盆 盆の送り 其の四
母親には、盆に旅行に行きたがらない理由があった。
丁度圭吾の年頃ー。母親は友達と京都の大原に出掛けた。
その年は何故だか母親の都合と友人の都合が合わなくて、高校2年から毎年行っていた京都旅行の計画が遅くなった。
「それでも行こうとなったのが、今考えると変だったのよ」
と、母親が言った。
旅行会社に探してもらうと、無論いつも行っている京都市内は一杯で、唯一大原に盆の最中の十五日十六日と空いている宿があった。
若くて盆の意味など深く考える事が無かった母親は、友人と京都大原に出掛けた。
昼間は楽しく観光して歩いた。
のどかな田園が広がる大原は、幾度も京都市内を観光した母親には珍しく、一風違った京都の趣きのある場所だった。
時間を忘れて観光した為、宿に着いたのはもはや暗くなってからで、暗い山間をタクシーで走っていた頃から、母親の勘が妙な感覚を感じとっていた。
毎回市内の宿泊はホテルが主だった。だから余計に簡素な中にも厳かな山間を残し、古来からの風情のある大原の宿は、旅館というよりは〝宿〟という言葉が当てはまった。
「此の坂を登った所ですわ」
タクシーの運転手さんに言われて降ろされたのは、石垣のようなものがある脇に、一本の坂道の下りきった所だった。
「 …… 」
不思議な違和感を持ちながら、母親とその友人は坂を登って歩いた。
市街と違い閑散として、灯りも殆ど無い日の暮れた坂道を、不安を抱きながら暫く歩いた。
ふとー。たぬきか狐に化かされているのではないか、という不気味さも加わった。
「本当に此の先にあんのかな?」
若かりし頃の母親が、不安に堪えられずに口にする。
「大丈夫だよ、ほら彼処ー」
友人は呑気に、気にする様子もなく言った。
「あっ!本当だ。よかった」
安堵の声を思わずあげた。
「おそおしたな?」
宿の女将さんが、ちょっと皮肉る。
「すみません」
二人で頭を下げて謝ると、女将さんは優しく笑って
「ほなお部屋こちらですわ」
こじんまりとした、旅館というより民宿をちょっと旅館ぽくしたような、家庭的でいて京都ぽさがあり、襖や障子、柱、階段が古風で落ち着いていて美しかった。
階段を上がると、大きな御所車が幾つも描かれた襖の部屋があり、女将さんに案内されて中に入ると、想像より狭く薄暗かった。
部屋の中の襖も御所車が描かれていて、片側の襖の御所車が少し汚れていた。
その汚れ具合が、此の宿とは釣り合わない気がした。
「早よう下降りて来てな」
女将さんは忙しそうに階段を下りて行った。
「早くしないとご飯食べる時間が……」
「ああ……そうか」
片付けも其処其処に下へ行く。
慌てて食事を済ませ、風呂に入って落ち着いたのが十時を過ぎていた。
部屋に居ると、どうしても落ち着かない不気味さがあった。
今迄旅行しても感じた事の無い不気味さだー。
高校時代の多感な時期を、共に過ごした友人だからこそわかって貰える事がある。
旅行に行くと必ず、部屋は小さな灯りをつけて貰う。
見たり聞いたりしないにしても、ちょっとは感じる事ができるのを、不思議に思わず、可笑しく思わず受け入れてくれてる。
「ーそれで……」
話を続けても、段々と生返事になっていく。
何故だか午前零時まで起きていて貰いたかった。一人で起きているのは怖かった。
午前零時迄は起きているーと約束したのに、何時もなら話が尽きない程喋っている友人が、疲れの為か十分前に寝息を立て始めた。
今夜はかなりやばいと思い、部屋の電気は煌々とつけてあるが恐怖が走る。
これは早く寝てしまおうーと目を閉じると、疲れの為か睡魔が訪れる。
すーっと意識が何処かに入り込んでいく中
「よかった」
と安堵の気持ちが溢れるのを、覚えながら意識が消えていった。
「!!!」
違和感を覚えてぼんやり意識が戻ったのは、午前零時を過ぎていた。
「やばい、これはやばい」
と意識がしっかりしてきて、そして体が動かない事に焦りと恐怖を覚えた。
夢か現かー金縛りだーと思って余計に恐怖は増していくー。
慌てて目を閉じ
「神様、仏様、ご先祖様、お父さんー」
何度も何度も繰り返し、見たく無い見たく無いと呟いた。
すると少し体が動いた。
必ず置く枕元の時計に目をやると、零時を過ぎていた。
ーまだかー
よく丑三つ時に出やすいと聞くし、母親もそう信じていたにも関わらず、何故だか零時代を越えれば、大丈夫だと確信していた。
ゆえにまだ一時間程あるが、どうにかやり過ごしたい気持ちが先立った。
「南無阿弥陀仏ー、なんみょうほうれんげきょうー」
を幾度と無く繰り返し唱える。
すると窓の外の風が激しくなった。
ーこんなに風が強かったかな?ー
と思う程激しく吹いているが、さっきまで風が吹いていたとは思えない。
ー風吹いていなかったよなー
もはや恐怖しかなくなった。
その内外壁に激しく何かが当たる音がする。
京都だから、すだれが外に掛けられているのだろうと自分を納得させるのだが、その音は徐々に外壁をよじ登って来る音だと思い当たる。
恐怖で体が固まり金縛り状態が増して行く。
隣で寝ている友人に、助けを求めようとしても声が出ない。それでも、顔を動かし友人の方に向け、大声で名を呼ぶが、やっぱり声が出ない。
ーガタゴト、ガタゴトー
よじ登って来る音はどんどん上がって来る。
どんどん上がって来るが、いつ迄も登り続けているー。
ーガタゴト、ガタゴトー
確かに何かがよじ登る音なのに、たかだか二階へよじ登っている距離じゃ無い。
ずっとずっとよじ登り続けているのだ。
「此処には来れないのか?」
そう気付いたがやっばり怖いから、さっきからの呪文を繰り返し繰り返し唱えるー。
金縛りになってから、ずっと登り続けていた音が、パタッ!としなくなった。それでも再び登り始めるのでは無いかと、恐怖で安心できない。
よくあるホラー映画のように、安心した時に再びー。みたいな事がありそうでー。
そんな事をいろいろ考えているうちに、体がようやく動くようになった。
直ぐさま枕元の腕時計を見ると、やっと一時を過ぎていた。
とても長く感じた一時間が過ぎていた。
安堵すると、あっという間に目頭が重くなり、知らず知らずのうちに寝てしまった。
翌朝起きて見れば、朝の光の所為か、襖の薄汚れは本当に薄いもので、殆ど気にならないものだった。
歩いて行ける範囲の寺巡りをする為に宿を出ると、何かがよじ登って来る程の外壁は無く、すだれは何処にも掛かっていなかった。
「あれは一体なんだったんだろう?」
「何か昨夜あった?昨日はもう眠くて眠くてー。ごめんね」
友人は申し訳なさそうに言った。
彼女は全くそっちの勘は持ち合わせていなかったが、ちょっと勘の鋭い友人に対して、とても理解があった。
まだまだ純真で素直なお年頃だったのだ。
あの不気味な暗がりの坂道が、昨夜の事が嘘のように晴れやかで爽やかな、坂道と変わっていた。
坂を下っていく眼前に、田園風景が美しく映えて広がっていた。
近場の寺巡りと、山間のその美しい田園を散策して過ごし、十六日の大文字焼きで有名な、五山送り火を見に出掛けた。
壮大で厳かな五山送り火は、〝大文字焼き〟としてしか知識の無かった母親に、〝妙法〟〝船〟〝左大文字〟〝鳥居〟という新しい知識を与え、今迄感じた事の無い感動を与えてくれた。
若い母親の身と心を清め、歴史の古い京都の地に眠る、全てのもの達が浄化され、供養されたのだと、信じさせるものだった。
その日遅く宿に帰って来ても、もはや襖ばかりか部屋さえも不気味さが消えて、昨夜の部屋とはまるで別のものになっていた。
当然の事ながらその夜は1・2・3で寝てしまった。
ただ夢の中で、送り火を済ませたからだとー納得したのだという。
だから母親は、盆の旅行は決してしない。旅館にもホテルにも泊まれないのだ。
「うちのご先祖様なら怖く無いけど、知らない霊は怖いじゃんね」
小さい頃聞いた母親の話しだが、流石に子供心にも怖かったのだろう、小さい頃の記憶が余り無い圭吾だが、その話は覚えている。
しかし、全く霊を感じない圭吾には、怖い話しだけで終わってしまい、出掛けないようにしようという気持ちには、ならないものだった。