初花月 いえもりさまの謀 其の七
試験を終え、やっと休みになった頃、母親は午前から恵方巻きの買い出しに忙しくしていた。
「恵方巻きの日か?」
何故だか母親は恵方巻きが大好きだ。
母親と恵方巻きの出会いは数年前。まださほど騒がれていない時だったが、今では仕掛け人といわれているコンビニで、運命の出会いを果たしてしまった。
とりわけ以前より、サラダ巻きが大好きな母親は、〝恵方巻き〟という初めて聞くその言葉よりも、サラダ巻き目当てで手にしたが、表紙に方位◯◯を向き、誰とも話さずに食べきるー。という言葉に興味を抱き、まだばあちゃんが元気な頃だったので、ばあちゃんの食べきれる大きさの、小さい海苔巻きと、大好きなサラダ巻きと、これも興味惹かれる海鮮巻きなるもを、何本か買って来て、書かれている通りの方向を向いて、ばあちゃんと黙々と昼に食べたのが始まりだが、もともと大好きなサラダ巻きだから、とても有り難く美味しく思えたのだろう。
それからというもの、サラダ巻きもだが、海鮮巻きの魅力に取り憑かれてしまった。
だから恵方巻きの日には、コンビニ、スーパー、すし屋の前で売っているもを、サラダ巻きや海鮮巻きをはじめとし、目新しいものからシンプルな巻き寿司まで、はしごして大量に買って来て、昼、そして夕飯に食べるのだ。
無論決められた方位を向いて、黙って黙々と食べ切らねばならないが、殆どがハーフタイプだから、苦もなくあっと言う間に食べ終わる。
恵方巻きが済むと、毎年この時だけ駆り出され、猫が豆まきの真似事をさせられる。といっても、母親が一匹を抱いて、「鬼は外、福は内」と豆を蒔いて歩くのだが、抱かれて豆撒きの真似事をさせられる猫が堪らない。途中で引っ掻いて逃げられ、結局は母親が豆撒きをするのが落ちだが、それでも毎年猫にお鉢が回ってくる。
そんな事馬鹿馬鹿しくて、圭吾がやらなくなった小学校の中学年からだ。
節分は昼間庭にある柊の枝を切って、玄関に刺して紐で縛る。
鰯の頭を柊と一緒に刺すというが、母親は頭を刺すのが嫌いらしく、柊だけを刺している。
だから夕方帰ってくると、緑色の柊が玄関にあって、それを見ると恵方巻きと猫の豆撒きを思い出すのだ。
今年も滞りなく、猫に引っ掻かれ豆撒きを済ませて、残りの豆を歳の分だけ食べていると
「私手話を覚えようと思うのよ」
母親が何時ものように、突拍子もないことを言い出した。
「……またまたなんで?」
「覚えておくと便利だと思ってね」
「……」
無視して豆を食べていると
「真鈴ちゃんどう思う?」
畳み掛けるように言うのは、この人の性分だ。なんとも面倒な……。
「どう……って?」
「いや、前から可愛い娘だと思ってたのよ」
最近は、ライン友達なるものが増えたらしく、その一人に三上真鈴もいて、何やら楽しくやっているのは知っている。
何せいちいち報告してくるから、知りたくなくても知ってしまう。
母親は女の子が欲しかったらしく、圭吾が男の子だったのを看護婦さんから聞いて、涙が引っ込んだという話は、聞き飽きる程聞かされているが、それは事実だろうと最近思うようになった。何故なら、三上真鈴とのラインのやり取りが、とても楽しそうにしているからだ。
それを聞かされている限りでも、えらくお気に入りなのは十分わかる。
圭吾は相変わらずの素っ気なさで
「あっそ」
としか言いようがない。
「あっそーじゃなくて、いい子だと思わない?」
「うん、まあ思うけど」
「でしょ?圭吾も一緒に覚えようよ」
母親は表情を明るくして言った。
「なにを?」
「だから手話だってば」
「なんで?」
「真鈴ちゃんと手話で話せたらよくない?」
意味わかんねえよー。
圭吾は辟易として、もっと素っ気なく言った。
「ーじゃ、ひとりでやれば?」
「えー?私は三上さんに教えてもらうんだけどね……」
「あっそー 頑張って」
「じゃなくて……」
「俺はいいから」
「えー」
「えーじゃねえよ。なんで俺……」
圭吾は少し考えこんで
「とにかく、やらんから」
立ち上がると居間を出て部屋に向かった。
またまたおかんまで、ぜってー変だからー。
「いえもりさま?いえもりさまー」
部屋に入るなり、いえもりさまを呼びながら、天井を見回すが、いえもりさまの姿はなかった。
「チッ。まだ拗ねてんのかよ」
そう言いながら、圭吾は無造作にベットに倒れこんだ。
「まったくー」
手にしていた輪ゴムを指に絡めて、思いっきり放った。
ピシ!天井に輪ゴムが音を立てて当たった。
落ちて来た輪ゴムを拾うと、再び指鉄砲にして放つ。
以前こうして指鉄砲をやっていて、いえもりさまを気絶させた事があるのを思い出した。
確かあの時は、何処かへ行っていたような……?
はて?何処だったろうか?
思い出しそうだが、思い出せない。あれやこれや考えているうちに、面倒臭くなってしまった。
「くそー」
母親といいー。大石といいー。
いやいや、今のこの現状が絶対〝変〟だー。
なんだか、入りたくないのに、知らない内に出口のわからない、輪の中に入って、ぐるぐる何かに回されている感じだ。
それを知りたいのに、いえもりさまが居ない。
それがまた〝変〟なのだ。