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悪魔、健康診断を受ける:神秘の肉体と現代医学の敗北

「メフィスト、これ。明日の朝、絶対忘れないでね」


 恵が差し出したのは、青いキャップの小さな容器——検便キットだった。

 メフィストはそれを指先でつまみ、親の仇を見るような目で凝視した。


「恵……。私は地獄の公爵だぞ。なぜ、自分の『排泄物』をプラスチックの棒で採取し、見知らぬ人間に提出せねばならんのだ。これは何の儀式だ? 屈辱の呪いか?」


「違うわよ、会社の家族優待枠で健康診断を受けさせてあげるの! 居候させる条件に『健康であること』って入れたでしょ? あなた、毎日激辛チップスとかプリンとか不摂生なんだから」


「私は悪魔だ! 病魔など、私の影を見ただけで逃げ出すわ!」


「いいから、やるの! あと、今夜9時以降は絶食。お水もダメ。明日、胃のレントゲンでバリウム飲むんだから」


 絶食。その言葉に、メフィストはかつて経験したことのない恐怖を感じた。


 翌朝、都内の健診センター。

 メフィストは借りてきた猫のように大人しく、薄っぺらな検査着に身を包んでいた。しかし、その存在感だけは隠しきれず、周囲のマダムたちの視線を釘付けにしている。


 最初の難関は、血圧測定だった。

「……はい、リラックスしてくださいねー」

 看護師がカフを巻く。シュルシュルと圧力がかかるが、モニターに表示された数値を見て、看護師の手が止まった。


「……えっ? 0 / 0 ?」


「何か問題か? 私は常に冷静沈着、心臓の鼓動などという騒々しいものは、数百年前に卒業している」


「えっ、えっ!? 故障かしら……。ちょっと、心音失礼しますね」

 看護師が聴診器を当てた。だが、聞こえてくるのはドクンドクンという鼓動ではなく、「ゴオォォォ……」という、奈落の底から吹き上がる風のような音だった。


「ひいぃっ! な、な、何この音!?」


「……。ふん、深淵の響きを聴けるとは、貴様も幸運な人間だな」


 最大の山場、「胃のレントゲン検査」がやってきた。

 メフィストは真っ白な液体バリウムが入ったコップを渡され、要塞のような機械の上に立たされた。


「はい、一気に飲んでくださいねー。台が動きますから、しっかり捕まって!」


「……これが、人間界の聖水か。泥のような味だな」


 メフィストがバリウムを飲み干した瞬間、事件は起きた。

 彼の胃の中に流し込まれた「異物」に対し、悪魔の自己防衛本能が過剰反応したのだ。


「ぐっ……!? おのれ、この白い泥……私の体内で勝手に固まろうというのか! 地獄の業火で焼き尽くしてくれる!」


「あ、動かないでください! 右回って! 逆! 逆です!」


 機械が激しく上下左右に揺れる中、メフィストの胃袋から凄まじい熱が発生した。レントゲンモニターに映し出された彼の胃は、真っ白な光を放ち、周囲の機械を電磁波で狂わせ始めた。


「熱い! 熱いぞ恵! 胃の中で超新星爆発が起きている!」


「メフィスト、静かにして! 機械が壊れるー!」


 二時間後。

 フラフラになったメフィストと、平謝りする恵は健診センターを後にした。

 手に渡された速報の結果用紙には、すべての項目に『判定不能』『要再検査(専門機関、あるいは神社)』というスタンプが押されていた。


「……恵。二度とだ。二度と、あの『白い泥』を飲ませるな。私はあやうく、自らの胃袋の中に新たな銀河を創生するところだった」


「ごめんごめん、まさかバリウムで発火するとは思わなかったわよ……。でも、視力だけは異常に良かったわね。両目とも5.0って、マサイ族か悪魔かどっちかよ」


「……当たり前だ。私は千の闇を見通す目を持っている」


 メフィストはそう言いながら、健診でもらった「お食事券」を恵に差し出した。

「それより、空腹だ。契約に基づき、最高に甘いパンケーキを私に捧げろ。バリウムの味を上書きせねば、今すぐこの街を地獄の門に変えてしまうかもしれん」


「はいはい、わかったわよ。ご苦労様、悪魔さん」


 こうして、現代医学に勝利(?)したメフィストは、パンケーキという名の平和な報酬を得るために、再び恵の後を追うのだった。

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