2 転移したい理由
ーー孤独。
一度目との共通点でもある「孤独」がきっと、扉を開く鍵だ。
孤独を感じたとき、あの鏡は扉に変わる。
僕は考えた。昨日、猫を楽にしてやった後、袖についた血を公園の水道で必死に洗ったこと。
あぁ、孤独だったなあ。
あの猫に頼めば、あの行為に殺害なんていう物騒な言葉じゃなく、もっと素敵な名前をつけてくれるだろうに。それでも、人に知られれば悪法に裁かれることが悲しい。寂しい。
僕はひとりぼっちだ。
あの子に会いたい。
あの綺麗な深い緑の瞳が忘れられない。黒と一言で片付けてはいけないような輝きを秘めた長い髪が忘れられない。瞳と唇に色を奪われたかのような白い肌も。
「あ、あの」
その口ごもった消えそうな声にさえ未だ、魅せられている。
「ああ、麗しの君よ!」
「ん、えぇ!? 冗談はやめてください。というか、気持ち悪いですよ」
「んふふ、僕が気持ち悪い? そうかなあ。えへ、それは…ありがとうございます」
「言葉の意味分かってます!? 誉めてねえんだよ!」
あれ、久しぶりにこんなに自然に笑ったな。
ゆっくり小さい声でしゃべっている所しか見たことがなかったから、かなり内気な女の子だという印象があったが、今のやり取りで上書きされた。
「まあ、落ち着きなよ」
「いちいち腹立つのよね...」
僕は彼女の事やそちらの世界の事、この鏡の事を彼女の口から聞きたかった。彼女は相変わらず不審そうな目でこちらを伺っている。
彼女に語りかけようとした時、僕の言葉とほとんど同時に彼女が話し始めたことに、少し驚いた。
「父から、あなたに良くするように言われてるの」
「……は?」
父? この子の? 僕に、なぜ?
「だ、だから。なんでもとは行かないけど、なにか手伝えることがあれば手伝ってやれって…」
「君のお父さんがそうしろって言ったの? この新田心に良くしてやれと?」
「ブルース? あなたそんな名前、なのね。父がなぜそう言ったのかは、私もよくわからないの」
なんだか話の腰が掴めないな。まあいい、よくわからないけどこの子が協力的であるのは確かだ。
「うん、よくわからないけどわかったよ。とりあえず僕、そっちに行くから。この鏡、くぐれるかな?」
「わ、わからない。私もくぐったことないし、そもそもこの鏡がこんな魔法の鏡だってことも、この前まで知らなかったの」
ああ。早くくぐりたい。この子の隣に行きたい。
僕は、鏡に向かって一歩、踏み出した。この一歩はきっと、大切な一歩になる。
ああ、彼女と同じ世界に行きたい。彼女の名前を知りたい。彼女の肌に触れたい。彼女を。
彼女を殺したい!
◇
自信満々で踏み出した一歩を、何らかの力に遮られた。
鏡面に触れた瞬間に、指先から伝って身体中を凄まじい悪寒が走り、後味は嫌な痛みだった。
「うぅっ!」
全身の内臓を撫でられたような気持ち悪さに、ブルースは倒れ込んだ。
「はゎ、えと、だ、大丈夫ですか?」
「君って、表情がコロコロ変わって面白いよね」
ブルースは尾を引く不快感を隠すように立ち上がりながら言った。
実際、さっきまでキレキレだったのに、ちょっと狼狽えるとはゎ、なんて言っているのが愉快だったのだ。
「なんていうか、デフォルトの時はちょっとコミュニケーション能力に欠ける感じがあるけど、僕の冗談に突っ込んだり、怒ったりするときはよく声が通るし、滑舌もよくなってない? 表情も別人みたいだ」
「それって褒めてます?」
「無論。僕は表情豊かな女の子が大好きなのさ」
「はあ、そうですか。私は父に言われたから手伝うだけですからね。鏡の話をしますけど、たぶんあなたは拒まれた。こういうときは、大体何か別の代償を用意すると解決しますよ」
そうやって彼女が話している間にも、ブルースはずっと彼女に見惚れていた。青のドレスから細い腕が出て、機嫌の悪そうな様子で胸の前に組まれている。長い黒髪の間から時折覗く真っ白な耳飾りがゆらゆら揺れて、そこはかとなく淫靡である。
「オーケイ、拒まれたから代償ね。そういう設定は飲み込みやすいよ。代償って、どんなもの? 体の一部とか?」
「うーん、違う」
「ほう」
「心」
ちょっとテンプレっぽくない解答が、新鮮だった。心とは、何のことだろう。感情を奪われるとかそんな所か? いやそれは重過ぎるか?
「感謝とか、優しさとか、愛情とか、喜びだとか、そういう正の感情のことです。そういう感情の詰まったものが代償になります。例えば手紙、とか」
「えぇ、それってラブレターを書けってこと⁉」
「ひ、飛躍しすぎですよ! 別に私に対する感情じゃなくてもいいんだし、手紙じゃなくてもいいし…あ、でも手紙が一番手っ取り早く濃い感情を乗せられるので、初心者にはおすすめです…」
この子やっぱりちょっとだけコミュ障感あるよな…。でも王道のヒロインから外れた感じがまたイイ!
しかし、思いを込めて手紙を書けば良いと言うのなら、簡単な話だ。
「相判った。今すぐ書くからちょっと待ってね。紙とペンを持ってきます」
「うん…はい」
◇
ブルースは、ボールペンで思いの丈を綴ったラブレターを二つ折りにした。とは言っても単なるノートの切れ端ではあるが。もちろん、鏡の向こうの少女に対する手紙だ。
女性に対してこんな風に恥ずかしい文章を書いたのは初めてではなかろうか。
その時彼は、大事なことを確認し忘れていたことに気が付いた。
「あ、えっとさ、これって代償なわけだから、鏡をくぐったら燃えてなくなるとか、そういう認識であってるかな?」
正直言うと、この質問を否定されると困る。読まれない前提で書いたものなのだ。
「えと、そ、そうですね。燃えはしませんが、文字は消えるはずです」
「そうか、うん」
心の中で安堵したが、ブルースはポーカーフェイスだった。
しかし、たったこれだけのことで、本当に異世界に行けるのだろうか。未だに現実味がない。
とは言っても、一般的に異世界ファンタジーでは、気づいたら転生してたっていう心の準備も糞もない雑な扱いなのだから、むしろ運がいいという見方もできる。
「私はこの鏡の正体がよくわかっていません。一度くぐってまた戻ることが可能なのかすらわかりません。本当にくぐって良いのですか?」
「僕は問題ない。この世界に執着する理由も無い。というか早くくぐりたい。もう、いいかな、行っても」
なんだか、急に気持ちが高ぶって来た。思い立ったらすぐ行動、を大切にする彼にはもう躊躇う隙すら無かった。異世界で使えそうなものを準備してから行くというアイデアはあってもいいものだが、それすら眼中になかった。
今に鏡に飛び込みそうな様子のブルースに、少女はたじろいだ様子だった。ぽかんと間抜けな表情で、数歩後ずさりする。
一方ブルースの方は、ついさっきに書いたささやかな手紙を握りしめ、昨日よりも大きな一歩で、鏡に向かって踏み出した。もしこれがありきたりな鏡だったとしたら、間違いなく粉々に割る勢いだ。
その足先が鏡に触れるその刹那、鏡全体がまばゆい輝きに包まれ、足先から全身が、溶けた保冷材のような優しい冷たさの只中にあるのを、はっきりと感じた。