第五章
古乃美との生活の中、幾度か彼女と喧嘩になった。その度に彼女は強烈なパンチを彼のボデ
ィに見舞ってきたのだ。
「おやおや」救いの手は、意外な事に横から差しのばされた。作業服姿の男性が目を細めて穏
やかに笑っている。
「二人とも仲が良いね、朝から楽しそうだ」
時計塔高校の用務員・熊谷剛は軍手と作業帽という完全武装だった。
「そんなことありません」
不意に攻撃的だった古乃美がクールダウンし、その差に優は目を白黒させてしまう。
「あれれ」三十台中頃にしては整った童顔の熊谷も気配を察して、カミソリで削いだような痩
せた頬に、戸惑いを浮かべた。
「何か悪いこと言ったかな?」
「いえ」
「うん、どうしたの古乃美ちゃん?」
首を傾げた優に、古乃美は弱々しく笑って見せる。
「そんな訳ないよ……優君と私が……そんな風に見えるはず無いんだっ……優君は私なんかじ
ゃダメなんだ……」
「はあ……」訳が分からない優に、熊谷の視線がねとっと絡みついてくる。
「うーん、お兄さん……いい男だね。しかし男はもっとワイルドの方が、ぼかぁ好みだな。君
はなんだか綺麗すぎる女の子みたいだ」
熊谷の突然のカミングアウトに、優は引いた。ドン引きだ。
「あははー、今旬ですもんねー。んじゃ! 今度二丁目の話題で盛り上がりましょう」
作り笑顔を浮かべた優は熊谷の視界から逃れ、校舎へと急ぐ。古乃美にはその間、幾つかの
話しを振ったが乗らなかった。曖昧に頷くだけだ。
戸惑う優だったが、彼等のクラス・一年二組はもう目の前だった。
「お! 葛城!」
教室に一歩踏み入った途端、彼は騒々しく呼ばれた。
級友の山本惣多が、好物を見つけた子犬のように駆け寄ってくる。
「待っていたよ、葛城……と三田村さん」
「おはよぅ」優の背後にいる古乃美の挨拶は小さく、短い。
「うん?」と視線を転じると、彼女は切りそろえられた前髪にでも隠れるかのように、俯いて
いる。
「どうしたの? 古乃美ちゃん?」と優が問う前に、山本が割り込んでくる。
「葛城! 新大久保行こう!」
「はあ?」
優は茶色長髪の山本に、眉を顰めた。意味が分からない。
「……い、いや、その、ちょっとした親睦会があって」
へどもどの山本の奥で、どういう訳かクラスの全員が遣り取りに耳を傾けている。
「行かない」と優はそっけなく切った。が、山本は食い下がる。
「頼むよ、この通り」と神様にでもするかのように拝む。
「お前を連れて行くって、約束したんだよ」
「誰と? どうして僕がいないところで僕の身柄について、の相談が成されるの? 人身売買?
君は奴隷商人?」
「そう言うなよ、頼むって。一生の、否、来世も含むお願い」
「あれれ? 見覚えが……これはデジャヴュ? 遠い昔の記憶、前世の……ああ違う、この前
と同じだ。そうして教えた僕のLINEアドレス、君は売ってたよね? 知らない女の子から
メッセージが昼夜問わずバンバン来たんだけど。君の来世人生は案外近いかもね」
「その件については海よりも深く反省している次第です」
「捜したからねグーグルで、君を沈める海溝を」
と、気付く、古乃美が背後にいない。探すと彼女はもう自分の席に着いていた。古乃美はい
つも優と誰かの会話に混ざらない、こうして影のようにいなくなるのだ。
――古乃美。
だが彼女に小柄な少女が笑いかけていた。早川里見、そんな名前のク
ライメイトだったはずだ。
二人はちょこっと頭を下げて挨拶を交わすと、熱心に話し出した。恐らく話題はアニメかゲ
ームのそれだろう、早川の趣味がそうだからだ。
「ふ」と優は相好を崩す。古乃美の様子に安堵したのだ。改めて、頭を垂れ手を併せる山本に、
向き直る。
あるいは古乃美と出かけるのも良い。
「判ったよ、でも、一人追加で……」
「やったぜ!」山本は聞いていない。渾身のガッツポーズに忙しいのだろう。
クラスの女子生徒達も何故かざわめき出した。
「これで女子達に面目が立つ」
「何の話し?」
「いや、あー、親睦会、女の子達も来るから……沢山」
優は罠の存在をどこかで嗅ぎつけたから、古乃美を誘うのはやめた。
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