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悪魔、看病する:氷枕と禁じられた呪文

 いつもなら、玄関を開けると「おかえり、恵。今日の献立だが……」と、エプロン姿の悪魔が能書きを垂れているはずだった。


 しかし、その日のアパートは静まり返っていた。

 恵は昨夜から喉の違和感を覚えていたが、今朝ついに熱が爆発。会社を休み、布団の中でガタガタと震えていた。


「……メフィスト……」


 掠れた声で呼ぶと、枕元にスッと黒い影が落ちた。

 メフィストは、見たこともないほど険しい表情で、恵の額を見下ろしていた。


「恵……貴様の魂の色が、どぶ泥のように濁っているぞ。これは一体どういうことだ。何らかの呪いか? 敵対する悪魔の仕業か?」


「……ただの、風邪よ。季節の変わり目だから……。あ、あつい……」


「風邪だと? そんな脆弱なものに、我が契約者が屈するというのか!」


 メフィストは焦っていた。彼にとって恵の魂は「最高の状態で収穫すべき果実」だ。病気などで萎びさせてなるものか。

 彼は指を鳴らし、虚空から古びた革表紙の書物を取り出した。


「案ずるな、恵。今すぐ地獄の特効薬を調合してやろう。まずは『嘆きの沼に棲むトカゲの肝』と『呪われたマンドラゴラの叫びの抽出液』、それに……」


「……待って……死ぬ。そんなの飲んだら、風邪の前に私が死んじゃう……」


 恵は弱々しく、メフィストの裾を掴んだ。

「普通に……ポカリスエットと、冷えピタ……買ってきて……」


「ポカリ……? 冷えピタ? 待て、それはどの魔導書に記されている秘薬だ? 検索(Google)しても、組成式が出てこんぞ!」


「近所のドラッグストアに……売ってるから……。あと、ゼリー……」


 十分後。メフィストは駅前のドラッグストア「マツモトキヨシ」に降臨していた。

 彼の瞳には、かつてないほどの殺気が宿っている。


「(ええい、どこだ! 我が主の命を繋ぐという『ポカリ』なる聖水は……!)」


 彼は陳列棚を片っ端からスキャンし、ついに目的の物を見つけた。

 レジの店員は、全身から凄まじい威圧感を放つ美青年が、カゴいっぱいに冷えピタ、ゼリー、スポーツドリンク、そして「お子様用いちご味の風邪シロップ」を詰め込んでいる姿を見て、恐怖に震えながら会計を済ませた。


「……あ、あの、5,400円になります……」


「取っておけ。釣りは貴様の来世の運勢に上乗せしてやろう」


 メフィストは万札を叩きつけ、光の速さ(物理)でアパートへと帰還した。


「……ほら、恵。買ってきたぞ。この『ヒエピタ』とかいう魔具を額に貼ればいいのだな」


 メフィストは慣れない手つきで、恵の熱い額にジェルシートを貼った。

「あ……つめたい。気持ちいい……」


「……フン。人間とは、これほどまでにか弱い存在だったのだな。目に見えぬ小さな微粒子に、その全生命を脅かされるとは」


 メフィストは、眠りにつこうとする恵の隣に座り、彼女の細い指先をそっと握った。

 彼の魔力を少しだけ流し込み、彼女の体温を最適な状態に調整する。それは本来、契約に含まれていない「無償の奉仕」だった。


「ねえ、メフィスト……」

「何だ」

「……私がいなくなったら、魂、取れないわよ。だから……ちゃんと治してね」


「……言われずとも分かっている。貴様が『幸せだ』と絶頂を感じるまでは、死ぬことすら私が許さん。……地獄の王の名にかけてな」


 恵が静かな寝息を立て始めると、メフィストはふと自嘲気味に笑った。

(……魂を奪うはずの私が、寝ずの番で病魔を追い払うなど。これではまるで……)


 窓の外では、春の夜風が静かに吹いていた。

 翌朝、恵が目を覚ますと、枕元には「完璧な温度の白湯」と、少し形はいびつだが「皮が綺麗に剥かれたリンゴ」が並んでいたという。

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