2DKの召喚儀式:コンビニ弁当と悪魔の誘惑
羽生 恵、28歳。中堅の広告代理店で働く、どこにでもいる会社員だ。
今日も残業を終え、最寄り駅のコンビニで買った「半額の幕の内弁当」と「発泡酒」をぶら下げて、築15年のアパートに辿り着いた。
「ただいま……って、誰もいないか」
テレビをつける気力もなく、床に座り込んでプルタブを開ける。
仕事はミス続き。後輩には追い抜かれ、期待していたプロジェクトからは外された。SNSを開けば、同級生たちの結婚報告やキラキラした日常が嫌でも目に飛び込んでくる。
「一生懸命やってるつもりなんだけどな……」
一口飲んだビールは、彼女の心と同じようにぬるかった。
ふと、窓に映った自分の顔を見る。疲れ果て、生気を失った瞳。このまま、誰にも必要とされず、何者にもなれずに、ただ老いていくのだろうか。
「……もう、嫌になっちゃった。誰でもいいから、私をここから連れ出してよ。魂くらい、喜んであげるからさ」
冗談のつもりだった。自嘲気味な独り言。
だが、その瞬間に「それ、正式なオファーとして受理してもよろしいですか?」という声が、耳元で響いた。
「ひゃあぁっ!?」
恵はビールをひっくり返し、尻もちをついた。
狭い2DKのキッチン。冷蔵庫の前に、場違いなほど美しい男が立っていた。
夜の闇を溶かしたような黒い髪、彫刻のように整った鼻筋、そして悪戯っぽく光る琥珀色の瞳。男は高級なスーツの皺をひとつ叩き、優雅に一礼した。
「初めまして、羽生恵。私はメフィスト。貴方の切実な『ご招待』に応じ、地獄の果てから馳せ参じました」
「え、え……!? 空き巣? それともコスプレの変質者……!?」
「失礼な。私は悪魔ですよ。ほら、尻尾は見せられませんが、この通り」
メフィストが指をパチンと鳴らすと、ひっくり返ったビールが意思を持ったように空中で丸まり、缶の中へ逆流して戻っていった。ついでに床のシミまで消えている。
「……マジで?」
「マジです。さあ、契約を結びましょう。私は貴方の望みをすべて叶えます。仕事の成功、永遠の美、あるいは、あのご近所の騒がしい犬を静かにさせることまで。その代わり——」
メフィストは恵に歩み寄り、彼女の顎を指先でクイと持ち上げた。
「貴方が心から幸せを感じ、『時よ止まれ、お前はいかにも美しい』と口にしたその時、貴方の魂をいただきます」
恵は数秒間、メフィストの顔をじっと見つめていた。
悪魔の誘惑、魂の契約。普通なら恐怖で震えるか、欲に目がくらむ場面だ。
だが、恵の口から出たのは、深いため息だった。
「……悪いけど、帰ってくれる?」
「……はい?」
メフィストの美しい顔が、初めて困惑に歪んだ。
「だって、怪しすぎるでしょ。魂って言われてもピンとこないし、そもそも私、明日も朝7時に起きなきゃいけないの。仕事の成功? 結局それ、私がもっと働かされるってことじゃない。もう、疲れんのよ」
「いや、私が魔法で調整すれば、貴方は指一本動かさずとも……」
「いい。自分の力じゃない成功なんて、後で絶対ツケが回ってくるもん。悪魔のローンなんて一番怖いわよ。悪いけど、帰って。不法侵入で通報する気力もないから」
恵は力なく手を振り、再び床に座り込んで弁当の蓋を開けた。
メフィストは固まった。
かつての哲学者や英雄たちは、彼が登場しただけで絶望するか、歓喜して契約書に飛びついたものだ。
それが、この「28歳・疲労困憊女子」には、地獄の誘惑すら届かない。
(この私が、拒絶された……? 弁当の唐揚げ以下の価値だというのか!?)
悪魔のプライドに火がついた。いや、むしろ「何としてもこの女に『最高だ』と言わせてやりたい」という、妙な執着が芽生えてしまった。
「……分かりました。契約が結べないのは、私のプレゼン不足だ。ならば、まずは『お試し期間』といきましょう」
「お試し?」
「私はこの部屋に留まり、貴方の生活をサポートします。報酬は、私を追い出さないこと。それだけでいい。貴方の口から『最高だ』という言葉を引き出してみせる」
「えぇ……。家賃も払わないのに居座るの? せめて家事くらいしてくれないと困るんだけど」
「……やろうではないか。料理でも洗濯でも、地獄の軍勢を率いたこの私に、こなせぬことなどない!」
こうして、史上最強の悪魔メフィストは、狭い2DKのアパートで「家事手伝い」から再出発することになった。
翌朝、恵がアラームで目を覚ますと、キッチンから信じられないほど良い香りが漂ってきた。
「……悪魔さん、本当にいたんだ。しかも、味噌汁作ってる……」
恵とメフィストの、奇妙でコミカルな同居生活が幕を開けた。
誤って削除してしまったものを再掲させて頂きました。内容に変更はありません。評価してくださった方、お気に入り追加してくださった方、ありがとうございました。




