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5.校内を巡り

 どこで手帳を落としたにせよ、誰かが拾い上げたり蹴り飛ばしたりしていない限りは詩文くんの行動範囲内にしか存在していないはずだ。


 そして、手帳を落とすなら一番可能性が高いのは着替えのタイミングだろう。そして今日はちょうど体育があった。であれば、体育館の更衣室こそが落とした場所として疑うべき最初のポイントだ。






 そう思って体育館の目の前まで来たのだけど。私たちはつい足を止めてしまった。


 熱波が来たからだ。体育館の中から、開きっぱなしの入り口を通じて。


「……外も暑かったけど、ここはひどく暑い」


「ホントね」


 詩文くんのボヤキに私はため息をつきながらに同意した。


 エアコンの利いた室内とかならどうと言うこともないのだろうけど、致命的なことに今日は体育館のエアコンは壊れている。どうにか窓と扉を全開にして気温を調整しようとしているが、顔をしかめてしまうほどの熱気を感じるあたり、その施策はうまくいかなかったらしい。


 そんな中でもいつも通りにバスケにバレーにハンドボールに、と部活動にいそしんでいる学友たちには尊敬の意さえ表したい。


「……ん、文乃に永良じゃないか」


 隣から話しかけてきたのは、バスケ部部長の凛菜だった。いつも以上にだらだらと流れ出る汗が、いくら運動部の彼女でもこの暑さには耐えきれないと立証するようだった。


「凛菜はその汗大丈夫なの?」


 ぐい、と肩にかけたタオルで汗を拭きとりながら凛菜は力なさげに笑う。


「……ま、いつもよりしんどいかな。いくら練習って言っても体に負担かけるだけじゃ意味ないし、早めにみんなを上がらせるつもりではあるけどね」


 凛菜は水筒に口をつけると、ひっくり返すようにそれを持ち上げ、ぐびぐびと喉を鳴らしたあとにくぁー、とため息のような歓声のような声をあげた。


「それで、二人は何しに体育館なんかに来たんだ。逢引き?」


 それを聞いて、なんてことをいうのだという気持ちが湧くと同時、思わず後方にいた詩文くんの方を振り返ってしまった。


 彼にも私に同調するような怒りの感情か、あるいは言葉を失う驚愕か、目を背ける羞恥といった感情が現れているに違いない。それを見てからでも、私の返事は遅くないと思ったのだけど。


「……そういうものか」


 怒りでも驚きでも羞恥でもなく、彼は困惑したような表情で、納得したようにうなずいた。


「なんだ、そう言うのじゃなさそうだな。見学か? どっちにしてもずいぶん酔狂なことだな」


「酔狂ってどういう意味?」


 凛菜のぽろっとつぶやかれたような言葉に、思わず反射的に問い返してしまった。


「だってほら、永良には……」


 彼女の指が詩文君を指そうと半ばまで持ち上がったあたりで、何かに気が付いたようにその指は中空で停止した。


「ああ、いや。なんでもない。――ホント、私としたことがあんまりにもらしくないことをしそうになった」


 凛菜は持ち上げた手を床に押し付けると体を少しだけ折りたたんだ後、バネが跳ねるように立ち上がった。


「なんだ、今何を言おうとしたんだ?」


 困惑を深める詩文くんに、凛菜は困ったように顔を背けると、おもむろに自分のカバンに手を突っ込みはじめた。


「聞いても損するだけさ。詫び代わりにこれあげるから許してよ」


 ぽい、と投げ捨てるように詩文くんに渡されたのはよく市販されているスポーツ飲料。


「いいのか?」


「ま、それは練習が長引いた時の予備だし。口もつけてないから好きに飲んでいいよ」


 ひらひら、と手を振りながら彼女はコートの中へと戻っていった。


「……なんだったんだろう、彼女が言おうとしたことは」


 私には何となくわかる。


 明日の彼が一番言われたくないこと。それはきっと、今日の記憶もきっと明日に持ち越せないことだ。


 実際、昨日までの記憶がないのはとても不便で困ることに違いないけれど、周囲がそれを認知している限り生活していけないなんて程の重大な事項じゃない。まして、彼は記憶はなくても記録はある。昨日までの彼の記録を引き継げば、生活は難しくとも不可能ではないのだ。


 けれど、それは記録がつながるだけ。経験を引き継ぐことだけはできないのだ。私たちの誰もが当たり前にできる、また明日があるさと言う思考が彼には存在できない。


 だから、彼女が言おうとしたのは憐みの言葉だったに違いない。そして、そんな言葉を同級生にかけようとした自分を恥じたということでもあるのだろう。


「……文乃さん?」


 伺うようにこちらを見ている詩文君と目が合う。少し、考えに集中しすぎていたらしい。


「ごめんなさい、ちょっとぼうっとしちゃって」


「いいや、謝ることはないよ。ここで生徒手帳を無くすとしたら更衣室だけだろうし、文乃さんはここで休んでいてくれ」


 たたた、と詩文くんは駆けだしていった。


 まあ、特に理由もなく私が男子更衣室に入るわけにはいかない。それに、疲れたわけでもないけど少しだけ休憩したかったのも事実。彼の提案に甘えて、壁に背中を預けつつ座り込む。


 なんとなし、凛菜の姿を目で追う。


 ピッ、という笛の音のすぐ後には、彼女の掌中にボールは収まり、瞬きの間に一人、また一人と敵陣を切り開き、一瞬の間にゴールを奪っている。


 彼女は強いヒトだ。コートの上だけでなく、いつだって気遣う心も自らの意思も忘れない人。誰からも慕われるような人だから部長という座に選ばれて、そして誰からの信頼も篤い人でもある。


 そんな彼女でさえ、あるいは人のことまでよく見えてしまう彼女だからこそ、彼の問題に気づいてしまった。


 永良詩文にとって、最大の問題は昨日までの記憶がないことでなく、今日の記憶を明日に引き継げないことだ。


そして、彼はきっと、誰かに指摘されるまで気づくことはなく今日を終える。だって、彼は記憶を忘れてしまう、という思い出も失っている。


 どんな経験も、過程も、蓄積も、積み重ねも、彼の記憶からは零れ落ちる。


 何を教えても忘れるし、何を見ても覚えはないし、何を聞いても記憶に残る物はない。


 傍から見ればそれは浜辺に建てた砂の城のように意味もなく崩れ去るもので、それを組み立てる無意味さはきっと余人は指摘したくなってしまう。無駄なんだから、やめろと。


 けれどそれは、詩文君の存在そのものの否定につながりかねない。そう気が付いたから、凛菜もどうせ案内したところで明日には忘れてしまうんだ、とは口にしなかったのだ。


 多分、凛菜としてはそう考えてしまっただけでも罪だと思い、その贖罪代わりに彼にドリンクを手渡したのだろう。彼女なりの律義さなんだ、と思うと少しだけ笑みがこぼれる。


 たったった、と体育館の中を小走りに駆ける音が近づいてくる。


「おまたせ。結局、見当たらなかったよ」


「そう、残念ね」


 聞こえてきた詩文くんの言葉は期待外れだった。一番落とすとしたら可能性が高いのはここで間違いない。ここ以外はもう彼の今日の授業を追うように探すしかないが、日没というタイムリミットもある。ある程度は的を絞る様に動かねばならない。


「ねぇ、文乃さん」


「……なに?」


「なんだかうれしそうな顔をしているのが不思議で、つい」


 そんな表情をしているつもりはなかったけれど。探し物も謎解きの様なものと考えれば、ゲームのように感じていたのかもしれない。


「気のせいよ」


「そうか」


 なんとなくその表情を肯定するのがこそばゆかったので意味もなく否定してみると、それだけで納得したのか詩文君は小さくうなずいた。


 それに、私たちの本題はそちらではない。


「それで、今更衣室を使ってる人たちにも聞いてみた?」


「ああ、今向こうで練習してる男子バレー部にも聞いてみたけど、やっぱり見かけなかったそうだ」


 今見えている男子バレー部の部員は15人くらい。男子更衣室の大きさが女子のものと同じくらいと考えると、それだけの人数が入れば落ちているモノを見逃すことはないだろうし、体育の授業で彼が手帳を無くした可能性は低いということにもなる。


「……まあ、とにかくこうなったら手当たり次第に行ってみましょうか」


「それはうれしい。うれしいんだけど」


 歩き出そうとする私を、彼の煮え切らない言葉が引き留めた。


「どうしたの?」


「いいや、文乃さんがそこまで僕に協力してくれる理由は何なのか気になって。君が親切心というならそれでいいんだけどさ」


 その通り、と答えようと思ったのだけど、自分の胸に手を当ててみればまあそれは嘘っぱちもいいところである、という答えが返ってきた。


 だって、私は親切心だけではきっとここまで人助けをしない。友達が困っているのなら手助けはするだろうけど、本人が急いでないことにまで一日をかけての助力はきっとしない。


 例え手伝っても手伝わなくても、その記憶は彼の記憶には残らない。だから、この私の行為も無に帰す行為には違いなく、きっと意味はない。


 それでも意義を見出すのなら。


「気まぐれと……不満。そんなところかな」


「……そうか」


「納得した?」


「腑には落ちたよ。君はすごく、君らしい」


 なんだかすごく分からないことを言われた。彼は大いに納得したのだろうけど、私は混迷を極めるばかりだった。




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