悪魔、家出する:賞味期限とプライドの境界線
事の始まりは、本当に些細なことだった。
「……メフィスト。私の『極上とろけるプリン』、食べたでしょ」
仕事から帰宅した恵が、冷蔵庫を開けたまま低い声で言った。そこには、彼女が自分へのご褒美として奮発して買った、一個500円もする高級プリンの空き容器が、無造作に置かれていたのだ。
「ああ、あれか。賞味期限が数時間後に迫っていた。放置して腐らせるのは、食材への冒涜だと思って私が『処理』してやったのだ。感謝してほしいものだな」
メフィストはソファで優雅に足を組み、テレビのバラエティ番組を見ながら鼻で笑った。
「感謝!? あれ、私が一週間楽しみにしてたのよ! しかも空容器をそのままにするなんて、性格悪すぎ! 悪魔以前に同居人としてサイテー!」
「何だと? 貴様、私を誰だと思っている! 私は貴方の魂を……」
「魂、魂ってうるさいわね! そんなに欲しいなら今すぐ持ってけば!? その代わり、もう私の家には一歩も入れないから!」
「……っ! よかろう! そこまで言うなら、こちらから願い下げだ。こんな狭苦しい2DK、今日限りでさらばだ! 地獄に帰らせてもらう!」
メフィストは立ち上がり、黒いマント(の代わりの高級ジャケット)を翻して、玄関のドアを激しく叩きつけた。
「……ふん。せいぜい後悔するがいい、恵」
夜の街に飛び出したメフィストは、公園のベンチに座り、夜空を見上げた。
本来ならここで指を鳴らし、次元の裂け目を作って地獄へ凱旋するはずだった。だが、なぜかその指が動かない。
「(……待てよ。今ここで帰れば、私は『プリン一個で女に追い出された悪魔』として、永遠に魔界の笑いものになるのではないか?)」
それは悪魔のプライドが許さなかった。せめて彼女が泣いて謝ってくるまでは、この世界に留まり、圧倒的な優位性を見せつけなければならない。
しかし、夜風は思いのほか冷たかった。
「(……寒い。地獄の業火が恋しい……。いや、それよりも恵の焼いた、あの少し焦げたトーストの方が……)」
一時間が経過した。メフィストが「野良猫」と睨み合いをしていると、コンビニ袋を提げた一人の若者が通りかかった。
「あれ? メフィストさんじゃないっすか。こんなところで何してるんすか?」
それは、先日のライブ会場で知り合ったオタク仲間の青年だった。
「……ああ、君か。私は今、今後の世界情勢と魂の再配置について思索に耽っていたところだ」
「へぇー、大変っすね。あ、これ、新作の『ルシ様監修・悪魔の激辛チップス』っす。一袋余ってるんで、あげますよ。じゃ!」
渡されたスナック菓子。メフィストはそれを開け、一枚口に運んだ。
「……辛い。だが、止まらん。……悔しいが、この世界の娯楽は、悪魔をダメにする毒が強すぎる……」
深夜2時。
恵が「言い過ぎたかな……」と少し反省しながら玄関の鍵を開けたままにしていると、カチャリと音がした。
そこには、髪に小さな落ち葉をつけ、激辛チップスの袋を大事そうに抱えたメフィストが立っていた。
「……帰ったの」
「勘違いするな。貴方の魂が、プリンの恨みで曇ってしまうのを防ぎに来ただけだ。……あと、これは途中で拾った……いや、貰った菓子だ。貴方にも少し分けてやろう」
「……ふふっ。何それ、お土産?」
恵が笑うと、メフィストは気まずそうに視線を逸らした。
「それから……明日の朝食だが。あの『プリン』と同等の糖度を持つフレンチトーストを私が作ってやってもいい。材料はあるか?」
「……卵と牛乳ならあるわよ。仲直りね、メフィスト」
「仲直りなどという生易しいものではない。これは高度な政治的妥協だ」
そう言いながら、メフィストはキッチンへ向かい、手際よくフライパンを準備し始めた。
地獄に帰るという宣言は、どこへやら。
悪魔は今日も、2DKの平和(と冷蔵庫の中身)を守るために、エプロンを締めるのであった。




