表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

透明なゆりかご

掲載日:2026/04/27

静かな部屋だった。時計の針の音だけが、やけに大きく響く。


ベッドの上には、ほとんど動くことのない小さな体が横たわっている。呼吸はある。脈もある。けれど、その子の世界がどこにあるのか、母にはわからなかった。


母はよく思う。


——この子は、透明なゆりかごの中にいるみたいだ、と。


見えているのに、すぐ近くにいるのに、まるで違う場所にいるかのような。声をかけても、その言葉が届いているのかどうか、確かめる術がない。


「おはよう」


毎朝、同じ言葉をかける。返事はない。それでも母は、少しだけ声を明るくする。まるで、向こう側にいるその子が、ほんのわずかでも揺れるのを期待するかのように。


指先に触れる。温かい。


「今日はいい天気だよ」


カーテンの隙間から差し込む光が、子どもの頬に落ちる。その光さえも、母にはまるで“ゆりかごのガラス”に遮られているように思えた。




——どうして?


何度も、何度も、同じ問いが胸をよぎる。


かつては笑っていた。小さな声で泣いていた。手を握り返してくれたこともあった。確かに、同じ世界にいたはずなのに。


今は、そのすべてが遠い。


透明なゆりかごの中で、その子は静かに揺れている。時間だけが流れ、母だけがこちら側に取り残されている。


「ねえ」


母はそっと額に触れる。


「ここにいるよ」


それは、子どもに向けた言葉なのか、それとも自分に言い聞かせているのか、もうわからなかった。


心の中の不安を振り払うように、我が子に手を伸ばす。でも、すぐにその手は力無く下ろされてしまう。まるで、そこに透明な仕切りがあるかのように。



その時、ふと母は思った。


もしかしたら——


透明なゆりかごに閉じ込められているのは、この子だけではないのかもしれない、と。


自分もまた、同じ場所の外側に閉じ込められているのではないか。触れたいと願いながら、触れられない場所に。


「寒くない?」


返事はない。


けれど、その問いを投げかけることで、母はかろうじて繋がっていられる気がした。


繋がりは、言葉ではなく、行為の中にあるのかもしれない。毎日体を拭き、髪を整え、手を握る。その一つ一つが、ガラス越しに触れるための方法なのだと。


完全には届かない。それでも、ゼロではないと信じるために。


夜になると、部屋はさらに静かになる。


母は椅子に座り、じっと子どもを見つめる。


透明なゆりかごは、夜になるといっそう厚くなる気がした。闇の中で、その境界線は見えなくなり、ただ“届かない”という感覚だけが残る。


それでも母は、手を伸ばす。


空を切るようなその仕草を、何度も繰り返す。


「大丈夫」


かすれた声で、そう言う。


それがどちらに向けられた言葉なのか、やはりわからない。


けれど、その瞬間——


ほんのわずかに、指先がぴくりと動いたような気がした。


気のせいかもしれない。そう思いながらも、母は息を止める。


「……今」


声が震える。


もう一度、そっと手を握る。


透明なゆりかごは、まだそこにある。確かにある。壊れたわけではない。


それでも——


ほんの一瞬だけ、その表面に、小さなひびが入ったような気がした。


母はそのひびに、祈るように触れる。


「ここにいるよ」


今度は、少しだけ確信を込めて。


届かないかもしれない。それでも、確かに“何か”は揺れた。


透明なゆりかごの向こう側で。


そしてこちら側でも。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ