いとも容易く
ブルースの目の前に広がる光景は、踊り場から数秒前まで見ていた薄暗い部屋の全景。さっきまでの印象と比べると、ずいぶんと広い。
しかし、少年にも少女にも、一息ついている暇などなかった、というのが今述べるべき最大の関心ごとだろう。
ブルースが鏡の白い煌めきから姿を現したとき、少女が本能的に見、感じたものは、すでに彼の手で振り上げられた刃物とその尋常ではないーー殺意。
カッターナイフを逆手に、儚げな少女に向け、ブルースは飛びかかる。
血走った彼の目を真っ直ぐに見据える彼女は、それはそれは簡単に、少しの悪意と暴力で踏みにじられてしまいそうな優しい、真珠のような美しさで。
一つだけ違和感があるとすれば、奇妙なほどの冷静さである。
焦燥の色も恐怖の色も、彼女の表情には少しばかりも浮かんではいなかった。
刃の先端は、まるで引き寄せられるような整った軌跡を描き、少女の翡翠の瞳の中心を突き刺す。
そう思われた次の瞬間、寸前まで迫ったカッターの刃から火花が散り、そのままブルースの身体は何か強力な力で弾かれたように部屋の隅の壁まで突き飛ばされた。
衝撃波による爆風で、端然と佇まう少女の黒髪が靡き、覗いた眼が冷たくブルースを一瞥する。殺意の刃が向いていた部分には、彼女を護るように、真っ赤の光を放つ得体の知れない小さな結界のようなものが現れていた。
壁にもたれてうなだれるブルースは、身体中の痛みに顔を歪ませながら、その赤い物体を見て、すぐにそれが彼女を護り、自分を吹き飛ばしたのだと理解した。
そのとき、彼は自分の身体が自分のものではないような気がした。少女がこちらに掌を向けたと同時に、自らの意識とは無関係に、両腕を翼のように広げたのだ。
困惑する間もなく、掌に何かが刺さって固定されるおかしな感覚を味わう。
それから一歩遅れて、両掌を燃えるような痛みが蝕んだ。
「があああああああああああ!」
視界の片隅で少女が手を下ろすのが見えた。同時に、自分の掌を貫通し、深紅の花びらの花が壁に突き刺さっているのが判った。
血の一輪挿し。そう表現するのが良いだろうか、そんな危険な美しさがあった。
「ふうっ、ふうっ、う、ぐぅぅ…」
無様に喘ぐ自分の鼻息に紛れて、コツ、コツ、とこちらに近づく足音が聞こえる。
痛みというよりも、恐怖によって冷や汗が滝のように流れていることに、自分で驚いた。それも、こんなにも上品な恐怖。
足音が目の前で止まったのが判ると、ブルースは力なく首を上げた。
「お前、どういうつもり?」
彼女は冷ややかにそう言い放ち、ロングヘアを片手で後ろに払った。
つい先刻までの、彼女の申し訳なさそうな眼は幻だったのだろうか。今の彼女のブルースを見下ろす軽蔑しきった鋭い目付きは、戦慄の王女と言うに相応しい。
声や口調まで変わり、誰がどう見ても別人であるが、その氷のような美麗さにはブルースはゾッとするほどの魅力を感じたのだった。
あぁ、掌に空いた穴が、どくどくと愉快なリズムを刻んでいる。
そう思ってから、彼の意識は薄れていった。
◇
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