誰も石を投げてはいない
◇
「――という事があったのだけれど、あなたはどう思う?」
放課後の文芸部室。
窓の外では、運動部の掛け声が規則正しく響いていた。グラウンドを走る足音、ホイッスル、誰かの怒鳴り声。青春というものを音にしたら、たぶんこうなる。
一方こちらは、古びた木の机と、積まれた文庫本と、冷めきった空気。
まるで青春に選ばれなかった側の待合室みたいな場所だった。
そして、その中心には白峰アリアがいる。
長い銀髪。
整いすぎた横顔。
人を見下すためだけに神様が設計したんじゃないかと思うような青い瞳。
美少女、という言葉がある。
たぶんあれは、こいつみたいなやつを見た誰かが、悔し紛れに作った単語だ。
ちなみに性格は最悪である。
神様も一応は、公平らしい。
「……主語をくれ」
せめて、こちらの聞く準備が整ってから会話をスタートして欲しい。
曖昧な返事というのは、だいたいロクなことにならない。
経験上。
鞄に教科書を突っ込みながら、俺――佐藤悠真はそう言った。
アリアは読んでいた文庫本を静かに閉じ、栞を挟む。
その仕草すら妙に絵になるのが腹立たしい。
「主語が必要?」
「必要だよ。お前は知らないと思うが、日本語ってそういう仕様なんだ」
「不便な言語ね」
「お前が雑なだけだ」
「雑なのではなく、あなたの理解力が不足している可能性は?」
「その場合でも、会話の改善責任は話しかけた側にあると思う」
「理屈っぽい男」
……こいつなりの最大級の賛辞なのかもしれない。
褒め言葉として受け取っておく。
たぶん違う。
いや、絶対違う。
こいつの場合、褒めるという文化がそもそも存在しているのか怪しい。
ロシアにはたぶんあるんだろうが、少なくとも『白峰アリア共和国』には存在しない。
彼女はスマホを机の上に置いた。
画面にはニュース記事。
どうやら今朝、見かけたらしい。
クラスメイトを体育倉庫に閉じ込めた動画がSNSで拡散され、学校側が対応に追われている――そんな、珍しくもない話だった。
撮った誰かが、面白半分で投稿する。
それを誰かが、正義感で拡散する。
知らない誰かが、コメント欄で石を投げる。
最近よく見る光景だ。
炎上というより、もはや年中行事である。
日本の四季に追加してもいい。
春、夏、秋、冬、炎上。
「で?」
俺は椅子に腰を下ろした。
「それを見て、お前の中のロシア人の血が何か言いたくなったわけ?」
「ずいぶんな偏見ね」
「違うのか」
「違わないわ」
即答だった。
こいつ、たまに自分から偏見に寄ってきてくれるから助かる。
「殴った人間だけが加害者だと思う?」
アリアは窓の外に視線を向けた。
夕陽が横顔を照らす。
絵になるのが腹立たしい。
いや本当に腹が立つ。
人間、平等じゃないなとこういう時に思う。
「撮った人間は?」
「加害者寄り」
「笑った人間は?」
「かなり黒い」
「見て見ぬふりをした教師は?」
「職務放棄」
「“可哀想”と言いながら、その動画を最後まで見た人間は?」
「現代人」
「便利な言葉ね、それ」
俺が肩をすくめると、アリアは少しだけ目を細めた。
「あなたは違うの?」
「俺?」
「ええ」
「見たよ」
即答した。
「最後まで?」
「サムネの時点で嫌な予感しかしなかったけど、結局見た」
「なぜ?」
「人間には確認したいという本能がある」
「野次馬根性とも言うわ」
「語感が悪いから却下」
「事実は大抵、語感が悪いものよ」
正論はいつだって可愛げがない。
「で、お前は?」
「見てない」
「へえ」
「見る必要がないもの」
「珍しいな。お前なら『愚かな人類の記録として保存する価値がある』とか言うかと思った」
「そこまで暇ではないわ」
「暇そうだけど」
「失礼ね。私は忙しいの」
「何に」
「あなたを論破することに」
「それ、かなり無駄な人生じゃないか?」
「少なくとも退屈はしないわ」
それはそうかもしれない。
いや、された側はたまったものじゃないけど。
アリアは指先でスマホを軽く叩いた。
「問題はね、悠真」
急に名前で呼ぶな。
距離感がバグるだろ。
「怖いからやめろ」
「逃げないで」
「逃げたくもなる」
「問題は、“誰も自分を加害者だと思っていない”ことよ」
部室の空気が、少しだけ静かになる。
こういう時のこいつは、冗談を言わない。
だから困る。
こっちもちゃんと聞かなきゃいけなくなる。
「殴った人間は『遊びだった』と言う」
「撮った人間は『記録しただけ』と言う」
「拡散した人間は『告発だった』と言う」
「見ていた人間は『関わりたくなかった』と言う」
「全員、自分だけは無罪だと思っている」
一拍。
「便利よね。“空気”って」
その言い方が妙に引っかかった。
「……お前、なんかあった?」
なんとなく、そう聞いた。
アリアは少しだけ黙った。
珍しく、本当に少しだけ。
それから肩をすくめる。
「別に」
信用ならない返答ランキング第一位。
ちなみに第二位は「大丈夫」である。
「その“別に”は信用ならないぞ」
「あなたの“大丈夫”ほどではないわ」
こいつ、心が読めるのか?
「やめろ。急に刺してくるな」
「事実だから」
逃げ道がない。
ロシア人はもっとこう、ウォッカを飲んで陽気なイメージだったんだけど、こいつを見ていると国家単位で風評被害を受けている気がする。
「……私はね」
アリアがぽつりと言う。
「いじめられているわけではないの」
「うん」
「無視されているわけでもない」
「うん」
「嫌われてもいない。たぶん」
「たぶん」
「でも、教室に居場所がない」
その言葉は、妙に静かだった。
風がカーテンを揺らす。
外ではまだ、誰かが走っている。
「だから昼食は、体育館裏か、この部室」
「なるほど」
「可哀想だと思った?」
少しだけ考える。
ここで安い優しさを出すと、たぶんこの女は一生それを擦ってくる。
それは避けたい。
人生設計的に。
「いや」
「……そう」
「お前、自分で選んでるだろ」
アリアは瞬きをした。
「教室が嫌いなんだろ」
「……ええ」
「だったら、それはいじめとは少し違う」
「優しいのね」
「違う」
俺は少し笑った。
「優しいんじゃない。面倒なことに巻き込まれたくないだけだ」
俺は、正義感が強い人間じゃない。
困っている人を見たら迷わず助ける、みたいな主人公属性も持っていない。
むしろ逆だ。
できれば平穏に生きたいし、面倒ごとには関わりたくない。
青春とか努力とか友情とか。
そういう眩しい単語は、遠くから見るくらいがちょうどいい。
ただ。
後味の悪いことだけは、昔から嫌いだった。
中学の時、一人だけ浮いていたやつがいた。
助けようと思った。
でも、やめた。
面倒になるから。
翌週、そいつは転校した。
別に、俺のせいじゃない。
そんなことは分かっている。
それでも、あの時の教室の空気だけは、今でもたまに夢に出る。
「そういう自己評価の低さ、嫌いじゃないわ」
「好きって言えよ」
「調子に乗るでしょう」
その通りだった。
反論の余地がない。
悔しいが、こいつはこういうところだけ異様に正確だ。
「乗る」
「だから言わない」
合理的で腹が立つ。
しばらく沈黙が落ちた。
嫌な沈黙じゃない。
この部室には、こういう黙り方がよく似合う。
やがてアリアが、小さく言った。
「……でも」
「ん?」
「見ているだけの人間は、たぶん一番安全で、一番残酷よ」
その視線は、窓の外に向いたままだった。
「手を汚さないから、自分を正しいと思える」
「でも、ちゃんと誰かは壊れる」
「そして、壊れたあとで言うの。“知らなかった”って」
夕陽が、少し赤くなる。
たぶん彼女は、いじめについて話したかったわけじゃない。
もっと別の。
ずっと手前にあるもの。
教室の空気とか、
見て見ぬふりとか、
誰も責任を取らない優しさとか。
そういう、名前のつけにくいものについて。
「――あなたは、どこまでが罪だと思う?」
青い瞳が、まっすぐこちらを見る。
逃げ場のない問いだった。
だから俺は、とりあえずこう返した。
「少なくとも」
「なに?」
「放課後に帰ろうとしてる人間を捕まえて哲学を始めるのは、かなり罪深いと思う」
数秒の沈黙。
それからアリアは、小さく笑った。
本当に、ほんの少しだけ。
「そう」
「ああ」
「じゃあ、共犯ね」
「なんでだよ」
「最後まで付き合ってるもの」
それはたしかに、反論しづらかった。
――その瞬間。
ガラッ、と。
部室の扉が乱暴に開いた。
俺とアリアが同時にそちらを見る。
立っていたのは、担任だった。
普段はやる気のない、眠そうな数学教師。
けれど今は、珍しく真面目な顔をしている。
こういう時の教師は、だいたいロクなことを運んでこない。
経験上。
「佐藤。白峰」
低い声だった。
嫌な予感しかしない。
「……なんですか」
俺が答えると、担任はわずかに言葉を選ぶように間を置いた。
そして、言った。
「——ちょっと、生徒指導室まで来い」
空気が変わる。
アリアが、隣で小さく笑った。
「ほら」
「何が」
「観客席にいたつもりでも」
青い瞳が細くなる。
「舞台には、引きずり上げられる」
……帰りたい。
心の底からそう思った。




