悪魔、G(ゴキブリ)に遭遇する:恐怖の六本足襲来
その日の夜も、恵は残業で遅くなった。メフィストは恵の帰りを待つ間、借りてきた最新の電子書籍(中身は「現代経済学入門」)を読んでいた。彼は「人間界の知識は、魂を狩る上で必要不可欠」と豪語している。
深夜、恵がようやく帰宅し、いつものようにシャワーを浴び始めた。
メフィストはキッチンで、恵のために用意したハーブティーをカップに注いでいた。完璧な温度、完璧な香り。悪魔の手にかかれば、どんな日常品も一級品へと昇華される。
「ふん、人間どもの飲み物も、突き詰めれば悪くない。魂を清める効果はないが……」
その時だった。
シンクの排水溝の影から、漆黒の閃光が走り抜けた。
「……ん?」
メフィストはカップを持つ手を止めた。
それは、体長わずか数センチメートル。カサカサと小刻みに動き、六本の足で地面を滑るように進む、小さな生き物だった。
メフィストは数千年の歴史の中で、数多の魔物を見てきた。地獄の業火に焼かれる巨大なケルベロス、魂を喰らうリリスの眷属、人類の精神を破壊する旧支配者の落とし子。それらのいかなるものも、彼の魂を震わせることはなかった。
しかし、目の前の「それ」は違った。
「……これは、何だ?」
メフィストは困惑した。その生物からは、魔力も、邪悪な魂の匂いもしない。ただ、純粋な「嫌悪感」と、生物としての根源的な「不快さ」だけが溢れ出している。
カサカサ、カサカサ。
生物は、メフィストの足元を横切ろうとした。
「動くな、忌々しい……虫けらめ」
メフィストは魔力を込めた指先を向けた。
普段なら、指パッチン一つで空間を捻じ曲げ、宇宙の法則すら書き換えられる。だが、なぜかその漆黒の生物に対しては、魔力が発動しない。
いや、発動はしている。しかし、彼の全神経が「触りたくない」という感情に支配され、その魔力は「触らずに遠隔で排除する」という、途方もなく複雑な演算を強制されていたのだ。
生物は止まらない。メフィストのつま先に、その触覚が触れた。
「ひゃっ……!?」
悪魔の喉から、奇妙な悲鳴が漏れた。
彼は反射的に椅子の上に飛び乗り、完璧なバランスで片足立ちになった。
「な、なんだこれは!? この吐き気を催すような動き、この漆黒の光沢! まるで地獄の底から湧き上がったような冒涜的な存在……!」
彼はシンクに置かれていた「食器用洗剤」を掴み、それに向けて恐る恐る噴射した。
「ちょっとメフィスト! 何か叫んでなかった? 大丈夫!?」
浴室から、シャワーの音にかき消されそうな恵の声が聞こえてきた。
メフィストは震える声で叫んだ。
「恵! 大至急、ここへ来い! 未知の、極めて強力な、そして尋常ではない『地獄の眷属』が、この台所に侵入した! 私の魔力をもってしても、直接接触は不可能だ!」
「えー、またあなたの妄想でしょー? 疲れてるんだから早く寝てよ」
「違う! これを見ろ! この忌々しい、漆黒の……その、Gというやつだ!」
メフィストは震える指で、シンクの隙間に隠れようとするゴキブリを指差した。
洗剤をかけられ、動きが鈍ったゴキブリが、最後の力を振り絞ってカサカサとシンクの裏側へと消えていく。
「くっ……! 逃げ足だけは一流か! 逃がすものか!」
メフィストは椅子から飛び降りようとしたが、ゴキブリが再び姿を現した瞬間、彼は悲鳴を上げて再び椅子の上に飛び乗った。
「うわあああぁぁあ! 見るな、私を見るな、冒涜的な存在めが!」
そのパニックぶりは、かつて数多の英雄たちを恐怖に陥れた悪魔と同一人物とは思えないものだった。
シャワーを終えた恵が、髪を拭きながらキッチンへやってきた。
そこで彼女が見たのは、椅子の上に立ち尽くし、食器用洗剤を構え、震えながら一点を凝視するメフィストの姿だった。
「……え、何してるの? 変な踊り?」
「恵! 来たな! 見ろ、あれだ! あれが、貴様の言う『G』というものか! なんてことだ、これほどの恐怖を、人間は日常的に体験しているのか!?」
恵はメフィストの指差す先を見た。そこには、食器用洗剤でベトベトになり、瀕死の状態でひっくり返っているゴキブリがいた。
「……え、これ? メフィストがこんなに騒ぐから、てっきり何かすごい魔物かと思ったわ。普通のGじゃん」
恵は冷静に、ティッシュを数枚重ねて掴み、ゴキブリを包んだ。そして、そのままゴミ箱にポイと捨てた。
「……な……?」
あまりにあっさりとした恵の行動に、メフィストは呆然とした。
「貴様、あれほどの冒涜的な存在を、素手で……いや、紙とはいえ、たった数枚の紙切れで触れたというのか!?」
「別に。慣れてるし。ゴキブリなんて、見つけたらティッシュで潰すか、殺虫剤でシューするもんでしょ。はい、一件落着」
恵はパタリと電気を消し、メフィストに言う。
「もう大丈夫だから、さっさと寝なさい。変な汁が出てるわよ」
メフィストは、自分の手に食器用洗剤が付着しているのを見て、深く息を吐いた。
その夜、彼は初めて「日常生活の理不尽な恐怖」を知ったのだった。




