表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/20

第六章

 晴れ渡る五月の世界は美しい。


 青い絵の具を水で溶いたような空が見渡す限りどこまでも続き、所々に綿菓子のような雲が


浮いている。空気は香に満ち、呼吸をすると胸の中に爽やかな風が吹き抜けるようだ。


「葛城優!」  


「わあ」と優が我に返る。教室は静まりかえっていて、教科書片手の女性が机の前に仁王立ち


していた。


「何度呼べば判るの? いいえ、何をぼうっとしているの!」


 権現伊吹ごんげん いぶき先生は優達の担任であり、現代国語の教師だ。


 ――そっか、現国か……。


 ようやく彼が机から教科書類を取り出し出すと、権現先生は「はああ」と肩を落とした。


 権現先生は美人だ。


 教師よりネオン街が似合うお水ギャルのような、派手な容姿をしている。


 他者の目を極端に恐れる未成熟な女子生徒から反感を買う要因のはずだ。


 しかしいつも皺一つないぴしっとしたスーツを着こなし、テキパキと動き回り、年頃の女の


子の良き相談相手となっている為だからか、生徒達の好意を得る事に成功している。


 今はどうしてか、朝食を食べ損ねたように肩を落としていた。


「気付いてくれたかしら? 葛城君」


 権現先生がこめかみを押さえながら問うので、「はあ、まあ」と答えると、ようやく彼女は


居住まいを正す。


「全くもう、本当に、君は……で、でも、でも……はあわわああ、本当に似ているわね。君似


すぎ……こうして見ていると、燎様そのものだわぁ」


 授業中なのに顔を手で覆い腰をくねくねさせている権現先生と優の間には、妙な縁がある。


 彼女は『葛城燎かつらぎ りょう』のクラスメイトだった。


「ふうう」手を離した権現先生の瞳にきら星が瞬き、頬は風呂上がりのように熱く上気してい


る。


「思い出すわぁ、燎様……」


 何度聞いたか判らないが、実はこう見えてハードパンチャーな先生の機嫌のために邪魔はし


ない。


「燎様はこの学校、いえ、ここら周辺の女の子達の王子様。誰もが憧れた夢だった……そう、


夢の中の王子様……艶めく漆黒の髪、大きな瞳、ふっくらとした頬に真っ赤な唇、燎様と少し


でもすれ違った夜は悶え苦しんだものよ……あー良い匂いしたなー……だから、もう七転八倒


して自作の妄想日記にポエムを添えるの」


 それはどうなのか、と内心悩みながら優も思い出す。


 兄・葛城燎。


 僅かに残った画像の姿は確かに今の優に似ていて誰もが生き写しと感心する。長髪にしてい


る燎、髪をぷっつりとカットしている優、これくらいの違いしか見いだせないと。


 だが優には生身の印象がなかった。生きていた兄に関する記憶がごっそりと抜けている。


 七年前、同じく時計塔高校に通っていた燎、時計塔高校で殺された燎。


 優の目にちらつくのは、虚だ。木にあるような穴が、人間の顔面にあった。後は赤。たった


一人の肉親が流した膨大な血の色……揺れていた……優の視界が滲んでいたからだ。


 そして、怪人。


 優を見下ろしているかのように立つ、返り血に染まった髑髏の仮面と学生服。腕にはあまり


にも重い兄の亡骸。


 優の心から光が消えた。世界から輝きが消えた。残るのは怪人への思い。


 怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。


 まだ権現先生は思い出に浸っているが、優は再び隣にある窓から外を眺めた。


 徐々に夏へと向かっている太陽の光が強くなっていく。人間が陰で行う醜い行為を暴き立て


るような、偽善者の操るスポットライトだ。 


 チリチリチリチリ、と突然鳴ったベルが、誰しもの思いを打ち砕いた。  


「え!」権現先生が不意打ちの騒音に固まり、反響の中で立ちつくしていた。


「火災報知器だ!」クラスメイトの誰かが叫び、一年二組は騒然とする。


「落ち着きなさい!」


 クラスは浮き足だったが、流石教師、権現先生は両手を上げて皆を落ち着かせる。


 優は咄嗟に古乃美を探した。彼の席とは離れた、廊下側の一番前。


 彼女も驚いているようで、不安そうに辺りを見回している。どうやら冷静さは失っていない、


何より無事だ。胸をなで下ろす。


 がらり、と教室の扉が開いて一人の教師が現れた。「先生」と権現先生を呼び、しばし何か


ひそひそと話し合う。


「わかりました」権現先生は頷いて、息を潜める生徒達を振り返った。


「皆さん、これは火事ではありません。避難する必要もないそうです。落ち着いて下さい」


「ええと」権現先生の唇が少し震える。何か言いにくそうだ。


「それから……皆さん、気をつけて下さい。どうやら……その、不審者が現れたそうです」


「ええ!」とクラスが、特に女子生徒がざわめいた。当然だ、彼女達は守る物が多い。


 優は再び古乃美の小さく細い背中を追う。


「だ、大丈夫です、け、警察の方が来て下さるそうです……それでは皆さん、職員会議がある


そうなので、しばらく自習です」


 泳ぐ目を誤魔化し、権現先生は一年二組を後にした。先生が消えると、待っていたかのよう


にクラスは絶叫の渦と化した。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ