青月 薫子様 其の五
……今日貴女が、寂しくしておいでなのを聞いたのです。あの桃の花の様に可憐で、美しく笑うお姿が消え去ったと聞いたのです。私を虜として、未だに離してはくれないその笑顔が消え去り、毎夜この世の無情を悲しんで、泪を流されていると聞いたのです。私は体内の怒りの全てを、抑えて慟哭するのです。何故貴女を連れて逃げなかったのか、何故貴女と共に死ななかったのかと、毎夜毎夜貴女と同じ月を眺めながら、後悔に苛まれて泪を流しているのです……
「まっ、以前田川の所に来てたキューピッドに、矢を射られてるしな」
賀茂は嘲笑する様に言った。
猫にゃん様の紹介で圭吾の家に滞在して、暫く遊んでおいでだったキューピッド様は、賀茂の目の前で薫子様の生まれ変わりである枝梨に矢を当てた。
経緯を何一つとして知らぬ、愛の神は二人をちゃんと選んで矢を射った。
「キューピッド様すか?」
「ああ……礼を言いに来た彼女にパシャリだ……どうにもならんと観念した……」
賀茂は神妙な面持ちを作って、松田を見入ったままだ。
「俺の事知ってるだろ?」
「も、勿論す。実篤様っす」
「じゃ、どうして俺がこうしているかも?」
「愛する姫が非業の死を遂げたので、怒りと悲しみで……」
「魔物となったからさ」
「はあ……」
松田は神妙に言った。
「誰を愛したか?」
「右大臣の姫様の薫子様っす」
「松田凄いね?覚えてんだ?」
「当然す、初めて会った魔物系実篤様の事っすから……」
松田はそれは嬉しそうに言った。
「……はい。その薫子様です」
「へ?」
賀茂が茶化す様に言ったが、松田には理解しようがない。唖然としていると
「彼女がその薫子様だ」
と言った。
「へ?」
「父親の右大臣の欲の為に、許嫁であった俺と別れ、泣く泣く入宮した……。じきに天子に飽きられ、病死する迄ずっと世の無情と、俺への愛と怨みを嘆いていた薫子様だ」
「怨み……って、想い続けていたのなら解るけど……」
「……怨んでたさ、さらって逃げる事も共に死ぬ事もできなかった、意気地なしの俺を……」
「逃げる?死ぬ……っすか?」
「今の時代だったら、そりゃそんな事〝あり〟かもしれないが、あの時代は、主人に逆らうなんて考える事すらでない時代だ。天子様の元に召されるは一族の誉れ……たかが右近衛の大将に過ぎない俺がどうこう考える事すら憚れる……」
薫子は泣いた。
実篤の胸でさめざめと泣いて
「どうかこの身を貴方様の手で……」
と懇願した。
だが実篤はそれをしなかった。
貴き天子様の元に召される貴きお方を、どうして我が身如きがどうこうできるだろうか……。
何も……何もできぬ、意気地なしの愛する許嫁を最後に見つめた瞳を、賀茂は今でも忘れられない。
悲しみと愛情と、情け無さと口惜しさと……。
そして薫子の瞳は
……決して己で命は絶たぬ……
と語っていた。
手を掛けなかった事の後悔を、思い知らしめると語っていた。
そして薫子はどんなに嘆き悲しんでも、悲しみに病に伏せようとも、己で命を絶つ事はしなかった。
最後迄悲しんだのは、すぐに薫子に飽きた、無慈悲な天子への恨みだろうか?それとも実篤への想いだろうか?怨みだろうか?
そんな事はどうでもいい、だができる事ならば怨みであろうとも、実篤を思っていて欲しかった。
決して天子への想いを、一滴でも残して欲しくなかった。
だから実篤は魔物と化した。
天子に召された薫子を想う気持ちは、薫子の〝それ〟とは違うのだと、世に知らしめたかった。
どんなに己が悔恨の日々を費やしたかを……。
あの時、共に死を選べる機会を逃した己が、どんなに悔い苦しんだか……。
手放してはならないものを、手放したのだと悟ったか、それを薫子に知らしめたかった。
己の内に滾るこの想いを……後悔を……。
実篤は魔物と化して、薫子に知らしめたかったのだ。
愛してやまぬ薫子は実篤の全てだった。
仮令添い遂げずとも、天の上で幸せに愛してやまぬ、あの笑顔を覗かせていてくれさえすれば、それで良かったのだ。
その想いを知らしめたかったのだ。