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訓練は、物心ついた頃から重ねてきた。
いつも穏やかな父も、その時ばかりは別人のように厳しかった。伝える術式の危険性を熟知していたからこそだと、今ならばわかる。だが幼いケイトにとって、わずかならず恐ろしいものだった。
けれど教えの通りにしてのければ、上手く成果を成して見せれば、父は口元を緩めて「よくやった」と撫でてくれた。
それは確かな愛情の表れであり、そのようにして伝授された秘術はケイト・ウィリアムズの誇りとなった。亡き父との、大切な思い出だった。
彼女にとって己の血と生まれとは、決して厭うべきものではなかった。
そう思っていたからこそ、王宮に上がり浴びた視線は、ケイトを甚く怯ませた。
貴族たちが注ぐそれは、主に二種に大別された。
ひとつは彼女を懐疑し、軽侮する目である。あんな田舎領主の小娘が、勲しもない相討ちばかりの血族の出が、この禍いに際して本当に役立つのか。そういう訝しむ眼差しだ。
家名を担うとはいえ、ケイトは自身が何の信頼も勝ち得ない小娘なのだと自覚している。不信は働きで拭う以外にないと思うばかりだ。
それでも、心は揺れた。
自分が父から、父がその父から、代々大切に受け継いできたものが嘘偽りのように、無価値なもののように遇されるのは心苦しかった。
だがなお辛いのはもう一種こそだった。
──ああ、あれが。
──あれが確定執行の。
何も知らぬ生贄の羊を憐れむが如きその視線。
ケイト自身を忌むように、痛ましいもののように眺めるその目。
ウィリアムズの一族そのものをどうしようもない歪として認識するような、そんな瞳に晒される度、ケイトは足元が崩れていくような感覚を陥った。
磐石であると疑いもなく信じていた大地が突然に消え失せて、中空に投げ出される心地だった。
今日の召喚術式の成功は、そうした不安を払拭する意味合いにおいても、彼女にとっての救いだった。
長らく起動されていなかった術式が、錆つかずに機能したという事実。それは彼女の誇りの正当性を、少しなりとも補強するように思えた。
これでウィリアムズへの見方も変わってくるに違いない。
無邪気に信じて、彼女の足取りはいつもより軽い。
ただそれにしても、とケイトはちらりと振り返った。
王城の回廊を歩む彼女の後ろをついてくるのは、先程目覚めたばかりの被召喚者である。その足取りにもう揺らぎはなく、念の為に施した持続性の治癒霊術は良好に機能している様子だった。
──ああまで深手の方が喚ばれるのは、予想外でした。
命運が尽き死に瀕し、世界との関わりが希薄化した存在を喚び寄せる術式であると教えられてはいた。だがその成功と同時に現れた男性は想像以上に満身創痍で、ケイトの施術だけでは危うく間に合わないところだった。
応急手当の後、救援を求めての再治療。小康状態を確保した後、部屋に運んでからの再々治療。
徹底した治癒霊術の連続執行でどうにか事なきを得たものの、祈祷塔八基を空にして喚んだのが屍ひとつで終わっていたなら、到底笑い話では済まなかったところだ。
改めて、心中でほっと息をつく。
「先にお伝えした通り、もうオショウ様を元の世界に戻す事はできませんの。でもご安心くださいましね。魔皇討伐の暁にはアプサラスの国賓として、三代の栄華を保証致しますわ。こちらに馴染めるかどうか心配があるかもですけれど、ええ、大丈夫。きっと大丈夫ですわ。ラーガムのクランベル家が一等に有名ですけれど、他世界からいらして、こちらに根付いた方は他にも沢山いらっしゃいますから」
「うむ」
移動しながら続けていた説明に短い相槌を受けたところで、ケイトは霞む目を擦った。それから再度、肩越しに後方を確認。物珍しげに周囲を見回しているオショウを、とっくり観察する。
とても、とても大きな人だった。
背丈の割に細身めいているが、間近で見、また触れたからわかる。それは針金を叩き込んだかのような、実戦的な筋肉の塊だった。
見かけに比して体重があるだろうに、身のこなしは軽やかだ。
歩く際にも頭の上下動がひどく少なく、体の中央に一本の芯が通っているかのように重心がぶれない。こそりとも音を立てないその歩法は、地を滑る影の足取りにすら似ていた。
そうした物腰の端々が、並々ならぬ彼の技量を伝達してくる。
また武に秀でるのみならず、彼は捨て目も利くようだった。
部屋を出てからほんの数歩で「目を悪くしたのか?」と尋ねられた時は、もしや想定以上の知識を感染させてしまったのではと、どきりとしたものだ。
幸いただの気遣いだとすぐに判明したのだけれど、それだけこちらの一挙一動をよく見ているという事である。状況の見極めや戦局の判断にも長けた人物なのだろうという印象を受けていた。
だからこそオショウの温厚篤実な雰囲気を、非常な幸運だと彼女は思う。
もしもそんな彼が被召喚を是とせず、手荒な振る舞いに出ていたならば。それで止められたかどうかは別として、切りたくはない札をきっと切らねばならなかった。
押し付けがましいこちらの言い分を、それでも理性的かつ友好的に咀嚼してくれるオショウの様子に、ケイトは好感を抱いている。
ただ彼に親しみを覚える理由は、また別にもあって。
「陛下にお目通りをした後は、大樹界を越えてカヌカ祈祷拠点まで、高速艇での移動になりますわ。あれなら三日とかからずに目的地に到達できます。船には一通りの武装も積み込まれておりますから、移動中にお体に合うものを見繕いましょう」
ケイトは前に向き直り、気づかれぬようそっと微笑む。
彼の短い黒髪と、穏やかで深い黒色の瞳。
大変失礼ではあるけれど、毛刈り直後のパケレパケレによく似ていた。遠慮なく抱きしめて頬擦りしてもまるで気分を害さなそうという点も、やはりあの大きな草食動物にそっくりだ。
実家の牧舎を思い出して、彼女はふんわりと心を緩める。
「武装と言えば、だが」
「ひゃい!」
そこへ不意に言葉をかけられ、ケイトは驚きでつい噛んだ。
「……はい、なんでございましょうか、オショウ様」
「こちらに喚ばれた折、俺が身につけていたものはどうなったろうか」
「申し訳ありません。召喚術式で移送できるのは、体一つだけですの。ですからお召し物や武具の類は、恐らく元の世界の元の場所に置き去りになっているかと思いますわ」
「そうか」
さして残念げにもなくオショウは頷く。なければないでどうとでもなる、といった風情だった。
「あ!」
「うむ?」
泰然自若とした彼であったが、唐突にケイトが発した大声には流石に眉を動かした。案じる瞳で娘を見やる。
「あの、体一つと申しましたけれど、大丈夫ですからね。その服をオショウ様に着せたのは別の男性ですから。わたくし、見ておりませんから。施術の折は別として、その時以外は見ておりませんから。指の隙間から覗いたりなどしておりませんから」
「……うむ」
言い募りにどう処したものか困惑し、オショウは手のひらを握って開く。
二人の向かう先、即ち王の座所から爆音が轟いたのは、その直後であった。
*
謁見の間において、タタガタ・アプサラス・マハーヤーヤナ6世は心を痛めていた。
無論一国の王たる身だ。その内心の揺れは少しも皺深い面には表さない。鷹揚に、悠然と。外見はひどく穏やかに、玉座に陣取るばかりである。
彼が波立つ理由は、この場に会した一堂にあった。
ケイト・ウィリアムズが召喚術式を執行するにあたり、駆けつけた貴族たち。先刻まで不安に満ちていたその表情は、少女が被召喚者を連れて謁見に現れるとの報を耳にして一様に緩んでいた。緩みきっていた。
召喚術式が遂行されたという一事のみで、こぞって浮き立っているのだ。これでこの国は安泰だと、自分たちが戦地に向かう必要はないのだと、もう魔皇は討ち果たしたも同然だと、無思慮に声なき歓声を上げている。
己の代に皇禍が訪れた不運を嘆く心持ちも、恐れと不安に苛まれる気持ちも理解はできる。
解決策が見出だされ、抱いていた感情が安堵に転ずるのもまたわかる。
しかし彼らの笑顔に、これから犠牲となる者、命を懸ける者への配慮はまるでなかった。誰も彼もが歯を見せたまま、一人の娘を重責を負わせ、死地へ送り出そうとしている。
実に気に入らない話だった。
死の訪れはまず年寄りから。それが順序であり、道理のはずだった。決してあのような、眩い未来を持つ娘からであってはならない。
しかし斯様に憤ったところで、王に為せる業はなかった。
マハーヤーヤナ6世がケイトの代わりに一命を投げ打とうとも、戦場は顔色ひとつも変えはしまい。その事を彼は知悉している。状況はウィリアムズを頼る以外にないものである。
ケイトに可能な限りの支援を与える事。その遺族を厚く遇する事。これが王にできる全てであった。
無論、そんなものがあの娘の代価になるなどとは少しも思えない。
懊悩を胸中の嘆息に変えた、その瞬間。
轟音と共に、広間の天井が爆ぜた。
幾重にも重なり作られた荘厳なアーチが崩壊し、施された鏡細工が最後の奉公とばかりに美しく光を乱舞させる。控えた近衛兵たちが王に駆け寄り、盾を翳して落下物を防いだ。
「何事か!」
「決まってるだろ?」
応えは、臣下からではなく頭上から返った。
「一騎駆けだよ。敵将のな」
破壊の痕から覗く空。
それを背負い姿を見せたのは、一体の異形であった。
頭。手。足。胴。
五体の基本構造は人と遜色がない。身につけた簡素な胴鎧も、同様に取り立てて目を引きはしない。
しかし背には一対の翼があった。その羽ばたきが、それを宙に浮かせていた。足には鉄靴もなく、素足のまま覗くのは猛禽の如く鋭い蹴爪である。
哄笑の代わりだろうか。
口と鼻の代わりに顔の下半分を占める嘴を、異形はガチガチと打ち鳴らす。
場の誰もが、気を飲まれ、声を失った。
貴族たちはさておき、戦闘訓練を積んだ兵士たちの反応の鈍さには、ふたつほどの理由がある。
ひとつは、皇禍が数十年から数百年に一度という長いスパンで発生するものである事。前回の戦争に加わった者は他界して既に久しく、誰もに対魔軍の体験が不足しているのだ。
もうひとつは単純に、気構えの不足である。
歴史的にも、アプサラスが魔軍の直接的侵攻を受けたのは片手の指に満たぬ程度。既に魔族との戦端が開かれたとはいえ、それは遠く異国の地においてだという認識があった。
よもや自国の王都に、王城に、このような単騎特攻が行われるとは想定の埒外であったのだ。
「魔族だ!」
「陛下を守れ!」
それでも、一度声が上がれば後は早かった。
盾持ちが隊伍を組んで王を取り巻き、中空の異形に対し、兵士たちが各々の得物を構え、術士が霊術の執行を開始する。そうした動きを鳥の眼差しで睥睨し、魔族は瞳に嘲りの色を過ぎらせる。
「宣誓しよう。我は皇に身命を捧げ奉る六武が一、ムンフ」
投げ槍が、弓矢が、戦輪が。
呼び起こされた炎が、氷が、雷が。
言を妨げんとばかりに降り注ぐ。が、そのどれもが、何の効能も示せなかった。
「──この身、鼓動伝わらぬ物にて傷つくる事能わず」
干渉拒絶。
刃は魔族の肌に触れる寸前で慣性を無視して静止、落下する。霊術も同様に術式構成を完全棄却され、霊素崩壊を生じて消失した。
告げ終えたムンフは周囲の霊素を握り込み、手の内に短槍を錬成。兵士たちの頭上を飛翔しながら指揮階級の者を見定めては次々と投じてゆく。
半霊化したその穂先は、硬度を一切無視して防具を貫通。連続した悲鳴が上がり、死が串刺しという形で彫り込まれていく。
繰り広げられる殺戮を眼前に、兵士たちはただ立ち竦むしかなかった。
ムンフの干渉拒絶。
これは即ち飛び道具の無効化である。鼓動を伝える肉体、そして掌中に握り込んだ武器。そういったものでしかこの魔族は傷つけられない。
逆説的に解くならば、ただ白兵戦の間合いに持ち込みさえすればよい。それでだけでムンフは致傷しうる存在に堕する。
だがここで、謁見の間の天井の高さが災いをした。この場は屋内でありながら、魔族が自在に飛翔するだけの空間を有している。
地に張り付くしかない人には届かぬ高みを、鳥の速度と自在さでムンフは翔ける。自重を打ち消し滞空するのが精一杯の浮遊霊術の類では、到底対応の叶わない機動力だった。
散発的に行われる人の側の反撃は全く功を奏さず、存分にムンフは暴虐を繰り広げる。
やがて逃げる者、抗う者が絶え、そこで魔族は戦闘行為を停止した。
「さて、てめぇらの無力が身に染みたか? じゃあ意気消沈したところで質問だ。いるんだろ、アプサラスの巫覡。そいつを出しな。そうすりゃお前ら、今は見逃してやるよ」
水を打ったように、しん、と場が静まり返った。
様子見と保身の笑みを浮かべながら、貴族たちが引きつった顔を見交わす。誰の胸にも見えざる天秤が揺れるようであった。あとほんのひと押しが加われば、それは命惜しさの側に雪崩打っていた事だろう。
けれど、そうはならなかった。
「勇猛果敢ではあるが、知恵の回らぬ兵卒と見える」
真っ先に響いたのは、王の言葉である。
王座に掛けたまま動かない彼は、冷や汗ひとつ見せてはいない。
「あれは我らの希望。我らの至宝。このような安い脅しで、おめおめ引き渡すと思うてか」
「そうかい。なら、順番は決まったな」
ムンフは不興げに目を細め、次いで槍を錬成。切っ先の狙いを王へと定める。
身を挺する近衛は、残念ながら既に亡い。
だが、マハーヤーヤナ6世はこれでいいと思っていた。
──如何なる犠牲を払おうとも、魔皇を封ぜよ。
ケイト・ウィリアムズには、そのように優先順位を言い含めてある。王の思考として、その犠牲の内に己が命を含めるのは当然であった。
六武襲撃の爆音は、王宮中に轟いたはずである。異常事態は明白であり、ならばこうして時を稼げば、その間に彼女と被召喚者は無傷で出立もできよう。高速艇で飛び立てば、如何な有翼の魔とて追いつけはしまい。
わずかな時を語らっただけの相手であるけれど、そうした冷たい判断も下せる娘だと、王はケイトを評価している。
殺意にぎらつくムンフの目を、タタガタ・アプサラス・マハーヤーヤナはひたりと見据えた。
恐れ気のない雄姿が、魔族の苛立ちを募らせる。槍を握り込む腕をぞろりと持ち上げ、
「お待ちなさい!」
それが投じられるよりひと呼吸早く、凛とした声が割って入った。
場の視線が集まった先にいたのは、息せき切った栗色の髪の少女だった。
様々な目を一身に受け止め、それでも彼女は胸を張る。滞空する魔族を睨めつけて、乱れた髪を手櫛で整え、真っ直ぐ、迷いのない足取りで謁見の間に歩み入った。
「探すまでもありません。わたくしはここです。当代のウィリアムズはここにいます。逃げも隠れもいたしませんわ」
「……馬鹿な! 何故ここへ来た!」
王は、狼狽を抑えられなかった。
叱責めいた言葉が思わずながら口を衝く 。
「申し訳ありません、陛下」
対して娘は、ちろりと小さく舌を出した。まるで悪さを見咎められた子供のようだった。
「──つい、勢いで」
上に立つ者としての政治的無表情を打ち砕かれ、マハーヤーヤナ6世は声を喪失する。
そんな彼に代わったのは、槍を構え直したムンフであった。
「勢いはいいがよ、てめぇ、名乗り出た意味はわかってんだろうな?」
「ええ、勿論ですわ」
「そうかい、そうかい。なら順番変更だ。不確定要素は摘み取らせてもらうぜ。死にな、封じの巫女」
鈍くぎらりと光る穂先を向けられながら、それでも魔族を見返す少女の瞳に怯えはない。
その事が、ムンフにはひどく不快だった。
憤懣にガチリと嘴を鳴らし、六武は容赦のない槍を投じた。気休め程度の防具すら着用していない娘の命は、ただ風の前の灯火と見えた。
しかし。
「仏騒な事だ」
ぴたり、と。
切っ先はケイトに触れる寸前で停止した。疾る槍の柄を、横合いから掴み止める手があった。
「な、なんだ貴様は!?」
ムンフの声に狼狽が混じる。
上位魔族たる彼の動体視力をもってしても、その手の主が、その巨漢が、唐突にそこへ湧き出したようにしか見えなかったからだ。
「テラのオショウ。ここでは、そう名乗る事にした」
対照的に、オショウには少しの乱れもない。まるで凪いだ海のようであった。
応答を終えるや、彼は手首を捻って槍を反転させた。
対話を求める者には言葉を。拳を構える者には武を。殺意を纏う者には死を。
相手の出方に応じ相応しき処方を以て遇するこれを、総合戦闘術仏道において因果応報と称する。故に、オショウのすべきは決まりきっていた。
前腕の力のみによる再投擲。モーションの短さに反し、稲妻の速度で長柄が飛ぶ。
返し矢ならぬ返し槍は、ムンフの体に触れる直前で急停止まがいに失速。ベクトルの完全無効化と構成術式の中和とが行われ、霊素となって四散した。
「ふむ」
初めて目にする干渉拒絶に、オショウが小さく唸る。
一方反撃を無効化したムンフであるが、しかしその背を嫌な汗が伝っていた。
最前、兵士たちの一斉射撃にはわざと身を晒した。
だが違う。今のは違う。
避けなかったのではない。避けれなかったのだ。
自身には通じぬ一撃と理解しながら、その事実がムンフの肝を冷やさずにおかない。このままつっかけるのは危うい。理屈ではなくそう悟らせる、ごりりと怖いものがあった。
そんな魔族の躊躇を盗み、オショウはケイトを顧みる。
「助かりましたわ、オショウ様。ありがとうございます」
透明な微笑で感謝を示し、彼女はちょこりと一礼。オショウは顎を引いてそれを受けた。
ケイトの振る舞いに、怯懦の色は微塵もない。それも当然で、彼女の身ごなしであったなら、あの程度の切っ先は独力で捌けたに相違なかった。
思えばここへ駆けつけた折、振りまかれた血と死に竦んでいたのも刹那だけの事である。その後の問答といい、実に大した胆力だった。
そんなケイトの技量を把握しつつ、それでもオショウは、この場にしゃしゃり出ると決めていた。
「ここは、任せてもらえるか」
「え? ですけれど……」
意図を測りかね、また彼一人に託すのを恥ずべき振る舞いと感じたのだろう。彼女は戸惑いオショウを見返した。
物問う視線を受け止めながら、オショウはケイトに続いて、この広間に駆け込んだ折の感覚を反芻する。
広間に居合わせた貴族たちの顔を認めるなり水泡の如く浮かんできたのは、その姓名と肩書きのみならず、彼らの視線にまつわるケイトの心痛もであった。
どうやら知識の感染には、若干ながら施術者の感情が混入してしまうものであるらしい。限定的とはいえ、自己を複製するが如き行為である。主観視点の含有や自己愛の拡大といった弊害は避けられぬところなのだろう。
図らずしてケイトの心を覗き込んでしまったオショウは、その不安と心細さを、我が事のように感得した。
そして、「ならば」と考えた。
ならばここで被召喚者の有能を示すのは有益であろう。それはウィリアムズという一族の正しさを、その誇りの正当性を示す一助となりうる。
細い肩に乗せられた重荷にも弱音を吐かず、震えを抑えて、「楽勝ですわ」と嘯いた娘の為に。
言葉にはせず、オショウはただムンフへと向き直る。
「オショウ様、お一人では!」
「問題はない」
焦りからか高くなったケイトの声に、首を振ってオショウは応える。それ以上の問答を許さぬ、静かな言いだった。
「何も、問題はない」
「てめぇら……余裕ぶって何囀ってやがる!」
漏れ聞いて、激昂したのはムンフである。
オショウの親切心に端を発したやり取りであるが、この六武にしてみれば「貴様の相手など一人で充分」と言明されたに等しい。赫怒もやむなしの恥辱であろう。
「もう一度だけ教えてやるぜ。我が身、鼓動伝わらぬ物にて傷つくる事能わず!」
確かに、先の投擲はこのムンフの心胆を寒からしめた。だが。
内なる怯懦を振り払い、魔族は声を張り上げた。
だが、この身の圧倒的優位に変化はないのだ。地を這う虫風情が、空を舞う鳥を如何にして害すというのか!
羽ばたいて高度を上げつつ、両手に霊素を握り込んでムンフは二槍を錬成。オショウへと狙いを定める。
「つまりてめぇらの飛び道具は無駄、全くの無駄って事だ! その上で訊くぜ。さあ、どうする人間? どうやって空に在るこのムンフに抗する!? 精々頭を使って足掻いて見せろ。ぶち殺されるその前までにな!」
「では、そのようにしよう」
「……あん?」
「頭を使うとしようと、そう申したのだ」
言い放つやオショウはゆっくりと合掌。
少しの荒々しさもないその所作こそが闘争開始の嚆矢であると、どうしてか居合わせた誰もが悟った。
次いで彼は、握った両の拳を腰だめに落とした。
金剛身法。
体内の気が高速循環。急激な練気圧の変化により、オショウを中心に球状の衝撃波が生じた。爆発にも似たその風に、ケイトは思わず目を覆い、中空のムンフが煽られて姿勢を崩す。
──直後。
どん、と下腹に響く衝撃音と共に、オショウの体が宙を舞った。
迦楼羅天秘法。
精密操作した気を任意部位より放出、推力へと変える仏道技法である。
本来は無重力状態における推進や姿勢制御に用いられるものであるが、両足から投射された猛烈なオショウの気は、重力下においても十分以上に作用を果たした。
巨体が舞い上がる。
それは跳躍ではなく、射出と形容するより他にない有様だった。
そして。
「がッ!?」
その飛翔軌道上に、魔族の体が在った。
綺麗に背筋を伸ばたままのオショウの額がムンフの鳩尾にめり込む。鎧は容易く砕け散り、骨の壊れる乾いた音がした。
「デ、デタラメじゃねぇか……」
人体と同質量の砲弾が直撃したようなものである。
黒い血泡と共にそれだけを吐き、魔族はぐるりと白目を剥く。
そうして、二つの影は別れて落ちた。
一方が墜落であり、一方が着地であったのが、両者の唯一にして最大の違いであった。
「オショウ様!」
膝のバネだけで猫のように衝撃を殺し切ったオショウへ、ぱたぱたとケイトが駆け寄ってくる。
それを耳だけで知覚しながら、彼は、む、と眉を寄せた。絶息したムンフの屍が、床に叩きつけられるなりぐずぐずに溶解し、黒い粘液と化していたからである。
しかし思い出してみれば、このような死体の消滅もまた、魔族の特性として知られる事だった。
彼らの骸は生命の終焉と同時に融解、間を置かず揮発してしまう。種としての魔族の生態が、秘密の霧に閉ざされたままの所以であった。
「どうかなさいました? ひょっとして、おでこが痛みますの?」
それでしたらわたくしが、と伸ばされた手を、首を振って制止する。金剛身法により硬気を全身に巡らせた彼の五体は、あの程度の衝撃で傷つきはしない。
ちょっぴり不満げにしたケイトだったが、すぐに笑顔に戻ると子犬のように彼の周りを駆けてはしゃいだ。
「それにしても本当に、オショウ様は本当に、万夫不当でいらっしゃいますのね! ああも容易く六武を打ち倒してしまわれるなんて! お陰で陛下もわたくしも他の方々も、みんな、みーんな救われました。ありがとうございます!」
きらきらと憧憬を浮かべながらの感謝と賛辞は、これまでに受けた記憶のないものだ。対応に困ってオショウは唸る。
その上それは眼前の娘からのみならず、周囲の兵士たちからも注がれていた。どうにもこそばゆくてたまらない。
「ただし!」
戸惑う彼の鼻先へ、足を止めたケイトの人差し指がびしりと突きつけられた。
もう一方の手は腰に当て、説教を始めようという姿勢である。
「うむ?」
「今後の事もありますから、申し上げておかなくてはなりませんわ。オショウ様がお強いのは、今回の事でよくわかりました。けれど何もかもを独りでなんて、もう考えないでくださいまし。頼れなどと大言はできませんけれど、わたくしだって、それなりにそれなりですのよ? ある程度はお役に立てると思いますの」
「うむ」
「それからもうひとつ。いいですか、オショウ様。『頭を使う』というのは、こちらの言い回しで、知恵を絞る事を申しますの。決して『頭突きをする』という意味合いではございません」
「……うむ」
見上げながら生真面目に宣告されて、オショウは所在なく手のひらを握ったり開いたりした。