序章 悪魔が来りて姫を追う
俺はトビトビのトビー。トビトビは村の名前でトビーは俺のあだ名だ。別に気に入ってるわけじゃないけどな。トビトビ村っていうのは御先祖様がつけた名前だ。トビトビなんて本当は空に浮かぶ村なんかにつけられる名前なんだけど、この村はちょっとだけ特別な村なんだ。この村の人は、俺も例に漏れず小さな頃にこんな話を聞かされる。
トビトビ村は埋立地で、埋め立てる前にはただの虚無しかなかった。悪魔が人間を食うと大体そうなる。奴らは人間をその人が根付いていた空間ごと胃袋に収めてしまうんだ。ある家族が食われると、住んでいた家がまるごと虚無に変わったりするなんてよくあることだ。場合によっちゃあ学校の机とか、公園の遊具なんかも虚無に変わる。だから世界のあちこちに虚無はできるんだけど、決してそこに入っちゃあいけない。悪魔が住んでいるからな。例えば興味本位で虚無を見物しに行った家族が誤って虚無に落ちてしまったことがあった。虚無はその名の通り目には見えない。その代わり、虚無は端と端を引き伸ばして無理やり縛った膜のように歪んで繋がって見えるんだ。例えば家がなくなると地面と家の上の空が繋がって、小さな山ができたように見える。けれどそこを登ろうと思ったのがいけなかった。だって、家があった場所自体が虚無に変わっちまってるんだからな。その家族は山に足を掛けた瞬間、吸い込まれるようにふっと姿を消してしまった。するとぎちゃぎちゃと言う気味悪い音が響いた後、今度はその家族の家がぽっかり虚無に変わっちまったんだ。こうやって虚無は広がっていく。トビトビ村は、悪魔によるさぞおぞましい殺戮があったに違いない。なんせ村と言っても町一つ、雲まで届く山一つ分くらいの広さがあるからな。
さあここからは村に代々伝わる伝説の話だ。そんな虚無のもとに退魔師とドアドア村一番の扉師がやってきた。扉師は虚無の真ん中を挟んで両端に扉を二つ立てた。扉を開くと反対側の扉に向かってさあーっと道が伸びていって、反対側の扉に辿り着くと、扉が開いて二つの扉を結ぶ真っ直ぐな道ができあがる。そこは虚無から現実に変わるんだ。まず扉師は虚無を挟んでひたすら扉を立てた。ときどき虚無に隠れていた悪魔に現実がぶつかって、悪魔が二人に襲い掛かる。それを退魔師がやっつける。倒し方は簡単だ。悪魔の身体に濃い現実をぶつければいい。悪魔は虚無の生き物だから人間の目にはぐにゃぐにゃとしたお化けみたいに見える。でもそれなりに見えるのは悪魔が現実にも踏み込んでいるからで、悪魔を現実から守っているのはその皮膚だ。皮膚を退魔師の念が篭った槍で貫くと、悪魔の身体の虚無が槍に吸い込まれるんだ。ただし槍が悪魔の口に入ってはいけない。その瞬間、槍は悪魔に飲み込まれてしまうんだ。そうやって悪魔に負けて死んでいく退魔師の末路は言葉にできないほど悲惨だと聞いたことがある。
結局退魔師は隠れていた悪魔をすっかり退治して、扉師は無事この村を作り出した。あまりに大きな虚無を制圧したことから、退魔師は人々から賞賛された。ドアドア村の虚無の埋め立て技術は世界から認められ、扉師はドアドア村の英雄となった。今でもドアドア村では、トビトビ村でさえ、彼を知らない人は一人として居ないと言われている。
そういうわけで、この村はぐるりと特殊な金属でできた扉で囲まれているんだけど、実はちょっとだけ見落とされていた問題があった。埋め立てきれなかった小さな虚無があって、そこにときどき悪魔が迷い込むんだ。それが分かって以来、村にはたくさんの退魔師が呼ばれて住むことになったんだけど、退魔師の間でこの村は「トビトビ村」と呼ばれ始めた。現実が飛び飛びな珍しい村だからだ。やがて人間を襲いにくいと理解して悪魔の数も減り、それに応じて退魔師も少なくなっていったんだけど、その悪名は戒めも込めて村に残され、いつしかこの村の正式な名前になったのである。
その小さな虚無は、悪魔が居なくなった今でもちょっとだけ人間に悪戯をする。扉を開くとたまに違う扉と繋ってしまうのだ。トイレに駆け込んだと思ったら近所の魔法道具店だったり、風呂から上がったと思ったら友達の部屋に繋がったりと、年に一、二回はそういう波乱が巻き起こる。でも、そういうのって楽しいと思わねえか? 俺は子供の頃から、村人に「虚無の悪戯」と呼ばれるその現象に興味津々だった。
俺が初めてそれに遭遇したのは忘れもしない、五歳のときだ。俺は友達と一緒に村の外の川に遊びに行って、遊び疲れて村へ帰ってきた。俺はへとへとだったから皆のちょっと後ろを歩いていて、皆が扉を開けて村に入ってから、遅れて扉を開けたんだ。そしたらそこは村じゃなかった。
そこはたぶんある退魔師の呪術部屋だった。退魔師は悪魔との戦いのために小悪魔との戦いで研鑽を積む。そのために小悪魔が迷い込む程度の虚無を置いた部屋を持っていると大きくなってから耳にした。そこはたぶんそういう部屋だった。気味悪い紋様が石壁一杯に刻み込まれ、ガラス窓から入る光は金色の刺繍が施された紫のカーテンでほとんど遮られていた。部屋の真ん中に、ろうそくに灯るわずかな火と小さな虚無があった。
俺がそれに見惚れてると扉が開く音がした。俺の入ってきた扉じゃない。俺がそっちを見ると、カーテンと同じ紫のローブに身を包んだ人間が居た。顔は隠れていて、男か女か分からなかった。
その人は俺の頭を撫で、「君に力をあげよう。その代わりこのことは秘密だよ。そうしないと悪魔が寄ってくるからね」と言って僕を来た扉から村の外へ追い返したのだ。
それから俺は面白いほどに虚無の悪戯に遭遇した。というよりは、もう俺はそれを使いこなしていると言っていいぐらいだった。自分が今だと思うときに、村の中なら大体自分が行きたい場所の扉を開くことができたんだ。それに気付いてから、俺は色んな人に悪戯を仕掛けまくった。俺が追いかけっこで部屋に入ると、扉をバタンと閉めてから悪戯を仕掛けてちょっと開く。すると友達がそこに突っ込むわけだけど、例えば音楽室のはずだったのに女子更衣室だったりとか、教務室のはずだったのに女子更衣室だったりとか、そういうことをしてるうちに友達が減っていった。おまけにトビーというあだ名で呼ばれるようになった。大人たちは俺を叱りながら「どうしてそんなことができるんだ」と尋ねた。俺は退魔師の言葉を思い出して理由を決して言わなかった。そのうち大きくなると俺も悪戯をすることをやめて、俺を許してくれる友達も少しずつ戻ってきて、村には「トビーの悪戯」という言葉だけが残った。あまりに俺が村で悪戯をしでかしたもんだから、虚無の悪戯という古臭い言葉は使わずに、揶揄も込めてそう呼ぶ人が増えたんだ。
そうして今でもトビーというあだ名は健在なのである。
「トビー、トビラ姫って知ってっか?」
男勝りの女子生徒会長と名高いリオが、学校で俺に尋ねた。リオは博識で、会うたびにその日のニュースを教えてくれるのだ。
リオは退魔師学校の同級生だ。退魔師学校というのは文字通り退魔師を育成する学校だ。世の中では医学校と肩を並べる名門学校で、いや、それどころか医学校にさえ一目置かれるような学校だ、と俺の父親は鼻高々に語っている。退魔師学校は世界にそう多いわけではないのだが、ここトビトビ村では埋め立て時代に常駐した退魔師によって作られた退魔師学校がそのまま残り、今では世界でも有数のエリート退魔師学校として名を馳せている。一部の学者によると、虚無が程よく散在している村の特殊な環境が退魔師の潜在意識を刺激するとかなんとか。まあそれはともかく、俺は「トビーの悪戯」の縁もあって無事この学校に入学でき、現在四回生を奮闘中だ。
「トビーの悪戯」が勝手にもてはやされ、入学するなり村中から手のひら返しに重すぎる期待を掛けられた俺だったが、正直退魔術とそれとはまるっきり関係がないわけで。あえなくというかあっけなく落ちこぼれの仲間入りをし、自分に変な自信を持っていなかったのだけが救いの俺は、四回生を終えての卒業、退魔師としての活躍に向けて教師に手痛い激励を受けながら課題や試験に追われる毎日を送っていた。
「トビラ姫? あー、伝説の扉師の娘だろ?」
俺が課題に筆を走らせながら言うと、リオはムッとして俺が机の脇に置いていた事典をパラパラとめくりだす。
「違う。お前は新聞も見ていないのか」
「村のちゃちいので精一杯なんだよ。それに退魔師が国の動きまで知る必要ねーだろ」
「はあ、お前なんかいつか悪魔に喰われてしまえ」
「あ~、くまいくまい。なんちって」
リオが事典で俺の頭を殴った。
「痛って!」
「これだ」
リオは俺の課題の上にばん、と事典を開いて置いた。
そこはトビトビ村の現代の歴史のページで、村の成り立ちや周りとの関係、最後のほうに俺の名前が乗っていたりして、
「お前の名前の次の行だ。三六九八年、ドアドア村のカンナが新たな虚無の埋め立て方を考案」
「あー、あったなあそんな話も」
俺がトビーと言われて村から気嫌われ出した頃、父にドアドア村のカンナを見習えとよく言われたものだ。ドアによる新しい虚無の埋め立て方を発明したというニュースと共にその存在が知れ渡り、俺と同い年とは思えない抜きん出た才能もさることながら、可愛い見た目と裏腹に気品溢れるお嬢様のような振る舞いが子供から大人までの心を掴み、当時からトビトビ村でも一躍人気を得ていたのだった。
「そのカンナが最近トビラ姫ともてはやされてるんだ」
次にリオは事典の上に新聞を置いた。大見出しは「ドアドア村のカンナ、最年少受賞~虚無の埋め立てを競う競技会にて最優秀賞を勝ち取る~」。記事の隣にはカンナと思しき顔写真が載せられている。
「読んだか?」
「ああ」
「で、これだ」
リオは新聞の上にもう一つ新聞を置く。大見出しに、「トビラ姫、現実を魅了!?」。記事の隣には、アイドルばりの派手な衣装を見につけたカンナとその取り巻きが映った写真があった。
「お前とはえらい違いだな」
リオが口の端を曲げてふっと微笑みながら言った。
「お前それが言いたかっただけだろ」
「ハッハッハ、まあ課題頑張れよ。手伝ってやるから」
ちくしょう、どいつもこいつも。俺がそんなに悪いことしたか? したか。何も言えねぇ。
俺は粛々と新聞を畳んでリオに手渡し、事典を横に置いて課題を再開する。内容は魔術と生活の変化について。四回生にもなるとこういう漠然とした課題が増えてくる。でもまあこれぐらいなら俺でもなんとかなるだろ。魔術灯とか魔術列車とかに、三回生までに学んだ魔術理論を組み合わせれば大丈夫じゃないか? リオの手を借りるまでもなさそうだ。
「まあ、いつもありがとな」
「いいからさっさとしろよ?」
いつも一言多いんだよな、と思いながら俺は締め切り間もない課題の上に筆を走らせた。
×××
家に帰っても、大体俺のやることは課題と相場が決まっている。もちろんやりたいわけじゃないし、課題以外の勉強をやるつもりがないわけでもないんだけど、落ちこぼれなる俺は課題すら満足にこなせないのだ。
俺は魔術灯で白く照らされた部屋の中で、いつものように頭を抱えながら卒業の掛かった課題と格闘していた。
「虚無と現実の境界を求めよ!? 分かるかあああ!」
いや、分かってなきゃだめだってーのは分かってるんだぜ? 確か二回生ぐらいのときに勉強したよな。学校は退魔師を目標としてるから実技試験以外はそこまで判定が厳しくなくて、なあなあで合格してしまったのが尾を引いてるんだろうけど。自分が悪いけどなあ、実際退魔に使わねえよなあ。
悪いがここはリオに頼るしかない。
俺は部屋の扉の前に立った。取っ手に手をかける。これを回して、ガチャ、と鳴った瞬間、悪戯が成功していれば、その先はリオの部屋になっているはずだ。最近は了承を取ってこの手段を何回か使っている。開く前にノックをするという条件を守れば分厚い本で殴られることもない。
――でも待てよ、リオは今晩忙しいと言っていた。帰りに俺を急かしたのもそのせいだ。それに、虚無というのは退魔師学校の生徒が誰しも苦手とする分野である。なぜなら、退魔師は虚無での動き方というのは考えない。虚無、つまり悪魔が現実でどう動くか、現実をどう悪魔にぶち込むかばかりを考えるのだ。
そこまで考えたとき、ふと突飛な案が浮かんだ。トビラ姫。あいつは虚無の埋め立てが得意なはずだ。あの人が来てくれればなあ。トビラ姫、来てくれたりしないだろうか。なんつって。
無理無理。彼女は今も昔も雲の上の存在だからな。地の底の俺が願ったところで繋がる気がしねーって、
な。
と考えた瞬間、取っ手がガタッと回った。
俺がそれに気付いて悲鳴を上げる間もなく、扉がこちら側にバン! と開いた。
扉は予想をはるかに上回る質量で俺にぶつかり、俺の身体を跳ね飛ばす。
「ぐあッ!」
俺は空中に投げ出され、身体を床に叩きつけ、ごろごろごろと回って力を受け流した。
バン! という音がして、すぐさま扉が閉められたのは耳で確認できた。扉が開かれてから一瞬だった。まるで何かから必死で逃げる獣のように。
俺はやっと身体の回転を止めると、想定外の動きを見せた扉をばっと見上げた。
そこに居たのは――長い金髪はボサボサで、黒いボロボロの服を身にまとった軽装の、身体全体で荒く息をしながらこちらを見る少女。
ばっちりと合ったその両目は俺と同じく見開かれていて、
「……トビラ姫……?」
その悲惨な格好は写真で見た姿とは似ても似つかないけれど、その顔は間違いない。
ドアドア村のカンナ、人呼んでトビラ姫。
彼女は身体を震わせながら俺を見て、ゆっくりと部屋を見渡すと、はっと我に返って今しがた通ってきた扉を調べだした。そして恐る恐る扉を開くとその先をまじまじと見つめ、やがてふっと身体の力を無くして床に倒れこんだ。
「おい、大丈夫か?」
俺はカンナに歩み寄る。目を覚まさないが、呼吸はしっかりとしている。
俺はカンナを置いて恐る恐る扉に近づいた。
何だ、さっきの様子は。こいつは何かから逃げていた……?
俺はゆっくりと取っ手に手を掛け、唾を飲み込み、
一気に扉を引いた。
――そこはいつもと同じ。絵画がひとつ壁に掛かっただけの我が家の廊下だった。