無粋、又之介
一 雲仙寺 慶道
「立花又之介殿に出家していただく。」
雲仙寺の本道、読経を終えた慶道は妻のみちに語る。
「武士と僧侶の身分違いはいかんともしがたい。さわがいかに立花様を慕っても、添い遂げることはかなわぬ。
分かっていながら悩む。僧侶にあるまじきことながら、煩悩を捨て切れぬ。父として、純粋に立花様を慕っている娘を不憫に思う。」
立花又之介は雲仙寺が運営する寺子屋の師範を務めている。
事の起こりは、苦しい寺の運営の助けになればと、慶道が寺子屋を始めたことだ。やってみたら思いの外に儲からず、手間ばかり掛かった。
おまけに慶道は法事以外も出事が多いので、どうしても講義の都合かつないことがある。仕方がないから縁のある浪人を臨時の師範に雇ったら、予想以上に好評であった。それで、ちょくちょく師範代を頼むようになった。慶道よりも教え方が上手いのもあり、又之介が専任の師範となるまでさほどの時間は掛からなかった。いまでは又之介は雲仙寺の先生としてすっかり定着している。
それはよいのだが、雲仙寺には人を雇う金銭的余裕はないので、雀の涙ほどの謝礼しか払えない。人の良い又之介は不平を言わないが、元々が貧乏浪人なので、他に仕事がないときは食う物もない有様だ。
見かねた娘のさわが又之介に昼餉を振る舞うのを、金が払えない引け目がある慶雲は見て見ぬふりをしている。
又之介はよい男である。さわが慕うのも無理からぬ。又之介の方も、かいがいしく世話を焼かれて悪い気がしない。そうこうしているうちに二人は離れられぬ中になってしまった。
「それは私も同じです。かなわぬ恋に悩むさわが、哀れでなりませぬ。」と、みち。
「立花様は立派だ。教養のある人格者だ。寺子屋の子供たちにも慕われている。あれほどの逸材は、そうはいまい。しかも、さわを好いてくれている。」
みちはうなずく。
「失礼だがあの極端な清貧者がこのままで家を持てるとは思えぬ。さわを還俗させるか、立花殿が仏門にはいるか、二つに一つだ。
ならば、立花殿が僧になっていただいた方が良い。わが宗派は娶妻が認められておる。」
「はい」と、みち。
「僧籍を得るには勉学と功徳を積まねばならぬが、なに、あの清貧の御仁は学業が優秀な上に、下手な坊主よりよほど身を律しておられる。さほどの苦はなかろう。
僧籍になったところで雲仙寺にむかい入れ、さわを立花様の堂守としてめとらせれば、すべてが丸く収まる。これで雲仙寺は安泰だ。」
「その手がありました。どうして思いつかなかったのでしょう。」
二 江戸町奉行 大野 忠則
「呼び出しのは余の議にあらず。立花又之介の進退についてじゃ」
江戸町奉行所、奉行の大野忠則の自室に呼び出された与力の木下治俊は、入室した早々に声をかけられた。
「言うまでもないが、江戸の町は人が集まり、よからぬ輩も増え続けている。上様がおわすこの江戸の治安を守るためには、町奉行所に立花のような有為な人材が是非にも必要だ。」
「ははぁ」
治俊は平伏する。出来れば避けたい話だが、そうもいくまい。
「その方、本当に分かっておるのか。江戸の犯罪は年々、いや毎月増えておる。町奉行所の人手不足は酷くなるばかりじゃ。言うまでもなく、町奉行所の同心はいい加減な者には勤まらぬ。立花又之介なる者、貧困にありながら義の志を持ち、剣術も達者。そのような者を市中に埋もれさせるとは天下の損失。早う、連れて参れ。」
「御奉行のお言葉、全く持って正論にございます。されど立花の士官は、簡単にはいきませぬ。」
「地位が不足か? 三十俵二人縁とは申せ、町奉行の同心は幕臣。聞けば立花は貧困の身とか。浪々の身に比ぶれば、同心は小禄といえど何の不足があろうか。それに、いきなり高官には出来ゆえに最初は同心として召し抱えるのだ。働きにより、ゆくゆくは重職に就けようぞ。」
「さにあらず。」
「ならば、なんじゃ。」
治俊は言いよどむ。
「有り体に申せ」奉行の言葉がきつくなる。
「しからば、申し上げます。立花には相思相愛の女人がおります。立花が寺子屋の師匠を務める雲仙寺の娘、さわと申します。浪人といえど立花は士分、身分違いの恋に悩んでおります。」
忠則は真っ赤になって怒った。
「男子一生の仕事を決めるに、女のためとは何たる短慮。そのような了見では何事もなせぬ。その方、立花を盟友と申したな。真の友なら、なぜ誤りを正してやらぬ。」
このお方はそう来るだろうなあ、と治俊は思う。だから言いたくなかったのだ。
俊治は忠則の町奉行着任の頃を思い出す。忠則はお役目第一で、部下のわずかの怠惰すら許さなかった。そのあまりの厳しさに同心たちは閉口し、俊治に泣きついた。
では弱みの一つでも握ってやろうかと、忠則の身辺を探った俊治は、呆れかえった。人間、世過ぎをすれば一つや二つ、人に知られたくない違法をしてしまうものだ。が、いくら探っても、忠則にはそれがない。清廉潔白、絵に描いたような清貧を貫いている。ひたすらお役目に励み、何の遊びすらしていない。唯一の道楽は身分を隠しての町歩きだが、これすら市中の様子を知るための、役目の延長だ。そのためだろう、忠則の裁きには随所に庶民の実情を知る故の情けが入る。
町奉行になるために生まれてきたような人だな、と治俊は敬服しつつ、困った。滅私奉公は当然と言われても、ものには限度がある。四六時中お役目に励めと言われても、常人の同心たちには無理な話だ。
そうこうしているうちに治俊は忠則に呼びつけられた。
「その方、この奉行の身辺を探っておるな。いかなる所存か。」
「いえ、そのようなことは……」
「この大野忠則、貴様ごときに知られて窮することなど無いわ。」
そうなんだよなあ、と治俊は平伏しながら思う。忠則は続ける。
「わしが怒っておるのは、痛くもない腹を探られたからではない。そのようなことにかまけ、お役目をないがしろにしたことが許せぬ。貴様、与力の重職をなんと心得る。」
「申し訳ありません」
「謝罪など不要だ。言いたいことがあるなら、きちんと申してみよ。」
「いえ、そのようなことは……」
日頃は人を食ったような治俊も、鋭く糾弾されてタジタジとなる。ばれぬように探っていたのに、あっさりと露見し、それを正攻法で責めてくる。この奉行、思っていた以上に鋭い。
「申せ」
有無を言わせぬ迫力がある。
「しからば」治俊は居住まいを正す。
「御奉行の忠勤は日の本一と存じます。されど、若い同心に同じような奉公を求めるのは酷にございます。」
忠則は無言で続きを促す。
「弓は常に張っていては痛みます。常人には息抜きが必要です。配下の者の気の緩みを、少しばかりお目こぼし頂けぬものでしょうか。」
忠則はしばし瞑目する。やがて目を開き、静かに言う。
「あい分かった。これからは叱責もほどほどにいたす。」
「有り難うございます」
話が早い。短い言葉に頭の良さと決断の早さを感じさせる。策略なんかいらない、厳しいけれど、話せば分かる上司ではないか。
「木下よ」と忠則は優しい声を出す。
「この度の不始末は奉行の不徳故である。上役にものを言えぬために、下の者が搦め手を画策しては奉行所は立ちゆかぬ。諫言は必要じゃ。これからも、頼むぞ。」
「ははぁ」
治俊は再び平伏した。この奉行には敵わない。どこまでも清冽だ。それだけに困ったお人だが。こうも実直にせまられては、部下として忠義を尽くすしかない。
治俊の物思いは忠則の大きな息で破られる。
忠則は気を落ち着けているのだ。やがて話を続ける。
「若い男女にはありがちじゃな。」
「しかり」治俊は同意する。
「わしとて生木を裂く鬼ではない。さわ女なる、寺娘の身分が問題なのだな。ならば、その娘をわしの養女にいたす。しかれば娘は士分。その後に立花に嫁がせれば良かろう。」
「その手が御座いましたか」
三 和泉屋 伝兵衛
「今後の和泉屋のためには、どうでも、又の先生が欲しい。金じゃ動かねえお人だが、先生が好きな人助けだって、金があった方が楽に決まってる。和泉屋が儲かれば、先生のためになる。そこんとこで口説けねえかな。」
伝兵衛は腕を組む。問われた太鼓持ちの佐吉も困った顔になる。
「難しいでしょうねえ、旦那。又の先生は何だかんだ言ってもお侍だ。あれだけ算盤が達者なのに、金の亡者を蔑んでるフシがある。商人にゃなりませんぜ。」
「まったく、変なお人だ。口を開けば人の道だとか言い出して損ばかりしてるから、貧乏が染みついてる。そのくせ、並の商人じゃ思いつかないような金儲けの知恵を出す。もったいねえ。和泉屋の身代を使えば、いくらでも稼げるのに。」
「又の先生は欲がねえから。」
「何か先生の歓心を買える物はねえかな。」
佐吉は考え込む。
「金を欲しがるのは人助けに必要な時ぐらいですな。欲しがる物と言ったら、本ぐらいですかねえ。寺子屋の手本が足りないって。この間から『子曰わく』ってヤツを写本してまさあ。けど、人数分をそろえるにゃ時間が足りねえって。」
「論語か。先生らしいや。じゃあ、二〇冊も持ってきゃ、先生は喜ぶな。」
「そりゃ喜びます。けど、代わりに和泉屋に便宜を図るようなこと頼んだら、本は突っ返されますぜ。」
「だろうなあ」
「おまけに寺娘のさわ嬢ちゃんにベタ惚れですからね。雲仙寺の和尚は先生を気に入ってるし、寺子屋の師匠は先生の性に合ってるから、坊主になりかねませんよ。」
「冗談じゃねえ。あの才覚を仏様に持って行かれてたまるか。」
大声を出した伝兵衛は、「あっ」と言って膝を打つ。
「坊主でもいいんだ。権現様に知恵を授けた天海和尚って人がいるだろ。その伝で、商人にならなくても、こっちに教えをくださればいいんだ。
住職にでもなれば、むしろ好都合だ。寺は寄進を断れねえからな。こっちから出向けば、むげに追い返したりできねえ。困ってるから助けてくだせえ、って相談を持ちかけりゃいいんだ。」
「その手がありましたか。」
四 伊勢屋 辰郎
「トメ、俺はもう長くねえ。伊勢屋の身代はおめえに任せる。これまでも随分と尽くしてくれた。おめえ、まだ若えが、阿片の一件で、随分と男ぶりが上がったな。」
病床の辰郎は苦しい息をつきながら、トメに呼びかける。
「ただ、気がかりもある。おめえは荒事にゃあ強えが、これからの、このヤクザな商売は、それだけじゃ務まらねえ。商才? それもあるが、この天下太平の世で、人をまとめるには教養がいるのよ。
わかんねえか? おめえが好きな又の先生だよ。あの人は喧嘩に強えから人に慕われるんじゃねえ。でえじなのは人徳だ。その後ろ盾になってるのが教養ってヤツよ。
薄っぺらなヤツが人道だ正義だと言っても、軽くてクセえだけだ。
あの人は違う。若いのに苦労人だから、人の有り様をよく知ってる。それと本の知識とを照らしあわせ、考え抜いてる。だから言葉が重いんだ。
ああいう男が、任侠を生業とする伊勢屋に必要なんだ。
和泉屋も狙ってる? バカ言っちゃいけねえ。又の先生が、お大尽におべんちゃらして綺麗な着物を売るってのかい。あの人がすべきは、阿片撲滅のような男気のある仕事さ。」
「だけど親分……」
「親分と呼ぶんじゃねえと、いつも言ってるだろが」
「すいやせん、旦那。あっしも又の先生が仲間になってくれりゃ嬉しい。けど、人の道がどうとか言って、ヤクザな商売を嫌ってやして。」
「おめえが若いってのは、そういう狭いものの考え方よ。先生の身になって考えな。生真面目な人だからな、『武士ではない』とか言いながら、父親から頂いた刀を捨てられないんだ。それで、金がないから惚れた女を食わせられないと悩む。礼節があるから、いい加減に女を扱うなんざできやしない。そこが先生のいいとこだがな。
俺たちヤクザ者は金や身分は関係ないぜ。『好いた惚れたのケダモノごっこ』、上等だ。惚れた女のためなら、何もかもかなぐり捨てちまうのが男ってもんよ。駆け落ち、どんと来いだ。」
「旦那、そりゃそうですがね……」
「ああ、いきなりそんなこと言っても先生は納得しやしめえ。」
辰郎は荒い息を吐きながら起きあがる。支えようとするトメを制し
「そこの長持のいちばん上にサラシで巻かれた長物が入ってる。抜いてみな」
トメは言われたとおりに刀を取り出して鞘を抜く。
「綺麗だろ。俺が若えころからの相棒よ。」
刀身はやや短い。反りが少なく、厚みがある。刀剣としての美しさには欠けるが、それだけに道具としての迫力がある。トメのような素人にも、実戦向けに作られた刀だと分かる。
「数知れねえ出入りや喧嘩をくぐり抜けてきたが、傷一つねえ。銘はないが、かなりの業物だ。俺にはもう、こいつを振るう力はねえ。こいつを武士が使う拵えに直して、先生に差し上げてくれ。先生は阿片の一件で刀を失っちまったんだろ。そのお詫びだ。
いいか、こう言うんだ。「ヤクザの長ドスなんぞ、見たくもないでしょうが、和泉屋辰郎の一生の頼みです。こいつを世のため人のため役立ててください」。でえじなのは『世のため人のため』だ。そうやって先生をこっちに取り込みな。」
「その手がありやしたか」
五 太鼓持ち 佐吉
「先生、いますかい?」
返事も待たず、勢いよく戸を開いて又之介の長屋に飛び込んだ佐吉の左に、白い光が走る。
恐ろしい早さで視界の端に飛び込んできたのは白刃だと見えた佐吉は息が止まる。頬と刀に一寸の隙間もない。戸を引いた勢いで体が左に傾き、頬に冷たい刀身が当たる。
「ヒッ」と短く叫んで佐吉の腰が砕ける。
「いきなり飛び込んでくるからじゃ。」
又之介は剣を鞘に収める。
「何用だ?」と落ち着いた声で問いかける。
「先生、腰が抜けました。助けてください」震える声で佐吉は手を伸ばす。
「手間のかかるヤツだな」と言いながら、又之介は佐吉の腰に手を回す。
畳に座らせると、湯飲みに水を注いで差し出す。佐吉は両手で湯飲みを受け取ると、震えながら水を飲み干す。
「死ぬかと思った。脅かしっこなしですぜ」
「新しい刀で突きの稽古をしておったところに、ちょうどよくお前が飛び込んできたのでな。練習台になってもらった。もそっと、相手の目線に沿って剣を突きだした方が、こちらの動きを読まれにくそうじゃな。
佐吉、もう一度じゃ。同じように入ってまいれ」
「冗談じゃない!」
六 征夷大将軍
「先生、本当にあっしがこんな所に招かれてよかったんですかい?」
トメが緊張した声をだす。隣の佐生もコクコクとうなずく。
「気にするな。」
と仏頂面の又之介の返事は短い。
阿片事件の慰労として、町奉行、大野忠則が主だった者を料亭に集めた。又之介の機嫌が悪いのは、その人選のためだ。功労者が抜けているではないか。
養蚕を振興して阿片を潰した藤本善右衛門は既に江戸を離れているからやむを得ないとしよう。伊勢屋は主人の名代としてトメが出席しているのはいいとして、命をかけて戦った若い衆が呼ばれていない。
雲仙寺の慶道はアゲンの工場と化した寺院の探索に尽力したのに、僧侶は町奉行所の主催では差し障りがあると参加できない。
さわやおせん、女たちも入っていない。
「まあ、そう不機嫌な顔をせず、せっかくの席ですから、有り難く呼ばれましょう。」
と足塚良庵先生が取りなす。肩の傷の治療で世話になっている医者にそう言われては、又之介も渋々表情を和らげるしかない。
「そうですよ。酒も料理もよい物がそろってますぜ。」
と銚子を運びながら佐吉が言う。太鼓持ちだから呼ばれなくてもこの場にいるのかもしれない。
「さすが御奉行様の見立てだ。」
と上座の忠治に聞こえよがしの声を出す。
「世辞などいらぬ。その方も今日は客だ。座っておれ。」
と忠則の脇に控えている与力の木下治俊が言う。見え透いたおべんちゃらは、生真面目な奉行の機嫌を損ねかねない。
治俊は忠則に目配せする。鷹揚にうなずいた忠治は挨拶を始める。
「皆の者、大儀である。このたびの一件が解決したは皆の尽力故である。感謝しておる。ささやかながら礼の席を儲けた。今宵は無礼講だ。存分に楽しむがよい。」
忠則が杯を取ると、座敷の戸が静かに開かれる。奥の間に身なりが卑しからぬ武士が座っている。このような仕儀は用意しておらぬと、訝しむ忠則はその武士の顔を見て驚愕し、平伏する。
「上様、このような場所にお越しとは。」
「大野、一別以来じゃな。よい、面を上げよ。その方が申すとおり、今宵は無礼講だ。予もしのびで参っておる。皆の者も楽にせい。
このたびの阿片撲滅の働き、見事であった。誉めてつかわす。」
まさか、将軍様か。一同、平伏する。将軍は鷹揚に続ける。
「その方が立花か。ふむ、若いに似合わず落ち着いた立ち振る舞い、頼もしいな。その方のような有意の人物が市中におったとは、まことに痛快じゃ。これからも、励めよ。」
「ははぁ」
さすがに又之介も平伏する。
「お恐れながら上様、お願いがございます。」
「無礼者」
用人が叱責するのを将軍は制する。
「よい、大野、申してみよ」
「江戸市中は人も増え、この度のような悪しき輩も少なからず。町奉行所も同心が足りませぬ。立花のような人材を在野に埋もれさせるのは天下の損失。なにとぞ、奉行所に召し抱えたく、お許しを頂きとうございます。」
この際だ。将軍様の言質を取ってしまえば、いいも悪いもない。立花はこっちの者になる。
「ふむ。大野、その方の勤勉、嬉しく思うぞ。じゃが、その議はいかがなものかな? 立花は市中におってこそ役に立つと思うぞ。天下無双の寺子屋の師匠、面白いのう。」
忠則は不満げな顔になる。
「控えい!」
用人の怒声が飛ぶ。
「よい。予はしのびじゃ。大野は実直ゆえに申しておるのじゃ。このような諫言に耳を貸さぬようになれば、いずれ国が傾く。」
用人は平伏する。
「大野よ、この一件の仕儀を思い起こしてみよ。その方は尽力したが、町奉行所の権限だけで解決できたかな?」
忠則は言葉に詰まる。
「予も心苦しいのじゃ。これ以上言わすな。」
忠則は畳に額をこすりつけんばかりにして頭を下げる。
「これ、予はしのびじゃと申しておろうが。
さて、立花。その方、この度の一件で刀を失ったと聞いたが、配刀しておるな。褒美に刀を使わそうと持参したのじゃが。見れば、その刀に慣れようと、突きを鍛錬しておるようじゃな。」
「恐れ入りました」
なぜ、そこまで分かる。
「予は武家の頭領ぞ。
さて、困ったな。その方の立場では刀が二本あっても邪魔であろう。代わりに何を使わそうか。
そうじゃ、これをやろう」
腰の脇差しをはずす。用人がそれを受け取り、又之助に渡す。
「有り難き幸せ」
「よい。この夜は愉快じゃ。もそっと語らいたいが、そうもいかぬ。予は退席する故、その方らは存分に楽しむがよい。」
七 外科医 足塚良庵
又之介は良案先生の医院に通院している。大した傷ではないと又之介が言うのだが。
「銃傷を侮っては、後々肩が上がらぬようになりますぞ」
と良案に脅されて、渋々通っている。
「もう、大丈夫でしょう。激痛が伴う回復運動をよう辛抱されたな。本日で治療は終了です。
しかし、今後も無理な鍛錬はいけませぬぞ。何事もほどほどが肝要です。」と良案先生。
「ありがとうございます。」と又之介。
又之介は去るでもなく、珍しくモジモジしている。
「何ごとかな?」
「実は、先生にご相談があります。」
「恋の病なら専門外ですぞ。」
「そのようなことではありませぬ。いや、関係はあるか。拙者はこの先、どのように生きればよいのか、悩んでおります。
寺子屋の師匠は楽しいですが、お手当がしれております。気楽な独り者ならばどうとでもなりますが、さわ殿がおります。今の実入りでは妻を養えません。
雲仙寺からは僧になるように勧められております。さわ殿のためには良いですが、刀や家を捨て、出家するのは、ちと辛う御座います。
奉行所に仕官するのも迷います。宮仕えの悲哀は、父の早死にでよう知っております。
さりとて無頼の徒になるも父に申し訳なく。
算盤はいささか心得がありますが、金の亡者の商人は嫌に御座います。」
「なんとも、贅沢な悩みですな」と良庵先生。
又之介は怪訝な顔になる。
「そうでありましょう。人の世には、何もできぬと悩む者がごまんといる。それに比べ、立花殿は幾人もの方々から、自分の所に来て欲しいと望まれている。才無き者には、うらやましい限り。
しからば、ご自身が好きな仕事をなさるが一番でしょう。」
「しかし、寺子屋の給金ではさわ殿が困窮します。」
「さようかな。昔から一口では食えぬが二口では食える、と申します。夫婦になれば、どうとでも生きていけるのです。それに、雲仙寺の就職は立花殿を気に入っている。このまま食客でも文句はないでしょう。」
「それはあまりに図々しい。」
「立花殿は生真面目ですなあ。されど、間もなく金は入ります。」
又之介は不審な表情を浮かべる。
「貴公は他人の見立ては鋭いに、己は分析できませぬな。上様の言葉を思い出されよ。」
「『天下無双の寺子屋の師匠、面白いのう』、と言われましたな。」
「そういうのはたちまち世間に広まります。いま、ちまたで評判ですぞ。上様が自らの脇差しを授けた「天下御免の寺子屋師匠」と。
更には、御奉行様のお気に入り、和泉屋を大儲けさせた知恵袋、伊勢屋の荒くれ者を従える剣豪、などとも言われているようです。」
「そのように尾ひれがついた噂で持ち上げられるは、迷惑千万。」
「人の口に戸は立てられませぬ。良い方に考えられよ。すぐに評判の寺子屋に入門希望者が押し寄せます。間もなく、雲仙寺も立花殿の懐も潤いますぞ。」
八 旗本 尾壁 世三郎
何もかも面白くない。
それなりの禄をはむ旗本の家に生まれたものの、三男なので兄が二人とも急逝でもしてくれなければ、家督を次ぐ見込みはない。
そもそも自分の名から気に入らない。三男だから三郎はしかたないとして、その上に付けた「世」はなんだ。余り者だが、さすがに「余」とは名付けられなかったので、同じ音の漢字を当てたのではないか。
兄が優れた人物であれば、まだ諦めもつく。しかし長兄は凡庸、真面目なだけが取り柄で何の才覚もない。なのに父は長兄ばかりを可愛がる。次兄は早くから、一生が部屋住みの人生を諦めているフシがあり、すべてにおいてやる気がない。
自分は違う。子供の頃から文武に励んできた。才があるから先生に目をかけてもらい、周りの子供たちより成績が良かった。特に剣術は好きで研鑽を重ねた。
自分は人より優れている。だから養子縁組の話がいくつもあった。だが、いずれも断られた。なぜだ? 自分の何が不足だというのだ。
太平の、身分が固定された世が恨めしい。槍一本で国一つが切り取れる時代であれば、思い切り暴れて人生を謳歌できただろうに。
不満を稽古で晴らそうと、いっそう剣術に励んだ。もう道場では相手になる者がいない。自分に一本取られた師範は「お前の剣は勝てばいいと思う邪気に満ちている。それでは敵を作るばかりだ。」と言う。負け惜しみだ。人を殺すための剣術に、卑怯も正直もあるものか。
九 市先流師範 久留間 建進
町奉行所の同心や岡っ引きたちが死骸を囲んでいる。武家屋敷が建ち並ぶ市中のはずれで、昨夜斬られたらしい。こざっぱりとした風体の中年男。手には剣ダコ、頭には麺ずれがあることから、剣術に励んでいた武士であろう。
「親分、御身内じゃないかって方をお連れしました。」と、近所に聞き込みをしていた小者が飛び込んでくる。
小者に案内された若い武士は死骸を見て「先生!」と叫んだ。
「どちら様か」と同心。
「久留間 建進、表の剣術道場、市先流の師範です。」
若い武士は涙を浮かべながら言葉を絞り出す。「変わり果てたお姿に……」
師範を抱きかかえようとする武士を同心が引き留める。
「まだ検分が終わっておらぬ。手を触れてはならぬ。」
「町奉行所ごときが指図するか。先生をこのようなお姿で衆目にさらす恥辱には耐えられぬ。一刻も早く道場にお連れする。」
「おお、そのとおりだ」と遅れて到着した門弟らしい若侍も死骸に迫る。
「待てと言うに」「分からねえお人たちだな」と押し止める同心や岡っ引きたちと押し問答になる。
「イヌが、生意気な」と激高した若侍は刀に手をかける。さすがに岡っ引きや小者の腰が引ける。
一人の同心がずい、と前に出る。
「抜くか? 我ら、三十俵二人縁の小者といえど歴とした幕臣だ。公儀に刃を向けたたあらば、貴公らが腹を切る程度では収まらぬぞ。」
若侍たちの動きが止まる。かといって啖呵を切った手前、引くに引けない。にらみ合いが続く。
「まあまあ、斬り合いなどつまりませぬぞ。」と間の抜けた声が後ろから響く。
「拙者は江戸町奉行所の与力、木下治俊と申す。門弟の方々の仰ることも、ごもっともです。されど、何より大事は、御師範の無念を晴らすため、凶行に及んだ下手人を捕縛することではありませぬかな。ならば、我らの検分に協力するが早道と存ずる。」
治俊はゆったりと歩いてきながら静かに語る。頭に血が上っていた若侍たちは毒気を抜かれる。
「ささ、刀から手を外されよ。お前たちもだ。」
と同心たちにも声をかける治俊の間の抜けた口調に、双方は手を下ろす。治俊は死体に近寄る。
「傷口を見られよ。右の肩から入った刀が首を切り上げている。他に傷はないようだ。抜き打ちに一刀で斬られたのであろう。大して久留間殿は刀を抜いてさえおらぬ。師範を務めるほどの使い手を一刀で切り捨てる。下手人は武士、それも居合いの達人と見たが、いかがかな?」
ぼっとした口調や外見とは裏腹の、治俊の明確な見立てに若侍たちは驚く。治俊を知る同心や岡っ引きたちは、さすが木下様、という顔つきになる。
「遺骸には、懐を探れたり荒らされた様子はない。となると、物取りではありますまい。遺恨でしょうか。御師範に恨みを持ち剣術に優れた者、心当たりはありませぬかな?」
若侍たちは顔を見合わせる。
「師範は剣術には厳しいが、弟子の面倒見の良い人格者です。殺されるほどの恨みを買うとは思えませぬ。」
先ほど「イヌが」と激高した若侍が答える。他の者たちもうなずく。
「となれば、これはよくよく吟味せねばならぬ一件です。無礼を承知の上でお願いする。細かく検分させて頂きたい。終わり次第、御遺体はお返しいたす。久留間殿の恥にならぬよう、拙者が責任を持ちます故、ご協力頂きたい。」
治俊は頭を下げる。続いて同心たちに指示する。
「そろそろ野次馬が集まってくるぞ。検分役以外は通りをふさげ。現場を荒らさせるな。
それとな、立花殿を呼べ。」
同心は怪訝な顔になる。「天下御免の寺子屋師匠」立花又之介の噂は聞いている。しかし、今回は部外者を呼ぶ事態か?
「いいから呼べ。寺子屋の講義にはまだ間があろう。この一件、立花殿の助力がいる。
わしの勘は良く当たる。急げ。」
一〇 寺子屋師範 立花 又之介
ほどなく、又之介が到着する。
挨拶もそこそこに治俊は又之介に事態を説明する。又之介も質問を挟みながら静かに聞く。
「どう見られる?」と治俊。
「そうさな」と言いながら、又之介は一人の同心を見る。
「殺害の場面を再現してみよう。貴公、仏様と背格好が近いな、師範の役を頼む。わしが下手人の役だ。」
と体格の良い同心を呼ぶ。傍らに落ちている棒きれを拾う。
「争った跡がない。斬りつける直前まで、二人は対峙していたのだろう。刀が届く、このくらいの距離だな。
下手人はいきなり抜刀して師範を斬りつけた。こうじゃな。貴公、じっとしておられよ。」
又之介は棒きれをゆっくり振って抜き打ちをしてみせる。
又之介が持つ棒きれは同心の腹から肩に斬り上がる。
「あっ」と治俊は声を上げる。
「気付かれたか」と又之介。
「師範はもっと上を斬られておる。下手人はわしより背丈が五寸ほど高い大男じゃろう。
しかも、師範は全く抵抗したように見えぬ。下手人の居合いがいかに早かろうと、師範を務めるほどの剣客が全く反応できぬとは、普通ではない。下手人は師範の顔見知りで、頭に血が上って刀に手をかけるなど珍しくない男と知っていたのではないかな。まさか本当に斬りかかってくるとは思わなかった油断があった。となれば、目下の者ではなかろうか。」
「さすが」と治俊。
「下手人像をまとめてみましょう」と着られ役の同心。
「大柄の武士。居合いの使い手。殺された師範の顔見知りで目下。師範を殺すほどの遺恨がありどうだが、怒りやすい性格なので、さしたる恨みではないかもしれない。
--かなり絞り込めましたな。」
一一 小間物屋 井蔵
無惨に斬り殺された遺骸に木下治俊は手を合わせた。刀傷は肩から腹への袈裟懸けと腕と足に三つ、胸元と帯が乱れているのは、懐を探られた跡のようだ。先の師範殺害から三日、またしても人斬りだ。
近所の者の証言から、被害者の身元は既に判明している。ここから一丁先の小間物屋の番頭、井蔵である。
連絡を受けて駆けつけた店主も井蔵だと確認した。昨夜、集金から帰ってこないのを心配して寝ずに待っていたらしい。
被害者は夜半に店の近くまで帰ってきたところを襲われたらしい。現場は、夜は人通りが少ない小道で、今のところ目撃者は見つかっていない。
店主の証言では、井蔵が集金した額は五両ほどになるはずだ。死骸は持っていない。懐にあった財布ごと、下手人が持ち去ったのだろう。
「頭巾の旦那、又の先生をお連れしやした」と治俊の背中に太鼓持ちの佐吉が声をかける。
「その名で呼ぶな」と俊治と又之介の声がそろう。
「こりゃ、いけねえ」
と佐吉はおどけて自分の額を打つ。ほとんど反省していない。
ここは繁華街が近い。仕事帰りというか朝帰りで偶然通りかかった佐吉を見つけた顔見知りの同心が、これ幸いと又之介を呼ぶ役を言いつけたのが悪かった。
治俊は先の事件で、身分を隠してヤクザ者と会合するために頭巾を着用していた。早々に正体が露見しても暑苦しい頭巾を外さなかった。その風体がよほど面白かったのか、お調子者の佐吉は素顔をさらしても治俊に、「頭巾の旦那」と飛びかける。
きつく叱ると、暗躍していたことを配下に知らしめてしまうので叱責が甘くなる。そんな気遣いをしても、察しのいい同心たちは気づいているのだが。
現に若い同心が、ぷっと吹き出した。
「笑うでない」
治俊は言うが、これまた、さして刺さった様子はない。
「町奉行所は良きお勤めのようですな」と又之介。
上下の隔たり無く笑いあえる組織は、奉公の厳しさを乗り越えられる。又之介はそれを誉めたのだが、治俊は素直にうなずけない。
「いつでも歓迎いたしまずぞ、又の先生」
今度は又之介が渋い顔になる。「又の先生」と呼ばれるのは、色ごとの指南役のようだと嫌っている。が、周囲は生真面目な又之介が憮然とする様子が面白くて、いっこうに改めない。
「旦那方、仏様を前にして、ふざけてる場合じゃありやせんぜ。」
年かさの岡っ引き、平助が二人をたしなめる。
「これは失敬」
生真面目な又之介は素直に謝る。
治俊は無言で頭を下げる。立場上、下の者に謝罪するわけにはいかないが、岡っ引きの言葉を受け入れたのだ。
犯罪捜査は経験がものを言う。長年現場で苦労してきた岡っ引きがいなければ、与力や同心がいくら働いても奉行所は回らない。治俊はそれを知っているから、岡っ引きや手下を気遣う。それが下々に伝わり、岡っ引きも与力に向かって、言うべき時はものを言うようになる。
「何が気になるのだ?」と治俊。
平助は静かに遺骸を見る。
「この仏さん、物取りにやられたように見えますがね。どうにも気にいらねえんです。
袈裟懸けに斬られてるでしょ。これで事切れたんでしょうけど、たぶん、これが一太刀目でさ。腕や足にも切り傷がありやすが、浅手ですな。先に腕でも切られりゃ、暴れて逃げ出しますからね。綺麗に前から刀が入りゃしねえ。
それに、大概の人間は斬られると大騒ぎしまさ。人通りが少ない夜とは言え、叫び声が上がれば近所の者が気が付きやす。そういう聞き込みがねえってことは、出会い頭に一太刀で殺されたんじゃねえかと、思うんでさ。
この袈裟懸け、かなりの使い手ですな。落ち着いて人を殺したんだと思いやす。その後に手練れの仕業と分からぬように手と足に傷を付け、懐を探ったんでしょう。この着物の荒れようは慣れねえ物取りが慌てて探ったように大きく乱れてますが、十中八九、まがいものでさ。
人を殺すには、それなりの事情があるもんで、その跡が残りやす。そこから下手人の人となりが見えてくるもんで。この人を殺めたのは、落ち着いてその跡を誤魔化そうとしてる、そうとうに嫌なヤツじゃねえかと思うんでさ。あっしは学が無えんで、うまく説明できねえんですが。」
「いや、見事な見立てだ。御奉行にも報告し、その方の手当を増やすよう図ろう。皆の者も、平助の知見をよく聞くようにせよ。」
「ありがとうごぜえやす」
平助は頭を下げた。手当が増えたからではない。奉行所の懐が苦しいのは知っている。大した金は出せまい。それより、下位の者でも能力があれば重く用いる。治俊のその心根に感激したのだ。この与力のためなら、いっそう励もう、と平助は思う。
「立花殿、どう思われる?」と治俊。
「岡っ引きが言うとおり、この斬り口はかなりの使い手のようだな。何となくだが、先の師範のと同じ手のように感じる。こちらの探索を混乱させるため、いらぬ傷を付け、物取りに見せかけた。」
「同一犯か。先の殺しの検分が漏れている?」
「木下殿は見立てを道場の門人に語ったとか。それが広まり、下手人にも伝わったのやもしれぬ。」
「拙者の失態ですな。」
「いや、あの場を治めるには良策でしたでしょう。現に道場の門弟たちは町奉行所に協力して、聞き込みをしているのでしょう。この際、武士の手が借りられるのは有り難いのではないかな。」
「まだ特定は出来ぬが、下手人は武士であろう。そうなると町奉行所は手が出せぬ。」
治俊は悔しそうに言う。
一二 雲仙寺 さわ
「立花様、またしても危ないことをされているご様子。さわは心配です。」
雲仙寺の庫裏、又之介の昼食を給仕しながらさわが言う。
「さわ殿、心配ご無用。木下殿の手伝いをしているだけで、危険など無いのです。」
「人斬りの探索と伺いました。一刀で道場の師範を切り捨てるような男だとか。そのような外道の相手が、危険でないはずが御座いません。」
「佐吉から聞かれたか。口の軽いヤツだ。」
「佐吉さんを責めないでください。さわが無理に聞き出したのです。」
太鼓持ちなんて家業だから、あれで佐吉は世間の酸いと甘いを知って分別がある。しかしなぜか、さわには弱い。理路整然と追求され、口を割ってしまったのだろう。
「木下様も木下様です。立花様の人の良さにつけ込んで、良いようにこき使う……」
「さわ殿、待たれよ。」
又之介は箸と茶碗をおく。
「木下殿はそのような人ではない。わしは木下殿の正義を愛する心に共感し、御加勢しておるのみ。わが盟友を侮辱するは、さわ殿といえど許しませぬぞ。」
「申し訳ありません。」
気の強いさわがしゅんとなる。
「立花様のお心を知らず、無思慮な女が無礼を申しました。されど、立花様を心配するは、さわのまごごろ故。お出かけになる度に不安になり、この身は張り裂けそうです」
さわは自分の体を抱いて縮こまる。目には涙を浮かべている。
「さわ殿……」
又之介はさわを抱き寄せる。さわも又之介の胸に顔を埋める。
「こほん」とわざとらしい咳払いがする。さわの母のみちが二人を見下ろしている。
二人は慌てて離れた。
一三 旗本 尾壁 敷次
大変なことになってしまった。
大家とは言い難いが江戸開闢以来の伝統ある尾壁家が終わりかねない事態だ。三男の世三郎が辻斬りをしていた。
世三郎には才気がある。幼い頃より、武術も学問も人並み以上の生成を修めた。だが、それを鼻にかける。自分より劣った者をバカにする気配が見え隠れする。なので、あまり人に好かれない。
逆に長男の康志は凡庸だが、人の意見をよく聞く。だから周囲に人が集まる。太平の世で家を治めるには、なまじ野心があるより、穏やかなこの男の方が向いている。
世三郎の才能を評価する人もいた。養子の話がいくつか持ち込まれたのだが、目合わせをしているうちに、ことごとく断られる。性格の暗さが嫌がられるのだ。中には、娘が泣いて断ってくれと訴えた家まである。注意はするのだが、自信が強すぎる世三郎には伝わらぬ。
出来の悪い子ほど可愛いと言うが、世に受け入れられず、暗い情熱を募らせていく息子は不憫でならぬ。
凶行に気が付いたのは偶然であった。人殺しなどに及べば振る舞いがおかしくなりそうなものだが、世三郎にはその素振りがなかった。夜半にごそごそしているので何事かと部屋にはいると、刀を磨いていた。刀身をふき取った懐紙は血に汚れていた。
何事かと問いただすと、面倒くさそうに、道場の師範と口論になり斬った、と言う。子供が悪戯を見つけられたほどの悪気も感じていない。聞いたこちらが真っ青になった。
すぐに目付に届け出よとの叱責にも生返事しかしない。性格に難があるとは思っていたら、これほどまでに狂っていたか。
どうすれば家を絶やさずにこの一件を収められるか。悩んでいるうちに世三郎は次の凶行に及んだ。
もはや捨て置けぬ。差し違えてでも止めねばならぬ。親子の情があればこそ、育て方を間違えた息子の始末を付けるのが親の務めだ。妻や息子、屋敷の使用人もすべて外出させ、この父が一人で決着を付ける。
手段を選んではおれぬ。剣術に優れた世三郎をしとめるには飛び道具しかない。幸い、この家には先祖伝来の鉄砲がある。
尾壁敷次は古びた火縄銃の分解掃除を始めた。
一四 女郎屋 おかえ
「嫌な客だ」
と女郎屋の女主人、おかえは店から出て行く客の後ろ姿に吐き捨てる。
人や世が変われど、色事の商売は廃れない。江戸の町は、公式には幕府公認の吉原しか色町はない。のだが、公認故に格式が高く、庶民が気安く遊べる場所ではない。それ故に、江戸の町が大きくなるにしたがって、非合法の売春街がいくつかできていった。が、それはそれで大規模になりすぎて面白みが薄れる。
もっと気安く、手軽に遊べる店なら流行るのではないか。やってみたら大当たり。
それはよいのだが、客商売、特に色事には嫌な客も来る。いちばん嫌なのが、金を出せば何でも通ると、女を者扱いするヤツだ。あいつはその中でも、もっとも酷い男だ。
その大男は料金を聞くなり懐から財布を取り出すと、投げ捨てるように金を出した。財布は安物ながら膨らんでいる。見たところ貧乏旗本の部屋住みのようだが、金は持っている。
「酒も何もいらぬ。早う、女を出せ。」
侍は偉ぶっていると相場が決まっているが、こいつは特別に横柄だ。
しかし、そこは客商売だから、下手に出る。
「はい、すぐに参ります」
相手をした女も、相当に嫌な思いをしたようだ。部屋に入るなり男は
「早く脱げ」と言い、自分もさっさと着物を脱ぎだした。
女が裸になると布団に押し倒し、太い腕で女の両足をつかむと、グイと股を開かせる。そのままいきり立った一物を押し入れる。
「あれ、もそっと緩やかに」
たまらず懇願する女の都合などお構いなしに
「俺は今夜、高ぶっておる。」
いきなり激しく腰を振り、自分が果てると女をうち捨て、さっさと身支度を整える。
女はあまりにな乱暴な行為の痛さに、目に涙すら浮かべるが、男は一瞥すらしない。どかどかと足跡を立てて店から出て行く。そのせっかちさに、おかえが慌てて見送りに出ると
「つまらぬ」と吐き捨てて去っていく。訳を聞く間すらない。
おかえは不快さに怒りが収まらず、尋ねてきた旦那の和泉屋伝兵衛に愚痴をこぼした
おかえの話を聞いた伝兵衛は目を細めた。
「その財布が気になるな。商家の手代や番頭が集金に使いそうな、侍が持つような物じゃなかったんだな。しかも小銭で膨れていた……。
嫌な感じだ。又の先生に相談しよう。」
次の日、伝兵衛は雲仙寺に又之介を尋ねる。
かいがいしく又之介の世話を焼き、側を離れようとしないさわに、伝兵衛が「女人には聞かせたくない話でして」と言うと、嫌な顔になる。伝兵衛が売春宿も商っていることはさわも知っている。又之介の機嫌を取ろうとする伝兵衛は、悪所に連れ出そうとしているのかと疑いもする。
「どのようなご用件で?」
と冷ややかに伝兵衛を見つめる。自分の居る前で話せ、さもなければ帰れ、と圧力をかけている。
(ええい、どうなっても知りませんぜ)
伝兵衛は不審な客の話を有り体に言う。性行為を必要以上に細かく説明したのは、だから「女人には聞かせたくない」と言ったでしょ、との嫌みがこもっている。
案の定、さわは真っ赤になってうつむいている。
(ちと、やりすぎたかな)と伝兵衛は思う。
又之介は静かに聞いている。この男は母が長唄の師匠で、父の死後は色町で育ったから、生真面目な性格とは裏腹に色事の機微を知っている。
「その大男、確かに怪しいな。」と又之介。
「おかえの店に来たのは小間物屋が惨殺された日だ。人を殺したので興奮して女を求めたのかもしれぬ。」
「人を殺したら、恐ろしさにちぢこまっちまうでしょ。」と伝兵衛。
「まともな人間ならな。こやつは狂っておる。究極のいじめだと言えば分かるか。人には皆、残虐な心根がある。弱い者をいたぶるのだ。
納得がいかぬ顔をしておるな。」
伝兵衛は商売には厳しいが、奉公人は大事にする。弱い者いじめと真逆の男だ。男気がありすぎて色に走るのが難点だが。
「誰でも蚊に刺されたら嫌な思いがしよう。血を吸って膨れた蚊を叩きつぶしたら、気が晴れるだろう。普通の人間はそこまでじゃが、もっと強い快楽を求める者は、殺す相手が大きくなっていく。行き着く果てが人殺しよ。」
「蚊と人間とは違いまさあ。人を殺すのが楽しい、ってんですかい。あっしには分からねえ」
「それが普通だ。」と又之介は微笑む。
「へえ。先生のお言葉に逆らうようですが、血を吸った蚊を潰して、その血が着物を汚したら、あっしは嫌な心持ちになりますね。」
「それよ。この殺人鬼は人を殺しても、もはや蚊を殺した程度にしか思っておらぬのやもしれぬ」
「知らぬが仏。そんなヤツだと知ってたら、おかえも、とても相手はできやせんでした。」
「また、来るかもしれない」
又之介が言うと、伝兵衛は嫌な顔になる。
「そいつ、「つまらぬ」と捨て台詞を吐いたそうですぜ。」
「男の欲は恥知らずだ。嫌な思いをしても、しばらくすれば人肌が恋しくなる。これは分かるであろう」
伝兵衛は苦笑いしてうなずく。
「そやつのような女の扱い方をすれば、格式の高い吉原では出入り禁止になろう。ゆがんだ性癖を満足させるために、最初に相手をしてくれたお前の店に又来るかもしれぬ。」
伝兵衛の眉間のしわが深くなる。
「断る工面はあろう。「今夜はお客様が多くて、空いている女がおりませぬ」とかな。
とはいえ、重要人物の所在を確かめる好機を逃せぬ。番所に届けるのが定法だが――分かっておる、お上の世話にはなれぬからな。」
黙認されているとはいえ非合法の売春宿なので、この商売に関しては伝兵衛は奉行所と関わりたくない。
「伊勢屋の出番だな。
そう嫌な顔をするな。トメに根回ししておく。後でおとがめが来ぬよう、木下殿にも話を通しておく。」
「さすが又の先生、話が早い。通り名のとおり、色事にもお強い。」
伝兵衛は平伏した。
「その名で呼ぶな」と又之介。
「また、立花様にご面倒を」
さわは嫌な顔になった。
一五 岡っ引き 平助
はたして、数日を経ずして、その大男はおかえの店に現れた。
「今日はいっぱいでして、お待ち願えますか。いえ、ほんの少々ですから。」
おかえは愛想笑いを浮かべながら、手はず通り、小者を伊勢屋と番所に走らせた。
武士が相手では町奉行所は捕縛できない。だからヤクザの伊勢屋を使う。との又之介の考えに、治俊は異を唱えた。相手は危険な殺人鬼だ。市中の者にまかせて、万が一があっては奉行所は申し開きができぬ。奉行所の手の者でなければならぬ。
押し問答の末、折衷案として、部長所と伊勢屋の両方で、問題の大男を尾行することとなった。
ほどなく、伊勢屋からはトメが、近くの番所からは平助が駆けつけた。店の脇で二人が様子をうかがっていると、店内から怒声が響く。
「散々待たせておきながら、まだ女が用意できぬとはどういう了見だ。もういい、帰る。」
背の高い若侍が肩を怒らせながら店から出てくる。こいつか、トメと平助はうなずきあう。後を付けて何者かを探るのだ。
と、平助の顔がみるみる曇っていく。
「トメさん、でしたな。ここはあっしに任せてもらいてえ。」と平助。
トメはムッとする。手柄を一人占めする気か?
「そうじゃねえ。このお役目が長いあっしには分かる。あの立ち居振る舞い、ただもんじゃねえ。こう言っちゃ何だが、捕り物の素人が気取られずに後を付けるのは無理だ。」
「けど、一人じゃ……」
「玄人のあっし一人の方が動きやすい。ごちゃごちゃ言ってる暇はねえ。後生だから動かねえでくだせえ。」
岡っ引きがヤクザに頭を下げた。その必死さがトメにも伝わった。
「じゃあ、任せますぜ。こっちは又の先生に御忠信だ。」
一刻ほど過ぎ、番屋に平助が戻ってきた。待ちかまえていた又之介、治俊、トメは驚いた。平助ほどの経験豊富な岡っ引きが真っ青になって震えているのだ。
「水をくだせえ」
震える声を絞り出す。力尽きたのだろう、その場に座り込む。
「酒の方がよさそうだな。」と又之介。
こういう詰め所には、長い夜の手慰みに、こっそりと酒が持ち込まれているものだ。案の定、下っぴきが奥から徳利を持ち出し、湯飲みに注ぐ。
平助は震える両手で湯飲みを受け取り、ゴクゴクと飲み干す。
「うめえ。生きてて良かった。」
下っぽきが酒を一杯につぎ足す。平助は即座に飲み出す。
「すまぬが、報告致せ」と治俊。
平助は二杯目を飲み干してうなずく。
「大男はお旗本、尾壁様の屋敷に入りやした。「帰ったぞ」と言ってやしたから、家来衆じゃなく、旗本の息子です。」
「よくやった。」
と治俊。賛辞を続けようとすると、その前に平助が言う。
「木下の旦那、褒美はいりやせん。その代わり、二・三日、休ませてくだせえ。腰が立たなくて、お勤めを果たせそうにありやせん。」
「おお、ゆっくり休め。明日の朝にでも、美味い物を届けさせよう。」
「ありがとうごえやす。旦那、気を付けてくだせえ。尾壁って侍、恐ろしいヤツです。」
治俊は先を促す。
「後ろを付いていくだけでも、殺気に当てられやした。斬りたくて仕方がない、何か手頃な物はないか探している、そんな気配で歩いていくんです。
間が悪いというか、野良犬が出てきやしてね。尾壁に吠えかかるんでさ。尾壁は平然と近づいていくと、野良犬が飛びかかりやした。次の瞬間、野良犬は空中で真っ二つになって飛び散りやした。夜目ですが、刀を抜くのが見えやせんでした。あっ、と声が出たときには、もう鞘に収めるところでした。」
一同はうめき声を上げる。
「恐ろしいのはその後でして。ヤツはこう言ったんでさ。「犬では斬りごたえが無いな」
物陰に隠れていたこっちを見てやした。ヤツは、あっしの声で、後ろに人がいるのに気付いたんだ。斬る付けようと思ったんでしょうが、こっちは素人じゃねえ。向かってきたら大声上げて逃げられるだけの距離は置いてやす。
けど、それでも斬られると思いやすた。目つきが尋常じゃね。そうなると、もういけねえ。震えが来て、足が動かなくなった。あっしは死ぬのを覚悟しやした。
ヤツは騒がれるのを嫌ったのか、「まあ、いいか」と言って、その先の屋敷に入っていきやした。あっしが岡っ引きだとは露見してねえから、うち捨てたんでしょう。ようやっと、ここまで帰って来やした。」
「ご苦労だった。」
治俊は深々と頭を下げた。短い言葉に感謝と経緯がこもっている。
「これは、猶予ならぬ」と又之介。
「どういうことです?」とトメ。
「平助が助かったのは良い。が、尾壁とやらはゆがんだ欲望をため込んだままだ。今夜にでも、人を斬りに出かけるかもしれぬ。」
「えらいことだ」
平助は立ち上がろうとしてふらつく。
「無理をするな。後は任せておけ。」と又之介。
「どうする?」と治俊。
「しれたこと、このまま尾壁の屋敷に踏み込む。」
「また無茶を言い出す」と呆れるトメ。
「けどまあ、先生のことだ、こんな事もあろうかと段取りはしてやす。尾壁様の屋敷なら知ってまさあ。うちの若い者には用意させてますんで、すぐにでも駆けつけますぜ。」
こうなると又之介は止められない。治俊も決意した。
「尾壁家の大男といえば、三男坊の世三郎だ。殺された師範の門弟のなかで一番の使い手だ。門弟達の証言から、怪しいとにらんでおったが、間違いなさそうだな。
よし。立花殿とわしは屋敷に行く。
悔しいが武家では町奉行所の取り方は入れぬ。わし一人なら身分を隠せるが、大勢では申し開きが出来なくなる。
トメ、頼むぞ。お前は腕の立つ連中を集めて、すぐに追いかけてこい。
それとな、そこの引き出しに捕り物の道具が入っている。使い方はここの者に教われ。」
一六 伊勢屋 トメ
ほどなく、又之介と治俊は尾壁家に到着する。屋敷は静かだ。どうしたものかと俊治は迷う。
又之介はお構いなしに勝手口を開く。閉ざされていないのはどうしたことだ、と訝しむ治俊にお構いなしに、又之介はずかずかと踏み込んでいく。
「おい、立花殿、待たれよ」と治俊が制止するが聞いちゃいない。
そこにトメと若い衆が駆けつけてくる。
「こんな事だと思いやしたよ」と、トメも又之介に続く。
「旦那、行きやすよ。こういう時、又の先生は考えてるんだか無手勝流だか、訳が分かんねえ。」
「おいおい。命がかかってるのに、そんないい加減な。」
「命? そんなものはとっくに先生に預けてまさあ。行くぜ、野郎ども。」
そこに、屋敷の奥から銃声がする。
又之介は銃声がした方に駆ける。治俊とトメたちも続く。
又之介は迷わず屋敷の奥に入り込んだ。一人では危ないと制止する治俊たちと、途中ではくれたが、お構いなしだ。
開け放された奥の間から硝煙の臭いが立ちこめている。入り口の敷居に、筒内爆発で折れたと思える鉄砲を握っている中年の武士が倒れている。爆発を浴びたのだろう、顔面からおびただしい流血をしている。微動だにしないのは、既に事切れているのだろう。
部屋の中程には抜刀した若い男がいる。
「尾壁世三郎だな。お前が殺したのか」と又之介。
「違う。父が俺を撃ち殺そうとしたのだ。俺が斬りつける前に、銃が暴発した。」
残酷な殺人者とはいえ、父が目前で無惨に死ねば動揺しよう。立ちつくしていたところに又之介が飛び込んできたらしい。
「貴様、立花又之介だな。天下御免の寺子屋師匠などと呼ばれ、いい気になって人斬りの探索をしていると、市中でも噂になっておる。浪人ごときが、旗本の屋敷に踏み込みおって。早々に立ち去れ。」
「知ったことか。貴様こそ、人斬りの下手人と露見したのだ。もはや逃げ場はないぞ。大人しく縛に付け。」
「ぬかせ」と刀を構える。
敷居を隔て、又之介と世三郎は対峙した。
上背のある世三郎は上段に構える。それに合わせ、又之介は腰だめに剣を引いた。間合いは五歩ほど。
ここで世三郎に迷いが出た。踏み込んで振り下ろすより、又之介が突いてくる方が早いか。しかし一直線に迫る突きは動きが読みやすい。かわせば又之介の次の攻撃が来る前に世三郎の免が入る。しかし、そんなことは承知の上で又之介は突きを構えているのだろう。又之介は自分の予測よりも早く突ける自信があるのか。
いや、又之介にも迷いがあるから突いてこないのだ。こちらから踏み込むか?
双方動かない。
そこに、ようやく追いついた治俊と、トメが率いる伊勢屋の若い者が踏み込んでくる。修羅場をくぐり抜けてきたトメは、見るなり双方が動けない状況が読めた。
「先生、下がってくだせえ」
トメが叫ぶ。策があるのだろう。が、無理だ。引けばその隙に与三郎は踏み込んでくる。
世三郎は一瞥すらしない。有象無象が何人集まろうと容易く蹴散らせる。
そのとき、治俊の投げ十手が飛ぶ。狙い違わず世三郎の眉間に命中するかと思いきや、世三郎は軽く頭を振って十手を避ける。そんな物が当たるかとバカにした表情の世三郎の脇を、十手につながれた綱が抜ける。治俊が右手に持った綱の端をくいっと引くと、十手は治俊の手元に戻ってくる。
「こざかしい」
世三郎は吐き捨てる。本来投げ十手は鎖鎌の分銅と同じく、振り回して勢いを突けてこそ威力を発揮する。狭い室内では効果が薄い。が、この攻撃はおとりだ。
隙を逃さず、又之介は音もなく下がった。
「トメ、やれ」と治俊。
言われるまでもない、とばかりにトメは懐から取り出した卵を世三郎の足下に投げつける。伊勢屋の若い衆も同様に卵を投げつける。
どこを狙っている、とばかりの表情になった世三郎の足下で、畳に衝突した卵がはじけ、中から灰が立ち上る。卵に見えたが中身は灰だ。たちまち世三郎の周囲は灰煙に覆われる。
「目つぶしなど」と言いかけた世三郎は激しく咳き込む。灰の中に唐辛子の粉がまぶしてあるのだ。目や喉が痛み、涙も出る。
「卑怯な」苦しげな世三郎の声。
「人殺し相手に卑怯も正直もあるかい。野郎ども、やっちめえ。」
若い衆は、今度は懐から石つぶてを取り出すと、世三郎に力一杯たたきつける。一つずつは大した威力もないが、続けざまにぶつけられ、たちまち深手になる。たまらず振り回す世三郎の刀は中を切るばかりだ。
「どうだ、くそ侍。ヤクザなめんじゃねえ。」
トメが投げつけた石つぶてが世三郎の額に命中する。「うっ」と呻いた世三郎の額から血が流れる。
「外道め」
激高した世三郎はトメに突進する。
が、世三郎の足元がからみつく。又之介がいつの間にか欄間にかけてあった手槍を取り、世三郎の足下に投げつけたのだ。たまらず世三郎は倒れる。
すかさず踏み込んだ治俊の十手が世三郎の右手を打つ。刀を取り落とした世三郎はたちまちトメたちに取り押さえられる。
「ふん縛れ、念入りにな。」とトメ。
「これで勝ったつもりか。立花又之介、貴様も武士なら、尋常に勝負せい。」
「わしは武士ではない。貴様との立ち会いなど、ご免被る。」と静かに又之介は言う。
世三郎は目つぶしで開けぬ目で、又之介をにらみつける。又之介は静かに言う。
「分からぬか。わしは親の代から仕える家も禄もない。武士の誇りなど、とうに失っておるわ。だが、わしは人に助けられ、情けを知るようになった故に、真っ直ぐに生きていける。享楽のため人の命を奪う貴様とは違う。」
「貴様、それでも武士か」と世三郎。
「だから、言うておろうが。わしは武士ではない、とな。名よりも命を惜しむ。
おぬしのような狂犬とまともに戦っては、こちらも無事ではすむまい。わしが死ぬと妻が悲しむでな。」
こんなところで惚気ますか、とトメは呆れ顔になる。
「頭巾の旦那、こいつどうします? サムライですから町方で始末がつけられないんでしょ。」
「そうさな」と俊治。
「行きがかりでこうなってしまったが、世三郎が殺しの下手人だとの確かな証はない。であれば、大目付に引き渡すが筋であるが、あそこは権力を求める魑魅魍魎の巣で、妙な横やりが入りかねん。
こちらで始末する方が簡単じゃな。ヤクザ者がよく言うではないか、『す巻きにして大川にたたっこめ』と。」
「そりゃいい。品川沖の潮の流れの激しいところに放り込めば、フカの餌食になって、死骸も出てきやせん。」と、トメは楽しげに言う。
世三郎はヒッと息を飲む。治俊は冷ややかに笑う。
「無惨に人を殺しておきながら、自分が死ぬのは怖いか。貴様のような外道のために己の手を汚すなど、願い下げだ。
トメ、ここはわしに預けい。悪いようにはせぬ。」
トメは無言でうなずいた。
尾壁親子の病死が目付に届けられたのはそれから三日後であった。
一七 雲仙寺 さわ
雲仙寺の庫裏。いつものごとく、又之介はさわの給仕で昼食を取っている。
「先生、ご注文の文机を持って参りました。」と佐吉の声がする。
「おお、本堂に運び込んでくれ」と又之介。
そそくさと食べ終わり、本堂へ向かう。
寺子屋の子供たちが使う机だ。建具屋の佐生に注文していたのが出来上がったのだ。数が多いので一人では運びきれず、友人の佐吉、その伝手でトメと伊勢屋の大八車を雇っている。
良庵先生の予想どおり、「天下御免の寺子屋師匠」の又之介の評判を聞いて入門者が増えた。それはいいが、机が足りなくなった。金のない慶道が困っていると、又之介が金を出した。辻斬り事件の謝礼にと奉行所からこっそりと渡された謝礼を全部使ったのだ。普通の大工に頼むとその金額では足りないところを、又之介に恩のある佐生は格安で請け負った。
「立花様は、本当に人が良すぎます。」
そう言いながら、さわは上機嫌だ。
佐生は怪訝な顔になる。
「この寺のお嬢さんって、あんな陽気な人でしたっけ?」
机を運びながら、佐生が佐吉に尋ねる。
さわとあまり面識はないが、気の強い、もっと怖い印象が強いのだ。
「このところ、妙に上機嫌でな」と佐吉。
「俺のせいかな」と後ろからトメ。
捕り物の最中に又之介が惚気たことをさわに言ってしまった、と説明する。特に「妻が悲しむ」のくだりで、さわは輝くような笑顔になった、と。
「いつの間にかここに出入りして。トメさん、この寺の檀家でしたっけ?」
「うちの旦那だよ。あれでけっこう信心深いんだ。若い頃からの切った張ったの罪滅ぼしで、仏様にすがりたいとな。どうせなら又の先生と縁のある雲仙寺がいいって。俺が名代で参拝してるんだ。で、又の先生の思われ人がこの寺の娘さんだと知って、あれこれ話をしてたら、つい。」
「又の先生が嫌がりますぜ」と佐吉。
「そうは言うがな。毎度、荒事の最中に惚気られるこっちの身にもなってくれ。気合いが削がれるったらねえぞ。当の本人に愚痴をこぼしたって、バチは当たらねえや。」
「違えねえ」と佐吉。佐生もうなずく。
「あれは惚気ではない」と自分も机を運んでいる又之介が後ろから声をかける。
「先生、本堂で指図してください。運ぶのはあっしらがしますから。」
「人数が多い方が早いぞ」
こういうとき、又之介は身分を気にしない。性格の良さを感じるが、やりにくい。
やがて机は運び終わる。一息ついたところでトメが又之介に声をかける。
「先生、『惚気ではない』ってどういう意味ですかい? 余裕があって軽口をたたいたと思ってやした。さすが、腕に覚えがある先生は違う、感心したんですが。」
又之介は苦笑する。
「そうではない。いささか気恥ずかしい心根だ。」
「後学のため、その心根をお教えください。」
「わさ殿には言うなよ。わしは命が惜しくなったのだ。」
「どういうことです。あの恐っかねえ狂犬に立ち向かったじゃねえですか。」
「説明せねばならぬな。」と又之介。
「対峙した時、世三郎は既に抜刀しておった。得意の居合い抜きを封じられた形だ。それで、次の得意技であろう上段に構えたのだろう。あの上背で上段に構えられたら、大概の者は怖くて萎縮する。それで試合に勝ってきたのであろう。
それに対して、わしは突こうとした。天井がある室内では、背の高いヤツは十分に振りかぶれぬ。その分だけ剣が遅くなる。そうなれば周囲の狭さに関係ないわしの突きの方が早い。そうは考えず得意の上段に構えた世三郎の剣は、しょせん道場だけのものだ。
わしは勝ったと思った。
じゃがな、踏み込もうとしたとき、脳裏にさわ殿の顔が浮かんだ。また危ないことをなさって、と悲しそうな顔をしていた。たちまち、わしは不安になった。わしが思う以上にヤツの剣は鋭いかもしれぬ、わしの突きは避けられるかもしれぬ。そう思うと、動けぬ。
木下殿とトメたちの助けがなければ、わしは斬られていただろう。」
「でも、ヤツの足元に手槍を投げ込んだ機転は、てえしたもんでしたぜ。」とトメ。
「あれとて、斬り合いを避けただけのことよ。わしは弱くなった。死ぬのが怖い。と言うか、わしが死んでさわ殿が悲しむのが恐ろしい。」
「先生」と佐吉が言う。
「それって、結局、惚気ですね」
(了)