319.魔女の変化
「ハッ……!」
廊下で気を失ってしまったマリアンヌが目を覚ますと、そこには知らない天井があった。
どうやら、ベッドに寝かされているようだ。白いシーツが目に映る。
ベッドの周りには白いカーテンが掛かっており、視界が遮られている。
「ここは……?」
「ああ、目を覚ましたのね」
外からカーテンが開かれた。
そこにいたのは白衣を纏った保険医らしき女性の姿である。
「あなた、保健室の前で倒れていたのよ? おそらく貧血だと思うけど、気分は悪くない?」
「ひ、貧血……?」
マリアンヌが怪訝そうに眉根を寄せた。
魔王の化身にして、魔女であるマリアンヌが貧血ごときで倒れるわけがない。
だったら、どうして気絶なんてしてしまったのだろう……記憶を掘り起こそうとするが、途端に強い恐怖に襲われる。
(脳が思い出すことを拒否している……いったい、私の身に何が起こったのですか……?)
とてつもなく恐ろしい物を見たような気がする。
しかし、その姿は朧がかっていてハッキリとしない。
思い出すことができないのに、それが不思議と安堵できる。思い出せない自分に安心していた。
「気分は……大丈夫です。何ともありません」
「それは良かった……もう少し、休んでいて良いわよ。馬車を呼んでいるから、それに乗って帰りなさい」
「……お気遣い、ありがとうございます」
カーテンが閉められる。保険医の姿が見えなくなった。
マリアンヌがわけもわからず胸を撫でていると、白いシーツの下から使い魔の黒蛇が這い出してくる。
『マリアンヌ様、大事はありませんか?』
(……私の身に何が起こったのですか?)
自分にしか聞こえない声で話しかけてくる黒蛇に、マリアンヌが小声で応じる。
『マリアンヌ様はどうやら、聖女めに何かされたようです。あの教員を洗脳しようとしたタイミングで忌まわしい彼女が現れましたから』
(教員……そうでしたね。誰かと話していた気がします)
徐々に記憶がよみがえってくる。
生徒会室から逃げ出したマリアンヌは廊下で男性教師と遭遇した。
聖女に立ち向かうための尖兵にするべく魅了を試みたマリアンヌであったが、そこで気絶してしまったのだ。
(男性教師……誰だったかしら、彼は……?)
『聖女めが何をしたのかは私にもわかりません。ただ、聖女は気絶したマリアンヌ様を眷属の天使に運ばせていました。わざわざ保健室まで運ばせるくらいですから、おそらく正体を悟られたわけではないと思いますが……』
(希望的観測ですわね。あまりにも楽観的です)
何をされたのかはわからないが、マリアンヌが気を失ったということは何らかの攻撃を受けたのだろう。
攻撃をしてくるくらいだから、マリアンヌに対して警戒や敵意を抱いているに違いない。
魔王の化身であることまではバレていないと信じたいが……確証はなかった。
(しばらく、鳴りを潜めて大人しくしておいた方が良さそうですわね。それが良い、良いですわ。うん)
自分に言い聞かせるようにマリアンヌが頷く。
聖女レイナ・ローレルに立ち向かうことを本能が拒否している。
レイナに立ち向かえば、次は気絶だけでは済まされない……何故だか、それが確信できてしまう。
(聖女とは距離を取った方が良いですわ! 私が魔女であると気づかれたら本末転倒ですものねっ!)
『マリアンヌ様……何故、嬉しそうにしているのですか?』
(う、嬉しそうになんてしていませんっ! 私はあくまでも戦略的に聖女から離れるというだけであって、彼女と戦わずに済むことに安堵などしていませんわっ!)
『……そうだと良いのですが、貴女様は魔王復活のために存在することをお忘れなく。どうぞ、目的を見失いませぬように』
説教するような言葉を残して、黒蛇がマリアンヌの影に消えていく。
その姿を見送って、マリアンヌが忌々しそうに端正な顔を歪める。
(人の気持ちも知らずに……いっそ、首を切って串焼きにでもしてあげようかしら?)
「え……?」
ザワリと胸の内に湧いた怒りの感情に、マリアンヌが不思議そうに目を瞬かせた。
(この新鮮な感情は……どうして……?)
マリアンヌには私的な感情は存在しない、そのはずだった。
マリアンヌはあくまでも魔王を復活させるための存在。目的のために生み出された部品のようなものである。
魔王復活に必要のない心などいらない。
魔王の敵である聖女やセインクル王国に対する憎悪はあれど、個人的な怒りなど有るわけがない。
(恐怖、怒り、生きていることへの安堵と喜び……魔女になってから、こんな気持ちは忘れていたはずなのに……?)
マリアンヌは自分の中で起こった変化の理由に気がついていなかった。
先ほどの恐怖体験によって、マリアンヌは大きく感情を揺さぶられた。
人の心は大きな木のようなもの。枝の一本が激しく揺さぶられたことにより、木全体に振動が広がっていったのだ。
振動は失われていた人の心を呼び覚ます。魔女としてではない、一人の人間としての精神が息づいた。
(この感情は私のもの? それとも、魔王のもの……?)
心に芽生えた感情。
自我の発露に、マリアンヌはただただ困惑して首を傾げたのであった。