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換金

作者: いずみもり

誰もいない横断歩道の途中、彼女は一匹の黒猫に話しかけられた。

「ねぇ、もしもの話なんだけど、君の命と引き換えに願いが叶うとしたら、どんな願いがいい?」

彼女は驚きながらも答えた。

「そうだね、私は、お金が欲しい。」

「お金かい?あの世に金は持っていけないよ?」

黒猫は嘲笑するように言った。

「ううん、お金でいいの。私の妹と、お母さんが一生遊んで暮らせるようなお金。十億円かな、いやそれじゃ足りない」

「百億円?」

「それでも足りない」

彼女の家庭は貧乏だった。彼女には父親がいない。母親は病気を患って寝たきりで働くこともできず、それゆえ住まいは困窮と形容されるのに最もふさわしいものだった。

「一兆円」

彼女は言った。

「一兆円だね、一兆円あれば、お母さんの病気を治せて、貧乏だからって妹をいじめるやつもいない海外で一生遊んで暮らせるから」

「二人とも幸せ」

彼女はどこか虚空を見つめるように言った。

「なるほどそれはいい願いだね」

黒猫は笑いながら言った。

「お安い御用さ」

黒猫がそう言い放った瞬間、彼女の視界は徐々に真っ暗になっていった。彼女は自分の死をなんとなく悟った。

そして、先程の黒猫との会話は、碌な思い出を映さないだろう走馬灯の代わりに、神が憐れんで見せた最後の幻想だと朧げに考えた。


「おはよう」

その一声で彼女は目覚めた。彼女は自分が死んでいないことに驚くよりも、自分が黴の生えた布団の上で目を覚ますのではなく、貴族が使うようなベットの上で目覚めたことに驚いた。

そして、なんとも彼女を困惑させたのは、目の前に見知らぬ、黒より黒いタキシードを着た紳士が立っていたことである。

「あなたは?」

「黒猫といったほうが分かりやすいかな」

紳士は氷のように落ち着いて答えた。

「ここはどこなの?私の家じゃないし、妹と、お母さんは?」

紳士は微笑しながら答えた。

「ここが、君の家だよ。妹さんも君のお母さんもいるさ。ついでにここは日本ではない。アメリカだ」

彼女は自分が寝惚けているのではないかと彼女の頬を叩いた。

「はは、君は夢の中に居ないよ。後ろの窓を見てごらん」

彼女は言われたとおりに窓の先を見ると、何ヤードにも広がる庭が視界に飛び込んできた。そして、庭の中に、元気にヨガをしている母と妹の姿を視認した。

「これが一兆円の力だよ、君が眠っている間に、金は君の望みを叶えたらしい」

「すごい!神様は私の願いを叶えてくれたんだ。神様は本当にいたんだね」

「神様ねぇ……」

紳士は呟いた。そしてタキシードの胸元から拳銃を取り出した。

「では、失礼」

鋭い銃弾が彼女の心臓を貫いた。寝室の綺麗な白は、おどろおどろしい血液の赤色に汚された。

彼女は、紳士の殺人を恨まなかった。寧ろ、それは神の祝福であると感謝しながら息絶えた。

「黒猫は、私の命と引き換えに願いを叶えてくれた。私の命をお金に換えて家族を幸せにしてくれた。きっと神の使いなんだ。どうもありがとう神様」


紳士は横たわる彼女の死体を一瞥し、葉巻に火をつけ独り言を呟いた。

「神サマは君の命がそんな大金だと勘定するかな。おめでたいね。神はマルクスよりアダム・スミスを選んだ冷徹な資本主義者なんだぜ」

「それに、どちらかといえば、僕は悪魔の使いなんだけどね。まあ、救われたと思って死んだなら結構なことだが」



横断歩道での彼女と黒猫の邂逅の後、彼女の家庭が手にしたのは一兆円のみならず、十兆円にも上る金だった。うつろな目をして出所不明の金を持ってきた彼女に、妹も母も驚嘆した。

それからは早かった。母の病気は有り余る金によって解決し、彼女の家族は狭苦しい日本を脱出し、海外へと移住した。

海外に何坪にわたるか分からないほどの土地と、高価な家具で住まいを築いても、それでも富は有り余っていた。

一方、彼女はあまり言葉を発さなくなり、睡眠に傾倒するようになった。彼女の家族はそれを心配し、医者に診てもらったが、どこにも異常がないということだったので、空から降ってきた巨万の富に彼女の心が追い付いていないのだと合点した。

そんなある日に、彼女は死んでしまった。左胸を弾丸で貫かれた跡があった。

彼女の妹と、母親はそれにひどいショックを受けた。監視カメラには侵入者の痕跡もなく、彼女が死んだ埃一つない寝室には、静かに拳銃だけが置かれていた。しかし、拳銃は彼女の手元にはなく、現場検証と司法解剖の結果、彼女の死は他殺だと推測され

警察は、彼女の死を不可解な殺人事件に拠るものと結論付けた。

犯人のいない殺人、かといって自殺でもない死。メディアはこぞって彼女の死を取り立てた。

閑静だった豪邸には、世間の醜悪な興味を代表するかのようにマスメディアの記者が連日にわたって訪れ、黄色人種の成金の悲劇と面白おかしく報道し、彼女の家族は疲弊していった。

そして、強いストレスと悲しみのなか、彼女の母親は遂に病気を再発させてしまった。

彼女の妹は、再び寝たきりになった母の病気をもう一度治療するために、土地を売ってしまおうと考えた。しかし、経済というものは残酷で、不審死がおこり、全米に悪評が広まった事故物件の価値は日に日に落ちていき、

呪われた土地の買い手は見つかることはなかった。

彼女の家族は、もとより隠居に専念し、働くことを想定していなかったため、英語を発することもできなかった。つまり、彼女の家族は加速して減っていく財産を眺めることしかできなかった。

憎悪していく母の病気と、世間からの悪意と、だんだんと擦り切れていく富。それは彼女の妹の心を蝕むには十分だった。

ある朝、彼女の妹はカトラリーに並んだ切ない銀色のナイフを目にすると、母を殺し、私も死のうという病的な考えが頭の中を掠めた。

彼女の妹が、その病的な思考を否定しようとした刹那、彼女の視界に一匹の黒猫が飛び込んできた。

どこから来たのかという彼女の妹の驚きを遮るように、黒猫は話し始めた。


「ねぇ、もしもの話なんだけど、君の命と引き換えに願いが叶うとしたら、どんな願いがいい?」



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