第百三十四話 慟哭
第百三十四話 慟哭
サイド 東郷 美代吉──西園寺 康夫
駆ける、駆ける、駆ける。
彼の魔法により一度は引いた全身の痛みが戻ってきた。それでも、ここまでの傷が癒された分かなりマシだ。
銃弾の残りはたった二発。確実に奴を仕留めなければならない。
相手も余裕がないのは同じこと。通路のどかされた木々はそのままに、よたつくような足音が聞こえている。
そうしてたどり着いたのは、奴の本体を見たあの劇場だった。
「くっ」
小さく苦悶の声をあげながらナイトメアが振り向きざまに発砲。それを座席の裏に隠れてやり過ごせば、大口径の弾丸が当たった物が大きな破砕音をあげて散らばっていく。
「しつこい奴だよ、君は!」
「そういう君はしぶといよ、本当に。いい加減、ゆっくり休んだらどうかな」
「こっちのセリフだよ、西園寺!」
左手一本で撃っているというのに正確な狙いだ。座席に隠れて走る自分を追いかける銃弾が、次々背後を吹き飛ばしていく。
嫌な予感がして咄嗟にスライディングすれば、自分の頭が通るはずだった位置を銃弾が通り過ぎていった。
寝転がる様な体勢で座席の裏から劇場内の通路に体を出し、発砲。ちょうど奴も通路に出ていた事もあり、その右足を撃ち抜いた。
「なっ……!?」
バランスを崩し、ナイトメアが後ろに倒れ込む。舞台を背に座り込みながら奴が銃口をこちらに向け撃鉄をおろすも、弾は出てこなかった。
弾切れだ。あの銃の総弾数は薬室に入っている分をいれても八発。ナイトメアは焦りからか、あるいはダンジョンの制御に集中していたからか、それとも……。なんにせよ、それを数え間違えていたらしい。
相変わらず胡散臭い笑みを浮かべたままの顔をこちらに向けて、奴は銃を手放す。ごとりと重い音がして、ナイトメアは左手で脇腹の傷を押さえた。
「……完敗だよ。正直、覚醒者ならともかくただの人間に負けるとは思っていなかった」
「私一人ではここまでたどり着けなかった。その予測は、大きく外れたものではなかったと思うよ」
「安い慰めだな、西園寺」
「あまりその名を呼んでほしくないな。今の私は東郷美代吉だ」
そう言いながら、奴に近づく。
セオリーを考えれば、ある程度の間合いをたもったまま止めをさすべきだ。しかし、こちらの残弾も一発。加えて、霊薬の副作用が出始めている。京太朗君の治療を受けてから追加で霊薬を打ったのが響いているのだ。
視界がぶれ、肺と心臓が悲鳴をあげていた。残念ながら、近づかなければ当てられない。
ゆっくりと歩く私に、ナイトメアは語り掛ける。
「勝者への報酬にいい事を教えてあげよう。このダンジョンを最初に改造した存在について、だ」
「ほう……」
興味あり気な態度を見せれば、奴はそのまま会話を続けた。
「私が今の新たなる神代に生まれる、遥か昔。『かつての神代』より生きている、真の怪物がいる」
「それはまた……気の遠くなる様なご長寿だな」
「茶化すなよ。その存在は……かつて『神』として崇められていた存在は、未だに生きている。そして、己が君臨していた世界を再誕させようとしているのさ」
ナイトメアは肩をすくめる様な仕草をした後、より強く脇腹を押さえた。
「このダンジョンは、奴が用意した異界作成の起点の一つ。他にもいくつか存在するが、全て日本国内だ。私の部屋を調べてみるといい。面白い物が見つかるぞ」
「……その神とやらは何者だ。何故日本にそこまでする」
「後者は簡単な話だよ。日本と英国が最も龍脈の力が強い。神の世を完全に再現するにはこの二国以外では不可能だ。そして、日本は色々と手薄なのは君が一番知っているだろう?」
「そうだな。では、その神の正体について答えてもらおう」
「『今の』顔は君も、いいや誰もが既に見ているはずだ。泥水をすすって生きるのにも限界を感じた彼の神は、世界中の龍脈を活性化させ、姿を全世界にさらけ出した」
脳裏に浮かぶのは、『神代回帰』の際に謎の物体を空に浮かべ世界が変わった事を告げた老人。
未だその正体が掴めず、各国がその行方を追う存在。彼が、その神であり『神代回帰』を引き起こした張本人だと?
……納得は、できる。世界を一変させてしまうなどという大それたこと、『神様の仕業です』と言われたら『はあ、そうですか』としか言いようがない。
なんともまあ、つまらない映画の落ちを聞かされた様な心境だ。
「その神話はこの国ではなく、北欧にて語られる。世界樹が存在し、神と人、そして巨人を始めとする魔物たちが住まう場所。最後は、ラグナロクにて全てが滅んだというお話」
一歩、また一歩と近づく。確実に、当てられる距離まで。
ようやく、異様に重く感じる足でたどり着く。銃を両手で構え、照準を合わせた。
「その神の名は───」
その瞬間、ナイトメアの手は脇腹の傷口ではなく、スーツの内側にあった。
引き抜かれる小口径の拳銃。隠し持つには丁度いいサイズのそれは、しかし十分に人の命を奪う威力をもっている。
相手もまた、確実に当てられる距離に私が近付くのを待っていたのだ。ピタリと、銃口が私の頭に向けられる。
そんな事───予測していなかったわけないだろう。
腕がぶれる事はない。足が逃げ出す事もない。ただ、静かに引き金にかけた指に力を籠めた。
すまない、京太朗君。守れない約束をしてしまって。
だが、これだけは。いいや、これだけが。今は亡き友に、そして怪物に利用されるもう一人の友にしてやれるのは、この手で終わらせてやる事しかない。
全く同時に引き金が引かれ、銃声が響く。
右耳に強い熱を感じた。だが、それだけ。奴の弾が外れたのだ。そして、その事実を理解した直後。目の前の光景に小さく息をのむ。
魔力を帯びた弾丸はナイトメアの本体を正確に撃ち抜いた。先の一発も合わさり、間違いなく致命傷。黒い霧となって広がっていき、その端から粒子となって消えていっている。
それはいい。信じられないのは、奴の顔。
ナイトメアではない。有川の、顔。
「お前……」
笑っていた。あの胡散臭い笑みではない。学生時代、『あいつ』と三人で馬鹿な話をしながらの帰り道で散々見た、あの笑顔を。
小さく、それこそ自分の耳では聞き取れないほど小さな声を乾いた唇がつむぐ。
その光景を眼に焼き付けて、全身から力が抜けていくのを感じた。限界がきたのだ。無理に動かし続けた肉体は糸の切れた人形の様に崩れていく。
仰向けに倒れながら、瞼を閉じる。
ああ、終わったよ。私はまだそちらには行けないけど、先に二人で待っていてくれ。きっと、すぐに行く事になる。
やけにゆっくりと時間を感じながら、背中が床につく直前。
自分の斜め上を通り過ぎていく『なにか』の気配を感じ取った。
やけに冷たい風が吹いた気がする。氷が砕ける様な音と、少し遠くから響く少女の声。
「まに、あい、ましたぁぁあああああああああ!!」
聞き慣れないその声を最後に、今度こそ意識は闇に落ちていった。
* * *
サイド 郡 凛
「やあああああああ!!」
剣で四つ頭の怪物を貫きながら、目の前の扉を愛馬が蹴破る。
そこで力尽きたフォートヘクターが倒れ、自分も体を投げ出された。視界の端で怪物が消えるのを見ながら、どうにか体を起こす。
「フォートヘクター……」
『ブルル……』
傷だらけの愛馬を撫でる。お互いボロボロだ。同格の怪物どもがひしめく異界を突破できたのは、奇跡としか言いようがない。
「ありがとう。ゆっくり休んで」
自分の中に戻った愛馬にそう告げ、その辺に転がっていた剣を杖にして立ち上がる。
「ここ、は……」
ただ自分の勘に従って進んできたこの場所。中央の巨大な柱以外に何もない空間を見渡し、その柱から緑色の光が微かに漏れ出ている事に気づく。
あの光を自分は知っている。何度も窮地を助けてくれた、彼女の魔力。
「胡桃!!」
慌てて駆け寄り、木々が縄の様により合わさった柱を剣で切り裂いていく。
内側から彼女が魔力の障壁で圧をかけてくれているおかげか、見た目とは裏腹に刃はそれらを簡単に引き千切る事ができた。
ようやく内側が見える様になれば、内部にできあがった空洞に胎児の様に体を丸めて眠る胡桃の姿が見える。彼女を中心に障壁は展開され、木々からその身を守っていた。
「胡桃!胡桃!!」
「りん、ちゃん……?」
ゆっくりと、彼女の眼が開かれる。その直後に障壁が消え、慌ててその小さな体を抱えて柱から引き抜いた。
勢い余って仰向けに倒れ、腕の中の胡桃を力いっぱい抱きしめる。
「よかった……!よかったよぉ……!」
「りんちゃん……ここは……わたし……そうだ、お父さんとお母さんが……!」
慌てて起き上がろうとする彼女だったが、しかしすぐに私の方へと倒れ込んだ。
「胡桃?」
「うそ、脚が……!こんな時にっ」
普段では決して見せない焦りと怒りの表情でもがく胡桃の姿に、彼女の両親がどうなったのかを察する。
助け、られなかったのだ。
小さく手を握って、深呼吸。胸に浮かんだ罪悪感も、瞳に溢れそうになった涙も抑えこむ。今悲しむべきは彼女で、自分がすべき事はそうではない。
気合を込めて、胡桃を抱えたまま起き上がる。
「胡桃。そっちでも色々あったと思うけど、先に私の話を聞いて」
「凛ちゃん……わたし、私の、お父さんとお母さんが……!」
「うん、わかってる。けど、ごめん。酷い事を言うけど、今、助けられる命を助けさせて」
後でどれだけ非道と責められてもいい。恨まれてもいい。誠心誠意謝るし、死ぬほどぶたれても構わない。
だけど、今は。
「ここに来るために、力を貸してくれた子がピンチなの。お願い。一緒にその子を助けに行って」
シズクちゃんが危ない。
少しでも冷静になればなるほど、あの騎士が異常である事が理解できる。意味不明の言葉を吐き出しながら、しかしその構えは一切の隙などない達人の……いいや、人の域を超えた武人のそれ。
そのうえ覚醒者としての力は、神話に出てくる大英雄のごとく。たった一人でいつまでも足止めできる相手じゃない。今こうしている間にも、彼女はあの鉄槌によって肉塊となっていてもおかしくはないのだ。
友達の命のためなら、私がどうなってもいい。だから……!
「凛ちゃん……うん、わかった。けど、後で。絶対に私の方も手伝って。お母さん達の、仇を……!」
「……うん」
復讐に瞳を燃やす彼女に、少し悲しくなる。
胡桃に復讐なんて事考えてほしくない。
復讐の是非は無視するとしても、人には向き不向きがある。彼女に仇討ちの類は向いていない。色んな人の悩みを聞いてきたけど、そういうのに向いていない人は全てが終わった後にもう立ち上がる事すらできなくなる。
それに、胡桃の両親の仇がこのダンジョンにいるのだとしたら、既に死んでいるかもしれない。
道中、立ちふさがるモンスターの動きに違和感を覚えた。まるでどこかに向かう途中だった様な、そんな雰囲気。
あの騎士の様に、このダンジョンへ突入している覚醒者は他にもいるのだろう。その人達が、既に倒している可能性も……。
だが、あえて口をつぐんだ。復讐の炎を原動力にしなければ、氷ついた様に動けない人もいると知っている。そういう人もたくさん見てきた。今の胡桃はその人達と同じ目をしている。
だから、今だけは。彼女がまた自分で立ち上がれる様になるまでは。
「わかった。まずはあの子の、シズクちゃんの所に───」
そこで、突然ダンジョンが揺れた。
一瞬地震かと思ったが、異界で発生したなんて聞いた事がない。咄嗟に胡桃を庇いながら周囲を警戒する。
直後、床の一部が砕けて崩落した。
安全の為にそこから離れると、ダンジョンそのものがひび割れていく。
まさか、氾濫がおさまった……?
「凛ちゃん、あの人……」
「え?」
胡桃の声に崩落が起きた穴に視線を向ければ、誰かが這い出てくる所だった。
槍を杖の様につき、姿を現した少女。黄金の髪も白い肌も血で汚し、左腕を肘から失い口から大量の血液を流す人物の名を、私は知っている。
「シズクちゃん!?」
「ごーるで……ぎたー……さ……」
呼吸がおかしい。肺が潰れているのだ。ツインテールもほどけ、まるで幽鬼の様に髪の隙間から力ない瞳でこちらを見てくる。
明らかに死にかけだ。槍をもつ手も、よく見れば指が二つ欠けていた。足も左足の爪先がなくなっている。
血の気がひく。こんな重傷、私の『声』だけじゃ……!?
だが、腕に抱えるもう一人の少女の重みで光明は見えた。
「胡桃。お願いがあるの……」
「凛ちゃん。けど、あれは……」
「わかってる。でも……!」
胡桃がもつ固有異能なら。
『黄金の林檎』
ギリシャ神話、そして北欧神話で主に語られる伝説の果実。食べれば不老の力を与え、時には不死さえもなしてみせる神々の食べ物。それを、彼女は作り出す事ができた。
アレは凄まじい力をもっている。死にかけていた自分を完治させるどころか、覚醒までさせてみせた。学校が氾濫に飲まれた時も、モンスター達をアレの光で誘導する事もできたのだ。
もしもあの林檎が明るみになれば、争奪戦が起きる。それも、国規模で血を流すほどの。その渦中には胡桃自身が放り込まれるのだ。私の大切な親友が。
それでも友達を死なせたくない。
シズクちゃんは恩人だ。私だけではここまでたどり着けなかった。『胡桃と同じぐらい大切な人なんだ』。
……あれ?
私、シズクちゃんの事をそこまで大切に思っていたんだっけ……?確かに恩人で、いい子だってわかっていて、けど、会ったばかりの子で……。
『いいや、違う。会ったばかりなのにここまで助けてくれたからこそ、今度は私が助けなきゃ』
……そうだ。何を迷っているんだ私は。
彼女を死なせてはいけない。絶対に。
「お願い、胡桃……!」
「凛ちゃんが、言うなら……」
そう言って、疲労で少し息を切らしながら胡桃が両手を皿の様にしたかと思えば、黄金の眩い光が展望室を満たした。
ただそこにあるだけで、見る者を魅了する金色の輝き。艶やかな皮は万人にその内側にある甘露を想像させ、されど極まった美しさに食べる事を躊躇させ永遠に眺めていさせようとする魔力を帯びている。
私までその輝きに目がくらみそうになるも、どうにか振り切った。今は、シズクちゃんを助けないといけない。
胡桃をそっと床に横たえ、林檎を手にシズクちゃんの元へと走る。
「シズクちゃん!何も聞かずにこれを食べて!そうすれば傷が───」
彼女に林檎を差し出そうとした手が、止まる。
あれ……なんで?けど、おかしい。私、なにが……?
突然固まる私を前に、シズクちゃんの顔がノロノロとあげられた。その口元が、垂れさがった髪の毛越しに動くのが見える。
これまでの純粋なものとは程遠い、悪魔の様な笑みを彼女は浮かべていた。
「ありがとう」
「ぁ……」
気づけば、自分は壁に叩きつけられていた。
肺の空気が押し出され、意識が遠のく。
「凛ちゃん!」
「っ……!」
胡桃の悲鳴に気合で気絶を回避し、剣を床に突き立てて踏ん張った。
頭の霧が晴れていく。なんで、私は初対面のあの子をここまで信用した!疑おうとしたのに、この子も裏切るんじゃないかって!なのに!
一言話すだけで、彼女の声を聴くだけで思考力が奪われていったのを思い出す。それを自覚できたのは、槍の柄で殴り飛ばされたつい先ほどの事。
いつの間にか『シズク・リンドバリ』と名乗った少女は槍を消して右手で黄金の林檎を掲げていた。
いいや、既に少女の姿でなくなっている。
年老いた老人が、そこにいた。洋装と和装を混ぜた老人。『神代回帰』のあの日に全世界で空中にその顔を晒した眼帯のあの男。
着物で左腕を隠し、全身を血まみれにしたまま、されどその顔には狂喜とも呼べる笑みが浮かんでいる。
「何千年、待った事か……遂に、遂に『俺』は手に入れたぞ、『オーディン』!!」
老人は掲げた林檎を握りつぶす。そして、滴った果汁は彼の口へと落ちていった。
変化はすぐに起こる。枯れ木の様だった腕は太く武骨なものに。深い皺だらけの顔は肌ツヤの良い青年のものに。
「お、おおおおおおおおおおおおお!!」
しわがれた声は若々しく、失った腕も爪先も再生しそれどころか肉体全体が二まわりほど大きくなっていく。
髪は腰あたりまでの長さとなり、シズクだった時同様……いいやそれ以上に眩い金髪が伸びていた。
「ああ……ああ……」
一滴も残さず林檎の果汁を飲みほした後、青年となった老人はその隻眼をこちらに向けてきた。
ぞっとするほどの美貌。されどその青い肌は彼が人外である事を告げており、何よりも歪んだその笑みが本能的な怖気を背筋に走らせる。
「本当に、ありがとう。『ブラギもどき』」
「ぶら、ぎ……?」
何を言っているのかわからない。だが、彼が敵なのはハッキリしている。戦わなければ……!
剣を引き抜き、構えようとする。だが、その瞬間膝から崩れ落ちた。体力、魔力ともに限界を迎え、先の一撃で骨がいくつも折れている。遅れてやってきた激痛に顔をしかめ、立ち上がろうともがくだけで武器を奴に向ける事すらできない。
「ああ、本当に……長かったよ。この喜びを世界中に叫んで回りたいが……あの化け物みたいな戦士がいつ追いついてくるかわからないからね。ここらで失礼するよ」
青い肌の青年はケラケラと笑いながら、指を鳴らす。それだけで彼の服装はいくつもの拘束具のついた黒い服に変わった。
身体の各所についたベルトをガチャガチャと鳴らしながら、青年は未だ倒れたままで私の方に這っていこうとする胡桃の首を掴む。
「が、ぁぁ……!」
「胡桃!」
「もちろん、この『イドゥンもどき』は貰っていくよ。俺の故郷を再誕させるには、必要不可欠だからね」
「こ、のぉ……!」
動け、動け私の体……!
歯を食いしばり、剣を床に突き立て立ち上がる。剣を構えろ、あの腕を叩き落とせ。さもなければ、私の親友が……!ずっと、傍にいてくれた人が……!
私の、『居場所』が……!!
「おお、おお。無様だねぇ。そんな所もブラギそっくりだ。あいつも普段温厚なふりをしていたくせに、腹の内では本当に……」
そう言って青年は目を細めた後天井を見上げ、またこちらに顔を向ける。その時には、またあの人を小馬鹿にした笑みに戻っていた。
「まあ、いいや。昔を懐かしむ必要なんてない。だって、もう『戻ってくる』んだから」
「わけの、わからない事を……!その手を離せ!」
肺に折れた骨が刺さるのがわかる。だが知った事か。
床を蹴って剣を振り上げ、腕輪を輝かせる。この一刀で、あの腕を落とす!刺し違えてでも胡桃は逃さなければ!
「ぐわあああああ!?やーらーらーれーたー」
刃が、青年の腕を切り落とす。いいや、切り落としたはずだった。
なんだ、この感覚……何も感じない。
確かに腕を切り落としたはずなのに、胡桃の首を掴んだまま奴の右腕は宙に浮かんでいる。
「なんて。駄目だなぁ。こうしてふざけるのも久々過ぎて、全っ然キレがないや」
「がっ」
腹を蹴られた。それに気づいたのは、天井に叩きつけられた後。
虫の様に床に落ちて、ぐったりとした胡桃が『植物の胡桃』の様な物に覆われるのを見上げる。
「じゃ、今度こそ俺は失礼するよ。君には感謝しているからね、殺さないでいてあげる。俺の事を信仰してもいいよ!慈悲深い神様ありがとうって!」
軽く頭を爪先で小突かれる。私を嘲笑うのはいい。だが、返せ。胡桃を、親友を……!
伸ばした手は何を掴む事もできず、踵を返した青年は軽く左手を振るう。その一瞬で空中に描かれたルーン文字が光ったかと思えば、ダンジョンの壁が轟音とともに砕かれた。
出来上がった巨大な穴から覗くのは、黒の天蓋が消えていく青い空。
その光景を満足そうに見た後、青年はその身を鷹に変える。通常のそれではない。見上げる程に大きなその猛禽は、鋭い爪で彼女をつつんだ胡桃の殻を掴んだ。
翼をはためかせて飛んでいく彼らを、ただ見ている事しかできない。喉を震わせて、手を伸ばす。
「ぁ、ああ……!」
嘘だ、こんな。どうして。
私が、私が悪いんだ。もっと、己の意思をしっかりもっていればあの声に騙される事なんてなかった。普段からたくさん鍛えていれば、こうして倒れ伏す事はなかった。
お願い、神様……私の、大切な友達を、奪わないで。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛───ッ!!」
私の声は、私自身の意思さえ無視して誰かを動かす。なのに、私の身体は動かせない。
ただ、無力な慟哭だけが響き渡った。
読んで頂きありがとうございます。
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