花見の頃 夜桜の宴 其の三
家の先の坂を下ってほんの少し直進すると、再び登り坂に差し掛かる。
その登り坂を暫く登っていくと、平らな道路が続くー。ように思うのだが、実の所まだほんの少し道は傾いていて、右に折れれば上り、左に折れれば下り、そのまま直進すれば、微かな登り坂になっている。
この傾きは、本当に微かなので、歩いている分にはわからない。だが、自転車を漕いでみると、ペダルの重さと、ほんのわずかな息の切れ方で、もしかしたら坂になっているのかと、思い当たるのだ。
そんな自覚を持ちながら、住宅街と商店街を抜けて行くと、観音堂のある公園へと辿り着く。
自転車に乗れるようになるまでは、仲の良い友達とその母親と、車に乗り合わせて遊びに来ていたが、小学校へ上がり、自転車に乗れるようになると、よく母親とサイクリングがてら、この公園まで遊びに来たものだ。
中学、高校になると公園内にある体育館に、バスケット仲間で練習にかこつけて、遊びに来ていて、今でもその仲間達と、年に数回はバスケットをしに来ている。
そんな幼い頃から馴染み深い公園だが、花見の記憶は圭吾には余りない。記憶能力に乏しい為か、そんなに此処ではしなかったのか、はたまた母親が花見をしないタイプだったのか……。
こんな有様だから当然の事ながら、夜の花見などした試しがない。
そんな圭吾の〝初夜桜〟が、またまた不思議な〝もの達〟とする事になろうとは……。
いえもりさまご所望の酒は、二十歳を過ぎている友ちゃんが用意してくれた。
考えてみれば、未成年の圭吾が今までよく買えたものだ。
代々酒屋さんと付き合いがあった賜物か、酒屋さんがぬし様に理解があったからか、やはり不思議なものの力技かー。
とにかく圭吾は酒の代わりに、竹林堂の苺の大福をしこたま買い込んで、いえもりさまを喜ばせた。
〝不思議なもの達〟からのお誘いは夜中が多い。
ベッドに横たわっていると、段々目頭が重くなってくる。寝てはいけないと自分に言い聞かせるが、食べる事の次に寝る事が好きだから、こんなに大きく成長したのだー。などと考えながらまどろんでしまった。
「けいちゃん」
「若……」
友ちゃんといえもりさまに起こされて目を開けると、月明かりに照らし出された、見事な桜の大木の美しい花が目の前にパーっと広がった。
「すげえ」
圭吾は一瞬にして目が覚めて飛び起きた。
「ライトアップされてないのに見事だわ」
はっきり写し出されない桜は、うっすらと暗闇に浮かぶように眼前にあって、それでいて不思議と桜色の花びらの色までが解るようだ。
「元々夜の桜は、月明かりや提灯の灯りで愛でて楽しむものでござりますゆえ、月明かりに浮かぶ桜が一番美しいのでござります」
いえもりさまの言葉に大きく納得して、圭吾ははたと友ちゃんを見た。
「思わず寝ちゃったのに、どうやって此処へ?」
「今日は観音様のお招きゆえ、お導きいただきましてござりまする」
「……」
圭吾が理解できずにいると
「俺もベッドでスマホいじっていたら……此処に居た」
「すげえ」
「はは……すげえ事ばかりだなぁ」
穏やかな性格の友ちゃんは、吃驚する様子もなく、只々楽しそうに感心するばかりだ。
「おや?目が覚めたようだな?」
「これはこれは観音様」
側に居たいえもりさまとがま殿が、恐縮しきって頭を下げた。
「観音様だ」
異口同音、圭吾と友ちゃんは言った。
観音様は神々すぎる程に神々しくて、無知な圭吾ですら知っているお姿で桜の大木の側に立っていた。
「あっ、すみません……」
何がすまないのか定かではないが、流石の圭吾ですら、思わず失礼を詫びてしまう程の神々しさだ。
「よいよい。変わらずの様子に喜ばしい。近年では変わりゆくばかりで寂しさを覚える。この堂に参る者は絶たぬが、以前のような心持ちで参ってくれる者がどれ程おるものか……もはや、我が姿を見れる者もおらぬし、信じて望む者もおらぬ」
観音様は憂いをおびるように言った。
「この桜は私が此方の堂に移された折、村人が祝いにと植えたものゆえ、かなりの時を共に過ごして参り、木霊となりこの地を護っておる」
「だから、見事なんですね」
友ちゃんが見惚れるように言うと
「お前は以前からこの木霊に気に入られて、よくここに呼ばれ私とも逢うたのだ」
観音様は驚いている友ちゃんに続けて言った。
「決して悪さなどせぬー反対に護ってやりたいのだ。是非とも時折は此処に立ち寄り、話でもしてやってはくれまいか」
友ちゃんは桜の幹に手をやった。
「以前会った事があるね……」
「覚えておいでで?」
「俺が精霊がいるのを信じたのは、その時だもの忘れる訳がない……ただそれが君だとは、わからなかったよ」
「覚えておいでくださり、これ以上の喜びはありません。私はかの昔のように自由に動く事ができなくなりました。どうか時折お姿をお見せくださりませ」
「えっ?病気なの?」
「いえ……時が移り世が変わり過ぎてしまいました。最早以前のような生気を得る術もないのです。この世の全てのものが、少しづつ穢れてしまいました。私達の住まう処、生を受ける処が少しづつ失われており、私の力も徐々に失われておるのです」
「そういえば、此の辺りも随分変わったもんな。自然は崩され住宅やマンション、スーパーやコンビニにホームセンターが増えちゃったもんな」
「若……確かにさようにござります。我々のみならず、小さき生き物達も、生きる術がござらぬのでござりまする」
それはよく懐古主義な母親が嘆いている事で、今迄は聞くのがウザいだけの事だったが、いえもりさまと知り合ってからの圭吾は、少しだけど考えが変わってきていて、危惧する気持ちも理解できるようになってきた。