悪魔、スーパーの特売に挑む:特上和牛とプライドの衝突
「メフィスト、これを見て」
ある火曜日の夜。恵は食卓に家計簿を広げ、真剣な面持ちでメフィストを呼び出した。
メフィストは、なぜか恵に買い与えられた「私は悪魔です」というシュールなロゴ入りのエプロンを締め、優雅にコーヒーを啜っている。
「なんだ、それは。新たな召喚の陣か?」
「いいえ、今月の食費の残高よ。……あと三千円しかないわ。今月あと一週間もあるのに」
恵は頭を抱えた。悪魔を居候させてからというもの、食卓の質は上がったが、メフィストが「最高の魂には最高の肉を」と勝手に高級食材を魔法で召喚(厳密には近所の精肉店から『転送』)したおかげで、財布が悲鳴を上げているのだ。
「いい? 魔法で肉を持ってくるのは厳禁! 万引きと一緒なんだから。明日、駅前のスーパーで『火曜夕暮れ市』があるわ。予算は二千円。これで一週間分のメイン食材を買ってきて」
「……この私に、人間の集落で物乞いのような真似をせよと? 指を鳴らせば、黄金に輝く牛の一頭くらい……」
「魔法禁止! 自力で安くて良いものを手に入れるのが、今のあなたの『ミッション』よ。失敗したら、その高級スーツ、メルカリで売るからね」
「……っ! 分かった、やればいいのだろう、やれば!」
翌日の午後五時。駅前のスーパー「サンライズ・マート」は、熱気に包まれていた。
BGMとして流れるチープな「お買い物マーチ」が、メフィストには戦いの角笛のように聞こえた。
「(ふん、安いものを選ぶなど、悪魔の鑑定眼をもってすれば容易いこと)」
メフィストは優雅にカートを押し、精肉コーナーへ向かった。しかし、そこで彼は絶句した。
そこには、半額シールを待つ、あるいは特売の和牛を狙う「プロの主婦」たちの、目に見えない覇気が渦巻いていたのだ。
「……なんだ、このプレッシャーは。かつて対峙した大天使ミカエルの後光に近いものがあるぞ」
ターゲットは、通常二千円の『特上和牛・切り落とし』。これがタイムセールで「九百円」になる。
店員がシールを手に現れた瞬間、空気が変わった。
「さあ、愚かな人間どもよ。悪魔の速度に勝てると思うな……!」
メフィストは手を伸ばした。だが、その瞬間。
「ちょっとごめんなさいねっ!」
横から飛んできた、推定年齢六十八歳の小柄な女性の肘打ち(シャープなバックブロー)が、メフィストの脇腹を完璧に捉えた。
「ぐふっ……!?」
「はい、これ私のね!」
和牛のパックは、メフィストの指先をかすめて、女性の籠の中へ消えた。
悪魔は驚愕した。魔法を使っていないとはいえ、彼は身体能力も高いはず。それを、ただの人間が、しかも「安さへの執念」だけで凌駕したのだ。
「おのれ……。今の私には『魔法禁止』という呪いがかかっているとはいえ、ここまで翻弄されるとは。だが、まだだ。次は……あちらの『たまご一個十円』の列……!」
メフィストは、乱れた髪を掻き上げ、必死の形相で列に並んだ。後ろから来たおばちゃんに「並ぶなら最後尾よ!」と叱られ、素直に「すみません」と謝りながら、彼は震えていた。
(……何をしているんだ、私は。なぜ一パックの卵のために、見知らぬ人間に頭を下げている……?)
しかし、その時。彼の脳裏に、昨夜「お肉食べたいなぁ」と力なく笑った、恵の疲れきった顔が浮かんだ。
「……私の獲物を、あんな貧相な顔にしたままにはできん。魂の価値が下がるからな」
夜、恵が帰宅すると、キッチンには誇らしげに胸を張るメフィストが立っていた。
「……おかえり、恵。戦果を確認しろ」
食卓には、見事に予算内で収められた特売の和牛(少しパックに凹みがあるが)、十円の卵、そして見切り品の小松菜が並んでいた。
「すごっ! メフィスト、本当に自力で買ってきたの!? あの戦場みたいなスーパーで?」
「ふん。数多の魂を狩ってきた私にとって、特売の肉を狩るなど……造作もないことだ(嘘だ、死ぬかと思った)」
恵は「すごい、すごい!」と喜び、メフィストの手を握ってぶんぶん振った。
「これで今週、しのげるわ! ありがとう、メフィスト。あなた、意外と頼りになるじゃない!」
「……っ。当然だ。貴方が満足し、『時よ止まれ』と言うその日まで、私は貴方の傍を離れん」
メフィストはそっぽを向いたが、その耳の先は少し赤くなっていた。
安っぽいスーパーのビニール袋のガサガサという音が、今の彼には、どんな讃美歌よりも心地よく響いていた。




