不思議噺 すずころ 其の一
家の門を出て右手に進むと坂がある。その坂を下り終えて右手にずっと進むと、小学生の頃から空き地だった、ちょっと広めの空き地がある。
その先のスーパーまでの道すがら
「ここの家を壊したのは、何時だったかしら……?」
と、母親は前を通る度に言う。
母親は此処で産まれて育ったわけではい。
父親が早死にするまでは、別の所で生まれ育った。
若くして未亡人になった祖母は、母親を育てる為に東京で働いていたが、母親が成人して働いていた頃に、年老いた両親を見る為に曾祖父が建てた此の家に、一人娘の祖母が入って最後まで面倒を見たから、今こうして此処に住んでいるというわけだが、幼い頃から祖母に連れられて来る事が多かったのだろう、生まれ育っていないとはいえ、母親は意外と此の辺りの〝昔〟を知っている。
「小学生の頃から空き地だった」
と、圭吾が言うと
「……そうそう確かに……じゃあ、牧野さんは何時亡くなったのかしら?」
牧野さんとは、此の空き地の住人だった人の名前のようだ。
その牧野さんの名前も顔も覚えているのに、何時頃亡くなって家を壊したのか、全く記憶にないという。
「う……ん。気持ち悪い!思い出せない」
と何時も言う。
今でも牧野さんの、おじいさんとおばあさんの事はよく覚えていて。
おじいさんが先に亡くなって、気の良いおばあさんが一人で八十を超えるまで元気でいて、八十を幾つか越した頃、とうとう一人で居させるのは心配だという、静岡に住む一人娘さんに説得されて、渋々行ってしまった事まで覚えているのに、家を壊して更地にした事だけが、どうしても思い出せないのは、不思議というしか言いようがないという。
そんな曰く付きの空き地に「家を建てる」と、友人の保坂から聞いたのは、五月の子どもの日の事だった。
子どもの日は、圭吾が小さい時には余り大きくない鯉のぼりが三匹(お父さん鯉とお母さん鯉と子ども鯉ーと母親に教えられた)曽祖父が、山から掘って持ち帰って植えたという椿の木の横に建てたポールに、泳いだものだったが、小学校の中学年の時には、鯉のぼりの姿を見る事がなくってしまっていた。
圭吾が大きくなった為に鯉のぼりが泳がなくなったのか、母親が面倒臭いからと泳がなくなったのかは定かではないが、余り見かける事のなかったコンパクトな兜がケースに入って、お雛様のケースの脇に置かれているのを思うと、後者の理由が有力なのはいうまでもない。
お雛様の隣に置かれた兜の入ったケースを眺めながら、いえもりさまと柏餅を食べていると、中学の二年と三年で一緒だった奴らに呼び出され、久々に会って数人でカラオケに行った時に保坂もいて、マイクを手放さない奴らの歌を聞いていると〝歌わない〟仲間の保坂とは、必然的に隣り合わせとなった。
「ええええ?彼処か?」
「……たぶん彼処だ」
気持ちよく歌っている奴らを尻目に、隅っこでちょっと盛り上がる〝歌わない〟仲間二人。
「いやいや待て待て。坂下ってスーパー行く迄にある?」
「奥に大森さんの畑がまだ残ってる……」
「ああ、彼処だ」
「そう……彼処だ」
保坂と圭吾は、異口同音でそう言うと頷き合った。
「……そうか……彼処売り出してたのか?」
「……なんか……なんか有り気な言い方じゃね?」
「いやいや……ずっと空き地だったし、売り出してたの知らなかったし……」
「いやいや……みんなそう言うんだよね」
「えっ?」
「彼処に家を建てる話しすっと、みんなそう言うんだよね。……なんか誰も売りに出てたの知らないらしいんだよね」
「ええ?まじで?……っても、俺が知ってる限り空き地だし、売出し中みたいなもんなかったぜ」
圭吾がそう言うと、保坂はちょっとトーンを下げて言った。
「彼処って、親父と兄貴が買って家を建てる事になったんだが……ちょっと不思議な事があってさ」
「不思議な事?」
「ああ……」
保坂はそう言うと、少し言うのを躊躇ったが、それでも誰かに話を聞いて欲しいのだろう、ウーロン茶を飲みながら圭吾をじっと見た。
音楽が変わり、カラオケ大好き人間の川辺がマイクを手に、ノリノリで得意な歌を披露し始めていた。