憶の虫食いを逆手にとった嘲弄に、洞主の額に青筋が浮く。
ヒステリックに、彼は鉄格子を蹴り飛ばした。
「作り物の分際で、私に作られた英雄の分際で、なんだその態度は!」
「さァて、お前に何かしてもらった覚えはねェな。本物の恩ならよ、それは一瞬だって忘れねェと思うぜ」
自堕落に転げたまま嘯くと、セレストは片目を瞑って見せる。
「それによ、親より出来がいい子供ってのはいるもんさ。造物被造物の関係だって同じだろうさ。クソみてェな輩が、名曲を仕上げることだってあらァな」
「口の減らん若造が……!」
洞主の眼球が神経質に動く。
「貴様も! アンダーセンも! 私の力なくしてはそう成りえなかった。英雄になど成りえなかった! だというのに衆愚は貴様らのみを持ち上げて、この私を顧みない! 理解もしない!」
「封術牢に放り込んで格子で囲んで、それでやっと息巻けるのか。この状況で自分を誇れるってんなら、そりゃお値打ちの自尊心だな」
「貴様ッ!」
「そもそもそんなに賞賛が欲しけりゃ、オレの前に自分を英雄に仕立てろよ。なんだってそうしなかった? もしかして怖気づいたのか?」
馬鹿にしきった表情の裏の冷徹な目で、口をただ開閉させる洞主をセレストは観察する。
どうも洞主は心が不安定だ。おそらく彼も、自覚のないまま我法の影響下に置かれている。承認欲求と羨望を核とした思考になるように調整されている。記憶を、自分というものを都合よく削られているのだ。
「というかお前、結局何しに来たんだよ。オレに煽られたかったのか? そんなら次から金取んぜ?」
その言葉でわずかなりとも血が冷えたのか、洞主は手巾で額を拭き、荒い息を整えた。
おい、と通路の奥へ呼びかける。応じて姿を見せたのは、数名の機械化歩兵だった。アーダルにおける機械化歩兵とは、文字通り肉体の一部を霊術機関に置き換えた兵士を意味する語である。
「中に入って、この小僧を取り押さえろ。幾つか調べねばならんことがある」
告げながら洞主は手持ちの鞄を開け、採血用の器具と、幾枚かの呪紋刻印紙を用意し始めた。
牢外で、何らかの霊術式を執行する意図だと見えた。深い心層への探査か、新たな束縛の仕込みか。いずれにせよセレストの血液を取り込むことで共感効果を得、術式の精度を高める意図なのだろう。
が、洞主が支度を終えて顔を上げても、機械化歩兵たちに動きはない。
命を拒むのではない。単に恐ろしいのだ。アーダルの太陽と呼ばれる存在が。封術牢内部にいるとはいえ、近づけば何をされるかわからない恐怖心があった。それが足を竦ませている。
「馬鹿どもめ」
そんな彼らへ洞主が吐き捨てた。
「拒霊呪紋がある以上、こいつに何ができるものか。我が作品だ。どんな些細な霊術であろうと、牢内での執行は叶わん」
この牢獄は、洞主会心の作である。誇るだけの機能を備えていた。
工夫は多岐にわたるが、中でも特筆すべきは紋の投影であろう。壁面の呪紋は彫り込まれたものではない。別術式による転写である。
刻み込まれ固定化されたものならば、紋様を読み解いての無力化もできよう。
が、この投射はアトランダムなものである。数十万の印様が、不規則な時間間隔で無作為に組み合わされ術を為すのだ。幾日牢内で過ごそうと、到底読解できるものではない。
けれど自負による弁舌を遮るように、セレストがまたくしゃみをした。
「どうも冷えるな。何ぶん、石牢だしなァ」
身を起こし、寝台の上に胡坐をかくと、彼は指先に小さな火を灯す。
「なあ……っ!?」
洞主が悲鳴じみた声を上げ、機械化歩兵たちが身構えながら大きく牢から距離を取った。
「そう怯えンなよ。まだあったまる程度の火力だ。まだ、な」
指先の火をくるくると回しながら、人が悪くセレストは笑う。伊達に壁ばかり眺めていたわけではないのだ。
「なァ洞主様。ひとつ教えてといてやる。悪さを続けてるとな、気分良く死ねねェぞ」
すっと、セレストが視線を鋭くした。
射抜かれた洞主は、しかし怯まず睨み合い、
「……陛下への報告が必要だ」
数呼吸ののちにそう言い放って背を返した。慌てたように、安堵したように、歩兵たちも彼に倣う。
後ろ姿を見送ってから、セレストは中空に投げるようにして炎を消した。
「まだ」と告げた言葉に嘘はない。
指の爪程度の火を起こすのでが精一杯、というのが現状である。これでは脱走は覚束ない。はったりに用いて、これ以上の干渉を回避するのが関の山だ。
それとて長くは続くまい。状況は、依然相変わらず不利のままだ。
けれど、不思議なことに。
セレストの胸に焦りはなかった。
――まだ動く時ではない。
そのように自分に囁く、もうひとりの自分がいる。
「待ってりゃ何かある気はするんだが……さァて、一体どう転がるやらだ」
自分は独立不羈を旨とする人間だったはずだ。だというのに、この期待はどこから生じるものなのか。
わからぬままに確信し、セレストはどこか楽しげに呟く。
そうして、ごろりとまた寝台に転げた。




