幻惑 実篤様 其の五
工藤は覚えているが、大石は覚えていない……。
賀茂と知り合った過程は何とは無しに掴めてきたが、斉藤という人間の存在は覚えているが、その斉藤が語っていたというびっくり仰天なエピソードを、丸ごと覚えていないのは何故だろう?
いや……その話しの前後ごと丸抜けなのはどうしてだろう……。
気にするタイプでは無い圭吾が、気になり始めて止まらない事が、不思議でならないのに、その〝不思議〟がどんどん増えていく……。
慣れない事をしているものだから、なんだか疲れ果てて帰宅した。
「お帰りなさりませ」
居間に入るなりいえもりさまが、神様の居ない神棚から言った。
「いえもりさまそんな所から……おかんに見られたら大変だぞ」
「若、母君さまはお買い物にお出かけにござりまする」
「買い物か……」
「さようで……」
そう言うと、しばしいえもりさまは圭吾を凝視した。
上背の有る圭吾と、神棚のいえもりさまの目が合った。
お世辞にも決して見栄えのいい容姿では無い。その事を申し訳ないがあらためて納得した。
「若……とてもお疲れのご様子にござりまするな……」
「うっ、分かっちゃう?なんかすっごく疲れてんだよね」
圭吾がそう言いながら炬燵に入り込むと、珍しくため息を吐いた。
「それは……。お体に何やら不調がおありなのでござりましょう?」
「そっか……跡取りの俺が体調を崩したら、お家の一大事だもんなぁ……。家守りのいえもりさまとしては、心配だよなぁ……」
「……それはそうにござりまするが……。いつもお元気な若主さまが、その様に不元気なお姿をお見せになるとは、心配して当然にござりまする」
「そっか……心配してくれんのね?……そうだよなぁ、俺って元気……てぇか丈夫だけが取り柄だもんなぁ……」
圭吾は肩を丸めながら大きく頷いた。
その様子に、いえもりさまは素早く神棚から滑り落ちる様にして、ぐったり感をもろに醸し出している圭吾の、珍しく丸まった肩の上に上って来た。
「ほんに大丈夫でござりまするか?」
いえもりさまはとても心配した様子で、吸盤の付いた手の平を圭吾のおでこに持って来て聞いた。
なんだか、クシュとした感覚が額に感じて、そして吸盤が張り付くような感じで、柔らかいものが額にくっ付いた。……ように感じるのか、くっ付いているのか……。
それはそれとして、その温度の無い新感触が不思議と心地良い。
「ああ……大丈夫大丈夫。熱なんかねーし。まあ、あったとしたら知恵熱ってやつ?」
「知恵熱?」
「ほら、赤ん坊や幼児が、新しい事を覚えると熱が出るってやつ?」
「さようにござりまするか?……」
いえもりさまは、合点がいかない様子を作って言った。
「小さい時からゴマンと、おかんやばあちゃんに言われたかんな……」
ちょっと微熱など出そうものなら、直ぐにそう言われてからかわれたものだ。
「知恵がつくのは、頭が良くなる事だ」
とかなんとか言っちゃって……。
「若……何やらお知恵のつく事でもおありでござりましたか?」
と、口にしてハッとした表情を作った。
「も……申し訳ござりません。お知恵をお付けになるが為に、大学へお通いでござりました……」
「はは……どうせ俺は、勉強をしに大学行ってるって感じじゃ無いもんなぁ……」
「………」
いえもりさまは、再び圭吾の額に吸盤の付いた手を当てて首を傾げた。
「……だから熱なんて無いって……なんか、気になって仕方の無い事があってさ」
「ええ?」
いえもりさまは、圭吾が吃驚する程驚いた様子で、大きな目をくるくると回して言った。
「そこまで驚く事ねぇだろ?」
「こ……これは申し訳ござりません。若が〝なにか〟を気になさる事がおありとは……」
「そこまで言われるとは……。まっ、俺様も経験した事が無いから、こうしてぐったり疲れている訳なんだが……」
「若をここまで煩わせるものとは、一体どのような事にござりましょう?」
「え?」
「若をここまで煩わせるものとは……それはそれは興味を惹かれます」
「また、其処まで言う?……」
いえもりさまの不気味な瞳が、キラキラと輝いて頷いた。