続 ぶらり又之介
一 トメ
夕刻、又之介の長屋に伊勢屋のトメが尋ねて来る。先だっての借金取りの威勢の良さとは別人のように消沈している
「先生を訪ねてこれる立場じゃねえことは百も承知だ。けど、先生を男と見込んでの頼みだ。実は……」
トメの言葉を又之介が遮る。
「断る。お前たち、無体な輩を助ける義理はない。」
「佐吉の借金の件ですかい。ありゃ、先生が一両一部を払ったとき、『それで手打ちにせぬか』と仰った。それで終わった話だ。こっから先の話に、あの件を持ち込むのは、違うんじゃねえですか。」
「なるほど、これはお前の言い分が正しい。話を聞こう。ただし、引き受けるとは言っておらぬぞ。」
「ありがてえ。こんなことを頼めるのは先生しかいねえんだ。
先生、阿片ってご存じですかい。」
「芥子の実から作る、人を酩酊させ、よい気持ちにさせるが、やめられなくなる。使い続ければ廃人にしてしまう、恐ろしい薬であったかな。」
「ご存じなら話が早い。その恐ろしい阿片が、江戸の街に入ってきてるんだ。」
「まことか」
「先生に嘘は申しません。まだ使っているヤツは少ないようですが、このままにしておくと、たちまち広まって、江戸は死の街になっちまう。」
「一大事じゃな。すぐに町奉行所に知らせよ。」
「あっしらごときヤクザ者の訴えなんぞ、お上は相手にしちゃくれねえ。誰かが作って、売りさばいているに違えねえんだが、その証でもなくちゃ。
先生、あっしらは悪事を働いてきた。お上が相手にしてくれねえのは当然だ。けど、人としてやっちゃいけねえことがあるのは知ってる。阿片はいけねえ。
あっしの手下が阿片にやられちまったんだ。しばらく姿が見えなくて、見つけたときには阿片の毒にやられてボロボロになってた。痩せ細って、体のあちこちがおかしくなってるんだろうな、まともに歩くこともできねえ。もっと危ねえのは神経の方だ。変な光りかたする目つきで、『阿片をくれ』って迫った来るんだ。あんな恐ろしい狂人はいねえ。それから十日も経たずに死んじまった。
いくら金が欲しくても、あんな物を売りさばいちゃいけねえ。あんな物を扱う人でなしは叩きのめしてやる。
先生、お願いだ。力を貸しくだせえ。」
「うむ」
又之介は目をつぶり、考え込んだ。
「条件がある。
阿片を使い続けるとやめられなくなるそうだな。薬を抜くには大変な苦しみがあり、完治させるには幾人もの助けがいるとか。」
「ようがす。その役目、伊勢屋が引き受けますぜ。医者のアテならあるんだ。あっしらのようなヤクザ者でも分け隔てなく診てくれる--足塚良案先生ってんですがね--そのお医者なら、親身になってくれやす。」
二 足塚良庵
二,三日後、又之介の長屋に剃髪に十徳姿の医者が尋ねて来る。
「足塚良庵と申します」
医者にありがちな偉ぶった素振りが少しもない中年男は、静かな口調の挨拶もそこそこに、本題を話す。
「江戸に出回っている阿片をトメが手に入れました。調べてみたところ、私らが治療に使うものより薬効が強いものでした。それだけ中毒性が高く、心身を蝕む危険な薬物です。治療も大ごとです。
こんな阿片は見たことがない。どうやって精製しているかすら分からぬ代物です。早く止めねば、人事不省に陥る者が増え続けます。」
又之介は良庵の実直な物言いに好感を持った。
「それほどの毒物なのですか。無論、このような人の道に背く物は許せません。作る者に怒りを覚えます。
怒りが治まり、冷静になったときには思うのです。このような恐ろしい企てをする者とは、どのような人となりであろうかと。良庵先生はどう考えられますか。」
良庵は腕を組み、しばし考える。
「この阿片は、相当に薬草の知識がある者が作ったのは間違いありません。首魁はおそらく薬種を扱う仕事をしています。家は高い知識を得る勉学のための金銭を出せる金持ちでしょう。」
「そのような人物となれば、黒幕は絞られてきましょうな。」
「で、ありましょうが。薬学だけでなく、これほどの商売を--あえて商売と申しますが--取り仕切れるのですから、かなり頭の良い者だと思います。そう簡単に尻尾は掴ませないでしょう。」
三 雲仙寺慶道
「立花様」
いつものごとく、雲仙寺の庫裏で又之介が昼食を取っている。給仕をしているさわが話しかける。
「危ないことをなさっているご様子。人の道を説くのもよろしゅうございますが、万が一のことがありはすまいかと、さわは心配でなりません。」
「さわ殿、ご心痛をかけてすまぬ。じゃが、ワシらは道理の通る行いをしております。さすれば危険などありはせぬのです。」
「無理が通り、道理が通らぬのが人の世だとは、無学なさわにも分かります。道理を通そうとするから、危ない道になるのだと。」
そこに雲仙寺の住職、さわの父、慶道が入ってくる。
「禅問答はそのくらいにしておけ。さわ、向こうに行っていなさい。立花様に話がある。」
「嫌です。阿片に関するお話でしょう。立花様が父様に相談なさっているのは知っております。さわも立花様のお役に立ちたいのです。聞かせてください」
「いつの間にその話を……。女が入る話ではない。出て行け。」
「いいえ、父様。わが宗派は開設以来、妻帯が認められております。それゆえ、わたくしはこの世に生を受けました。女を蔑まないのが御仏の道と存じます。女が入れぬ話などありますまい。ましてや立花様は世を正す行いをなさっておられます。ならば、わたくしが立花様をお支えするのが、人の道、仏道と存じます。」
「屁理屈を。この意地っ張りは、誰に似たんだ。」
「父親似でしょうな」と又之介。
「立花様!」親子の声がそろう。
「これは失礼」
気を削がれた慶道は溜息をつく。日頃は親に従順で寺の仕事もよくするが、言いだしたら聞かないところは、確かに自分に似ている。
前から又之介を慕っていたのは、乙女らしく密やかだった。それが阿片事件に関わるようになった頃から、はっきりと態度に出すようになった。
「仕方がない。分かっていると思うが、さわ、他言無用だ。
つてを辿って幕閣の動きを探ったのだが、公儀は積極的に阿片を取り締まるつもりはないようだ。」
又之介は眉をひそめる。
「阿片の売り上げは膨大な金額になる。そのうちの何割かを運上金として収めさせれば公儀は潤う、などと抜かすヤツまでおるそうな。太平の世になり、武士の懐は苦しくなる一方だからな。」
「しかし慶雲殿、阿片の害は……」
「城内で政に明け暮れておる者どもは、下々の苦しみなど分からぬ。嘆かわしいことじゃ。
じゃがな、そうではない方々もおる。町奉行所の与力や同心は、表だっては動けぬものの、阿片の動きを探り、撲滅に尽力しておる。その筆頭の与力、木下治俊様と会う約束を取り付けた。
立花様、拙僧は仏門ゆえ、町方と共闘して捕り物などできぬ。寺には町奉行所には知られたくないことが多いのでな。木下様と会ってくれぬか。」
又之介は肯いた。無認可の寺子屋はまだいい。寺がヤクザに本堂を貸し出し、丁半博打の土場にして、いわゆる寺銭を受け取っているのは犯罪である。町奉行所は寺院に出入りできないから取り締まれず、悔しい思いをしている。その住職が町奉行所の与力に会いたくないのは無理からぬことだ。
慶雲とて好んでヤクザ者と付き合っているのではない。寺の財政も楽ではないから、そうでもしなければ本堂の維持もままならぬことも、又之介は承知している。
「立花様、お気をつけくだされ。木下殿は切れ者の上に、食えぬ男と噂されておる。」
四 木下治俊
その夜、指定された茶屋を訪ねると、又之介は奥座敷に案内された。すでに小太りの中年男が下座に座っている。
「立花又之介と申す。木下殿か?」
「そようです。ささ、こちらにどうぞ。」
木下治俊は又之介に上座を勧める。その砕けた仕草とヘラヘラと笑う顔は、とても与力といった高官には見えない。
「いや、無役の若造が上座に座るわけには……」
「ま、そう言わず。ここは拙者の顔を立ててくだされ。」
どう顔を立てるのかと言う暇もなく、治俊は又之介の肩を抱いて上座に引っぱる。意外なほど強い力に又之介が驚いているうちに、上座に座らせられた。
「おーい、膳を出してくれ。」
抗議する間を持たせず、治俊は奥に声をかける。あらかじめ準備されていたのだろう。直後に料理や酒が持ち込まれる。
この男の笑顔はまやかしだ。自分の間合いに相手を引き込む方便に違いない。
「ま、一献」
と治俊は銚子を差し出す。又之介は憮然としながら杯を持ち上げる。
「今宵は良い月ですなあ」などと言いながら、治俊は自分の杯にも酒をつぐ。
ヘラヘラと笑いながら、この酒は美味いだの、サカナは何がお好きかだのと言ってくる。又之介が適当に答えていくと、「おお、さようか」などと相づちを打ちながら、一方的に話しかけてくる。
調子の良さに乗せられて、つい杯を重ねて警戒心が薄れた頃、話は又之介の近況になっていた。
「聞きましたぞ。和泉屋伝兵衛の妾宅の一件、立花殿が丸く収めたとか。いやはや、町奉行所に欲しいほどの見事な手際。浪々にもかかわらず、江戸のために尽くしておられる。感服いたします。」
「誉めていただくほどのことではござらぬ。」
さては自分のことを調べたな、と又之介は思う。しかも事件を的確に把握している。この男は見かけとは違い有能だ。
「いやいや、ご謙遜を。江戸の街も人が多くなり、よからぬやからも増えましてな。町奉行所も人手が足らぬ。おまけに武家や寺社が絡むと動きが取れませぬ。例えば仏門にありながら丁半博打の場を提供する寺院など、困ったものです。
まあ、それくらいはまだしも。近頃は怪しげな薬を製造するに、さる御家中が絡んでいるとかの噂もありましてな。拙者の立場では話は聞いても、真偽を確かめるすべもなく。貴殿のような身分に囚われぬ御方がうらやましい。」
「あい分かった。」
又之介は治俊の饒舌を止めた。俊治は、雲仙寺の不正は知っているが咎めない。そのかわり、阿片の一件で公式で動けない奉行所に協力しろ、情報は流す、と言っているのだ。
「さる御家中、とは?」
「はは、壁に耳ありと申しますからな。」そう言いながら俊治は懐から紙片を取り出し、又之介に見せる。大大名の家名と、江戸の中心部にある蔵屋敷の場所が書いてある。
まさかと思う又之介が手に取ろうとすると、治俊はすっと紙片を取り上げて懐に戻す。
「今宵は無粋な話はやめにして、月を愛でて酒を飲みましょうぞ」
なるほど、慶雲の言うとおり、油断ができない人物だ、と又之介は思った。又之介も武芸の心得はあるつもりだが、治俊はその機先を制してくる。
言葉が軽いから乗せられやすい。が、それは上辺だけだ。このやり口で上手く人を使って、犯罪捜査を進めているのだろう。
「いや、そのようなお気遣いは無用でござる。木下殿、貴殿のお気持ちはよく分かりました。ワシは罪なき人々を廃人にするような薬を止めたい、その思いで動いておるまで。実直に話してくだされ。」
俊治は驚いた顔になる。犯罪者やヤクザ者と接する仕事柄、利で人が動くことは体感していても、人道で動く儒者のような人物に接することはなかった、金に困っているだろうに。在野にはこのような若者がいるのか。
「これは失礼した。立花殿、貴殿は噂以上に清貧な人格者ですな。貧乏な浪人と侮り、飲み食いで気持ちよくさせようとしたは拙者の不徳、許されよ。」
俊治は頭を下げた。
酒を飲み、腹を割って話す。そうやって知己を増やし、情報を集めてきた。だが、この若者はそうではない。酒の力など借りなくても、人を助ける目的を一にすれば、誠実な対応をするのだ。
「貴殿と拙者は目的を同じくする盟友でござる。二度と妙な駆け引きなどいたさぬ。誓いましょう。」
俊治は刀のツバを又之介に示した。又之介はうなずき、自分の刀のツバを打ち合わせた。
金打。
「されば、拙者が知る限りを包み隠さず貴殿にお伝え申す。貴殿も思うところを遠慮なく申されよ。」
五 和泉屋伝兵衛
夕方の雲仙寺。寺子屋の講義を終え、帰ろうとする又之介を、和泉屋伝兵衛が尋ねて来る。
「先生、久方ぶりです。あの一件ではお手間をかけました。」
「役に立たぬとクビになったが。」と又之介。
「申し訳ない。後になって、あの騒ぎはおかえの狂言だと分かりましてね。先生もお人が悪い、全部ご存じだったんでしょ。」
「知られたからには隠しはせぬ。周りを見て、少し考えれば露見することじゃ。」
「へえ、仰るとおりで。色に目がくらんだ私の目利き違いです。おかえをとっちめてやろうかと思ったんですが、思い直して考えたんです。
あっしの囲い者になるより岡場所を選ぶってのは、おかえはそういう商売が好きなんだろう、色の商才があるんじゃねえかって。でね、水商売をやらせてみちゃどうかと。
おかえが言うんでさ。お上が公認の吉原ってのは、格式が高くて下々が滅多に行ける場所じゃねえ。かといって夜鷹を買うのは趣がなさ過ぎる。そこそこの値段で安心して遊べる店がありゃいいんじゃねえかって。
試しにやらせてみたら、これが大当たり。連日、入りきれねえ客に断りを入れるほどの繁盛でしてね。これも先生のおかげだ。あの時に払わなかった給金も合わせて、今日はお礼を持って参りやした。」
又之介は苦い顔になる。
「そのような金子は受け取れぬ。ワシは商売を助けたわけではない。それより、そのような遊び場を派手に商うと、公儀に取り潰しを喰らうのではないか?」
「さすが先生、お武家様なのに商いの道もよく分かっておられる。大丈夫です。あっしもその辺の加減はわきまえておりますし、さる筋に内々の話はしております。
先生、あっしは先生が好きになったんです。剣の腕が立つ上に学問もおありだ。寺子屋ではそろばんも教えていらっしゃるほど算術も達者。番頭に傭いたいぐらいだ。」
「断る」、又之介は即座に答える。
「でしょうね。ですから、せめてお礼をさし上げたい。でなきゃ、あっしの気が収まらねえ。」
又之介はしばし考え込む。
「ならば、お主に頼みがある。」
又之介は阿片の一件を話した。
「このような恐ろしい薬は撲滅せねばならぬ。そのためには芥子の栽培をやめさせねばならぬ。
黒幕が誰かまでは分からぬが、知恵の回るヤツのようで、いまだに栽培場所は特定できぬ。じゃが、運び込む手間や露見しにくさを考えると、江戸の近郊じゃろう。おそらく、さして豊かではない土地であろう。米や野菜を作るより銭になると持ちかければ、阿片の恐ろしさを知らぬ百姓は悪気もなく芥子を育てよう。ならば、芥子よりも金が稼げる作物を持ち込めば、阿片は立ち枯れる。
聞けば、最近は蚕が金になるそうじゃな。」
「蚕、絹のもとですね。」
「お主、本業は呉服屋であったな。これから絹を求める者は増える一方じゃろう。江戸の近くに絹糸の産地ができれば、儲かるのではないかな。
そのためには蚕の飼い方を指南する者がいる。信州に篤農家がおり、蚕の飼い方を伝授しておるそうじゃ。その方を招かねばならぬ。タダでは人は動かぬ。道具を揃えるのも金も掛かる。どうじゃ、一肌脱がぬか。」
伝兵衛はしばし考え込む。
「先生、そりゃ店の金を残らずづぎこみ、借金までしての大商いになります。上手くいけば大もうけだが、しくじれば店が潰れます。
けど、人の道を説くだけじゃねえ、こちらにも利のある話を持ちかける先生のやりように感服しました。
わかりやした。和泉屋伝兵衛、先生のご指示に従います。その信州の篤農家、あっしが口説きやしょう。」
六 大名蔵屋敷
トメが又之介の長屋に飛び込んでくる。
「先生、阿片を作ってる工場を突き止めましたぜ」
「でかした。して、どこだ?」
「先生が言う大名を探ってたら、さる蔵屋敷が怪しくてね。」
トメが言う場所を聞いた又之介は絶句した。
「木下殿に疑わしいと教えられたときは、まさかとは思ったが、本当に江戸の中心部ではないか。」
「町中の大名屋敷といっても、近頃は羽振りが悪くて使ってない一角なんですがね。誰もいねえのをいいことに、怪しげな連中が入り込んじまって。腐った大根の匂いがするって、近所で噂になってるのを、うちの若えのが聞きつけやしてね。」
「うむ、それは阿片の匂いに相違あるまい。」
「で、若えのが中を探ったら、黒い泥みたいなのを、見たこともない道具で、煮出したり乾かしたりしてるって。」
「間違いないな、そこで阿片が作られておる。」
「お家の方々も知らねえはずはねえんだが、金を渡されてるのか知らん顔してまして。それに……」
「大名相手では町方は手が出せぬ。武士の体面を重んじる目付どもはおいそれと動けぬのだな。だが、それで無法はまかり通らぬ。」
又之介は筆を取り、状況をしたためる。
「トメ、これを町奉行所の与力、木下治俊殿に届けろ。大丈夫だ、木下殿はこちらの味方だ。今夜、その屋敷を急襲する。腕の立つ連中を集めろ。」
「先生、相手は侍ですぜ。こちとら分が悪いや。それに町奉行所が味方といっても、大名屋敷じゃ助けてくれねえ。」
「かまうものか。義はこちらにある。」
その夜、又之介とトメ達は蔵屋敷に乗り込んだ。
どうやって入るのかとトメ達は訝る。遠回りに屋敷を囲む、治俊が率いる取り方達を尻目に、又之介は堂々と勝手口を開けて屋敷に入っていく。おっかなびっくり又之介に従うトメ達は、たちまち呼び止められる。
「おい、お前ら、ここをどこだと思ってやがる。」
げひた口調と風体は、とても大名の家中には見えない。
「お前こそ、大名屋敷の侍には見えぬな」
又之介は落ち着いたものだ。
「ふざけんな」
言うなり男が飛びかかってくる。又之介は体をかわし、男を投げ飛ばす。きれいな背負い投げを決められた男は受け身も取れず、地面にたたきつけられ失神した。
「先生、こりゃ、あっしも知ってるゴロツキですぜ。こんなのが出入りしてるなんて、世間に見せられねえことやってる証だ。こんなのが相手なら、後始末は奉行所がしてくれる。俺らも恐かねえ。」
「急に元気になったな」又之介は破顔した。
そうしているうちに、異変に気が付いたヤクザ者たちが集まってくる。
「先生、お上のお墨付きだ。思いっきり懲らしめてくだせえ。」
「なめんじゃねえ。てめえら、ここをどこだと思ってやがる。」
同じような台詞を吐きながら飛びかかってくる男を又之介はかわし、のみぞおちに拳を打ち付ける。男は声もなくうずくまる。
「人を無頼漢のように言うでない。」
又之介の静かな物言いに、ヤクザ者たちの勢いが削がれる。
「びびるな。サンピンは一人だ。取り囲んでやっちめえ」
兄貴分と見える男が、懐の匕首を抜く。男達もそれに倣う。と見る間もなく、抜く手も見せぬ又之介の刀が一閃して、兄貴分の右手を打つ。兄貴分がうめき声を上げて匕首を落としたときには、又之介は峰打ちの太刀を持ち替え、鞘に戻しかけている。
「次は、斬るぞ」
ヤクザ者たちは我先にと逃げ出した。
「待ちやがれ」
「トメ、追わずとも良い。武家屋敷から出れば、町方の領域だ。木下殿に任せておけば良い。それより、今のうちに阿片の工場を始末せねば。」
「へえ、先生。任せてくだせえ。」
トメと手下達が蔵に飛び込む。悲鳴とうめき声が上がる。
続いて走り込んだ又之介も言葉を失った。蒸留器や乾燥施設の奥に、明らかに正気を失った男が縛れている。だらしなく涎を垂らしながら、目ばかりが爛々と光る。その不気味さにトメ達荒くれ男も動けなくなる。
「先生、こいつ、阿片の毒にやられてる。こりゃもう、助からねえかもしれねえ。」
「話には聞いていたが、ここまで正気を失うものなのか。阿片流通の露見を恐れ、こんなところに縛り付けたのだな。」
「おい、てめえら。恐ろしいだろうがよく見ておけ。阿片を使い続けるとこんな風になっちまうんだ。俺が許せねえって言ってる意味、よく分かっただろう。」
トメの手下達は、声もなく何度も肯いた。
「トメ、約束したな。この者を治療するのだ。」
「分かってます。おい、二.三人でこいつを良庵先生のところへ運べ。残りは、この人でなしの道具を打ち壊せ。」
大麻の原料や製品は残らずうち捨てられ、施設は原形を留めぬまで破壊し尽くされていく。
「先生、あっしらの勝ちだ」トメは高揚して声がうわずる。
「トメ、これで終わりではない。このような場所がいくつもあるに違いない。こうして壊されれば、奴らはまた作るだろう。
我らの戦いは始まったばかりだ。」
又之介は静かに言いながら、文机の書き置きを一枚ずつ手に取る。
「先生、何を見てるんです?」
「黒幕を知りたいのじゃ。これほど帳簿や書き付けが残されているのに、組織の上に繋がる手がかりが見当たらぬ。トメ、書面は全部集めろ。奉行所で調べてもらう。」
治俊が率いる町奉行所の役人達が丹念に書類を調べても、組織の全容は分からなかった。
「この事件の黒幕は、恐ろしく緻密で用心深い。何者なんだ」
治俊は恐怖した。
七 藤本善右衛門
阿片一味と又之介達の攻防は膠着状態となった。阿片の隠れ家を潰せば、いつの間にか別の工場が動いている。阿片中毒は一向に収まらない。
隠れ家を三つ潰し、治俊が率いる町奉行所が捕縛したヤクザ者は二〇名近くになった。にも関わらず、黒幕や組織の全容にたどり着けない。末端の構成員は首領を知らないままに使われているようだ。
この事件を起こした黒幕は薬の知識だけでなく、組織作りにも長けている。一体何者なのだ?
「大店の主人、あるいは番頭でもなければ、これほどの商いをする才覚はあるまい。それも薬屋に限るとなれば、怪しい者は限られよう。しかし正体が露見せぬ。いまだに目星すらつかぬ。不思議でかなわぬ。」
と治俊。優しげな顔つきに疲れが滲む。
「それも問題じゃが、阿片の流通が収まらぬ。やはり、芥子をどこで栽培しているのかを突き止ねばならぬ。元から絶たねば治まらぬ。」
さすがの又之介にも焦りが出る。
「それについては調べが進んでおる。関東取締出役に手を回してな。阿片の花が咲く春に、怪しげな栽培や採取をしている畑がなかったかを聞き込んだ。もう少しで報告がまとまる。じゃが、江戸町奉行所の権限では、芥子の栽培をやめさせることはできぬぞ。」
「それには考えがある。芥子の代わりに養蚕を始める算段をしておる。いまのところ、思うように話が進まぬのじゃが。」
数日後の夜半、又之介の長屋を訪ねてくるものがある。
「ごめんくださいまし。立花又之介様はご在宅かな。」
「おります。お入りください。」
いつものごとく写本をしていた又之介は筆を置く。
白髭の老人が戸を開けて入ってくる。真っ直ぐ伸ばした背筋が年を感じさせない。汚れた旅装が急ぎ旅であったことをうかがわせる。
「信州から参りました、藤本善右衛門と申します。」
信州で養蚕を確立した篤農家である。阿片の代わりに養蚕を広めてもらうよう、和泉屋伝兵衛が呼び寄せようと説得しているが、良い返事をもらえないと伝兵衛からの報告を受けていた。それが、いきなり訪ねて来るとは。
「おお、お上がりください。ご覧のとおりあばら屋にて、茶も出せませんが、どうかお寛ぎください。」
又之介は文机を脇に寄せ、自分が座っていた座布団を裏返して善右衛門に勧めた。背負った荷を降ろした善右衛門は、黙って腰を下ろす。
「論語、ですかな。」
文机を見ながら善右衛門は言う。
「さようです。」と又之介。
それきり善右衛門は口を開かない。じっと又之介を見つめる。
「ワシの顔がなにか?」
「いや、失敬。養蚕を広げたいなどと仰るお武家は、どのような方かと思い参りました。和泉屋さんから聞いてはいましたが、話以上に清貧で私欲のなさそうな。面白い。」
身分差を無視した明け透けな言いように、さすがの又之介も唖然とする。
「面白い、ですか。」
「さよう。私は百姓だが、絹糸を扱う商売に関わる故に、色々な人にお会いする。絹で儲けようとする方は多いが、世を良くしようなどと言い出す方は、お役人でも少ない。お武家様には百姓の気持ちなど分かりませんからな、的外れなことを言う御方が少なくない。
そこをいくと、立花様はお武家でありながら算術に明るく、金がなければ人は食うに困ることをご存じのようだ。それでいて自身は金を持たず、寺子屋で人の道を説く。説くだけでなく、阿片を根絶やしにしようと奔走する。
ご公儀のように高圧的に命じてくるのなら、私は理由をこじつけてでもお断りします。養蚕を教えるというのは、皆様が思っている以上に苦労の多い仕事なのです。しかし立花様は利を持って和泉屋さんを動かした。商人の和泉屋さんは、当然、私にも利がある話をなさる。立花様は人を動かす手立てが分かっておられる。
面白いお武家様ですな。」
「いや、ワシは親の代に主家が取り潰され、おまけに妾腹なので、厳密には武士とは言えぬ。父は勘定方だったので、帳簿の扱いがお役目であった。それゆえ、ワシも幼いころから、そろばんを扱ってな。いつの間にか経理ができるようになった。父は主家を失った失意で、ほどなく亡くなった。ゆえに武門にこだわる理由など無い。とはいえ、商人になるわけにもいかず、このような生業じゃ。
「御母堂様は?」
「芸者だった。父の死後、庇護をなくした母は、義太夫節の師匠で暮らしておった。だが、肺を患って夭折した。」
「それは、ますます……」
「面白くはない」
善右衛門の言葉を又之介が遮った。
見つめ合う二人は笑い出した。
「いやいや、ほとほと、面白い。立花様にお会いして、私も迷いが晴れました。
太平の世で、暮らしにゆとりができた方々が多くなってきました。実は、信州でも絹糸は不足気味でしてな。今以上に蚕を増やすのは場所や人手が足りぬのです。一番の問題は蚕の餌、桑を植える農地が足りぬことです。
なにせご公儀は米を増やせの一点張りで、田に桑を植えるなどできませぬ。産地を広げねばとは思っておりました。
それに、阿片という毒の元になる芥子を栽培するなど、百姓の摂理に背きます。養蚕を広めるお役目、この藤本善右衛門が引き受けましょう。」
「おお、感謝しますぞ。実はつい先ほど、芥子の栽培地が判明いたしました。立岡です。」
「立岡、江戸から北に三〇里ほどですかな。水田に恵まれぬ、貧しい土地ですな。ようございます。すぐにでも立岡に参りましょう。」
そのとき、また客が訪ねてきた。
「先生、お客様ですか」
「佐吉か。いま、大事な話をしておる。急ぎでなければ後日にしてくれ。」
「へえ、そりゃすいません。では、顔つなぎだけさせてください。
と、後にいる男女を土間に招き入れる。
「こいつは俺の友達で、建具屋の佐生と女房のおせん。おせんは長患いだったのが、先生のおかげでこの通り元気になりました。今日はお礼を言いに来たんですが、お忙しいようで、出直してまいりやす。」
「おお、佐吉の友か。女房殿も息災なようで、よかったのう。せっかく来てくれたのだから、話も聞きたいが、あいにく立て込んでおってな。許せ。」
佐生とおせんは何度も頭をさげ、もの言いたげにしながら去ろうとする。
「ちと、待たれよ」
善右衛門が佐生に声をかける。
「佐生さんとやら、おぬし、建具屋とな。このような物を作れるか?」
善右衛門は荷物の中から図面を取り出す。蚕架、蚕箔といった養蚕道具が描かれている。
怪訝な顔をする又之介に善右衛門は説明する。
「養蚕には多くの道具が必要でしてな。かさばる物もあり、信州から持ち込むより、作れるなら現地で作った方が楽なのです。」
佐生は受け取った図面をじっと見つめる。図面を読み取りにくい場所があるのだろう、何度も指でなぞったり、善右衛門に尋ねたりする。
「できます」
あっさりした返事に職人の気概が感じられる。
善右衛門は満足げに肯く。
「佐生さん、実は立花様は立岡に養蚕を広めようとしておる。金儲けが目的ではない。人の道のためだ。おぬしは立花様には恩がある様子。どうじゃ、立花様を助けるため、私と一緒に立岡に行き、この道具を作ってくれぬか。」
「はい」佐生は即答した。
「おい、大丈夫か? 藤本殿も、もそっと細かい事情を話されよ」
と又之介の方が慌てる。
佐生は首を振る。
「先生に助けていただかなきゃ、女房は死んでたんだ。このご恩は何があっても返さなきゃならねえ。先生のためになるのなら、あっしはどこにだって参りやす。」
八 会議
事態は硬直状態のまま、時間が過ぎていく。
作戦会議が必要だ。俊治の要請で、阿片撲滅に関わる一党が雲仙寺に集まった。
治俊は表だって寺院に入れないし、トメ達無頼のやからと顔を合わせる訳にはいかないので頭巾で顔を隠している。トメ達も感ずいてはいるが、それを口にはしない。
養蚕を起こそうとしている善右衛門と佐生も江戸に呼び戻された。
本堂に集まった一同は、それぞれが動きを報告する。阿片の使用者を見つける者、中毒患者を治療する者、隠れ家を探索する者、壊す者、そのぞれの成果は上がっているのだが、それ以上に阿片は広まっている。
「このところ気になっておることがあってな。」と又之介。
「紙と筆、そろばんも貸してくれぬか」
さわがいそいそと用意する。
「阿片の採算を計算してみたいのじゃ。
善右衛門殿、立岡で栽培されている芥子の花は、どれほどの広さであろうか?」
「私が見つけておらぬ畑もあろうが、人の動きや立岡の地理などから考えて、だいたい五反ほどかな。」
又之介は『五反、栽培』と書く。
「良庵殿、それでどのくらいの阿片が作れるのかな?」
「そうさな。一反で8万個ほどの芥子の実が成るから、五反なら四〇万個ほどか。芥子の実一個で一分ほどの重さの阿片が取れるから、四〇万個なら四〇万分だな」(一分は約〇.三七五グラム)
一同は溜息をつく。そんな大量に製造されていたのか。
「いや、待たれよ。出回っている阿片は効力を高めるため、蒸留、乾燥、そのほかの精製が施されておる。私の見立てでは、濃縮されて二割ほどの重さになるじゃろう。」
又之介がそろばんをはじく。
「精製後、八万分」
「売りさばかれている阿片は、紙包みで、一包みが五分ほどじゃった。」と良庵。
「包みの数は一万六千。」
「頭巾殿」と治俊を呼ぶ。
「売上を計算してみよう。阿片はいかほどで売られておるのかな?」
「一袋、百文ほどじゃ。この求め安さゆえ、手を出す者が後を絶たぬ。」
「そこが問題なのじゃ。全部売ったとして、一万六千包みで、一つ百文なら一六〇万文。両にすると四〇〇両の売上となる。」
又之介は『売上 四百両』と書く。
「そんなものなんですかい?」とトメ。
「ワシもそれが解せぬのじゃ。次は費用を計算しよう。」
「良庵殿、五反の芥子を栽培するのに、人手はどれほど掛かろうか?」
「そうさのう。芥子の花を実にするまではさほど人手は掛からぬじゃろう。飯も食えぬ小作人の片手間で間に合おう。じゃが、実に傷をつけて、しみ出して固まった樹液を集めるのに手間が掛かる。五反なら、一〇人を三〇日ほどかな」
「善右衛門殿、その一〇人を傭うにいかほど掛かろうか?」
「食い詰めた浮浪人を集め、飯を与えるだけで仕事をさせるとして、一食が米一合で一五文、日に三食として、それに煮炊きやらが一日五文というところか。一日三食で三〇日なら……」
「一人、一千五百文。一〇人なら一万五千文。」
「次に隠れ家じゃ。トメ、隠れ家に詰めておったヤクザ者を傭うに、いかほど掛かる?」
「あいつら、けっこう腕が立ちましたぜ。ま、又の先生が強すぎるんで役に立ちませんでしたがね。」
「ワシを「股の」など下品な名で呼ぶな。世辞もいらぬ。いかほどじゃ。」
「おっといけねえ。隠れ家に詰めるにゃ、口の堅いヤツでねえといけねえから、ちと高くつきまさ。日に百文って、とこでしょうね。」
「頭巾殿、最初、隠れ家はいくつあったであろうか?」
「これまでの調べから考えるに、たぶん、五つほどじゃったろう。」
「隠れ家一つにつき五人、一人百文、五箇所、年中無休じゃろう。一年を三五四日とすると(太陰暦は閏月を除けは、一年は三五四日)」そろばんをはじく
「八八万五千文」
「あと、阿片を蒸留、精製するには腕いい職人がいる。帳簿を受ける者もな。たぶん一つの工場に二人ずつほど必要じゃろう。和泉屋、おぬしならいかほどで傭う?」
「そうですなあ。手代と同じくらいだとすると、年に五両ってとこですかね。」
「五箇所に二人ずつ、一人が五両。かけて五〇両、と」
「もう一つ。阿片を精製する道具も、高度な細工がいるから安くはあるまい。佐生、おぬし、隠れ家の跡を診たか? あれらの道具はいかほどじゃと思う?」
「あっしが見たのは壊した後ですから、定かなことは分かりやせん。大雑把に見て、二〇両ってとこでしょうかね」
「五箇所だから一〇〇両」
「工場は大名やらに借りておるから、賃料を払うだろう。まあ、年に五両としておこうか。五箇所で二十五両。
これらの費用を足すと……」
そろばんを弾き、文を両に換算して合計する。
「しめて費用は四〇〇両。売上と同じ額、差し引き零となる。」
一同は唸る。これだけの手間をかけて利益がない。
「先生、見事な算術だ。改めてお願いします。給金は並の倍払ってもいい、うちの番頭になってください。」
「断る。」
「和泉屋、ちゃかすな。立花殿、黒幕は算術が苦手なのでは?」と頭巾の治俊。
「いや、これほどの大事をなす者、そのような間抜ではあるまい。」
「じゃ、最初は安くしといて、阿片をやめられなくなったヤツが増えたところで、値をつり上げて大もうけしようって腹じゃ。」と佐吉。
「ないとは言えぬ。が、違うのではなかろうか。ワシは、この差し引き零が、偶然とは思えぬ。頭の良い黒幕が、巧妙に計算して始めたのではなかろうか」
又之介は腕を組んで考え込んだ。
「立花様、考えすぎではないかな。阿片の材料となる芥子の栽培場所は露見したではないか。」
と善右衛門。
「いや、精製は隠れてできるが、お天道様の下で栽培する畑は隠しおおせぬ。いずれは露見する故に、あえて隠蔽しなかったのではなかろうか。むしろ芥子の栽培を見せつけておるのではなかろうか。大名の領地である立岡では、江戸町奉行所では手が出せぬ。おおもとを潰せぬもどかしさを味あわせる、意地の悪さを感じる。
黒幕の目的は金儲けではない。世の中を嘲笑する悪意を感じるのじゃ。」
一同は言葉をなくす。
ややあって、頭巾こと治俊が発言する。
「善右衛門殿、芥子栽培をやめさせ、蚕を飼わせる算段の具合はいかがか?」
「苦戦しておる。絹糸を売る利は大きいが、その原料を作る蚕の飼養にはいくつもの作業が必要なのが嫌われておる。その点、芥子の実の樹液を集める単純作業はきついが、大して技能はいらぬ。工面もなく銭になる阿片を、食い詰めた者どもはやめようとはせぬ。
もう少し時間をくだされ。阿片がいかに危険かの説得に耳を傾ける者も出始めた。佐生の作った道具は工夫されて使い勝手が良い。私らが始めた桑の栽培は順調だ。絹糸の利が大きいことを知らしめれば、養蚕に鞍替えする者ばかりになる。」
「お頼み申す。芥子の栽培を止められれば、敵の本丸を落としたようなもの。こちらの勝ちじゃ。」
善右衛門は肯いた。
九 尼寺
いつもの雲仙寺。佐吉が又之介を尋ねて来る。
「先生、頭巾の旦那からのつなぎだ。阿片の工場の疑いがある所を見つけやした。あっしがあちこちのお大尽から聞いた話も合わせて考えると、これまでで一番大きいようです。」
頭巾の旦那とは治俊のことだ。表だって町奉行所が動けないので、与力の治俊の名は出せず、その隠語が定着している。
「して、場所は?」
「比丘尼御所です」佐吉は小声で言う。
「男子禁制の尼寺か。それでは探りを入れることもできぬ。」
「私が参ります。」
いつの間にかそばにいるさわが言う。
「さわ殿、危険だ」
「いいえ、危険だなどと言っている場合ではありません。立花様はこれまでわたくしが心配するのを、危険はないと乗り込んで行ったではないですか。探りを入れるだけです。寺娘のわたくしなら、尼寺で不審に思われぬでしょう。危険などないのです。わたくしは立花様のお役にたちとう存じます。」
「いや、しかし……」言いよどむ又之介。
「言いだしたら聞かない。似たもの夫婦ですなあ。」
「佐吉」「佐吉さん」
憮然とする又之介と、真っ赤になったさわの声がそろう。
「こりゃ、すいません」
佐吉は楽しげだ。
とにかく動くな、という又之介の言にさわは渋々肯いた。
翌日。雲仙寺にさわの姿がない。
「しまった!」
又之介は血相変えて走り出した。
さわは比丘尼御所にいた。自分の寺以外は知らないので尼寺を見せて欲しいと、適当な理由をつけて入り込み、広い寺院の奥まで入っていく。
奥まった一角から大根が腐ったような匂いが漂ってくる。これが又之介達が言っていた阿片であろう。さわは見つからぬよう、匂いの元を探る。
やがて怪しい別館を見つける。明かり取りの窓からのぞき込んださわは、怪しげな道具と分包された薬を仕訳する男達を見る。
「これのどこが男子禁制というのですか」
思わずつぶやいたさわの声が中に聞こえたようだ。出窓を見た男と目が合った。さわは慌てて逃げ出した。
「逃がすな」と目つきの悪い男が別館から走り出してくる。男に続いて、阿片の精製や梱包をしていたこ男達も飛び出してくる。
さわは追いつかれ、手首を捕まれそうになった刹那、物陰から飛び出した女が男に体当たりした。たまらず男は倒れる。頭をぶつけた場所が悪かったのか、それきり動かなくなる。
「ひっ」とさわは息を飲む。
「逃げるよ。」
女はさわの手を掴んで走り出す。
「あたいは、かえ。又の先生とは縁があってね。和泉屋の旦那のつてで、奉行所に頼まれて探りを入れていたら、この騒ぎだ。あんたかい、又の先生の思われ人ってのは。」
なるほど、あの朴念仁には、こういう気の強いおぼこが合うのか。似合いの相手は身近にいるものだと、おかえはニヤつきそうになる。だが、今はそれどころではない。
おかえは入り組んだ比丘尼御所を迷いもせず、追っ手をまいて寺院の外に出た。逃げおおせたと思うまもなく、後から声がする。
「いたぞ、こっちだ」
男達はたちまち距離を詰めてくる。
逃げ遅れたさわは追っ手に襟首を捕まれた。げひた笑いに、さわは身をすくめる。男がさわを引き寄せようとした刹那、立木の後から小太りの黒巻羽織が飛び出し、見た目に似合わぬ早業で、手にした十手が男を打ち据えた。
「ここは拙者に任せ、早く逃げられよ。」
頭巾を被った男は、言う間にも追っ手を次々に打ち倒していく。
(木下治俊様、見張っておられた?)
さわは礼を言う間もなく、おかえに手を引かれて逃げ延びる。その間も、治俊と追っ手の立ち回りは続いている。
適わぬと見て、治俊を避けて女たちを追おうとする男に、治俊の十手が飛ぶ。首筋に十手を受けた男が倒れる。治俊は得物を失った、と思いきや、十手は組紐で繋がれており、治俊が右手を引くと、組紐が波打ち十手が治俊の右手に飛び戻る。その早業を恐れた男達の動きが止まるや、治俊は組紐を鎖鎌のように振り回し、男達を次々に打ち倒していく。
さわとおかえが、逃げ切ったと足を緩めた頃、血相を変えた又之介が走ってきた。
「さわ殿、無事か? なんでこんな無茶を」
「立花様のお役に立ちたかったのです。立花様のためなら、さわは命など惜しくはありません。」
「馬鹿なことを申すな。さわ殿に万が一のことがあったら、ワシは……」
「どうなるのさ?」とからかい気味におかえが口を挟む。
「茶々を入れるな」
一〇 黒幕
二日後の雲仙寺。重大な発表があるとの俊治の連絡で、江戸のいる一同がそろう。
頭巾を被った治俊が言う。
「尼寺で捉えたヤクザ者の中に一味の幹部がおってな。詮議したところ、黒幕らしき者が浮かび上がった。」
「ついにやりましたな。して、その黒幕とは?」と又之介。
「日本橋の薬種問屋、容水屋の次男、知代造」
「容水屋……聞いたことがあるような」
「公儀御用達の薬屋だ。ここの次男坊は幼い頃より神童と言われる知恵者でな。裕福な家の金や薬を使って薬学に励んでおった。それがどう道を誤ったのか、阿片に興味を持ち、ついに製造に手を染めたらしい。
商いの表に出てこない道楽息子ゆえ、詮議が及ばなかった。じゃが、これまで考えていた黒幕の人物像とすべて一致する。間違いなかろう。」
「やはり、貧しさ故に金になる阿片を扱うのではないのだな。」
「立花殿、芥子の実を栽培したり、売りさばく末端の者たちはともかく、容水屋ほどの大店ならば、真っ当な商いで充分に儲かる。
その逆に、阿片の製造には元手と知識がいる。知代造のような者でなければ始められぬ。
しかもじゃ。例の尼寺は男子禁制じゃが、例外がある。定められた薬屋の容水屋だけは出入りできる。」
「なるほど、容水屋知代造なる者、疑わしいな。頭巾殿、知代造は今どこに?」
「行方知れずじゃ。こちらの詮議を察して姿を隠した節がある。どうも、こちらが探索して向こうの姿を探るのと同じ程度に、向こうにもこちらの動きが露見しているようだ。憎らしいほど要領がよく、頭の良いヤツじゃ。」
「容水屋を取り調べれば?」とトメ。
「公儀御用達だと言っておるであろう。確たる証もないうちは手を出せぬ。それに、どうも阿片と容水屋自体は無関係で、知代造個人の企みのようなのじゃ。調べるほどに底知れぬ男じゃ。」
治俊は頭巾の中で苦い顔になる。
「こやつにとって、阿片を廻る今回の騒動は道楽のようなものなのかもしれぬ。」
又之介はつぶやく。一同は又之介を見る。
「道楽で人の命をもてあそぶ。そんな恐ろしい人がいるのでしょうか」とさわ。
「そう考えると辻褄が合う、というだけじゃ。」と又之介。
「いや、そうかもしれぬ。」と俊治。
「容水屋で昔、知代造つきの奉公人をしておった男を見つけてな。知代造が神童と言われていた一二歳頃の話を聞き取った。
知代造は大きな瓶でつがいの鼠を飼ったそうだ。」
良庵が嫌な顔になる。
「それは古くから治世の戒めとしてある話ですな。まさに鼠算で増える鼠たちは、次第に悲惨な社会になるという。」
「それです。知代造は文献を読み、実際に試してみたそうだ。伝えられるとおり、数が多くなりすぎた鼠は逃げ隠れができぬためか情緒不安定になり、雄と雄が交わり、餌を充分に与えているのにいさかいが絶えず、殺し合いまで始めたと。知代造はそれを眺めて、薄ら笑いを浮かべていたそうだ。
その奉公人は知代造が恐ろしくなって、容水屋をやめたそうだ。」
「知代造なる者、どうも心の病を抱えているようですな。」と良庵。
「そのようですな。病が高じて、鼠に飽き足らず、今度は人間が狂っていく様を試そうとしているのかもしれぬ。」と又之介。
「まさか」と佐吉が言いかけてやめた。知代造にはそれを否定しきれない恐ろしさがある。トメも佐生も似たような表情を浮かべている。
「真相は本人に聞く方が早かろう。皆で容水屋知代造の足取りを追おう。」と治俊。
「おう」と一同の声がそろう。
「遠くに逃げてはおらぬ。そんな気がして仕方がない。」
又之介はつぶやいた。
「ワシは、この男の考えが分かるようになった気がする。ワシは惻隠の心--井戸に落ちそうになっている赤子を見れば、誰もが助けると信じておるが、この男はその逆で人を信じぬ。真逆故に、ワシはこの男の思考が鏡に映るように見えるのだ。」
一一 元を絶つ
一月後の雲仙寺。善右衛門が江戸に帰ってきた。一同は集まり、作戦会議を開いた。
「立花様、待たせました。立岡の蚕産業、目処がつきましたぞ。和泉屋さんが絹を買い取る算段もできた。これで阿片など作らずとも、立岡は立ちゆく。」
善右衛門は痩せこけていた。さぞ苦難があったのだろう。だが、その目の輝きには力がある。
「ありがとう」
又之介は善右衛門の手を取り喜んだ。これで今回の騒動の大本を抑えた。
「もう一つ、朗報があります。容水屋知代造は立岡に潜伏しておるようです。」
「なんと」と治俊。
「立岡は田畑が狭い、山がちの土地でしてな。その深い山々のどこかに、芥子栽培の秘密の指揮所があるらしい。そこに知代造は籠もっているのではないかと、芥子栽培の百姓をとりまとめておった男が言うのじゃ。いや、その男も、指揮所の定かな場所は知らぬそうだが。」
「うむ」と治俊は腕を組む。
「どうされた?」と又之介。
「知代造はなぜ、そんなところに籠もったのであろう。金はあるはずだ。上方にでも逃げてしまえば、足取りは追えなくなる。こちらの探索を攪乱するために、偽りの話を流したのではないか、と思ったのじゃ。」
俊治は考え込む。
「頭巾の旦那の言うとおりじゃねえですか。普通、悪事が露見して捕まりそうになれば、小細工をして逃げようとするもんだ。わざわざ捕まりやすくするような真似はしねえでしょ。」
あこぎな商売をしてきたトメが言うと説得力がある。
「あいにく知代造は普通ではない。前にも言ったが、この男は心に病がある。その病苦に破滅願望、あるいは滅びの美学があっても不思議はない。」と良庵。
「講談でよくある、『城を枕に討ち死にじゃあ』ってやつですかい。」と佐吉。
「狂人と武士道とを一緒にするでない」と俊治は佐吉をにらむ。
「こりゃ、失敬」
佐吉は謝るが、大して反省した様子はない。
「「滅びの美学か」。世をわかりきった気になっているだろう知代造なら、ないとは言えぬ。じゃが、ワシは知代造には立岡にこだわる理由があるのではないかと思う。何一つ不自由なく育った道楽息子が、貧しい寒村に目をつけたわけが。」
「何やら禅問答になってきましたな」と慶道。
「あるいは、知代造は待っているのかもしれぬ。自分と真逆の思想によって立つ、ワシがやって来るのを。もしそうなら、その指揮所とやらの所在、案外に容易く見つかるのかもしれぬ。
決着をつける時が来たようだ。行こう、立岡に。」
一二 決戦
立岡行きの人選は簡単だった。立岡につながりができた善右衛門とその助手の佐生は必然。一党の頭領といってよい又之介は当然。荒事になるだろうから、トメとその手下達は外せない。中毒患者がいれば治療するから良庵も必要だ。
逆に、江戸町奉行所の治俊は江戸から離れられない。寺がある慶道も遠出はできない。目的地では宿泊先も限られるからと、旅の役に立ちそうにない佐吉と伝兵衛は泣く泣く留守番となった。
これで決まりとなりかけた時、さわが同行すると言い出した。慶道や又之介がどう反対しようと、頑として行くと言い張る。どのような危険があろうと、いや、危険だからこそ又之介から離れない。足手まといになったら、その場で自害してでも迷惑はかけない、と。
「さわは、立花様のお側におります。決して離れません。」
「さわ殿、どう言われようと女子は無理だ。手形が出ぬ。」
入鉄砲に出女の時代である。江戸屋敷から抜け出す大名の妻女を取り締まるため、江戸から出る女は関所で厳しく取り調べられる。それ以前に、滅多なことでは通行手形が出ない。
さわが唇を噛んだ時、治俊が行った。
「拙者が何とかいたそう。」
さわは歓喜、又之介は困惑、慶道は非難の目で治俊を見る。
「この旅にはさわ殿が必要であろうと、拙者は思う。」
「何故に?」と慶雲。
「父君のご心労は当然でござる。しかし、それにも増して、さわ殿がいなければ、一番大事なところでしくじる。勘のようなものですが、そう思えるのです。」
その夜、旅支度を始めたさわを、母のみちが奥の間に呼んだ。
「母さまに反対されても、さわは立花様と参ります。添い遂げます。」
部屋に入ってくるなり言い放つ娘に、みちは静かに、座るよう床を示す。法事や寺のやりくりで留守がちの慶雲に代わって、雲仙寺の運営を取り仕切り、世間の酸いも甘いも知っている女は、この程度で動じはしない。
「恋心に舞い上がったおまえは、世の中が分からなくなっています。立花様はお武家様、寺の娘のおまえとは身分が違います。添い遂げるなど、出来はしないのです。」
言っても納得するまい。むしろ反対されるほどに恋心は燃え上がるのだと、みちは知っている。それでも、娘が苦しむのを見過ごしにはできない。
案の定、この気の強い娘は反発してきた。
「その程度のこと、さわとて存じています。妻でなくても、側女でかまいませぬ。」
「それを世間知らずというのです。立花様はおまえに昼餉をもらうほどの困窮ではないですか。妾を持つほどの金子などありはしません。ああいう清貧の人は、才覚はあっても金には縁が無いのです。
言っておきますが、立花様は立派な御方だと、母も思います。礼節を持ち、学問もおありです。人の道を説くのに言葉だけでなく、行動で示しておられる。それゆえ寺子屋の子供達の評判も上々です。親御様から立花様を誉める声を聞くと、我が事のように嬉しくなります。
よく考えなさい。妾にすらなれぬおまえを、立花様がどう考えるのか。あのような人格者です。おまえが寄り添うほど、苦しむに決まっています。
立花様とて男、寄り添ってくる女人に手を出さぬ訳がありません。やがて、おまえに赤子もできましょう。その子はどのような身分になるのです? 更に苦しみが増すばかりです。」
「それでも、さわは立花様が好きなのです。立花様だって、側に寄り添うさわを愛おしく思ってくださる。」
「品がないとは思わぬのですか、女の方から言い寄るなど。甲斐甲斐しく食事の世話をすれば、殿方なびくものです。そのような手練手管を使うなど、はしたない娘に育ったと、母は情けなくなります。
女は一歩下がるのが肝要です。おまえに相応しい婿は、父様が探してくださいます。それが女の幸せです。この母も、そのようにして父様と添い遂げているのです。」
「母さま、もしかして焼いておられる?」
「馬鹿者!」
みちは真っ赤になって激怒した。
二日後。一同は出立した。
道中、さわは甲斐甲斐しく又之介の世話を焼いた。みちの心配どおり、反対されるほど思いは強くなる。
そうなれば又之介も情が濃くなる。急ぎ旅に疲れはしないかと、さわを気遣う。
二人の仲睦まじさに当てられたトメの手下達は、「やってられねえや」とやっかんだ。
二日目の夜。宿もなく、野宿となった。秋の夜は肌寒いが、幸いにして天気はよかった。危険な野獣の気配もない。たき火を囲み、こうなることを予測して持参した餅をあぶって腹を満たす。あとは明日に備えて寝るだけだ。
夜半、又之介がそっと起き出して行く。隣で横になっていたさわが気付き、あとを追う。月明かりで、歩けないほどではない。
皆から離れた又之介は剣を抜くと、素振りを始めた。静かな夜に、空気を斬る音が響く。だだ剣を振り下ろす単純な動作を、さわは美しいと思った。
どれほど見惚れていたろう。やがて又之介は剣を収める。息が上がっている。懐から手ぬぐいを出し、諸肌を脱いで汗を拭く。
さわが近寄る。気が付いていただろう又之介が声をかける。
「見ておられたのか、恥ずかしいな。」
「いえ、鍛錬を欠かさぬ姿、感服しました。お背中の汗を拭きましょう。」
「それには及ばぬ」
「ぬれたまま夜露に当たるのは毒です。どうかおまかせください。」
さわは強引に手ぬぐいを取り、又之介の後ろに回ると、遠慮がちに背中に当てる。
「さわ殿、くすぐっとうござる。もそっと強う拭いてくだされ。」
「はい」
さわは思う。ときどきだが、この人は妙に可愛い物言いをすることがある。
さわは力を込める。可愛いと思ったが、筋肉質の肩は堅く、跳ね返されるようだ。日頃は物静かだが、この方は武士なのだ。寺の子の自分とは、やはり身分が違う。
どんなにお慕いしても、ここまで追いかけても、添い遂げるなど、かなわぬ御方。母に言われなくても、分かっている。それでも……
さわの目から涙がこぼれる。
「どうされた?」
「なんでも、ございませぬ」
「泣かれておるのか。ワシは不調法ゆえ、女子の気持ちが分からぬ。できることは何でもいたすゆえ、どうか泣き止んでくださらぬか。」
ああ、それでもさわは、この方が愛おしい。
天候にも恵まれ、旅はつつがなく進んだ。三日後、一行は立岡に到着した。
貧しい村である。田畑は狭く、みすぼらしい。稲刈りが終わり、農閑期に入りかけているせいもあろうが、全体的に活気がない。
それでも、道行く人々の多くが善右衛門に頭を下げる。養蚕が受け入れられているのだと、一同は理解した。
一同は庄屋に腰を下ろした。善右衛門の同行ゆえだろう、ヤクザ者のトメ達にも嫌な顔をする者はいない。
「なんとなくだが、分かった気がする」と又之介。
「何がですかな?」と善右衛門。
「ここは貧しいが、住む者たちは純朴だと感じる。そういう者たちを阿片という悪事に巻き込むと、どのように変貌するのか。容水屋知代造は、それを見たかったのではないかな。」
そこまでの悪意で世を渡っていくのか。一同は、もはや考えすぎだとも言えなくなった。
一同は芥子栽培の指揮所を探した。村人の多くに信用されている善右衛門と佐生が聞き取りをしたところ、思った以上の情報が集まった。どこそこの山に入っていく見慣れない者がいた、この道を荷を積んだ馬が通った、等々。
その情報を元にトメの手下達は近郊の山々を探った。あっさりと、疑わしい場所が見つかった。荒れ果てた山寺が補修され、人が出入りしているらしい。
又之介とトメが探りを入れる。狭い山寺だ。中央に、かつてはそれなりの威厳があったであろう荒れ果てた堂がある。そこに、どう見ても僧侶には見えない怪しげな数人が住み着いているようだ。何をしているのかは遠目には分からない。
「先生、どうしやす?」
「待っていても事態は動かぬ。備えのなさそうなのは罠かもしれぬ。となれば、逆に正面から攻めた方が得策だろう。」
「だと思いましたよ。先生の策は深い考えがあるようで、実は出たとこ勝負ですな。」
トメは苦笑する。
「トメ、いったん帰って皆で手順を確認しよう。ワシが先頭に立って切り込む。おぬしはさわ殿を守ってくれ。」
「ちょっと待ってくだせえ。この修羅場に嬢ちゃんを連れて行くんですかい。」
「無茶は承知だ。だがな、どうも頭巾殿の言葉が頭から離れぬのだ。さわ殿がこの正念場に必要だと。それにな、ワシはさわ殿と片時も離れたくない。」
「佐吉から聞きやした。先生の冗談は分かり難いって。」
「冗談ではない。世間ではこういうのを「惚気」と言うのであろう。」
「好きにしてくだせえ!」
翌朝、一行は正面から山寺に乗り込んだ。先頭は又之介。トメと手下がそれに続く。その後にさわ、さらに善右衛門と佐生、良庵が続く。
善右衛門はどうしても黒幕をこの目で見たいと意地を張った。篤農家として農業を振興させてきた善右衛門は、阿片を広めた知代造を誰よりも憎んでいる。それゆえ、差し違えても決着をつけたいのだと。万が一にも善右衛門を失えば、日の本全体の損失だとの又之介の説得にも応じない。佐生も善右衛門に従うと言い張る。
トメは腹をくくった。こうなれば自分が体を張ってでも非戦闘員を守るしかない。その決意を知ってか知らずか、又之介は常と変わらぬ足取りで山門をくぐる。
招かれざる客に気付いた四人のヤクザ者が堂から飛び出してくる。匕首をかざして又之介に迫る。又之介が刀に手をかけた、次の瞬間、鈍い打撃音がしかたと思いきや、先頭のヤクザ者は声もなくうずくまる。
あまりの早業に続くヤクザ者が萎縮した隙に、又之介の刀が次のヤクザ者を打ち据える。
「まだ来るか?」
峰打ちとはいえ、又之介ほどの技量で打たれれば、当たり所によっては致命傷になりかねない。完全に戦意を喪失したヤクザ者は、匕首を放り出してその場にうずくまる。それをトメの手下達が手早く縛り上げていく。
この先生に喧嘩売るなんて、命知らずもいいとこだったな、とトメは思う。あの時、先生は『何人かは死ぬな』と言った。ありゃハッタリじゃねえ。
「やれやれ、怪我人はなるべく少なくして欲しいですな」と良庵。
「あいすまぬ。急所は外したつもりです。」と又之介。
何人かどころじゃない。先生が本気だったら、俺たちは皆殺しにされてた。
トメの思いなどお構いなしに、又之介は静かに進み、無造作に堂の戸を開く。立て付けの悪い戸のきしみ音に混じって、プシュ、っと鋭い音が響く。
刹那、又之介は身をかわし、堂に飛び込んだ。バシッと乾いた音とともに、戸板に穴が開く。
「動くな。」
奥から低いがよく通る声がする。見れば若い男が銃を構えている。
「気砲(空気銃)だが連発式だ。威力は見た通りだ。今のはわざと外したんだ。貴様の剣がいかに素早かろうと、鉄砲にはかなうまい。」
「容水屋知代造か?」
「そうだ、貴様が立花又之介だな。会いたかったぞ。」
「ワシは会いたくもなかった。人の道に背く外道め。」
「口を慎め。殺すぞ。外の者たち、皆、入ってこい。ゆっくりとな。逃げるとお前たちの先生が穴だらけになるぞ。」
トメの手下達がおっかなびっくり入ってくる。トメ、良庵、善右衛門、佐生、さわと続く。
「これで全部だな。さて、話をしようか。」
「銃で人を脅して、何の話ができる。皆を入れたのは失敗だな。この人数で一斉に襲いかかれば、貴様の気砲が全員を撃つ前に、誰かが貴様を打ち据えるぞ。」
知代造に正面から対峙した又之介は剣を上段に構える。
「そうかな」
知代造は右手で銃を持ったまま、左手で傍らの樽の蓋を開ける。中には黒い粉が一杯に詰まっている。そこから長い導火線が伸びている。
「火薬だ。この堂を吹き飛ばすには十分な量だ。」
知代造は壁際の蝋燭立てを左手で持つと、導火線に点火した。
「さて、温和しく話をする気になったかな。」
「貴様も死ぬぞ」
「そんなことはどうでもいい。どうせ人はいつか死ぬのだ。」
「狂ってる」と善右衛門。
「こざかしく養蚕を広めた、篤農家とおだてられていい気になっている老いぼれだな。」
「人を殺す阿片を広めた若造に、悪く言われるいわれは無い。貴様が栽培させた芥子で、どれほどの人が苦しんだか。」
善右衛門の激高に知代造は怯む素振りすらなく、淡々と言い返す。
「それが許せぬと言うなら、違うな。人は欲に生きる。お前が作った絹糸を人が求めるのは、きれいな着物を着たいという欲からだ。阿片でこの世の憂さを忘れるのと、本質は同じだ。」
「詭弁だ。絹の衣装をまとっても、人は病みはせぬ。貴様の阿片は使い続ければ人を殺す、恐ろしい毒ではないか。」
「人はやがて死ぬ。早いか遅いかの違いだ。私の阿片は使った者を殺すかもしねぬが、貴様が作った高価な衣装はより多くの人の欲をかき立てる。その醜さを、知らぬとは言わさぬぞ。」
勝ち誇る知代造に向かって、佐生が叫ぶ。
「善右衛門様が広める養蚕は、阿片なんかよりよほど多くの人を喜ばせている。あしの作った道具を、お百姓さん達が大事に使ってくれる。そういう人が増えていく嬉しさ、あんたにはわからねえんだ。」
「おお、わからんね。建具屋ふぜいの喜びなど微々たるものよ。おまえは道具を工夫するのにどれほどの手間をかけた。百姓に感謝されたと言うが、それに見合うだけの喜びか。そんなものは、職人のささやかな自己満足に過ぎん。」
又之介が割って入る。
「違うぞ。佐生の献身は、佐生が作った道具を使う百姓に伝わり、それが絹糸を求める商人に伝わる。人は善意で結ばれ、世は良くなっていくのだ。貴様の悪意が我らの善に対抗するためには、自らを爆破するしかないではないか。潔く、負けを認めい。」
「お主が説く人の道など、所詮はきれい事よ。阿片の何が悪い。人は悦楽を求めるのをやめられぬ。酒も煙草も、体を壊すと分かっていながら、人はやめることができぬ。」
「違う。阿片は吸い続ければ廃人になる。」
「それのどこが、酒と違う。人はいずれ死ぬ。ならば、命と引き換えにつかの間の愉悦を求めるのは、人の自然の姿であろう。
お主のように、論語を写本して一日を過ごせる者の方が狂っておる。」
「違う、違う!」
「言い返せぬか。それがお主が信じる、人道の限界よ。」
「そんなことはない。立花様の慈愛は多くの人を引きつけている。わたくしは身も心も捧げる決意すらある。
あなたにそんな人はいないでしょ。誰も信じられないから、信じてくれる人もいない。」
「破戒寺の娘が色気づきおって。それが愛だ、とでも言うか。そんなものは幻想だ。人は一人で生まれ、一人で死んでいくのだ。現に、おまえは又之介と添い遂げられぬと悩んでおろう。」
さわは言葉に詰まる。
「話は終わったようだな」と知代造。
又之介が一歩踏み出す。
「動くなと言った」
気砲の発射音と同時に又之介の剣が振り下ろされる。チンと金属音がして剣から火花が散る。銃と正面に対峙すれば弾道は読みやすい。引き金を引く指の動きで発射の瞬間を見極め、刀を振り下ろして弾丸を弾いたのだ。
「見切った!」
又之介の裂帛の気合いが飛び、踏み込む。
「馬鹿め」
知代造は又之介の神業に恐れることもなく、銃を構え直す。斜めから連射すれば、続けざまに弾道を正確に読み切り、刀を振るうなど不可能だ。
知代造は続けざまに二発撃つ。又之介の剣は一発目を弾いたものの、二発目は剣をかすめた。弾道をそらされた弾丸は又之介の右肩に命中した。
又之介は剣を落とす。
「チッ」と舌打ちしたのは知代造の方だった。胸に致命傷を与えたと思いきや、又之介はまだ立っている。剣で弾かれただけでなく、連射で気砲の空気圧が弱まっているのだろう。
とはいえ、もう立っているのがやっとに見える。動けぬ相手に、心臓を狙って何発か撃ち込むのは容易い。
知代造が銃を構え直した時、さわが又之介の前に立った。
「さわ殿、だめだ」と又之介の苦しい声が響く。
「どけ、貴様から殺してやろうか」
「どきませぬ。立花様を殺させはしません。」
さわの叫びにトメが答える。
「野郎ども、先生を連れ出せ。女が立ち向かってるのに、鉄砲を恐れて先生を死なせたとあっちゃ、男が廃るぜ。江戸っ子の気合いを見せろ。」
導火線はあとわずかだ。このままでは鉄砲を避けても爆発にやられてしまう。
「おう」、と答えた手下達は一斉に又之介に組み付き、たちまち自由を奪う。そのまま堂から駆け出す。一同もそれに続く。
「放せ。まだ決着はついておらん。」
苦痛にうめきながらの又之介の声に、知代造の嘲笑が重なる。
「いいや、俺の勝ちだ。言い負かされた貴様は剣を使うしかなくなく、それすらも失った。貴様の人道など、その程度よ。欲得があってこそ人は生き、世は発達したのだ。仁だけの生き物など、たちまち滅んでしまうわ。
立花又之介、貴様は俺に言い負かされたのではない。人の生理そのものに負けたのだ。俺が消えても、俺のように欲で人を動かす者は何度でも現れる。貴様はその度に、世の摂理に負け続けるのだ。なぜなら、貴様こそ人の欲を知る者だからだ。」
「言わせておけば! 貴様のような外道が何人現れようと、人の情けを知る我らが討ち滅ぼしてくれる。卑怯な脅しを使うおぬしになど、ワシは負けてはおらぬ。」
「卑怯、狡いは敗者のたわごとだ」
「ならば、正々堂々勝負せい」
「逃げながら何を言うか」
「先生、もういけねえ。みんな、伏せろ」
トメの指示で一同が地に伏せた直後、堂が爆発した。その音を遠くに感じながら、又之介は気を失った。
一三 大団円
「ぐわっ」
気が付いた又之介は、起き上がろうとして右肩の激痛に声を漏らした
「立花様、まだ動いてはなりませぬ。良庵先生、立花様が気が付かれました。」
枕元で看病していたらしい、さわが声をあげる。
右肩が痛むので周りを見渡せぬが、立岡の庄屋らしい。気を失ったまま運び込まれたのだろうと又之介が思った時、トメの声が聞こえた。
「先生、良かった。目を覚まさないんじゃないかと心配しやしたぜ。」
隣はさわに譲ったものの、近くに控えていたのだろう。
「鎮痛剤が効いて眠っているだけだと説明したであろう。どれ、包帯を替えましょうかな。」と言いながら、良庵が近寄ってくる。
「お手伝いします。」と言いながら、さわが包帯をはずしにかかる。
「傷は軽くはないですぞ。弾が肩の骨に当たって止まっておった。外科は専門外じゃし、手術道具もないので難儀したが、どうにか摘出できた。じゃが、しばらくは熱が続くし、痛みも酷い。肩は動かせませんぞ。」
「良庵殿、ありがとうございます。」
「無茶をなさった。連射で気砲の威力が弱まっておらねば、骨を砕いておったかもしれぬ。薬を出すので、痛みが耐えられぬ時は飲まれよ。無理は禁物ですぞ。」
「かたじけない。そのような薬まで持たれていたのか?」
「阿片じゃよ。まだここに残っておった。」
「なんと!」
「無論、ごく少量の服用だ。薬は用量用法を守れば病を癒やすが、乱用すれば毒となる。安心されよ。専門の医者の私が施用するのだ、間違いは起こらぬ。」
「さじ加減で、毒にも薬にもなる……」
「知代造との問答の続きか。やめなされ。今は気が塞がることは考えず、体を治すことに専念されよ。さ、包帯も替えましたぞ。眠られよ。」
そう言われても、又之介は知代造の言葉を思い起こし続けた。
「ワシは負けたのか?」
次の日、漸く起き上がれるようになった又之介は、さわの手助けで着物の袖を通しながら呟いた。
「そんなことはない。立花様のおかげで、立岡の人々は、世の中を豊かにする生きがいを手に入れた。皆、立花様に感謝しております。」
「そうであろうか。知代造の言うとおり、人はいずれ死ぬ。人道など、はかない夢を見ているのではないか、ワシは不安が治まらぬようになってしまった。」
「違います。生きているのは、それだけで喜びです。それを立花様が教えてくださった。」
「そのように、大層なことをワシはしたか?」
「おわかりになりませぬか。さわを見てください。立花様が居られるだけで喜びに震えています。それとも、立花様はさわのような、はしたない女はお嫌いですか。」
「そんなことはない。愛おしくてたまらぬ。」
「嬉しい。身も心も捧げます。どうか、お側にいさせてください。」
さわは又之介にしがみついた。
「さわ殿」
又之介は左腕でさわを抱きしめた。
十日後、漸く動けるようになった又之介は、さわと江戸に帰ってきた。
一足先に帰ったトメ達から報告を受けた俊治の仕切りで、雲仙寺は祝宴の用意がされていた。一党が集まり、一件の解決と又之介の帰還を祝った。
「だだいま戻りました、慶道殿」
「「父上」と呼ぶべきではないですかな、婿殿」
慶雲の静かな物言いに、又之介は引きつった。
了
前編と同じく、意図的な時代考証無視があります。たとえは養蚕技術に関する記述は色々な時代が混在しています。
阿片の毒性についても誇張があります。作者に薬物乱用を擁護する意図はないことを明記いたします。