第一話 俺は大して生きる理由もないし
「あぁ……憂鬱だ……。」
誰にも聞こえないように気を使いながら独り言を呟く。思わず声に出さずにいられない。
今日も実習先の先生に色々指導されるのかと思うと朝から憂鬱な気分になる。朝早く家を出て、未だ慣れない満員電車の中で揺られながら、これからのことを思うと嫌になってくる。
いっそこの電車が事故って今日は休みになったりしないだろうか?いや、もし、そうなったとしても、休めるのは精々一日でこの気持ちがなくなることはないだろう。実習期間中はずっとこの気持ちと向き合わなければならないのだ。
こうなるとは思いもしなかった。高校の頃、大した夢も無かった俺は親に言われるがまま
「安定しそうだから」という思いで作業療法士の専門学校へ何となく通うことにした。大学には行く気がなかった。そんな学力はないし、何よりも入試勉強がしたくないからだ。後は昔からインターンシップとかで介護関連の物に行っていたのもある。何も分からない世界よりは少しでも理解がある方に行くのは当たり前のことだ。
学校に通うまでは大した苦労もなく、友人に囲まれ、彼女に愛され、国家資格を取り、何処かに就職できると思っていた。単なるリハビリの仕事だし、楽だろうと思っていた。
でも現実は違った。聞いたことのない単語。意味不明な医療理論。安定はするが過酷な現場。学校に通う中で現実を知った俺は、最初の頃の楽観的思考は消え、今は行かなきゃよかったという後悔の念がただただ残っている。今すぐにでも退学したいが、親は当然許可してくれないだろう。それに、した所で何をするんだ?逃げても意味はないと言うのに。
こんなことなら大学に行ってもうちょっと夢でも探すべきだったか?いや、そうしても、結局夢は見つからず、名もない中小企業に適当に入社して、一般サラリーマンとして生を終えるだけだろうな。一体何のために生まれたんだか分からなくなるな。親のため?俺のため?何のため?
はぁ、先が見えるこんなつまらない人生ならもういっそのことーーー
「汝、新タナ……生ヲ望……ムカヤ?」
「それもありかも……え?」
何だ?突然、声をかけられたのか辺りを見回すが、俺の方を向いている奴はどこにもいない。一体何だ?まるで、体の中から聞こえたような……?
「汝、新タナ……生ヲ望ムカ……ヤ?」
今度は途切れ途切れだが聞こえたぞ。しかし、声は内側……頭の中から聞こえる気がする。一体全体どういうことだ?コイツは幻聴か?とうとうそこまで精神が追い詰められていたというのか?
「生キル……希望ヲ失……イシ者。我ガ汝ニ……使命ヲ与エン。」
これは重症だな。片言の幻聴が何か囁いているぞ。これは実習どころではないな。
「ツマラナキ時間……縛ラレルコトハナイ。汝ノ力ヲ我……委ネヨ。……レバ、汝ハ使命ヲ得ル。」
うーん、実習先には何て言って休もうかな?そうだ。このまま幻聴と会話しまくってもっと自分を追い込むのもアリかもな。そうしたらもっと口実が作りやすくなるし。
俺は幻聴を会話をすることにした。でもどうやって会話すれば良いんだ?
「汝ノ思考……見エル故、声ハ出サ……モ良イ。」
マジかよ。さっき声出しちゃった。白い目で見られないといいけど。
それであんたは一体何だ?
「我ノコトハ……些細……ダ。汝ハタダ、頷ケバ……イノダ。新……使命ヲ得……タメニ。」
よくわからないな。相変わらず、プツプツしてるし。まあ、頷くだけでなんか生きる意味与えくれるなら。それは楽でいいな。どうせ何も起きないだろうけどね。
俺は幻聴に従って電車のガラスに向かって頷いた。全く何してるんだか。馬鹿馬鹿しいったらこの上ないな。
「契約ハ結……。汝ニ使……世界ヲ救エ!病ヲ打チ払イ!世界……救エ!」
世界を救う?病を打ち払う?一体何だ?ここだけハッキリと聞こえた。いよいよ症状が悪化してきたな。やっぱ電車を降りて実習先に電話すべきだ。それにしても、幻聴が聞こえるっていう自覚があるのって何か変な気がするな。
「次は〇〇〜〇〇〜。」
俺は実習先に休みの連絡をする為、次の駅で降ようとガラスの向こうへと視線を移したその時だった。
突然視界が真っ黒に染まった。
「贄」
「見ツケタ。」
「アラソイヲ。」
ーーーーー
「ハッ!?」
一瞬、視界が黒く染まったかと思ったら、次気がついた時には電車の中には居なかった。
電車の中にはいない……?
俺の左手はさっきまで、吊り革を握っていたはずなのに、今は虚空を掴んでいる。手についさっきまで握っていた皮の生暖かい熱が、妙に手に中々しく残っている。
「……どういうことだ?」
周りを見渡すと、最初に目に入ったのは岩壁だった。おかしい。さっきまでは人と窓しか視界に無かったはずなのに。次に下をふと見ると石畳と苔が視界に写る。
一体どういうことだ?俺は電車の中に居たはずでは?
どれだけ目を動かしても、視界に写るのは岩壁、苔、石畳……。それと上から注ぐ光だけだ。何かの洞窟か遺跡?の中だろうか?
「……ここはどこだ?何かの夢か?いや、それとも……。」
幻覚か?これはかなり重症状だ。そこまで俺の脳は日々の生活で疲れていたのか?こんなになるまで気付かないとは……。いつも鬱になっても余裕で気付くだろうと思ったが、そんなものは単なる思い込みだったのか。自分の事を全く分かっていなかった。
これは実習を休む所ではない。さっさと病院で診てもらわないといけない。まずい。
しかし、幻覚と分かったのならば慌てる必要はない。冷静になれ、俺。ここは電車の中だから、実習先の病院へ向かえばいいだけだ。たったそれだけだ。こんな幻覚を相手にする意味はない。
取り敢えず、今は何駅へ向かっているのかアプリで確認しなければ行けない。通りすぎたかもしれないし。音声案内は幻聴となって別の音に聞こえるかもしれないから当てにはできないし。肝心な所で降りれないのは困るからな。
俺はiPhoneから乗換案内のアプリを開き、どこまで電車が行ったのか改めて確認することにした。しかし、アプリを開いて見るとそこには、「圏外なので表示できません。電波をご確認下さい。」と表示された文章があった。
え?何故だ?街中で繋がらない事なんかあるのか?今までずっと使えていたはずだぞ?俺は右上に目をやるとそこには「圏外」という文字がただ表示されているだけだった。
圏外ならWi-Fiも繋がらないかもしれないが……。
ダメ元でオプションを開き、Wi-Fiを接続しようとする。しかし、やってみたがWi-Fiの接続先は表示されなかった。クソッ!何でコレ全部繋がらないんだ!?幻聴、幻覚だとしてもおかしいだろ!携帯の画面までも変に見えてしまっているのか!?
症状を自覚しているのに何も現実が変わらないのをみると腹が立つ。どうしようもなくイライラする。
その時、背後から何者かの足音が聞こえて俺は反射的に振り返った。
「何だ!?俺に何か……は?」
そこに居たのは奇妙な人物だった。子供位の背丈、枯れ木にような痩せこけた体躯、そして、
「何だ、これ人間か?」
思わず口に出てしまう程、人とはかけはなれた灰色の肌と巨大な脳……。ん?脳?
この変な人間は頭の中が透けて見える。そう、透けているのだ。
培養器に浮かんだ脳みそとでもいうのだろうか。そんな感じに、頭には透明な膜に覆われた脳がぷかぷかと浮かんでいる。全体的にみると、この人間?は映画エイリアンに出てくる異星人そっくりな見た目をしている。しかし、アレと比べると少々みみっちく見えるが。
何だコレ。幻覚にしては随分と鮮明だ。俺の頭はここまでクリエイティブに富んでいたのか?将来は小説家かアーティストにでもなった方がいいなこりゃ。
幻覚エイリアン(に見えている人)はここから三歩程離れた所に立っている。電車内なのに何でこの人だけがエイリアンに見えるのだろうか?他人もこの幻覚エイリアンに見えても、おかしく無いというのに。というか、俺とこの人以外、人影がないし。なんなんだ一体?
幻覚エイリアンは腕を突き出し、掌をこちらに向けてきた。いきなり、変なポーズを取り始めるので俺はよく電車内でこんな事できるな。とやけに冷静に感心した。
すると、幻覚エイリアンの脳が溝に沿って光が走り出す。そして、掌から何か光った粒……ホタルの光の様な……物が2、3個俺に向かって飛んできた。
「!?」
やけにフワフワと飛んでくる。見ても躱せる位には余裕な程ゆっくりだ。当たっても何とも……。
しかし、俺は目の前の光に嫌な予感を感じた。背中に寒気が走る。コレに直撃してはまずい様な気がしてならない。幻覚な筈なのに、当たっても何も無い筈なのに、これが現実に思えてならない気がしたのだ。
「ヤベェ……!」
回避する為、体を動かそうとしたが、一歩遅かった。余裕だとタカを括っていた為、光に一個当たってしまった。
「痛った!……くはない?」
体に直撃したが、何も感触はなかった。やはり幻覚か?息をゆっくりと吐き落ち着く。
ああ、電車の中で何をしているのだろうか?急に恥ずかしくなってきたぞ。普通にして病院に行かないと。
その時だった。自分の視界が突然揺らぎ、体の感覚が急になくなった。そして、地面に倒れ込んだ。
「な……なん……だ……?」
何だ何だ何だ何だ?何が起こったんだ?俺の体に何が起こったんだ?何も分からない。一体全体どうなっているんだコレ?何で倒れた?何でこんなにも視界がぼやけている?それに、頭の中もぼんやりとして上手く思考ができない気がするぞ。
「KIRRRRRR!!!」
薄れかけた意識の中、この世と物とは思えない、ゾッとする様な叫び声が聞こえた。
何だ?電車の中で誰か叫んでいるのか?分からない。分からないがヤバい気がする。もしかして、アレか?アレが叫んでいるのか?
それは当たっていた様だった。鋭い爪を擦りながら、こちらに近いてきた。
心臓の鼓動が早鐘を打つのが耳元まで聞こえる。脈打つのをこんなにも近くで聞いたのは初めてだ。何が起こっているのか分からないがヤバいのだけはわかる。これはきっと幻なんかじゃなくて、現実なのか?それ位ヤバい気がする。速く、逃げないと。
しかし、体は動かず、そればかりか、逃げる意思を拒むかの様に、俺の意識は遠のくばかりだ。
「このままこの状態を受け入れた方が、楽ではないか?」
不意にそう思った。それもそうか。幻だか現実でも、関係ない。俺には対して生きる理由はないし。親とは仲悪いし、俺が居なくなって悲しむ友達も碌にいないし、生きる目的もない。このまま生きて、何処かで精神的物乞いをする位なら死んだ方がマシだ。
死を受け入れると体の力がスーっと抜けていく感覚があった。風船がゆっくりと萎むのに似ているように抜けていった。あー。何て結末だ。俺は一体何のために産まれたんだか。全部意味なかった。せめて、来世があるならもうちょっとマシに生きたいものだ。
「KIR!!???」
ん?何だ?アイツ、急に動きを止めたぞ。俺のぼやけた視界に映る幻覚エイリアンは足を止め、立ち尽くした。
「K……R……。」
そして、そのまま覆い被さるかのように倒れ込む。
「うお!?」
俺は体を起こし、下敷きになるのを躱す。ん?おかしい。
「何で体が動いた?」
あの変な光に当たって意識が遠のき、体の感覚が無くなったはずなのに何故だ。視界もクリアだし、意識もハッキリごしている。もしかして、
「アイツが死んだから……?」
「そう。」
俺の言葉に対して、返事が返ってきた。何者かの手が映る。顔をあげるとそこには、片手に弓を持ち、こちらを見ている人がいた。
「良かった。間に合った。」
彼女はそう言うと目元に笑みを浮かべた。