4.無くし物
うとうとと意識がどこかへ行きかけそうな頃に、授業終了の鐘の音が聞こえてきた。
「はい、今日はここまで」
時計を見ると、すでに六つ目の授業が終わる時間だった。もしかしたら私、一つ前の授業の体育で体を動かしすぎて眠くなってたのかもしれない。
「日直さん挨拶お願いしますね」
「……起立!」
60近い老女と呼べる域に差し掛かった英語の先生がゆったりと告げると、黒部君がワンテンポくらい遅れてから返事をした。周りを見ると、眠たげな生徒が何人もいる。彼らもまた、体育での疲れを癒していたか、夏の暑さにやられていたかのどちらかだろう。
「礼!」
「はい、一日お疲れさまでした」
とんとん、と教科書を整えてから英語の先生が出ていくと同時、担任がすれ違うように入ってきた。
「今日は暑いからな、さっさとホームルーム終わらせるぞ」
そう告げる声はいかにも気だるげで、表情からも暑さがにじみ出ている。今日の気温は最低気温すら30度を超え、街は巨大な蒸し風呂になっていた。
「まずは最近暑いんでな、きちんと水分を取る様に。言われんでもわかっとるだろうが念のためだ」
私たちも、去年つけられたばかりのクーラーが無ければのぼせ上っていたに違いない。もっとも、クーラーもこんな人がパンパンに詰め込まれた牢獄のような部屋の中では気休め程度にしか役に立っておらず、みんなぱたぱたと教科書やノートをうちわがわりにぱたぱたと扇いでいるけど。
「それと、北村。後で職員室に来るように」
北村、と言うとこのクラスでは佳代しかいない。何をしたのか、と振り返れば彼女は分かっていましたよと言わんばかりに古文の教科書を手にしていた。……多分、古文の小テストがあまりに悪いという自覚があったんだろう。多分職員室に呼ばれたのはその追試だ。
「――よし、連絡は以上」
今日も今日とて、私にとっては大した連絡事項はなかった。もっとも、文化祭や球技大会のようなイベントでも近づいていない限り私たち生徒が気にするような連絡なんてありはしないのだけど。
「じゃあ日直、号令」
「きりぃつ!」
黒部くんが声を張り上げると、周りの子もくすくすと笑いながら立ち上がる。
「れぇい!」
ただ、笑ってはいても誰もバカにしているということはない。彼が元気なのはもう放課後だから授業から解き放たれる解放感に由来するからだろうし、私も何をしようかな、と考えるくらいには浮かれ気分。
がたがたと机と椅子が後方へと下げられて行きながら、多くのクラスメイトは帰宅、あるいは部活へ行く準備を開始していた。
さぁて、私も帰ろうかな、とカバンを肩にぶら下げたところで、なんだかいつもよりも重いなあ、と気づく。
振り返ると、むすっとした浅香が私のカバンを握りしめながらこちらを見ていた。
「どしたの浅香」
私の問いに、びしり、と浅香は掲示板を指さした。
「今日は文乃ちゃんも掃除当番だよ」
見れば、掃除当番表などというものが黒板に掲示されていて、今日の日付のところに私と浅香の名前がきっちりと書かれていた。
「いやあ、忘れてたわけじゃあないんだけどね?」
「言い訳は聞かないよ。さぁ働いた働いた」
ぱんぱん、と手を叩く浅香に促されて掃除当番である私たちは箒や黒板消しを手にして教室を綺麗にする作業を始めたのだった。
清掃をあらかた終え、残すはゴミ捨てのみ。
燃えるごみ一袋しかないので一人でも捨てに行ける量。ただ、ちょっとばかり集積場は遠く、十分ほどのロスタイムが発生する。その貧乏くじを引く人間を決めるための制度は大概じゃんけんになり、それに負けた人が一人で捨てに行き、他の人はそこでおひらきとなる。まあ、掃除当番は八人いるからゴミ捨てに行く確率も八分の一。ほとんどは負けはしない。
「じゃあ、爪紅さんよろしくー!」
「文乃ちゃん、ごめんね」
しかし、今日は運が悪かった。私はじゃんけんに敗北し、ゴミ袋を捨てにいく係として他の掃除当番に見送られ集積場に向かっていた。
部室棟や体育館とは真逆だから部活をやってる子たちは結構嫌がるけれど、帰宅部の私にとっては裏門へ向かう道からあまり離れないから、実は私にとっては時間的な損はあんまりない。
ただ、厄介なことに裏門からの帰り道にはこの時期はパフェの屋台が存在する。クレープや流行りものなら一人で寄るものでもないしなあ、と遠慮するに至るのだけど、パフェはそうはいかない。なんせ冷たくて甘くておいしいのだ。同様の理由でシャーベット屋さんに屈した記憶があるので私にはわかる。裏門から帰るのは財布の中身とお腹周りを考えると実にリスキーだ。
けれども十五分もかけて正門に戻るのも馬鹿らしい。なんでこの学校はそんな無駄に広いのか、と悪態をつきたくなるほどに遠い距離だ。
「……む」
心を殺してパフェ屋さんを越えよう、と決意したところでうろつく男子生徒が視界に入ってきた。
それは永良詩文だった。
なぜ彼はここにいるのだろう。少なくとも、私と同じ理由と言うことはありえない。だって彼と私は同じクラスで、そしてゴミ捨ての役割は今日は私一人に違いないのだから。
「どうしたの、詩文くん?」
気になったので声をかけてみれば、彼はこちらに気が付いたように一度顔をあげた後、ううむ、と思案するように少しだけうつむいた。
「ちょっとした探し物をしていてね。どこにいったかなあ、と」
「探し物? 財布でも落としたの?」
「いいや、そんな大事なものじゃあなくてただの手帳」
いつもの私なら少しくらいこの辺りを探すのを手伝って終わり、というくらいなのだけど。今日は少しばかり、おせっかいを焼くのも悪くないかな、という気分になった。どうせ放課後忙しいなんてこともないし、暇つぶしには悪くない。
「その手帳、この辺りで落としたの?」
「いいや。この辺りには今日は来ていない。けれど、もしかしたら誰かがゴミとして捨てに来るかもしれない、と思って」
「……さすがに、手帳をごみとして捨てる人はいないと思うけどね」
どのくらいのサイズかも知らないけど、さすがにメモ書きとして利用できるような大きさの手帳を拾ってゴミ箱に放り込む生徒は多分いない。いや、私の知らない所にそういう人はいるかもしれないけれど、最初に疑うべきはそっちじゃあないと思う。
「まずは職員室に行くべきかな。落とし物として拾った人がいるのならあそこに届くだろうし」
誰かが拾った落とし物は最終的に職員室に届くことになっている。以前私も無くしたキーホルダーを探すために行ったことがあるけれど、この学校の生徒はよく物を落とすのか、逆に拾ったものをきちんと届ける人が多いためか、落とし物の棚は詰め込まれるように膨れ上がっていたと記憶している。
「そういうものか。確かに、この学校は人が多いし道端で落としたなら偶然ゴミ箱に入ってしまうよりは拾われた可能性の方が高いかもしれない」
「まあ、確証はないけどね。それで、職員室行ってみれば?」
ううむ、と詩文君は唸るように、困ったような表情で固まってしまった。
「もしかして職員室怖い?」
小学生でもないとそうは思わないだろうけど。当然のように詩文君は首を横に振った。
「いや、そういうことじゃあない。……その、できればでいいんだけど、案内してくれると嬉しい。記憶がないんだ」
そういえば、詩文君は記憶喪失なのだった。普通に話す彼を見ていると、時折その事実を忘れてしまう。
「じゃあ、ついてきて。間違いのないようにきっちり案内してあげるから」
まあ校舎の案内なんて転校生かお客さんでも来ないとすることはない。私は私で新鮮な気分を味わえるし、こういうのもわるくない。
「ううん、その手の落し物は今日は見てないですね」
歴史の先生が申し訳なさそうにそう言うのを聞いて、内心でため息をついた。
「力になれなくて申し訳ない。爪紅さんと永良くんは2‐Bでしたか。もし手帳らしき落し物があれば担任の唐木先生を通じて明日にでも連絡しましょう」
「ご協力ありがとうございます」
そう告げてから、職員室を後にする。
結果として詩文君の探す手帳は職員室でも見つからなかった。彼は今日の朝にその手帳の中身を見た記憶がある、と言っていて、そして今日の間に届けられた落し物はなかったのだ。となれば彼の探し物は落とし物として届けられてなどいなかったことになる。
「ごめんなさい、無駄足を踏ませちゃったね」
そうか、と詩文君はつぶやくだけで残念がる様子すら見えなかった。
「昨日までの出来事を書き記しているから、なくなると少しばかり困るんだけど。――でもまあ、なくなったならそれまでかな」
ふうむ、と困ったそぶりを見せる彼はあまり深刻そうには見えない。けれど、私はその一言でなくした手帳が彼にとっていかに重要か理解した。
司書さん曰く、彼は前日の記憶を手帳にメモすることで次の日の自分に引き継いでいる。
彼にとって、昨日から積み重ねられる記憶は頭の中に存在できない。ならば、昨日を辿る手段はその手帳の中身だけ。それを無くすというのは、どれだけの損失になるのか、私には見当もつかない。
微かに残してきた記録さえ捨ててしまうというのなら、今までの成果も消えてしまう。つまり、生きてきた意味を少なからず失うことになる。
日々によって薄れていくのではなく、不慮の事故で掻き消えてしまう思い出。
それは、とても悲しいことだ。
「……ねぇ。その手帳、もう少しくらい探してみない?」
そう思ってしまったから、こんな言葉が口から漏れ出てしまったし、彼はきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「探してくれるって、文乃さんが?」
ふと、聞き返されてみるとひどく不安になった。
「詩文くんが迷惑でなければ、だけど」
「いいや、迷惑だなんてそんなことあるもんか。ありがとう」
私の不安をはねのけるような感謝の返事。それに添えられたのは、純粋で何の邪念もない笑顔だった。
窓から入り込む太陽が、その笑みをいっそう明るく照らし、輝いてさえ見えた。
「――――」
「どうかした?」
返事をする前に、私は顔をそむけた。
「……何でもない。いきましょう」
そしてわき目も降らずとにかく歩き出した。どうせどれだけ私が早歩きしようが彼をおいていくほどの速度にはなるまい、と力の限り足に力を込めた。
そう。いつもよりも心臓がどくどくとしているのも、熱がこもったように火照っているのも、ちょっと足を速く動かしているせいに違いない。