不思議噺 まだ死ねない 其の終
老人は枯れかけた枝の様に、細く黒くなった腕を持ち上げて青年に向けた。
「まだまだですよ……安心してくださいな」
烏が外で大きく騒いでいる。
一体何羽の烏が鳴いているんだ?何羽の烏が外に居るんだ?
まてよ、烏は何処に居るんだ?此処は5階で外には大きな木は無いし、電線も病室の外には存在しない。
だけどどう聞いても、病室の直ぐ側の何処で鳴いている。
飛びながら鳴いているのではなくて、直ぐ側で何かに止まりながら?
だがこの病室の外には、大きな木は存在しない。
「お迎えが来ていますか?」
青年は細めた目元を見開いて老人に言い、側にあった丸椅子に腰を落とした。
すると烏が大仰に騒ぎ立てたかと思うと、バタバタと物凄い音を立てて天井裏を這う様に何かが走り抜けて行った。
「一回、二回、三回……」
青年が声を出して数えた。三回何かが天井裏をバタバタと這い抜けて行った。
鼠?か何か小さなもの、だけど虫や蜥蜴よりも大きなもの……………。
……何が何処から何処に入って、駆け抜けて行った?……
老人のモニターが大きくピーと鳴り響く。
カチカチと打ち出された細長い用紙が、長く舞う様に排出される。
「大丈夫、まだ逝かれません。安心して……」
ハァハァと老人の息遣いを聴きながら、青年はクスリと笑った。
「まだ死ねない……あなたの家族も此処の医師も看護師も、こうなったあなたを心配しませんよ。もう幾度も繰り返しましたからね?あなたはご自分の子供が、そしてその子供が悲惨な目に遭うのを見届けて頂かないと?虐めにリストラ、そして相続で揉めて苦しむ奥さんを見届けたら……やっと楽にして差し上げます……その時あなたを迎えに来る者達は、あなたの家族かもしれませんね?」
老人の頰がピクピクと動いたが、老人は目を閉じて大きく息を吐いている。
そして瞳から一筋の涙を零した瞬間、モニター音は何時ものリズムと変わった。
老人の苦しげだった息遣いは、静かは寝息へと変わり、烏の声が一斉に聞こえ無くなった。
「工藤さん病室に戻っていいよ」
数日後老人はナースステーションの隣の部屋から、以前居たナースステーションから少し離れた病室に戻された。
「もう何回目?先生だって不思議がってる」
ベットを移動しながら、二人の看護師が囁き合う。
「肺炎も起こしているのにね……」
さすがに〝しぶとい〟とは、言い難いらしく言葉を切った。
「こればかりは天寿……だそうよ」
「徳を積んだ方なのね?」
「そうかもしれないけど……こんな状態では気の毒だわ……肺炎を起こしちゃったから、とうとう中心静脈栄養になったし尿管でオシッコ取る様になったもの……」
「意識が無いのが救いかもね……」
老人は以前居た病室の窓際に、ベッドのまま置かれた。
窓から見える外になど、視線を送る事も無いのに……。
……ああ、また仔猫の泣き声が聞こえ始めた。耳の奥でずっとずっと泣いている……