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最終回:時よ止まれ

 地獄のピクニックから数日後。羽生家のアパートには、かつてない緊張感が漂っていた。

 リビングのソファには、恵の父(頑固一徹な地方公務員)と母が、仁王立ちで座っている。その視線の先には、正座をして(悪魔なのに!)冷や汗を流すメフィストの姿があった。


「……で。君は、娘の何なんだね? 職業は? 年収は? そもそもその、浮世離れした格好は何だ!」


 父の怒号が飛ぶ。メフィストは数千年の歴史で初めて、「恐怖」という感情を理解した。地獄の業火よりも、義父の眼光の方がよほど身を焼く。


「お、お父さん、落ち着いて! 彼は、その……私の人生を『管理』してくれてる人で……」


「管理!? 恵、お前、この男に騙されてるんじゃないのか!」


 メフィストは深呼吸をした。そして、スッと背筋を伸ばし、琥珀色の瞳で真っ直ぐに父を見据えた。


「お義父様。……私は、彼女の魂を狙う者です。彼女が人生の絶頂に達したその時、すべてを奪う……それが私の、本来の役目でした」


「……はぁ? 宗教か何かか?」


「ですが」メフィストは言葉を続けた。「彼女と過ごした日々は、私の永遠の渇きを潤してしまった。……私は、彼女を地獄へ連れて行くことよりも、彼女が明日、何を食べて笑うかを見守ることの方が……重要になってしまったのです」


「……もういいわ、メフィスト」


 恵が静かに立ち上がり、メフィストの隣に座った。そして、かつて彼がプレゼントした三千円のシルバーリングが光る手を、彼の冷たい手に重ねた。


 その瞬間、世界から音が消えた。

 両親の動きが止まり、窓の外を流れる雲も、街の喧騒も、すべてが静止する。メフィストが、無意識に「悪魔の権能」で時間を止めてしまったのだ。


「恵、どうして……」


「私、わかっちゃった。あなたが私を地獄に連れて行けない理由」


 恵はメフィストを見つめ、今までで一番穏やかで、一番美しい微笑みを浮かべた。

 それは、彼が何千年も待ち望んでいた、魂の完熟の瞬間だった。


「メフィスト。……私、今、すっごく幸せだよ。あなたと一緒にプリンを食べて、特売に並んで、推し活して……。こんなにくだらなくて、あったかい毎日が続くなら……」


 恵の唇が動く。メフィストはそれを止めなければならなかった。その言葉を言わせてしまえば、契約は成立し、彼女の魂は消滅してしまう。


「……『時よ止まれ、お前はいかにも美しい』」


 カラン、と乾いた音がした。

 宙に浮かんでいた炎の契約書が、真っ白な灰となって崩れ落ちていく。


 メフィストの目から、一筋の光がこぼれた。悪魔には流せないはずの、透明な涙だ。

 契約は成立した。本来なら、恵の魂は今すぐ彼のコレクションに加わるはずだった。


「……嫌だ」


 メフィストは、消えゆく契約書の残骸を掴み取った。

「私は悪魔だ。契約は絶対だ。……だが、地獄の法典よりも、私の心がそれを拒絶している!」


 メフィストは、自らの内に眠る膨大な魔力を、契約の履行ではなく「代償」として捧げた。

 悪魔の地位、不老不死の体、そして積み上げてきたすべての権能。それらすべてを「恵の魂」の買い戻しに充てたのだ。


「……メフィスト!?」


 光が収まると、そこには以前と変わらぬ2DKのリビングがあった。

 両親は「……で、結婚するのかしないのか、はっきりせんか!」と、止まっていた時間の続きを怒鳴っている。


 しかし、メフィストの変化に気づいたのは、恵だけだった。

 彼の瞳から赤い燐光が消え、どこか人間らしい、温かな光が宿っている。


「……消えたわ。あなたの、怖いオーラ」


「フン。……高くついたぞ、恵。私は今、ただの『一文無しの、顔が良いだけの男』に成り下がった」


 メフィストは、少し照れくさそうに頭を掻いた。

「……職を探さねばならんな。貴様を養い、あの『三千万の石』を、今度は自分の金で買うために」


 数年後。

 商店街を、買い物袋を提げて歩く夫婦の姿があった。

 夫は、相変わらず「この肉の鮮度は魔界の基準に達していない」とブツブツ文句を言いながら、妻の荷物をすべて持っている。


「あ、メフィスト! 見て、ルシファーの新作ポスター!」


「……恵。いい加減にしろ。私はもう、アイドルのチケット代のために残業するのは御免だぞ」


「何言ってるの。あなたが一番、ファンクラブの更新楽しみにしてるじゃない」


「……それは、市場調査だと言っているだろう」


 二人は笑い合いながら、夕焼けに染まるアパートへと帰っていく。

 かつての悪魔と、現代の女性。

 魂を奪い合う契約は終わったが、彼らの間には、もっと強固で、もっと解けない「愛」という名の契約が、永遠に続いていく。


 地獄の門は閉ざされた。

 だが、その代わりに開いたのは、温かな食卓と、二人で歩む、どこまでも平凡で、どこまでも美しい「続き」の物語だった。

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