不思議噺 あやかし病院へようこそ2 其の二
角田珠香が入社して翌年、上司の内宮と不倫の関係となった。
いけない事だと分かっていても、大学を卒業してやっと仕事に慣れた頃、いつも優しくしてくれる、年上で頼り甲斐のある落ち着いていて、仕事ができる内宮に尊敬と恋愛感情を持ってしまった。
珠香には、早くに両親が離婚した為父がいなかった。
初めの頃は父ともよく会っていたが、父が再婚したので会う事が段々とできなくなった。
そんな経緯があるから、珠香は年上の男性に惹かれる傾向にある。
高校を卒業する頃に母が再婚したので、大学の近くにアパートを借りて住むようになり、そのまま就職したら、会社の側にアパートを借りて住んだ。
そして三年間不倫の関係は続いたが、ご多聞に漏れず相手の妻に知られる事となって別れる事になった。
そのゴタゴタで眠れない日々が続いた為、珠香は会社で倒れて救急車で、救急病院に運ばれた。
入院はしたものの、単なる貧血と疲労という事で、明日には退院していいと医者には言われたが、その時初めて妊娠している事を告げられた。
珠香が別れたくなくて、ゴタゴタと揉めたのだが、相手は然程思ってはいなかった様で、あっさりと家庭の為に別れると告げ、泣いて縋る珠香を簡単に捨てた。
ただそれだけだ。
会社で顔を合わせる事があっても顔色一つ変える事無く、今までとはうって変わって疎んじられ、初めて優しいと信じた自分が馬鹿であった事を知った。
それでも何度か話し合いを持ちたいと迫ったが、最早相手にもして貰えなかった。
そして当然の事ながら、珠香が会社を辞める事になった。
そんな相手だから、シングルマザーになる勇気も根性も無い。
明日退院というのに、ベッドの上に半身を起こした珠香は、それは大きなため息を吐いた。
……なんて私は、馬鹿なんだろう……
母に相談する訳にもいかずに、途方に暮れた。
「あのー」
病室のカーテンが微かに動いた。
ここは一般病棟の四人部屋。
カーテンで仕切られ、救急病院である為かベット回りの空間は広い。
それが、機械が入ったり看護師が入ったりすると、途端にこの空間がとても狭いものになってしまう。
……面会時間終了間際のこの時間に、誰だろう?……
食事は六時頃だし、看護師が体温などを計る検診は済んでいるはずだ。
あとは面会時間終了後、面会人達が帰ると、患者達の寝る準備が始まり、デイルームでテレビを見る者や、病院内を歩いて体力を回復する者もいるが、各自ベッドの上でテレビを見る者が大半だから、面会時間終了間際の時間帯は、かなり静かな状態だ。
それにもし看護師が用があって来たのならば、声を掛けたら速やかにカーテンを開けるだろう。
「あのー」
「どなたです?」
珠香が立ち上がってカーテンを開けようとすると、微かに再びカーテンが揺れるように動いた。
「え?」
珠香は一瞬フリーズする。
「あっ!」
相手は初めて、自分の失態に気づいて姿を変えた。
「……今、き・つ・ね……でしたよね?」
「……とんでもない」
とても綺麗な女性に変身した、狐顔の病院スタッフが首を振るが、ユニフォームがちょっと違うような?
「でも……」
珠香は指摘するべきかどうか、まじまじと考える。
彼女のお尻には、それは見事な尻尾が現れているからだ。
「ソーシャルワーカーの稲里と申します」
……まじ?そのものなんですけど……
思わず珠香は、内心突っ込みを入れている。
「明日退院だそうで?」
ソーシャルワーカーの稲里は、したり顔そのもので言った。
「ええ。明日退院です……だけど……」
珠香は、妊娠の件があるから言葉を濁した。
……どうしようもないけど、どうしよう……
角田珠香は途方にくれる。
思わず言葉を忘れて俯いた。
「そうですか?でも貴女には、まだ問題がありますよね?」
「えっ?」
珠香が顔を上げて、稲荷を見つめる。
稲里はしたり顔のまま、パンフレットが入った封筒を珠香に手渡す。
珠香は封筒を受け取って、狐の稲荷を凝視する。
「お悩みがあるなら、こちらを……」
「えっ?」
「此処で悩んだ所で、貴女が苦しいだけです。私と一緒に解決いたしましょう」
「 えっ?どういう事ですか?」
そう言うものの、珠香はちょっと目頭が熱くなった。
「どうしたらいいか解らなくて当然です。途方に暮れて当然なんです……ただの人間なんですから……しかし悩みがあるのならば、少しでも早く解決いたしましょう……そのお手伝いを、私達スタッフがさせて頂きますので、安心してお越しください」
稲里はそう言うと、くるっと回ってカーテンを出て行った。
出て行く間際に狐に戻っていた事は、見なかった事にしておこう。