不思議噺 すずころ 其の六
今年も暑い日が続いたが、不思議な事にほんの少しだが、お盆にはうだるほどの暑さが和らいだ。
保坂のお兄さんは、久しぶりに散歩がてら、鈴虫が鳴きながら待っている空き地にやって来た。
鈴虫は〝リンリン〟と心地よい声で鳴いている。
「鈴虫が鳴いているのね……」
お兄さんは一人の初老の女性に声をかけられて、そちらに顔を向けた。
「本当に綺麗な音……こんなに綺麗な音を出せるのは、ひと夏に一匹か二匹……」
「そうです……どうして此方へ?」
本田さんとは、この空き地の持ち主だった牧野さんの娘さんで、一度だけ会った事があった。
静岡にお嫁に行ったが、牧野さんが亡くなってから、暫くは独り暮らしをしていたお母さんを、心配して引き取り最後まで面倒を見たそうだ。
「この辺は何処でもよく鳴いてましたけど、父が上手に孵らせては、毎年知り合いに持っていくのを楽しみとしていました」
「ああ……」
「母が亡くなってから、幾度か片付けに来たけれど、随分変わってしまったわ。もう虫の音なんて、あんまり聞けないんじゃない?此処は畑があるから別だろうけど……」
「ええ。もう鈴虫の声なんてほとんど聞くことないですよ」
「なんだか寂しいわねー」
「寂しいですよ」
「ここね、不思議といつ家を壊して更地にしたのか記憶にないんです。まあ全て不動産屋さんに、任せてたから当然だけど。そんなに急いでいたわけじゃないんだけど、此処に戻って来る事は絶対にないので、不動産屋さんに勧められるままに、売りに出していたけど全然売れなかったのに、今回はトントン拍子で本当に不思議」
本田さんはそう言うと笑った。
静岡でお店を営んでいるのだが、今迄順調に店を切り盛りしてきていたのに、なんの前触れというか、前兆というか、兎に角そんなものが一切無く、取り引き先が原因で、急に店が危なくなってしまった。
今迄順調だった為、金策に当たればどうにかなると思っていたが、思惑はことごとく外れ、どうしようもない所まで追い込まれたが、不思議な事に十数年不動産屋に依頼していても、一向に買い手がつかない為に、もはや諦めて期待もしていなかったこの土地を、買ってもいいという人を、金策に回った先の親戚から聞いた遠縁が見つけてくれたという。
藁をも掴む思いでその遠縁に連絡をすると、あれよと言う間に話が進んで売る事ができた。
不思議に思う暇も無く店の事で忙しくしていたが、再び不思議な事に、今迄立ちいかなくなっていたのは、なんだったのだろうと思う程に、土地のお金が入ってきてからは、以前以上に店の経営が良くなった。
「まるで狐につままれたようだー」
と、本田さんは言い
「笑われちゃうかもしれないんだけど……。私、鈴虫の夢見たの」
と言った。
「はあ……鈴虫……ですか……」
「可笑しいので気にしないで。だけど、こうして鈴虫の声を聞きながら貴方といると、話した方がいいように思えてきたの……」
土地が順調に売れ、店の資金繰りが上手くいくようになってから、本田さんは居るはずのない鈴虫の声を、一眠りした頃に聞いた。
夢の中なのに、どして鈴虫が鳴いているのだろうーと思っている自分が不思議に思えた。
本田さんが今住んで居る所では、ずっと以前から鈴虫の声は聞こえなかったのだ。
鈴虫はー。たぶん〝鈴転〟だと、お兄さんは思った。
「昔私達は貴女のお父さんに連れてこられ、大事にはして頂いたが、故郷の仲間を懐かしむ事ばかりだった。何時の頃か故郷の仲間達が住処を追いやられ、とうとう死に絶えてしまった。微かに血筋を残したのが、産まれた住処からいろいろな人間に連れ行かれ、上手に産み孵された、ほんのわずかなもの達だけになってしまった。何よりこの畑はこの先決して売らぬと、ぬし様と約束された特別の地、その畑に放してもらったので、毎年他のもの達よりも心地よく安心して鳴く事ができて、本当にありがたく感謝している。またこの草叢に仲間を呼び戻し、我々を大事にしてくれる者に、この地を守っていって貰う事が叶ったので、此れからは恩返しをしていくつもりでいるので、安心して毎日を暮らして欲しい」
と語ったという。
「ははは……可笑しいでしょ?でも、なぜだか気になっちゃって、家を建てると聞いていたので、その前に来てみたの。家が沢山建って此の辺は変わってしまったけど、此の裏は規模は小さくなっちゃったけど、未だに畑が残っているのね」
「ええー。鈴虫にはまだいい環境ですよ。今では公園ですら、鈴虫の鳴き声が聞こえない時代だから……。僕も不思議な事があったんです」
「え?」
「この土地を買うまでに……」
お兄さんは本田さんに鈴転の話をした。
話をしながら、お兄さんも本田さんも不思議な気持ちになった。
怖いとか不気味とか……。そんなものではなくて、心が癒されるというか、温かくなる不思議な気持ちだ。
そして、きっと鈴転が、護ってくれる……そんな気持ちになるものだった。