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先日の社交界デビューでもそうだったが、婚約者のいない妹エマのエスコートは、自然、同じく婚約者のいない兄であるマーカスになる。
彼女のエスコートを務めることにはなんの不満もない。むしろ、エマが出ない夜会のたびに苦労していることを考えると、そう多くない数とは言え、パートナー選びに頭を悩ませなくていい夜会が増えて、助かっているくらいである。
うっとうしいのは、まだ婚約者が決まっていないのかと恨めしそうな顔をする側近たちや、ぎらついた目で見てくる令嬢方だ。前者はまだ振り回している自覚があるので仕方がないとは言え、後者はいい加減あきらめてほしい。
唯一、マーカスがまっすぐ見られないのは、母たる王妃エリザベス・オリヴィア・マーガレットの笑みである。穏やかで、ひかえめで、滅多に声を大きくすることもない淑女中の淑女たるエリザベスは、怒りの示し方も大変に静かだ。
今日も、夜会前に挨拶をとご機嫌をうかがいに部屋をたずねれば、にこにこと迎えてはくださったはいいが、その目は笑っていない。末の弟であるオリヴァーが一緒にいるので、言葉にも態度にも出さないものの、「いつまでもふらふらと独身を謳歌しているのはあなたの自由だけれど、ただでさえ難航しているエマの婚約者選びをいつまで遅延させるつもりなのかしら?」と、今にもおっしゃりそうな紫紺の瞳である。今に始まったことではないが、エマに忖度しすぎだろうと文句のひとつも言いたくなりそうだ。
なるべく直視せずに、兄さま、と飛びついてくるオリヴァーのほうに顔を向ける。
「いいなあ、マーク兄さま。今日もまた姉さまとお出かけなさるのでしょ?
ぼくもはやく姉さまをエスコートできるようになりたいなあ。」
覚えたての単語を使いたがるお年頃のオリヴァーは、おそらくエスコートの中身を完全には理解していない。よく分からない言葉を用いてでも、エマへの愛着だけははっきりと示すあたり、血筋だなあと思わないでもなかった。
なお、オリヴァーがエマをエスコートできるまでにはまだ数年かかるので、そのときにマーカスやエマの婚約者が決まっていないとなれば、母の顔がどうなるのかはかなり心配である。
母の地雷を踏まないうちに、そそくさと退場してエマの部屋へ足を運ぶと、エマの侍女たちにしずしずと迎え入れられる。殿下がおいでになりました、と、なんの浮ついた様子もなく告げる彼女たちは、おそらくこの王宮で最も優秀な人材だろう。
自分で言うのもなんだが、マーカスの容姿も身分も能力も、どこへ行っても女たちをそわそわさせてしまうようなのである。ところが、エマの侍女たちはそういうところが一切見られない。それはすなわち、――エマの容姿にもなんの頓着がない、ということに他ならない。
カークワースの王族は、代々見目麗しいことで大層有名である。
父ニコラスは、歳を重ねても全く衰えを見せない童顔の持ち主で、さらさらのダークブロンドと、くりっとした丸くて大きな碧眼が大変に愛らしい、美少年のような見た目だ。
そのせいで王としての威厳は微妙だが、能力は申し分なく、マーカスたちの祖父にあたる前王が武に秀でていたのとは逆に、政治的な駆け引きに長けている。祖父が戦争で国の力を増したとすれば、父は貿易を主に、外交で国の財を豊かにした。
母エリザベスは、父が夜会で電撃のような一目惚れをかましたというだけあって、息子から見ても、麗しさの極みのような容姿だ。金とも銀ともつかない神秘的な髪色は、祖国でも妖精のようだと言われていたらしい。
思慮深げな紫紺の瞳にたがわず、知的好奇心の旺盛なひとで、カークワースの王立学院が他国から注目されるほどの水準に至ったのは、エリザベスが王妃になって、教育機関の支援を増やしたからだ。
マーカスは、祖父に似た。彼の若い頃の肖像画は、確かにマーカスとよく似ている。父からはダークブロンドの髪色を、母からは紫紺の瞳を受け継いだ。王である前に武人とさえ言われた祖父は、マーカスは数えるほどしか会ったことがないが、精悍な顔つきだったのは覚えている。
マーカスも武に秀でてはいるが、前線に出るよりも戦略を練るほうが好きなので、性格的には父に似たらしい。戦略と言ってもカークワースは他国との戦争を余儀なくされる立場にないので、今は国内の治安政策を整えている。
すぐ下の弟ネイサンは、ダークブロンドと紫紺の瞳はマーカスと同じだが、雰囲気が全く異なる。どちらかと言えばぱっと目を引く快活な雰囲気のある父よりは、儚げな雰囲気のある母に似たらしく、どことなく艶めいた雰囲気を纏った美形である。マーカスが爽やかだと称されるのとは対だ。
彼は語学と社交が得手で、カークワースの外交の一端を担っている。父王の貿易政策から、周辺諸国との交流を広げており、今は留学制度などを整えようとする取り組みに参加している。
嫁いでいった上の妹、アナは、父母の良いところどりの極みと言ってもいい、迫力美人だった。きらきらしい金髪に、気の強そうな碧眼で、次期社交界の華と目されていたけれど、あまりにも美しかったがゆえに、あちこちの国からの縁談が絶えず、学院卒業後、すぐに嫁いでいった。現在は近国の王太子妃となって、向こうで社交界の中心を陣取っている。
我が妹ながら、見た目だけでなく中身もなかなかにインパクトのある女性だった。頭の回転が速く、恐ろしいほど口達者で、敵対する相手には物怖じも容赦もしない性格だった。それでいて、必要ならばか弱く大人しく振る舞うことも厭わなかったので、主に悪人を罠に嵌める悪巧みには定評があった。毒を以て毒を制すとは、彼女のためにある言葉だろう。国内外では、夫となった王太子に見初められての婚姻だと噂になっているが、実際は、その悪辣なまでの外面の良さを買われて、政治的な駆け引き要因として求められたのである。それを楽しそうだと受け入れてしまう狡猾さもまた、彼女は持ち合わせていた。
とは言え、アナの苛烈さは、基本的には家族への愛情と家族に対する悪意に関してのみ発動するもので、悪人というほどでもない。嫁いで五年で王女と王子を出産しているあたり、それなりに結婚生活も順調なのだろう。
下の弟であるオリヴァーは、まだ十を数えたばかりだが、父によく似た美少年だ。母から受け継いだ銀髪と、父から受け継いだ青みの強い碧眼が、なんとも天真爛漫な顔立ちを映えさせている。
無邪気ながらも利発で、教育係が目を見張るほどだというし、祖父にも似たのか剣技の上達も目まぐるしいときていて、成長が楽しみだ。マーカスとしては、彼が王太子になってくれてもまったくかまわないのだが、世間はそう思ってはくれない。
そういう家族のなかで、エマの容姿は控えめに言って異色である。
決して醜くはないにしても、とりたてて目を引く美しさがあるわけではない。榛色の瞳は前王妃だった祖母からの遺伝だろうし、落ち着いた――くすんだ、とも言える――色の金髪は母からの遺伝だろうが、カークワースのみならず、大陸では大半が持つ組み合わせでもある。異常なほど容姿の整った家族に紛れていると逆に目立ちそうなものだが、エマの人見知りで慎ましやかな性格も相まって、夜会でもおそろしいほど目立たない。
これといった特技もなく、学院での成績もどこをとっても平均的であるか、あるいは平均よりも少し下だった。人並みにできることと言えば、小さなころに興味をもって始めた刺繍くらいなものだが、それとて「人並み」程度である。
そんなエマを愛してやまないのは、何も父母やオリヴァーだけではない。
社交における駆け引きが必要不可欠な王族としては難点だが、その純真無垢、温厚篤実、精金良玉な性質を、マーカスもネイサンも、あのアナでさえ、慈しんでいる。あのままでは苦労するだろうと思いながらも、あのままの彼女でいてほしいと、どこかでだれもが願っているのだ。
自室でマーカスを迎えたエマは、落ち着いたカナリアイエローのドレスに身を包んでいた。刺繍の好きな彼女らしく、フリルだのリボンだのビジューだのよりも刺繡にこだわったのだろうそれは、祖母のものだったという清楚で落ち着いた――と言えば聞こえはいいが、要は古風で飾り気のない――ティアラ同様、彼女によく似合っている。
「お前らしいドレスだな。」
「……ありがとうございます。」
褒められているのかをつかみかねたような表情で、それでもうれしそうに微笑むエマは、身内のひいき目十割だが、かわいい。最近エスコートの機会が増えて、それなりの時間を一緒に過ごすようになったからか、前よりもマーカスに気後れしなくなったことは、マーカスにとって大変うれしいことだ。
学院時代はささやかながらやんちゃで、卒業後は短期間だが辺境の騎士学校に所属していたマーカスは、ひとつしか歳の違わないネイサンと比べて、言動の粗野なところがある。歳が離れている、というだけでなくて、今より人見知りの激しかったころのエマにとっては、少々こわい存在だっただろう。
それから、これは、彼女は覚えていないことだろうけれど、もうひとつ、彼女を本能的にこわがらせた事件を、マーカスは起こしている。
――十歳の誕生日のことだ。
前々から乗馬をしたいと父にねだっていたマーカスは、とうとう自分のために仔馬をもらえることになって、少々どころかだいぶ浮かれていた。散々にネイサンやアナにも自慢し、うきうきしながら当日を迎えた。そして、厩で見事な毛並みの仔馬を見た瞬間、有頂天になった。誰かに会うたびに仔馬の話をしたし、生まれてこのかたしたことがないほどの感謝を父に伝えたくらいだ。
そして、あろうことか、まだ一歳にもならなかったエマにも、仔馬を見せたくなってしまったのだった。
母の部屋をたずね、エマをだっこしたい、とわがままを言って、誕生日だからと特別に妹を抱かせてもらったマーカスは、そのまま一目散に走り出して、側仕えたちを唖然とさせた。なんとか部屋を飛び出したところで捕まえられたが、とんでもない揺れを感じたエマは火がついたように泣き出したし、母はその場で卒倒した。
冷静沈着泰然自若が歩いているとさえ言われる母が取り乱す様を見たのは、後にも先にもあのときだけだった。感情表現は豊かでも、子どもたちを叱ることはほとんどしなかった父にこっぴどく怒られたのも、あのときだけである。
要因となった仔馬を取り上げられなかったのは、仔馬には罪がないという最もな理由だ。それだけではなく、エマに対する気遣いもあっただろう。マーカスが、乗馬の練習ができなくなったことをエマのせいだと逆恨みしないように、と。むしろ、乗馬することをゆるされたからこそ、そのたびにマーカスは、いとけない妹を危険にさらしたのだという罪悪感に苛まれた。
――そのことはやがて、アナよりもずっと歳の離れたエマとの接し方を分からなくさせる原因にもなった。
自分の、猪突猛進とも言える視野の狭さや思考の粗さを自覚したことは、マーカスを大きく成長させた。行動には責任が伴うという体験もまた同様だ。しかし、その事実は、エマと関わるときに少しだけマーカスを臆病にしたのだった。自分のせいで妹をまた危ない目に遭わせるかもしれない、という恐怖は、母に心労をかける恐怖よりも、父に叱られる恐怖よりもずっと強かった。
ネイサンが気遣うようにも、アナが甘やかすようにも、上手に構ってやれなかった。今度こそ守ってやらなければと、厳しく接したとも思うし、過保護だったとも思うし、時には遠巻きにしすぎたとも思う。
ダンスが苦手なエマは、夜会でも一曲踊ればあとはマーカスの隣りで置物になるしかない。これ幸いとマーカスもダンスの誘いを断るものだから、必然、社交として最低限の挨拶や世間話が終われば、ふたりでのんびりと話す時間もある。
「そう言えば、兄上、この間はデールのリボンをありがとうございました。
図案も、色使いも、大変見事な品でした。」
こういうとき、話の種になるのは大抵、マーカスが巡視のたびに贈る土産のことだった。腕こそ人並みとは言え、今となってはエマの最大の趣味となった刺繍関連の物が大半である。やってみたいと言い出したときには「エマにはまだ早い」だの「怪我をする」だのと反対したマーカスだが、その負い目もあってか、今でも巡視に出るとその土地特有の刺繍に目が行き、手が伸び、土産と称して彼女に贈ってしまう。
普段は「殿下」という呼称も、小さく潜められた声とは言え、このときばかりは引っ込む。マーカスとしては、数年前のように「マーク兄さま」と呼んでくれても構わないのだが。
「気に入ったか?」
「はい。真似して刺してみたのですが、なかなかあのようにはまいりません。」
マーカスは低く笑った。身に着けるという選択肢が無いあたり、エマらしいことだった。この国で唯一の、未婚の女性王族であるというのに、彼女は着飾ることに慣れていないのだ。兄が、ハンカチーフなどではなく、わざわざリボンを選んだ理由に思い至らないのだろう。そういう、少し頭の弱い、自信の無いところも、マーカスにとってはかわいい妹を構成する一部だった。
「上手く出来ないことも途中で投げ出さないのがお前の良いところだ。
時間をかけてやれば、そのうち出来るだろう。」
「……まあ。」
エマは、マーカスを見上げて目を見張ったが、次の瞬間こらえきれないように微笑んだ。なんだ、と視線で問えば、うれしそうに目を細める。
「わたくしが初めて刺繍をしたときと、おんなじことをおっしゃるのですもの。」
「……そうだったか?」
「そうですわ。お手本のようにいかなくて、わたくし、癇癪を起こしましたの。
そのとき、お前は出来ない勉強も途中で投げ出さないだろう、それは長所だ、
時間をかければ手本のように出来る、と言ってくださいました。」
「よくそんなことを覚えていたな。」
「忘れません。そのあと、泣きながら何度も挑戦したのですもの。
刺繡を習い始めたとき、まだ早い、怪我をしたらどうする、と心配なさったり、
学院の卒業のときにお贈りしたタイを、騎士団で自慢なさったり、
図案の本や刺繍糸をお土産にくださったり、兄さまは、お優しいですわね。」
アナであれば、からかうどころかゆすりでもかけてきそうな表情が伴うのだろうが、エマはただ照れくさそうな笑みを浮かべるだけだ。――マーカスは思わず、天井を仰いだ。お手上げです、と降参の意を表したい気分だった。
マーカスは、王族として、何もかも人並み以上を求められてきた。優秀だ完璧だと褒めそやされてきたのは天賦の物だけでなく、そこそこ努力はしたし、期待に応えられている自負と実績がある。自分の優秀さを盾にして、自由を勝ち取ったこともある。騎士団への入団がそれだ。あるいは、嫌なことから逃げ回るためにも、最大限に自分の能力を活かしている。のらりくらりと婚約者候補の決定を先延ばしにしている現状がそれだ。
失敗は多くあれど、挫折は避けてきた。そんなマーカスが唯一、上手くやれなかったことがエマとの関係だった。しかし、エマはマーカスを「優しい」と言う。兄として認めてくれている。これだけは、マーカスの手柄ではない。エマがなんの衒いもなくマーカスの言動を肯定しているが故だ。
もう逃げ回るわけにはいかないな、と独り言ちた声は夜会の騒がしさに呑まれて消えたが、その覚悟は、マーカスの胸に厳かに染み渡っていった。
二年半ぶり、だと……?




