腐蛆の夢
「戻ったか」
ラムザスベル中央城砦。贅を尽くし絢爛に仕立てられたその一室に、錆びを含んだよい声が響いた。
声の主は老人だった。だが衰えた印象のわずかもない翁であった。深い皺に埋もれた瞳はらんらんと強い意志の光を放ち、時間に倦み疲れた様子など少しも窺えない。白く長い髯は美しく、また力強く手入れされ、その先にまで力に溢れて見えた。全身に、獣のような精気が満ち満ちている。夏山の草いきれの如く、むっと気圧される無色の熱がそこにあった。
指輪に腕輪、首飾り。ふんだんに霊術紋を織り込んだ装飾と衣服は、ひと目で一級の品と知れるものだ。だが恐ろしく値の張るであろうそれらの装いを、老人は見事に着こなしている。内包する気宇が品々がする自己主張の全てを飲み干し、完全に従属させているのだった。
失帰の妖と恐れられる、グレゴリ・ロードシルトの威容である。
「このような夜分のご報告となりましたこと、ご寛恕ください」
彼の前に跪き、頭を垂れるは初老の騎士だ。今しがた某かの任から戻ったばかりらしく、脇に抱えた兜以外は鎧姿のままであった。
「口上はよい。結果を告げよ、アイゼンクラー」
「は。遺漏なくご指示を履行しております。物見より、今夜のうちにも太陽ら三名はラムザスベルに至るとの報告も届いております。ただし我らの行軍の遅れから想定外の交戦が発生、ために長い手を損耗しております」
長い手とは、アイゼンクラーが統括する特殊部隊の名だ。
諜報から暗殺まで、後ろ暗い働き全てに用いてきた精兵であり、護国の堅盾の武名を慕い、都市ではなくロードシルト個人に厚い忠誠を捧げる一団である。
「構わぬ。いずれツェランめの悪さであろう。我が似姿を損ねたところで、あれの溜飲は下がるまいに」
しかしロードシルトはその損失を気にも留めず、ただ満足げに笑った。
「クランベルの聖剣、セムの影渡り。水面月に飼い骨。既にしてこれらが腹中にあり、確定執行のウィリアムズとテラのオショウが幸運にも着いた。アーダルの太陽と神眼、カダインの甲冑繰りが至れば、全ての獲物は狩場に揃う。げに剣祭のめでたきことよ」
畏まった姿勢のまま、アイゼンクラーは応えない。彼は自らが判断することをよしとしない。
ただ己が崇め忠誠を誓う英雄の、その意向に追従するのみと決めていた。主がそういうのならめでたいことであるのだろうと、反響のように思うばかりである。
「ツェランはどうしておる」
「ご差配通り、館に戻してございます。如何にかなさいますか」
小さく唸り、ロードシルトは顎を撫でた。そのままふた呼吸ほど思案をし、
「イムヘイムを監視に回せ。惜しくはあるが、大事の前の小事。次第によっては斬って構わぬと伝えよ」
「……承りました」
「アイゼンクラー、そなたは代わって酒蔵へ回れ。今宵より二日は任せる。骨めには、気取られるなよ」
「心得ております」
指示を終えるとロードシルトは顎をしゃくって、アイゼンクラーに退室を促した。騎士は立ち上がって一礼し、兜を被りなおすと主の居室を後にする。
そこまでを見届けて、ロードシルトは複製体から我が意識を切り替えた。
ちょうど覗いていた窓を離れるようにして中央城砦の光景が遠のき、代わって見慣れた寝台の天蓋が視界を覆う。
そこは、どことも知れぬ一室であった。
部屋のあちこちに刻まれた霊術紋が、ほのかな輝きを放ち続けている。しかしどうしたことか室内は、ぼんやりと靄がかかったように薄暗い。空間に開いた見えざる穴が、光明をいずこかへ吸い出すかのようだった。
甘い匂いが満ちていた。熟した果実のような香りは、やがて喉の奥で凝って正体を明らかにする。むせ返るほどに濃い、それは腐臭であった。寝台に仰臥した、ロードシルトの体が放つ臭気である。
しゅう、と。
蛇の呼吸めいた息を老人は吐く。そのたびに、爛れた匂いの濃密さが増した。
横たわるのは、威風堂々たる使役体のものとはまるで異なる、哀れに萎びた肉体だった。手足はない。既に腐れ落ちたかのようだった。残された胴も、人とは思えぬほどに変形している。体を形作る骨の全てを取り除き、白く糜爛させた楕円。彼の首から下にあるのは、そのような肉体だった。
しゅう、と呼吸をするたびに、体表からはぐずぐずと茶色い粘液が滲み続け、滴っては汚らわしく寝具に染み込んでいく。
人の成れの果てというよりも、巨大な蛆虫に無理矢理人間の頭部を縫いつけたような。醜悪極まる異形の姿であった。
だが彼の目はまだ死んでいなかった。瞳だけがただ炯々と、強烈な命の力を放っていた。
まもなくだ、と彼は笑う。
まもなく、全てが手に入る。我が法にて、私は全てを取り戻す。
呑法・魂食――。
それが老人の至った我法である。名が明かす通り、他者の魂魄を呑み食らう法であった。
呑まれた心魂は彼の内で人格標本として保存され、精神性一切を喪失し空虚となった五体は、肉人形として法の執行者の隷下となる。
こうして支配した人間を、ロードシルトは意のままに改変することができた。人形の骨肉を粘土のように捏ね回し別人に作り替えることも、更にはそこへ自身の人格を複写して操ることも。
現在ラムザスベルで政治を執り行うロードシルトは、そのようにかつての己の姿を模して造り上げた複製体である。
これら複製体と本体とは法力により非物理的に接続されており、ロードシルトは覗く窓を選ぶように、任意にして自在に主とする意識を切り替えることができた。
覗ける窓はひとつに限るが、彼の主意識がない状態においても、肉人形が活動を停止することはない。転写された人格により、それは自動で思考し、自動でロードシルトのために働くのだ。
更にはこの自動操縦用に、採集した人格を精神表層に纏うことも可能だった。対象者の魂魄を仮面のように装えば、その人間の記憶と感情を持つ、その人間そのものとして振る舞うことが叶う。どれほど親しい者にも見破りようのない傀儡の誕生である。
無論皮一枚を剥げば、その下に蟠るのはロードシルトの精神の複写だ。ゆえにこれらは彼のみを賛美し彼のみに従う我なき奴隷であり、我法使いを裏切ることは決してない。
このような使役体を、老人は市街に多数放っていた。あらゆる場所に目を光らせ、あらゆる地点から複製体を出現させるべくである。
実に醜怪な法であった。
世の全てを己の踏み台と信じて疑わず、他者をただ食い物と観じて顧みない。邪悪なる唯我独尊の発露に他ならなかった。だがその傲慢極まりなく肥大した自身への信仰は、際限なく法の力を高めるだろう。
時さえかければ、比喩ならず世界を我がものとしうる。それだけの我法であり、エゴであった。
が、近年のロードシルトには焦りがある。
その時が足りぬのだ。彼自身の体に限界が訪れようとしている。このままでは本体の死とともに、全ての使役体、複製体までもが死に絶えてしまう。
ために老人は、完全な自身の分身を作り出すべく試行錯誤を重ねていた。人格の複写は容易だったが、我法を含めた全人格転写は未だに成功していない。いずれの肉人形も、ロードシルトになる途中で精神、肉体ともに容れ物としての用を成さぬほど損壊してしまうのだ。魂食は死者には及ばず、後に残るは老人と相貌を等しくした骸の群ればかりである。
ロードシルトはこの理由を、生半な器には収まり切らぬ我が心魂の巨大さゆえと考えた。ならば人並外れて強靭な肉体と精神にならば、この身を遷すことが叶おう。
そこで老人が目をつけたのが、魔皇征伐の英雄たちであり、魔皇自身であった。斯様な器たちであれば、我が全てをも収容できるとロードシルトは帰結したのだ。
更に考慮を重ね、白羽の矢を立てたのはカナタ・クランベルにであった。
彼の輝かしい若さを、眩き未来を奪い去り、我がものとする発想に、彼は喜悦で身震いをする。
この決断と心の動きには、カナタへの羨望が含まれていた。
魔皇を捕らえた聖剣の担い手。のみならずロードシルトが為しえなかった大樹界開拓に、新たな都市を築いて着手した少年。
彼が有するものの全てを、老人は妬んで嫉み、我が栄光を上回ることなど許さぬと誓ったのだ
カナタのみならず、皇禍を打ち払った余の者らも誘い出すべく、ロードシルトは手段を講じた。カナタへの複写が失敗した場合の備えとしてである。成功の暁にはそのまま食らい、我が一部と成せばよい。
ロードシルトは権勢を背景に否応なくカナタとイツォルを都市へ呼び寄せ、そののちアーダルへ謀を巡らした。
かの国より霊術薬を仕入れ、それを運搬した商団の幾名かを使役体に置換。都市を離れた頃合いを見計らい、肉人形から法を執行したのである。全転写の予行演習であり、必ず調査に携わるであろうセレストたちを挑発し、ラムザスベルへ誘引しようという思惑であった。
残念ながら実験は失敗に終わったが、後者の目論見は首尾よく運び、太陽らは間もなく老人の腹中へやってくる。
国に厚く遇されるウィリアムズへの手回しは困難と思われたが、こちらは招待状の他は何をするまでもなく、自発的にアプサラスを発ってくれた。我が身の幸運に、ロードシルトはほくそ笑むばかりである。
剣祭の決勝を終えたのち、老人は都市の全てを餌食とする計画であった。
万能の如く思える魂食だが、実のところ容易く魂を呑めるのは赤子や怪我人、病人といった精神力や意志力が弱った人間のみだ。心を強く保つ者へは、なかなか作用を及ぼしきれない。複製体から我法を行使する場合、この執行力は更に弱まることとなる。
ゆえに本来、そのような一斉捕食は不可能だ。
が、ロードシルトはこの前提を覆す手配りを施していた。ラムザスベル全域へ、既に彼の毒は浸透している。
湯水の如く金銭を使い、各地より多くの人間を集めたのも自らの食卓を賑わすべくだった。
有象無象ばかりでなく、剣祭に参戦した名高い剣士や英雄たちまでもを鬼一口にするのだ。我が力はさぞや増すことだろう。
未来を思って老人は目を細め、しゅう、と蛇の息を吐く。
我法使いたちがいるのも、またよかった。水面月、飼い骨といった獅子身中の虫のみならず、無道鎧までもを、ロードシルトは食らうつもりでいる。
自由意志に依る発現でなければ、その作用を著しく減じるのが我法だ。
では我が法により、当人の人格を転写したならば、どうか。
使役体が法を執行可能となるならば、ロードシルトは史上例を見ない複数の我法の所有者となりうる。さすれば人界を手中に収め、大樹界を暴かんとする彼の宿望も、大きく達成に近づこうというものだった。
腐れゆく蛆の如き体を見やり、かつて樹界の主に受けた呪いと屈辱を、身を焼く憎悪とともに老人は思い返す。
――必ずや、奴に目に物見せてくれよう。
漏れ出た忍びやかな笑いは、やがて腐臭をかき乱す、哄笑へと変じていった。




