透明なゆりかご
静かな部屋だった。時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
ベッドの上には、ほとんど動くことのない小さな体が横たわっている。呼吸はある。脈もある。けれど、その子の世界がどこにあるのか、母にはわからなかった。
母はよく思う。
——この子は、透明なゆりかごの中にいるみたいだ、と。
見えているのに、すぐ近くにいるのに、まるで違う場所にいるかのような。声をかけても、その言葉が届いているのかどうか、確かめる術がない。
「おはよう」
毎朝、同じ言葉をかける。返事はない。それでも母は、少しだけ声を明るくする。まるで、向こう側にいるその子が、ほんのわずかでも揺れるのを期待するかのように。
指先に触れる。温かい。
「今日はいい天気だよ」
カーテンの隙間から差し込む光が、子どもの頬に落ちる。その光さえも、母にはまるで“ゆりかごのガラス”に遮られているように思えた。
——どうして?
何度も、何度も、同じ問いが胸をよぎる。
かつては笑っていた。小さな声で泣いていた。手を握り返してくれたこともあった。確かに、同じ世界にいたはずなのに。
今は、そのすべてが遠い。
透明なゆりかごの中で、その子は静かに揺れている。時間だけが流れ、母だけがこちら側に取り残されている。
「ねえ」
母はそっと額に触れる。
「ここにいるよ」
それは、子どもに向けた言葉なのか、それとも自分に言い聞かせているのか、もうわからなかった。
心の中の不安を振り払うように、我が子に手を伸ばす。でも、すぐにその手は力無く下ろされてしまう。まるで、そこに透明な仕切りがあるかのように。
その時、ふと母は思った。
もしかしたら——
透明なゆりかごに閉じ込められているのは、この子だけではないのかもしれない、と。
自分もまた、同じ場所の外側に閉じ込められているのではないか。触れたいと願いながら、触れられない場所に。
「寒くない?」
返事はない。
けれど、その問いを投げかけることで、母はかろうじて繋がっていられる気がした。
繋がりは、言葉ではなく、行為の中にあるのかもしれない。毎日体を拭き、髪を整え、手を握る。その一つ一つが、ガラス越しに触れるための方法なのだと。
完全には届かない。それでも、ゼロではないと信じるために。
夜になると、部屋はさらに静かになる。
母は椅子に座り、じっと子どもを見つめる。
透明なゆりかごは、夜になるといっそう厚くなる気がした。闇の中で、その境界線は見えなくなり、ただ“届かない”という感覚だけが残る。
それでも母は、手を伸ばす。
空を切るようなその仕草を、何度も繰り返す。
「大丈夫」
かすれた声で、そう言う。
それがどちらに向けられた言葉なのか、やはりわからない。
けれど、その瞬間——
ほんのわずかに、指先がぴくりと動いたような気がした。
気のせいかもしれない。そう思いながらも、母は息を止める。
「……今」
声が震える。
もう一度、そっと手を握る。
透明なゆりかごは、まだそこにある。確かにある。壊れたわけではない。
それでも——
ほんの一瞬だけ、その表面に、小さなひびが入ったような気がした。
母はそのひびに、祈るように触れる。
「ここにいるよ」
今度は、少しだけ確信を込めて。
届かないかもしれない。それでも、確かに“何か”は揺れた。
透明なゆりかごの向こう側で。
そしてこちら側でも。




