晴らし晴れる
眩しいくらいに晴れた空には雲の姿はない。透き通った青が、どこまでも続いている。気持ちの良い天気だ。
しかし、ハンドルを握る実乃莉は空に見向きもしない。まっすぐ前を向いて、車を走らせている。静かな車内。ウインカーの音が、やけに大きく聞こえる。
平日の昼間ということもあって、スムーズに目的地に辿り着いた。駐車場に車を停め、貴重品の入った小さめのショルダーバッグを持って降車する。どこかにいる蝉たちの合唱と波の音が、同時に耳に入ってきた。
実乃莉はショコラブラウンの長い髪を靡かせ、駐車場内に置かれている自動販売機に向かう。
商品のラインナップを一通り確認し、缶のサイダーを一本購入した。それを手に、海辺へ続く階段を下りる。足元が、コンクリートから柔らかい砂に変わった。歩くたびにサンダルに砂が入ってくるが、気にしない。
すると、ベンチ代わりになりそうな大きな流木を見つけた。迷わず腰掛ける。
早々に缶のフタを開け、勢いよく飲んだ。ピリピリと喉を通る刺激が気持ちいい。
「……ふぅ」
半分ほどの量を飲み、小さく息を吐く。途端にげっぷが出てしまった。慌てて周囲を見回す。さほど大きな音ではなかったが、誰かに聞かれていたら恥ずかしい。
幸いにも人影は疎らで、こちらに視線を向けている者はいない。
「……というか、波の音で聞こえないか」
小さく笑い、またサイダーを口にする。
そうしていると、少し離れた場所から若い男女の笑い声が聞こえてきた。無意識に視界に入れてしまう。
自分と同年代と思しき二人組。カップルであろう彼らは、砂浜で何かを作って遊んでいた。
(あなたたちは、そのまま幸せでいてね)
男女二人に心の中で話しかける。
その脳裏には、昨夜のことがよぎった。
実乃莉は、仕事終わりに恋人とデートの約束をしていた。しかし、彼の体調が芳しくないということで、予定はキャンセル。彼には一度断られたが、心配だからと内緒で看病に行くことにした。
定時に退社し、ドリンクなど必要な物を買い揃えて彼が住むマンションへ向かった。
合鍵を使って静かに部屋に入る。玄関には彼の靴と、見知らぬクリアサンダル。明らかに女性のもの。
部屋の奥からは楽しげに話す二人の声。
眉を顰める実乃莉は、忍び足で部屋に上がった。リビングに続くドアを勢いよく開ける。
仲睦まじく抱き合う男と女。距離の近い二つの顔がこちらを見ている。一瞬にして心が冷めたのが分かった。
青ざめた男の顔に目もくれず、部屋の合鍵を床に投げ捨てる。
「お邪魔でしたね、さようなら」
無機質な声で別れを告げ、部屋を出た。
「もうどうでもいいけど」
淡々とした口調の実乃莉はサイダーを飲む。少しだけ炭酸が抜けていた。
声も聞きたくない、顔も名前も見たくない。部屋を去った後、すぐに男の連絡先を消した。繋がっていたSNSも全てブロックした。
可能なら、存在自体を記憶から消したい。その一心で、自宅にあった思い出の品を全て処分した。中には、リサイクルショップに売ったものもある。
「臨時収入が入ったし、ちょっとお高めのスイーツでも買いに行こうかな」
思いついたことを口にして残りのサイダーを飲み干す。少し温いが、美味しさに変わりはない。
徐に立ち上がり、伸びをする。
「……綺麗だなぁ」
澄んだ空と太陽の光で輝く海。視界に広がる青い景色は、心を穏やかにさせた。静かな波の音に耳を傾けて深呼吸をする。清々しい気分。自然と笑みが溢れる。
「良い気晴らしになったよ。ありがとう」
呟くように海に礼を言い、足取り軽く歩き出した。階段を上りながら、サンダルに入った砂を落としていく。
手に持つ空き缶を自動販売機近くのゴミ箱に捨て、車へ戻った。エンジンをかけてカーオーディオを操作する。流れてくるのはシティポップ。
「どこのお店に行こうかな〜」
声を弾ませながら車を発進させる。今の実乃莉の脳内には、スイーツしかいない。
スピーカーから流れるメロディーに合わせて鼻歌を歌い、駐車場を後にした。