不思議噺 まだ死ねない 其の一
猫の鳴き声が聞こえる……。
仔猫の鳴き声だ……。
ああ!煩い!ずっとずっと泣いている。ずっとずっと……。
老人は余りの煩さに目を開けた。
少しシミの浮き出た天井が見える。煌々とした蛍光灯の明かりが、どんよりと眼球に膜を張った様な瞳に映った。
……ここは……
老人はもはや動きを止めたいと羨望する脳を、それでも必死に動かして考えた。
……ああ、病院だ。物凄く長い間入院している……
そう納得して、もはや動く事ができなくなった身体に、力を入れる事すら忘れてしまった自分を思った。
「あっ、工藤さん目が覚めました?」
看護師は明るい声で語り掛けて来る。
だがその手には細いチューブが握られていて、こちらの否応無しにそのチューブを口の中に入れる。
顔面を歪めて顔を振って抵抗しようとも、決して止めてはくれない。
「厭だよね?厭だけどこれをしないと、痰が苦しいでしょう?」
看護師は毎回同じ事を言って、口の奥迄チューブを入れる。
音を立てて老人の痰がチューブに吸い取られ、ベッドの脇に置かれている容器に溜まって行った。
その行為はとても苦しくて辛い。
だから動かなくなった体で拒否をするが、看護師には毎日の日課の様な事柄だ。
此処介護療養型病棟には、老人の様な患者がいっぱい収容されている。
大体が介護が無ければどうにもならない様な、重度の介護医療を必要とする者が収容される病院の病棟だ。
無論回復に向けてリハビリを行う事もあるが、老人の居る病棟は看取り迄対応するという謳い文句の病棟で、大多数の者が老人だ。
そして痰の吸入や経管栄養などもそれに含まれるから、老人は毎日痰の吸入が義務付けられているのだ。
そしてその後経管栄養が行われる。
点滴の袋等の様な容れ物に入った液体が、老人の鼻に差し込まれたチューブから、胃の中に通してあるチューブによって注ぎ込まれて行く。
経鼻経管栄養である老人は、鼻の穴からチューブを差し込んで体内に栄養を注入する。これは大体が、短期間で嚥下障害が治りそうな患者や、手術を行った後に一時的に行われる事で、改善が見込めないと判断されると、医師から胃ろうというお腹から胃に直接穴を開けて栄養を注入する、栄養補給法を進められるが、老人の場合家族が胃ろうをしない選択をした。
つまり経鼻経管栄養ができなければ、自然に任せるという選択だ。もっとはっきり言えば、栄養を与えずに枯れさせてくれ、という事だ。もっとはっきり言えば……。老人の為にその先はやめておこう。
だが老人は、経鼻経管栄養でずっとこうしている。
最初の頃は、毎日の様に見舞っていた妻の足が、徐々に遠退いて行った。
それも当然だ。妻も老人と同様に老人となっている。今や入院こそしないだけで、決して一人でのこのこ出歩ける年ではなくなった。
そして子供達は、殆ど見舞いに来る事がない。
それも仕方がない。
子供達の子供、つまり老人の孫が虐めにあっていて、嫁などはそれどころではないらしい。
あとは遠くに嫁に出した娘だから、見舞いなどには来れるはずもないし、自分の日々の生活に追われている事だろう。