ボーイ・ミーツ・ガール
持戒は驢となり、破戒は人となる。
── 一休宗純
「魔皇を、殺さない?」
皇の間の石床に、四名が車座になっていた。
オショウ、ラーフラ、セレスト。そして今、一際に大きな声を上げたカナタである。
オショウが魔皇を降して後、しばしが治療の時間に当てられた。
医療都市アプサラスの治癒霊術は、異名の通り三国の内でも特に秀でたものである。それを学んだケイトの施療効果は目覚しかった。
先に突入した四人の傷は、セレストの腕のような大きな欠損部位を除いて殆どが再生され、未だ意識は戻らぬものの、ミカエラとイツォルの容態も落ち着きを見せている。
一巡の処置を終えると、ケイトは改めて意識のない二人への施術に集中。
体の空いたセレストとカナタをオショウが手招き、この珍奇な会談の場が設けられたのだ。
「それはどういう意図ですか。まさか、魔皇をこのまま放免するんじゃあないですよね?」
霊術式の増血作用により取り戻した顔色を更に一層赤くして、カナタはオショウへと詰め寄る。きつめの視線が胡座の彼と、隣で正座を強要されたラーフラとを行き来した。
オショウはただ曖昧に「うむ」と応じ、当然ながらカナタはそんな返答で納得しない。
「では、どうするつもりですか」
「まァ落ち着けよ、カナタ少年。このオショウさんがいなけりゃあ、オレらは揃ってご臨終だったんだ。少し頭を冷やして、きちんと話を聞く姿勢になれ。そうがなりたてたんじゃ、端から話にならねェだろう」
「……すみません」
諫められて頭を下げ、カナタは居住まいを正した。瞳を真っ直ぐにオショウへ向ける。
元々からして、カナタはこのオショウという人物に悪感情を抱いてはいない。むしろ逆で、その隔絶した強さに憧憬を抱きすらしていた。責める調子になったのは、予想外すぎる言葉を聞いたからに過ぎない。
「そういうわけだ、オショウさんよ。先を続けてもらえるかい?」
「うむ」
頷きながら、しかしオショウは数秒ほど沈黙。その後、改めて口を開いた。
「そも、何故殺す。俺は異界の者だ。こちらの道理に疎くもある。だが、これを殺す意義は薄いと感じる。魔族が皇を頂点とするひとつの生き物たるならば、頭と直接話しをつけるのが一等早かろう」
セレストは意図を吟味するように残った腕で前髪をかき回し、
「あー……話をつけるってのはつまり、魔族と講和しろとか、共存しろとかって事か?」
「うむ」
「僕は反対です! 魔族は人にとって脅威以外の何者でもありません。どれだけの人が、これまで魔軍に殺されてきたかをご存知ないから──」
「言った通りだろう、テラのオショウ」
カナタの感情論を遮ったのはラーフラであった。
オショウの意を受けてケイトは彼にも治癒を施しており、その相貌はかつての端正を取り戻している。
「我々は互いが恐ろしいのだ。恐ろしくてたまらないから、互いの絶滅を望むのだ。既にして屍は積み重なり、歴史は血で彩られた。恨みもまた堆く、今更全てを水に流せはしまい」
それぞれの回答に、オショウは深く、長い息を吐いた。
「殴られたから殴り返す。殺されたから殺し返す。幾度繰り返そうと、それでは何も変わりはすまい」
「それはそうかもしれません。でも!」
「俺の世界にも合戦はあった。俺はその為にこそ造られた。この生に闘争の他はなく、闘争の他を知らぬ。修羅道だ。無論争わねば、戦わねば奪われ、殺され、滅びていただろう。だがそれでも、いつも思っていた。いつもいつも思っていた。こんなものは早く終われば良いと。戦うより能のない俺は、俺が役立たずになる日を夢見ていた」
淡々と語る自然石めいた面は、けれど深い痛みを抱くようだった。
聞くカナタもセレストも、皇禍に際しての切り札としてその生を歪められている。オショウの感覚は、決して理解の及ばぬものではなかった。
「人魔の争いは生きる為の版図の奪い合いではあるまい。空から眺めたのみでも知れる。こちらの大地は肥沃にして広大だ。一先ずは双方が領土を接さぬままに在る事もできよう。また、この城は一昼夜にて築かれたと聞く。所がないのならば、その手際にて件の樹界を拓けば良い」
決して流暢ではなく囀り、そこで言葉を切ってオショウはぐるりと一同を見渡す。
「今すぐに手を取り合えとは申さぬ。だが俺は好機と思う。尊公らの前にあるのは、長く続く悪縁を断ち切る奇貨たるものと考える。これは愚昧であろうか。存念を伺いたい」
しばらくは、誰も口を開かなかった。
声音の響きが途絶えた後は、ただ重い沈黙だけが場を支配した。
「ま、難しい話だな」
それを破り、真っ先に口を開いたのはセレストである。
オショウの視線を真っ向から受け止めて、
「理屈ではあるがよ、人間ってな感情の生き物だ。でもってオレらにとって、魔族ってのは不倶戴天の異物だ。そういうふうに教えられて、そういうふうに信じてきた。いきなり共存共栄ってのは、ちと受け入れられねェな」
「感情的には、僕も到底容れられません。でも」
身を乗り出して異を唱えたのは、意外にもカナタだった。
「でも確かに、怖いから殺し合うだけじゃ駄目だって、恐れなくてもいいように話し合うべきだって思います。そもそも完全に信用しあうのなんて、人同士でも難しいです。なら恨んだり憎んだりがこれ以上積もる前に、疑いながらでも並んで歩けるようになった方が、その方がいいんじゃないかって、僕は……」
自身の心情とも折り合いがつかず、上手くまとめられないのだろう。彼の言いは尻すぼみに小さくなる。
そんな少年の額を、杖を伸ばしてセレストが小突いた。
「おいおい、誤解すんなよ。オレは『難しい』っつっただけだぜ?」
「え、じゃあセレストさんも?」
「切った張ったなしでだらだら楽に生きられるんなら、そいつがいいに決まってらァな。考えてもみな、カナタ。ここで終わりにしときゃあよ、お前は、お前の子に聖剣って重たい荷物を預けなくて済むんだぜ?」
虚を突かれたカナタの視線が、一瞬だけイツォルへ泳ぐ。目ざとくセレストに笑われて、彼は赤面した。
「確かに我々と人とが友好を築けば、双方に余力は生まれるだろう。だがその余力で次の敵を拵え、わざわざに争うのが人であろうよ」
ふと漂ったやわらかな空気に、鼻を鳴らしてラーフラが毒づく。
だがオショウがわずかに拳を動かすと、彼はぴたりと口を噤んだ。
「何処にも争いの火種は生じるものだ。だが今のように目を光らせる者があれば、それも少しは抑えられよう。また人魔共存の件についてだが、ひとつ告げておくべき事実がある」
「なんでしょうか?」
疑問げに目を瞬かせるカナタに「うむ」と頷き、
「尊公らが魔族と呼ぶ者たちだが、実のところ彼らは、既に人と暮らしている」
「……あん?」
魔族について、オショウは違和感を抱いていた。
ケイトから転写された知識によれば、彼らは魔皇に生み出される存在である。ただ皇の為のみに身命を捧げる群れである。
だというのに魔族は個我を持ち、感情を抱き、性別を備えていた。直面した状況に対して、独自の判断を下していた。真正の群体であればもっと機械的な働きを行うものだと、オショウは蟲人との戦闘から体験している。
更に、相対した五王六武が身につけていた武具や服飾があった。
それらは干渉拒絶の対象に含まれず、つまり彼らの肉体では決してない。
魔皇より発し、魔皇と共に消える。魔族がそのような歴史を持たぬ存在だというならば、生まれつきのものならぬ品々を、彼らはどこでどのようにして手に入れたのか。
治癒を施術する間にオショウが問いただし、そうして得た回答がこれだった。
「皇より生み出されたものは皇とともに滅びる。だが、我らの全てが一人の皇より生まれるわけではない。むしろ逆だ。我らの殆どが人のように生き、人のように死ぬ。人に紛れ、人めいて暮らしている」
渋面を作りながら、秘事の告白をラーフラが継いだ。
「要するに、私や五王六武は君たちと同様だ。君たち人と戦うべく稀に生じる質なのだ。逆に問おう。皇共々に全ての我らが死滅するというならば、一体どこから次の我らが生まれるというのだね?」
「……やれやれ、参った。こっちの内情が知れてる気配も、対策されてる印象もあった。魔族の多様性からして、人間そっくりのが内偵してんじゃねェかって憶測はしてた。だがまさかそこまでたァ、想定外もいいとこだ」
「徒に人心を惑わせるばかりだ。口外法度にしてくれたまえ」
魔皇直々の言である。
疑いようのない真実に額を抑えたセレストへ、ラーフラが皮肉めかして唇を釣り上げた。
「ただし、言明しておきたい。彼らは害意を抱いて人に潜むわけではない。立ち位置としては消極的現状維持だ。君たちの国にもいただろう? 君たちという刺客に全てを委ね、後背の安寧に浸る人間が。そういう事だ。私個人としては恥に類する真実を晒すなら、私と同様に皇の力を備えつつ、人と争わぬ選択をした者もいる」
言い訳のしようもない敗北が影響しているのだろう。告げる魔皇の面持ちは、いっそ清々しかった。
人を滅ぼすという強烈な一念が鉄拳により拭われて、晴れやかさすら窺える。
「こうした次第だ。個々の想念を別とすれば下地はある。そのように俺は思う」
「だけど上手くいくでしょうか。僕たちだけならこうして、それぞれの顔を見ながら話せます。でも集団と集団、国と国の事になれば、細かな表情なんてわからなくなります。ここでのやり取りだって、全部無駄になるかもしれません。それでも、上手くやれるでしょうか」
「わからぬ」
光明を欲したカナタへの答えは、にべもない。
だがのみに終わらず、オショウは続けた。
「俺は永遠には生きぬ。その俺のできる限りなど、歴史のうねりにとっては飛沫に過ぎぬだろう。墨汁に一滴の清水を垂らそうと、その墨色が変じはすまい。だがひと零のみに終わらねばどうか。清水たれずとも、黒は薄れるのではないか。俺は良いと信じた種を蒔く。それが芽吹くか否かは、以後の土壌と環境次第だ」
「ま、人間ってのは忘却の生き物で、おまけに何にでも慣れるらしいからな。オレらの子か、その子か、更にその子か。それくらいまで時代が進みゃ、魔族への悪感情なんてのは粗方消え失せてるかもしれねェぜ。相変わらず泥沼の殺し合いをやらかしてるって可能性はなきにしもあらずだが、できるかどうかわからねェってのは、やらない理由にゃならんだろうよ」
これもまた、ただ楽観ばかりの絵図面である。
けれどカナタとセレストは、かつてケイトの遅参を是とした二人だった。そんな理想を、美しく、素晴らしく感じる質だった。
「そうですよね。魔族との共存なんて、僕は思いもしませんでした。でもそういう考え方があるって、今知る事ができました。未来の選択肢は、きっと多い方がいい」
「うむ」
ゆっくりとオショウは頷き、「だが」と付け足した。
「当然、言葉だけで魔族を信頼しろってのには無理があるわな」
「うむ」
「何より魔皇の監視役は絶対に必要だ。なんせそいつ一人で、人間全部と戦争ができちまう」
「うむ」
「オレとしちゃそこはオショウさんに頼むよりねェと思ってるわけだが、他になんか妙案はあるかい?」
「ラーフラ様に、泥を被っていただけばよいのではないかしら」
セレストの懸念へ、新たな声が割って入った。
オショウの影から、ひょっこり顔を覗かせたのはケイトである。彼女は目でミカエラとイツォルを示し、
「お二方はもう大丈夫ですわ。じき、目を覚まされると思います」
「ありがとうございます、ウィリアムズさん」
「オレからも礼を言わせてもらうぜ。あいつは口うるさいが、いなけりゃいないで座りが悪い」
深く頭を下げた二人にふんわり笑み返すと、ケイトはオショウの隣にちょこんと腰を下ろした。
「失礼しました。話を戻しますわね。わたくし、ラーフラ様に魔皇の能力を制限する呪具を帯びていただけばよいのではないかと思いますの。導石と同じ、所在通知の機能も設けておけば万全ですかしら」
「いやお前、魔皇の能力を封じるって、そんな馬鹿げた効能の霊術式が……あ」
「ええ。お気づきの通りですわ。わたくしは確定執行のウィリアムズで、そんな馬鹿げた霊術式を執行するのが役目ですの。またアプサラスの祈祷塔を涸らしてしまう事になるかもですけれど、陛下ならきっとお許しくださいますわ」
「……おう」
オショウの物言いも独特だがこいつは輪にかけて苦手だと、セレストは眉を寄せる。
調子が奇妙で独特で、会話が噛み合うのだか噛み合わないのだかわからない。
「ラーフラ様も、それでよろしいですわよね?」
「随分と調子良く話を進めるようだがね、アプサラスの巫女。どうして同意が得られるなどと思ったのだ? 私がその提案を蹴るとは考えなかったのか?」
低く否定を告げられて、ケイトはとても意外そうに「あら」と口元に手を当てた。
「わたくし、また先走ってしまいましたかしら?」
小首を傾げてオショウを仰ぎ、視線を受けた彼は、ずずいとラーフラに向き直る。
「……」
「……」
「……」
「蹴ったら、どうなりますか?」
しばし見つめ合った後、何故か魔皇が敬語になった。
「尊公の罪は、弥勒が許す事になる」
「ミ、ミロクとは何だ? どういう意味だ?」
「オショウ様の故郷の神様だそうですわ。56億7千万年後にやって来て、世界を救ってくださるのだとか」
「許す気ないじゃないですか! やだー!?」
ふむ、とオショウは顎を撫で、
「ならば、無間地獄に参るか」
勿体ぶってそう言った。
またしても理解不能の単語を投げつけられたラーフラが、捨て犬の眼差しでケイトを見やる。
「オショウ様の故郷にある、ひどい責め苦を受ける場所だそうですわ。そこで349京2413兆4400億年ほど耐え忍べば、全ての罪が清められるのだとか」
「うむ」
「ミロクより先じゃないですか! やだー!?」
結局のところ、敗軍の将に選択肢はなかった。
魔皇は緊箍児めいた呪具の装着を、ただ悄然と受諾する。
なおこの様を眺めて、
「オショウ様と魔皇様、なんだか仲がよろしくていらっしゃいますわ。そういえば殿方って、拳で語らって友情を深めるのでしたわね」
などと評した娘がいた事を付記しておく。
「そういうんじゃねぇよ」と思う者がなくもなかったが、賢明にも、誰も口にはしなかった。
*
イツォルが意識を取り戻したのは、やわらかな寝台の上でだった。
目に映る天井には見覚えがある。自らが横たわるのは、カヌカ祈祷拠点で私室として割り当てられたひと部屋だ。そのままぼんやりと瞬きを繰り返すうち、思考が覚醒した。
最後の記憶は、振るわれる寸前の魔皇の拳だ。
その直撃を自分は受けて、それから、どうなった──?
「カナタ!」
跳ね起きようとした肩を、やんわりと制した腕がある。
はっと視線を動かせば、どうして気づかなかったのかと思うほど近くに、彼がいた。
「大丈夫。大丈夫だよ、イっちゃん。もう終わったんだ」
優しい声音で囁いて、カナタはそっと髪を撫でる。
言葉の意味よりも彼の温度に安堵して、イツォルは体の力を抜いた。
もう一度目を閉じて、深く息を吸い、吐く。少しずつ各所を動かして自分の体の様子を探る。どうやら腕の良い霊術師の施療をうけたようだった。痛みはどこにもない。
「……あれから、どうなったの?」
どうしても、先の光景より後が思い出せなかった。
足りない言葉で尋ねると、カナタは汲み取って頷く。
「あれからアプサラスのケイトさんと、テラのオショウさんが駆けつけてくれてね。あ、その前にイっちゃん、喉渇いてたりしない? お腹は?」
「大丈夫だから。先に聞かせて」
そうして彼女が知ったのは、荒唐無稽の顛末だった。
あの魔皇を、あれだけの力量を誇った魔皇を、ただ一方的に殴り倒した人間がいるなど正直信じがたい。だが間違いなく魔皇は現在、この拠点の虜囚であるらしかった。カナタが語ったのでなければ、鼻で笑い飛ばすような物語だ。
更にイツォルの目を丸くさせたのは、続けてカナタが語った計画だ。彼らはこれより三国を説得し、魔族をひとつの国家として認めさせた上で共存を目指す所存なのだという。
「本気?」
「本気だよ。魔皇を殺したって、それはただの問題の先送りだって気がついた。あとね、思ったんだ。実らないかもしれなくても、僕たちは僕たちなりに、精一杯頑張っておくべきじゃないかって。自分の時代とその少し先に責任を負うのは、自分たちであるべきだしね」
「……ん」
「夢みたいな話だって自覚はしてる。でも勝算がないわけじゃ……」
「カナタ」
悪戯の言い訳めいてきた彼の言葉を、人差し指を唇に押し当てる事でイツォルは遮る。
「カナタが一生懸命にする事を、私は笑ったりしない」
カナタは束の間顔をほころばせ、しかし次の瞬間、胸の刺に気づいたように俯いた。
「イっちゃん」
「はい」
「少し、聞いてもらっていいかな」
「どうぞ」
目を閉じて、カナタは自分の中の本当を探すようだった。
やがてため息のように、「自惚れてたんだ」と呟く。
「自分は強いって勘違いしてた。でも足りなかったんだ。全然足りてなかった。実力だけじゃない。知識も、見識も、経験も、判断も。何もかもが不足してた。それを思い知った。オショウさんは強かったよ。物凄く強かった。僕もあんなふうにイっちゃんを助けられたらよかったんだけど、でもできなかった。ごめん」
咄嗟に告げかけた慰めは、イツォルの喉の奥で凝固した。
きつくきつく握り締めて震える、彼の拳を見てしまったから。
「色んな意味で、僕は強くなりたい。大人になりたい。もっと沢山の選択肢を手に入れたい。牙がなくて噛めないのと、敢えて噛まないのと。しないって状況は同じでも、その重みは絶対に違うと思うから」
語るカナタの横顔は、イツォルの知らない芯を秘めていた。
男の子はいきなり大人になってしまうのだと、置いて行かれたような気持ちで思う。
「だからこの事を国に報告したら、僕は魔皇についていこうって決めたんだ。きっと魔族は大樹界を拓く事になる。色々と大変だろうけど、そこで僕は自分に足りないものを得られるって思う。えと、それでなんだけどね、イっちゃん」
「ん」
カナタはイツォルを見、それから膝の上の自分の手を見た。
幾往復か同じ視線の移動を繰り返し、とうとう決心をして、ダンスに誘うように手を伸べた。
「こんな未熟者の僕だけど、一緒に来てくれませんか。これからも傍にいてくれませんか」
「……」
「魔皇の近くとか嫌だろうし、樹界で暮らす以上不便もかけちゃうと思う。でも……」
言いが途切れたのは、イツォルが頭から布団を被ってしまったからだ。
けれど「フラれたかな」と悄気るより早く、
「一緒なんて、そんなの当たり前。だってカナタだけよりも、わたしとカナタの方が強いもの」
気恥ずかしげに上掛けから出たイツォルの手が、おずおずとカナタの手のひらと重なる。
やがて、熱っぽく指が絡んだ。
*
「なあミカ公」
「何かね?」
「おかしくねェ? なんでお前がぴんぴんしてて、オレは寝台に縛り付けられてんだ? 絶対おかしくねェ?」
「少しもおかしな事はない。私はウィリアムズ君に綺麗さっぱり治してもらったが、君は未だ片腕のない重傷者だ。その様で祝い酒を煽りに行こうなど言語道断だろう。安静にしていたまえ」
クソが、とセレストは吐き捨てて、自分のベッドに転がり直す。
どう足掻いてもお目付け役気取りの弓使いは出し抜けそうになかった。祈祷拠点で催されている祝勝の宴に混ざるのは、諦めるよりなさそうだ。
呑みながら手柄を語り倒さねば魔皇を打ち倒した甲斐などないに等しいというのに、この堅物にはそこらの機微が理解できないのだ。
「よしミカ公。お前責任取って一人でアーダルに帰れ。報告は任す。オレは先にアプサラス行って腕生やすわ」
腹立ち紛れで言い放った。
医療都市の儀式霊術であれば四肢の再生も可能だと、ケイトから伝え聞いている。七面倒なお偉方への報告を相棒に押し付けて、自分はのうのうと小旅行を決め込むつもりだった。
「こちらの生殺与奪を握ったつもりの彼らの肝を、この機に夕涼みさせてやるのではなかったのかね?」
「そいつはやめだ。おっさんやら爺さんやらが脂汗流すのを眺めたって、食欲が失せるばっかりだ」
「やれやれ、いつも通り大雑把な事だ。だが君がアプサラスに同行するというのは賛成だよ。オショウ君は大変な豪傑で、ウィリアムズ君の実力も十二分と見えるが、揃ってどうにも危なっかしい」
「お前、ほんっとに見る目がねェな。あの二人はあれでかっつり釣り合いが取れてんだよ。そんなだからお前はその年になっても──」
セレストの悪口の最中、唐突に部屋のドアが開いた。
扉を開け放ったのは、ミカエラの腰ほどの背丈の少女である。彼女は二人の姿を認めるなりぱっと顔を輝かせ、ゆるくウェーブのかかった長い髪を揺らしながら、ぱたぱたとセレストの枕元に駆け寄った。
何やら親しげに振る舞う闖入者を彼はしげしげと睨めつけて、
「なんだこのチビっこは。迷子か? 親ァどこだよ」
「!?」
「待ちたまえ。何を言ってるんだ、君は」
「お前こそ何言ってんだ、ミカ公。ああアレか、ひょっとしてこいつ、お前の隠し子か」
「!!??」
「つまらない冗談はやめたまえ。ネス君が涙目になっているじゃないか」
「……あん?」
セレストの指が少女を示し、「これが?」と目線でミカエラに問いかける。
「いやネス公ってのはもっと硬くてデカくて鎧っぽいヤツだろう」
「その中身だ! 阿呆なのか、君は!」
語気も荒く近寄ると、ミカエラはうやうやしく少女に傅いた。
「この御方はネスフィリナ・アーダル・ペトペ。カイユ・カダイン直系血族にしてアーダルの第三王女殿下にあらせられるぞ」
「は? ネス公が? 嘘だろ? てかそういう大事な事は早く言えよ。オレ、ネス公の前で王族の悪口をさんざ大盤振る舞いしちまってるぜ」
「言ったろう! 一番最初に言ったろう!」
「悪ィ、じゃあ多分聞き流してたわ」
「……つまり君は無礼ではなく、ただひたすらに大雑把なだけだったのだな」
本気で頭を抱えたミカエラに「すまんすまん」と口だけで詫び、セレストは今度こそ真面目に頭を働かせる。
「……うし、大体把握した。つまりあれだな。皇禍用の戦力として王族を選出したのはいいものの、他の国にバレれりゃあ厄介の種になるから基本甲冑に隠れてたってな話だな? オレの無礼を一々咎めねェのも、お供のお前が『ネス君』呼ばわりすんのも、作法に則って接すりゃ悪目立ちするからって寸法か」
「そうだ。横紙破りであろうとも我々の助太刀をしたいという、殿下のたっての希望だったのだ。でなければどうして旅の仲間が、ここまで頑なに顔を見せないと思うのだね」
「いや、フツーに嫌われてんのかと」
「!!!!????」
「おう、わかった。わかったって。オレが悪かった。そんな力一杯否定しなくてもわかったっつーの」
服の裾をぎゅうっと掴んだ幼子に全力で首を左右に振られては、流石のセレストもたじたじだ。あやすように、もしくは誤魔化すように頭を撫でてやると、ネスはそれでぴたりと大人しくなる。
子供あしらいの駄目な彼はほっと安堵して枕元を漁り、
「飴舐めるか、飴?」
「!!」
相変わらず敬意の欠片もない霊術師と屈託ない笑顔で両手を差し出す姫君とを交互に眺めやりながら、「この男のどこをお気に召したものやら」と、ミカエラは深く嘆息した。
*
魔皇封じの障壁が執行完了するまでラーフラに随伴し、その後祈祷拠点外壁の損壊についてエイシズに詫び、けれど祝賀の宴を固辞して割り当ての自室へとオショウが向かった理由は、至極単純だった。
物言いたげなケイトが、彼の後を雛鳥の如くついて回っていたからである。
ならば折り入った話があるのだろうと部屋に招いたもの、しかし卓を挟んで向かい合っても、彼女はいっかな口を開かない。
促す手管があるはずもなくオショウが困り果てていると、そこでようやくにして彼女が動いた。テーブル越しに腕を伸ばし、指先で袖を摘んでちょいちょいと引く。
「あの、オショウ様」
「うむ?」
「わたくし、とても身勝手な振る舞いをしました。……やっぱり怒ってらっしゃいますわよね?」
「うむ」
オショウはきっぱりと頷き、途端ケイトが消沈したのを見て、「いや」と言を翻した。
「今、お気遣いくださいました?」
「……うむ」
「もうっ」
嘘のつけない様子にケイトは頬を膨らませ、それで緊張が緩んでふわりと笑う。
「とにかく、ですわ。わたくし、その件については大変反省していますの。もしオショウ様が駆けつけてくださらなかったら、わたくしの傲慢が大惨事を引き起こしていたところでした。オショウ様へのお詫びとお礼は、いくらしても足りるものではないと思います。なので!」
勢い込んで身を乗り出し、袖を離したケイトは卓を両手でばんと叩いた。
「お望みのものをなんなりとお申し付けくださいませ。わたくしに出来る事ならば、なんだってさせていただきますわ」
一大決心を告げる風情である。
真剣勝負のような瞳で告げられ、オショウは「ふむ」と顎を撫でた。
「なんなりと、か」
「な、なんなりと、ですわ」
頬を染めるケイトを他所に、オショウはしばし考える。
が、そもそもからして欲の多い気質ではない。答えはするりと見つかった。
「ではあの茶を一杯、所望したい」
「……お茶、ですの?」
「うむ」
肩透かしされたようなケイトの言いに軽く頷き、
「未だ十数年余の生だ。さして美味を知る舌ではない。だがあれは俺の記憶の中で、一等美味い茶であった」
世辞も嘘偽りもない、実に正直な気持ちだった。
味覚的な楽しみに拘泥するのは初めての事である。
「え……? えっ!?」
「……む?」
しかしながら、ケイトの反応がどうにも奇妙だ。
途方もない衝撃を受けたかのように上体をふらつかせ、白昼横行する竜を、到底信じがたいものを目撃した顔で口をぱくつかせている。
──覚悟しておりましたけれど! わたくしよりずぅっと年上は覚悟しておりましたけれど、と、年下!? まさかの年下ですの!?
彼女の動揺の正体は、無論ながらこれである。
そういえば、とケイトは思い返した。
時にひどく稚くて弟のように感じられる、だなんて。
そんな印象を、この人に対して抱いた事がある。でもまさかそれが正鵠だったとは、予想の埒外にも程があるというものだ。
椅子から滑り落ちそうな彼女を支えたのは、最前こっそりとかけられた激励だった。
「あのオショウさんってのは、朴念仁だがいい男だ。頑張んな」
アプサラスでの治療を勧めた際、アーダルの霊術師は礼とばかりにそう囁いたのだ。
その折は「わかりかねます! 何の事だか全っ然わかりかねますわ!」と完璧にとぼけておいたのだけれども、もしかしたらこここそがその頑張りどころ、踏ん張りどころであるのかもしれない。
思い定めたケイトはぐっと姿勢を持ち直し、
「はい。お茶については承りましたわ。でもとりあえずそれは一先ずといたしまして、今後の事、そう、今後の事をお話しましょう」
「うむ」
「オショウ様には、しばらくラーフラ様についていただく事になると思います。魔皇に勝る人間がオショウ様以外にいるとは思いませんけれど、でももしもの時は、あの方を守ってあげてくださいましね」
「うむ」
「それから呪具を作って環境を整えて、やる事はあれこれと山積みですわ。だけどお話したいのは、更にその先の事なのです」
「うむ」
手を組んで、ケイトは大きく深呼吸する。
大丈夫。驚きの残響は否定できないけれど、自分はもう冷静だ。ちゃんと、落ち着いて話ができる。
「以前、オショウ様の今後は国が引き受けると申しましたわよね。あの時はわたくし、ラーフラ様共々いなくなっているつもりでしたの。でもオショウ様のお陰で、無事長らえる事ができました。こうして生き延びた以上、オショウ様の後見は召喚主たるわたくしが務めるのが筋と思います。……ですから、その、全部が片付いたら、わたくしのうちにいらっしゃいませんか?」
言い終えたら急に恥ずかしさが募って、ケイトはつい俯いた。
それでも反応は知りたくて、ちらちらと上目遣いにオショウの様子を確める。
「……俺は」
「はい!」
「俺のこの手は、拳を作る以外を知らぬ手だ。ケイトの郷里を訪ったとて、何の用も成さぬやも知れぬ。それでも、厄介になって良いものだろうか」
戸惑うようなオショウの言いには一種の弱気すら漂って、この方にも自信のない事があるのですわねと、ついケイトは噴き出してしまう。
少々不満げな目つきをされたが、それすらも愛らしかった。やはり彼は、故郷の大きな草食動物を連想させる瞳をしている。
顔を上げて、ケイトは真っ向からオショウを見つめた。
「そういえばオショウ様は、ご自身がお出来になるのは戦う事だけと仰っていらっしゃいましたわね」
「うむ」
聞かれていたかと、彼は決まり悪げに身動ぎをする。
「それなら教えて差し上げます。ええ。わたくしが手ずから、野良仕事というものを教えて差し上げますわ。覚悟してくださいましね。パケレパケレの世話は、魔皇と殴り合うよりよっぽどに大変ですわよ?」
ケイトの大仰な物言いに、オショウもまた笑みで応じる。
地に足をつけた生き様は随分と難しく、そして好ましいように思えた。
「だけど暮らし心地は保証いたしますわ。だって、愛しいわたくしの故郷ですもの。オショウ様もきっと好きになってくださると思います。あ、母も弟も他の方々も、是非に紹介させてくださいませ。皆いい人ばかりですから、すぐ親しめるはずですの。それでうちがオショウ様のふたつめの故郷のようになれたら、わたくし、とっても嬉しいですわ!」
ぱん、と胸の前で手を打ち鳴らし、そこでケイトは我に返った。
またしても、である。未来の展望に浮かれるあまり、自分の願望だけを語ってしまった。自分の気持ちばかりを押し付けてしまった。
何より決して帰れぬオショウに対し、故郷云々の物言いは如何にも無神経だ。二重の意味で顔から火が出る思いだった。
自責からしゅんと目を伏せ、ケイトは声を弱くする。
「……いけません。わたくし先走りました。ええ、先走り過ぎですわ。勿論全部オショウ様さえよろしければ、オショウ様がそうお望みくださるのでしたらの話ですのよ」
「うむ」
「それであの……い、いかがですかしら?」
精一杯の問いを受け、オショウは静かに、己の手のひらに目を落とした。
握り、開き、ゆっくりとまた握る。
「──うむ」
返答は例の如く、足りぬほどに短い。
けれどそこに同意と含羞とを汲み取って、ケイトはどこにでもいる、幸福な少女の顔で微笑んだ。




