第百四十二話 囚われの
第百四十二話 囚われの
サイド なし
かつては新宿駅があった場所。現在そこは、巨大な根によって覆われていた。
建ち並んでいた数々の人工的な物体は全て樹に飲み込まれ、更にその周辺に至っては水没さえしている。黒いドームの様な物に覆われたかつて新宿と呼ばれていた街は、変わり果てた姿となっていた。
巨大な樹を囲う様に広がった湖。透き通って見える程に澄んだ水の下には、新宿駅周辺の街が沈んでいる。だがかつての栄華は消え失せ、ボロボロに崩れ落ちていく最中の物品しか存在しない。
そんな光景を見下ろし、大樹の中腹にある洞にて一組の男女がいた。
片や長い金髪を風に遊ばせ、その恐ろしいほどに整った顔に意地の悪い笑みを浮かべた男。拘束着に似た衣服を纏った青い肌の彼は、ロキ。北欧神話に語られる神格の一柱。
だが伝承とは違い、その左目を武骨な眼帯が塞いでいる。彼は失った眼球を確かめる様に眼帯の上から指で叩きながら、残った右目で少女を見やる。
妖精の様な少女であった。
ロキにも匹敵する美しい金髪は後頭部で纏められ、緑と白の衣服もどこか神秘的な印象を受ける。だが、その美しい顔には玉のような汗を浮かべ、四肢を樹木に捕らえられ磔の様な姿を晒していた。
伊藤胡桃。日本に住むただの女子高生であり──『黄金の林檎』を生み出す力を持つ。
彼女は暗く淀んだ瞳でロキを睨みつけ続けている。そんな胡桃にロキはぞんざいに手を伸ばすが、突如現れた鱗状の障壁に指先を弾かれた。
「君も強情だねぇ。俺はただ、『後から来る奴ら』の為に追加で林檎が欲しいだけなのに」
「……私を開放して」
「や・だ」
愛らしい顔立ちから放たれたとは思えない低い声に、ロキは心底馬鹿にした様に嗤う。
「なんで『イドゥンもどき』のお願いなんて聞かなきゃいけないの?俺、神様だよ?願いを言うなら相応の供物と、お願いの仕方ってものがあるよね?」
「……誘拐犯が、何を言うの」
「おいおい。神に人間の法を押し付けないでくれよ。不敬にもほどがあるぞ?」
突如、ロキの手に一本の槍が出現する。彼はそのまま一切の躊躇いなく穂先を胡桃目掛けて突き出した。
展開された障壁を障子紙の様に貫き、胡桃の腹部を抉る。一見なんの変哲もない木と鉄でできた槍は、しかしその先端に『ルーン文字』を刻んでいた。
「っ……!」
「あれ。思ったほどの反応がないな」
ぐりぐりと槍を動かされる度に、肉がかき分けられ臓腑が引き裂かれる。常人であれば絶叫をあげながら死ぬか、そうでなくとも気を失う行為。
だが胡桃は歯を食いしばり激痛に耐え、あまつさえロキを睨みつけた。
「こん、なの……貴方が凛ちゃんにした事に比べれば……!」
「りんちゃん?ああ、あの『ブラギもどき』か」
槍を抉りながら何かを思案する様に首を傾げるロキ。水音を腹から鳴らしながら、胡桃はその眼に殺意を宿す。
「絶対に許さない……殺してやる。絶対に殺してやる……!」
「おお、怖い怖い。それで、どうやって俺を殺すのかな?本物のイドゥンも弱っちかったけど、君はそれ以下なのに」
更に押し込まれ背まで貫通する槍。眉間に皺を寄せるだけで耐えた胡桃の傷口は、穂先を押し返そうと肉を盛り上げ血を増産しながら再生を始めていた。
異様なまでに高い自己治癒能力。それを満足気に眺め、ロキは頷いた。
「うん。その力だけはイドゥンと同じだね。実際あの林檎を食べた俺にはわかるよ」
そう笑った後、彼は乱暴に槍を引き抜く。わざと傷口を広げる様にして抜かれたが、次の瞬間には胡桃の腹部は真っ白い肌が戻っていた。
傷一つ残っていないそこは、周囲に血痕がなければ先ほどまで槍が刺さっていたのは幻覚だったのかと錯覚するほどである。
「そうそう。その凛ちゃんとやらねぇ。今は『赤城』って女が用意した病院にいるらしいよ」
「……そう」
あまりに素っ気ない反応に、ロキは首を傾げる。
「あれ、てっきり怒ると思ったんだけどなぁ」
「別に」
煽る様に下から顔を覗き込む彼を、胡桃は冷たく見下ろした。
「お父さんとお母さんを撃ったのは、あの人じゃない。タイミングが有川大臣……ぽい何かに都合が良すぎた。……きっと、偽物」
「ふーん、血が抜けて少しは頭がよくなったのかな?」
その言葉に怒るでもなく胡桃は言葉を続ける。
「だから、あの人に怒りを覚える理由なんてない。むしろ、『信用できる大人』が凛ちゃんを保護しているのなら安心できる」
一度目を閉じた後、彼女はロキを見下した。
「そんな事で、あの子を人質にしたつもりなの?だったら、神様っていうのも大した事ないんだ」
「ふふっ……無知な子供の戯言だから、今のは聞き流してあげるよ」
眼を細めてロキは嗤う。本気で不愉快に思っている事は間違いなかったが、それ以上に『愉快』とばかりに目の前の少女を見ていた。
背筋を伸ばし、彼は軽く両手を広げてみせる。
「安心してくれよ、そこの所で危機感を煽るつもりはなかったさ。俺が言いたかったのは、別のこと」
ニタニタと嗤う神は、まるで毒蛇の様に舌を動かした。
「君、郡凛の事が好きなんだろう?」
「っ……」
初めて、胡桃の顔に動揺が現れた。
「だからなに。貴方には関係ないでしょ」
「そうだねぇ。俺は心の広い神様だから、現代の価値観にも合わせてあげるよ。でもね、だからこそ『新しい愛』は祝福してあげたいし、『失恋した少女』を慰めてあげたいとも思うのさ」
「……は?」
「赤城萌恵。アレは神の眼から見ても傑物だよ。ワルキューレがいたのなら間違いなくエインヘルヤルとして招き入れている。そのうえ、大人がだぁい嫌いな君でさえ信用しちゃう人格者。失意の歌姫がそんな人に惹かれないわけないからねぇ」
「……でたらめを言わないで。凛ちゃんは」
「一見人懐っこい陽気な性格で、その腹の内ではいつも誰かを疑っている。けど、疑っているのは周りが自分を置いて行かないか心配だから」
ずばりと郡凛の内面を言い当てたロキに、胡桃が口をつぐむ。
「俺、神様だよ?それぐらいわかるさ。でもさぁ、そんな彼女だから……今頃『信用できる人』を心の拠り所にしているんじゃないかな?」
「……そんな、わけ」
「赤城萌恵も、君が思っているほどの人格者じゃないんだけどねぇ!」
絞り出すような胡桃の声を、ロキが上書きする様にかき消した。
「いやぁ、性に自由を求める現代の価値観でもかなり奔放な娘のようだよ。男との経験はないけど、女との経験は随分と豊富らしい。いつも肉体関係のある女を複数侍らせているから。凛ちゃんもそういう目で見ているんじゃない?」
「………」
「需要と供給が噛み合っちゃうねぇ。今頃は友達を失った凛ちゃんを、ベッドの上で慰めているんじゃないかなぁ」
「凛ちゃんは、そんなこと」
「しないと思う?なんで?あの子、誰とも付き合ってないでしょ?」
心底不思議そうな顔を作り、ロキは胡桃に問いかける。
「君、別にあの子の恋人でもなんでもないよね?昔から一緒にいるって理由だけで、『お情け』で友達のままでいさせてもらっているだけじゃない」
「ち、ちがっ」
「違わないだろう?だって、誰が好き好んで『自分の夢を奪った奴』を傍におくのさ」
「ぁ……」
胡桃の顔を見つめ、ロキが愉悦に瞳を輝かせた。
「知っているよぉ。君が凛ちゃんを覚醒者にしたんだろ?命を助けたんだ、誇りなよ。そのせいであの子の声に『人を操る力』を与えてしまったのは、事故みたいなものさ」
「違う……違う……!」
「で、もぉ……そもそも、凛ちゃんが死にかけた理由って何なのかなぁ」
胡桃の顔は血の気が引き、真っ青になっている。槍で腸を抉られてなお不快気にするだけだった彼女は、誰が見てもわかるほどに追い詰められていた。
その表情が曇る程に、手足を縛る樹が成長していく。
彼女の身から溢れた膨大な魔力。それを吸い上げてこの巨大な樹は上へ上へと伸びているのだ。
既に本人もそれを察して、最低限の魔力放出に抑えている。だが、心の揺らぎは魔力の揺らぎ。集中力が削がれればそれだけ樹の成長は速くなる。
樹に生えた黄金の葉。それがこのダンジョンの光源となっていた。そしてその光は……かつてないほどに、その力を増している。
「あの、時……」
「もしかして、君を庇ったせいなんじゃないかなぁ?」
「っ……!」
胡桃の脳裏に、あの時の光景が思い出される。
休みの日に街へと買い物に行った、日常の一幕。それが、あっという間に地獄絵図と変わり果てた。
怪物が無差別に人を襲い、周囲に血と臓物が溢れていく。大学生の女性を生きたまま丸のみにする巨大な蛇。スーツ姿の男性に群がり剣を突き立てるゴブリン達。はぐれた我が子を探して這いずる血まみれの女性と、スライムに顔を覆われ息絶えた少年。
そんな光景を前にして、私は何も出来なかった。
立ち向かう事も、身を護る事も、逃げ出す事もできずに。ただ呆然と立っていただけ。
動けない。動かない。地獄を前にそんな最も愚かな選択をした私に、当然ながら災禍は舞い降りた。
だけど、その矛先に割り込む人がいたのだ。絶対にあってはならない事が、その時起きた。
突き飛ばされたかと思った次の瞬間、私の眼の前で凛ちゃんが立っていた。いいや、違う。その腹部を貫いた槍にもたれかかる様にして、串刺しになっていたのだ。
私が……私があの時、動けていたのなら。もしそうだったのなら、彼女は『夢』を捨てる必要などなかったのに。
「あぁ……醜いねぇ、人間って。その人の夢を奪っておいて、まぁだ友達面?あげくの果てには恋ぃ?罪悪感ってものがないのかなぁ!」
「違う、私は、この想いを伝えるつもりなんて」
「伝えなくっても気持ち悪いよ、君。その思考が……現代ではなんていうの?勘違いストーカー?独りよがりの独善っていうか。もうとにかく気持ち悪い」
胡桃から視線をはずし、その手に握っていた槍を消すロキ。
「もうさ、いい加減あの子を解放してあげたら?伊藤胡桃。君に生きる価値なんてないよ」
「凛ちゃん……私……」
「でもね。君は簡単には死ねない体だ。だから、慈悲深い神が罰をあげる」
胡桃を覆う拘束は、肩や太ももの辺りまで成長していた。
「罰……?」
「そう、罰だ。罪を犯した君に、罰を与えて上げる。それが、許しとなるだろう」
縋る様な視線を向けた胡桃に、ロキがほほ笑む。
先ほどまで浮かべていた意地の悪い笑みから一転、まるで慈悲深い聖母の様に。
「こんなに酷い目に君はあっているんだから、責められなくたっていいじゃないか。償いは十分にしている。これから、君のおかげでこの国の人々は魔物の脅威に怯えなくていいんだから。これ以上ない償いさ」
「……そう」
俯き、胡桃が呟く。
「ぷっ、くく……」
そして唐突に笑いだした。堪え切れないとばかりに吹き出したかと思うと、大きな笑い声をあげ始めた。
そんな彼女を、ロキは冷めた目で見下ろす。
「あれ。久々だからやり過ぎたかな。壊しちゃうと逆に面倒なんだけど」
「──貴方、恥知らずって言われない?私も大概だと思うけど、神様ってどういう神経しているの?」
ロキを、神を見上げながら。
少女は心底見下した瞳を向けた。
「そもそも、世界をこんな風にしたのは貴方でしょ。私が罪を償うべきなのはその通りだけど、それは貴方にじゃない。凛ちゃんにするべき事なの。……あと、色々と迷惑をかけた人達」
己を嘲笑う様なその瞳に、ロキの表情が消える。
焦りも怒りもなく、まるで感情が抜け落ちた様な顔。それを見上げ、胡桃は続けた。
「私、神話って詳しくないけど……貴方、周りから嫌われていたんじゃない?だから今も一人なんでしょう?散々周囲をひっかき回して、それで人気者になったつもりになって。けど実際はただうざったいだけの人。まるで小学生みたい」
「……黙れ」
「私にこれを言われるって、相当だと思うよ?ああ、けどありがとう。貴方を見たおかげで、ようやく自分を見つめなおせた。色々、面倒くさい女だったんだなって」
「黙れ」
「だから、こう言わせて」
ニッコリと、胡桃は笑みを浮かべる。
それは春の訪れに喜ぶ花の様に可憐で、見る者の心を癒す様な満面の笑みだった。
「ありがとう、神様。貴方のおかげで前に進めそうです!」
「黙れ!!」
再度出現した槍を、ロキが振るう。
華奢な肩を、薄い胸を、細い腹を幾度も槍が貫いた。その度に血潮が飛び肉は千切れる。だが胡桃の笑みは崩れない。激痛に大量の汗を流しながら、しかしロキの右目を見つめ続けた。
「くそ、くそ、くそ!お前なんぞ、オーディンのクソ爺が持つ本当の『グングニル』なら一撃で殺せるんだ!馬鹿力のトールなら素手でも殺せる!どの神だってお前より上だ!俺達を馬鹿にするな!!」
「で……も……死んだんでしょう……?全員……」
肺を貫かれ息も絶え絶えになりながら、胡桃は嗤う。眼の前の哀れで可哀想な存在に同情するような、優し気な声で。
「貴方、私と同じなんだね。他人に依存する弱い人。一緒に自己啓発セミナーにでも行かない?」
「この、メス豚がぁ!」
振るわれた槍が彼女の両目を潰す。だが瞬時に再生し、その両目がロキの右目を射貫いた。
「これでも、本気で感謝しているし、心配しているんだよ?それ以上に『馬鹿だなぁ』って思っているだけで」
気づけば、胡桃の手足を覆う樹の成長は止まっていた。僅かに動きはするものの、それは本当に微々たるもの。
ロキが望んでいた状態ではない。樹を成長させきるには、圧倒的に足りていなかった。
「貴方、とっくに壊れていたんだね。私よりもずっと昔に、どうしようもないぐらい」
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!!俺は、俺はあの馬鹿達が勝手に死んだ後、クソ爺の力を得ようと枯れかけの湖を探し出した!己を生贄にもした!それでも届かなかったが、それでも!遂にここまで来たんだ!」
槍を放り捨て、ロキが胡桃に手を伸ばす。
当然の様に障壁がそれを防ぐが、構わないとばかりに青い掌を魔力の壁に押し付けた。
「『黄金の林檎』の樹があると言う事は、逆説的に世界樹もその場に存在する!新たな世界樹をここに作り出すんだ、そうすればオーディン達も戻ってくる!そうに違いない!お前はただ、俺達が生き続けるために林檎を生み出していればいい!手足の生えただけの樹が調子にのるな!」
「私今、手足を樹に飲まれている状態なんだけど」
「っ……!この、豚がぁ……!」
青い肌に血管を浮かび上がらせたロキは、しかし自制する様に深呼吸をする。
そして、元の他者を嘲笑う顔に戻った。張り付けた様なそれではない。既に感情の類に深刻な傷を負っている彼は、ありえない程にその情緒が乱れていた。
「いいさ。そうしていられるのも今のうちさ。安心しなよ、君の愛しの凛ちゃんが赤城萌恵に懸想しているなんて嘘だから」
長い金髪を掻き上げ、ロキは槍を消す。
「きっと今でも君に夢中だよ。そして、必ずここに来る。その時に見せてあげるよ。君のせいで、あの子が無様に死ぬ姿をね」
「……凛ちゃんは、貴方になんか負けない」
「ははっ!面白い冗談だ。道化の才能もあったんだね。林檎を作るだけの置物だと思っていたよ」
余裕を取り戻したロキは、胡桃に背を向けてダンジョンと化した街並みを……その向こうにある、黒い外壁を見やる。
「あの宣言から四日だ。明日、あの天蓋を開きダンジョンを広げる」
ロキは最初から、七日という期日を守るつもりはなかった。
あの日行った宣言は、ただ単に人間たちの動きを縛るためだけのもの。甘い蜜を餌に約束をして、それをあの手この手で破り自分の有利な形にする。かつての神代から彼がやってきた事だった。
「罠とわかっていても、人間は堕ちるものだよ。信じたいものを信じる。そういう生き物さ」
ロキが指を鳴らせば、ゆらりと湖の上にいくつもの人影が現れはじめた。白い靄で構成された彼らは、思い思いに武器を持ち整列するでもなく頭上の神を見上げる。
「ナイトメアはもういない。国は割ってやった。外国にも情報を流した。醜く成長し過ぎた人類は、己で己の斧を縛る」
その光景を満足気に見下ろした後、ロキは胡桃に首だけで振り返った。
「凛ちゃんはきっと一人で来るよ。だってあの子、まだ子供だから」
余裕に満ちた表情。そして、胡桃もそれを否定する事ができなかった。
郡凛は多くの友達をもつ、明るく優しい少女だ。しかし、胡桃が彼女に依存する様に……郡凛もまた、他者の存在に依存する。過去の出来事が彼女を変えてしまった。
早急なカウンセリングが必要な精神状態にある彼女に、果たして冷静な判断ができるだろうか。そして、自分から手を貸してくれるだろう彼女の友人達に、この神と戦える者はいない。
赤城萌恵もロキにより乱された世界でどれだけ動けるか。政府も一枚岩ではない。賛成派と反対派で未だ怒鳴り合っている事だろう。
そうなれば、彼女は一人でも動き出すはずだ。それが両者の共通の見解であり、事実郡凛はそういう女性である。
ロキが、そして伊藤胡桃が知る盤面において───郡凛に合流し、共に戦ってくれる存在などいない。ましてや、神を相手に戦える戦力を揃える者など。
そう、『この二人が知る』盤面には。
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