3.本の言伝
バスケ部の練習があるから、という凛菜と、それを見学するという浅香と別れ、私と佳代は図書室へと向かう。
「しかし、浅香ちゃんは文芸部の方はいいのかねぇ」
佳代が廊下から体育館の方を見下ろしながらつぶやいた。確か県内の文芸コンクールだかなんだかが近かった気がする。文芸部の対外的と言える唯一の活動であり、そこで作品を提出しないと文芸部というのは存在も危ぶまれるような部活であるので、佳代の心配は間違っていないと思う。
「でもほら、そんなのあんなきらきらした目の前では言えないし」
浅香の目はそれこそ、星が光る様に輝いていた。
それを思い出したのか、ああ、と佳代もうなずいた。
「恋する乙女だもんね、あんなの」
浅香の気持ちは分からないけれど、好きな人の姿を近くでお昼休みの間眺めていられるのなら、それはとても良い時間なのだろう、と想像するくらいは私にだってできる。
「さてさて、浅香ちゃんのことはともかく、文乃の恋心も見つけてあげないとね!」
「図書館では静かにしなさいよ」
「分かってるよぅ」
口をとがらせて拗ねたように言う佳代を見て少し申し訳ないかな、という気分になった。
たった一時間の昼休みにまで熱心に勉強したり読書に来ている人間はそういないけれど、マナーはマナー。それを分からない佳代でもないとは思うのだけど、ついつい釘を刺してしまった。これ以上言うのはただの小言である、反省しないと。
くたびれたドアに手をかけて、ガチャリと開く。その奥には、件の男子生徒の姿があった。
「おお、さっそく永良君見つけたねぇ、文乃」
文乃の声はまるでその男子生徒、詩文君にも聞こえるような大声だった。
図書館では静かに、と繰り返さねばならないのか。私の反省を返してほしい。そう思うと同時、目の前からううむ、と唸る声が聞こえてきた。
「……ダメですか」
どうにかならないのか、という調子で彼が話しかけているのは、図書室の司書さん。私も毎日通うほどでもないけれど、彼女のことは印象に残っていた。彼女目当てに通い詰める男子生徒がいないのが不思議なくらいには、綺麗な人なのだ。
「ううん、今日は空いてないからねぇ」
そんな司書さんが難しい顔をしながら詩文君の頼みを跳ねのけている。二人は何の話をしているのだろうか。
「……ナンパ?」
ぼそり、とつぶやかれた佳代の言葉は確かに現状を表現していた。詩文君が司書さんの予定を聞き出そうとしているようにも聞こえなくもない。
ただ、さすがに詩文君のイメージとは似つかわしくない。少なくとも記憶がないくせにそんなぐいぐい行くような人ではない、と記憶している。
「どうしても書庫室は開けられませんか」
「ごめんね、今日は業者さんが入る日だから」
何のことはなかった。単に、彼はこの学校の古い蔵書が収められている書庫室に入りたかっただけらしい。
えー、と残念そうにつぶやく佳代の声とは反対に私は少し安心した。少なくとも私の知っている永良詩文の印象を損なわなかったからだ。
などと思っていると、司書さんと目が合った。
「おっと、詩文君。お客さんが来たからね。そこを避けてくれる?」
ちょいちょい、と司書さんが誘導する指の動きに従って詩文君の体が動く。
私がその隙間に本を差し込むようにするとき、詩文君と目があったような気がする。けれど、彼はやあ、と一言の挨拶すらしなかった。
「……おや。件の本じゃあないか。一日の断絶も私を説得する手間も省けたね、永良君?」
なぜなら、彼の視線は私自体じゃあなく、私の持っていた本に注がれていたからだ。
タイトルは『ロマンは未来の彼方に』。
都内を白馬に乗って闊歩したり貴族同士の決闘なんてものを堂々とやっておきながら現代ものであると言い張る胆力と、まあ現代ものであると言えなくもないかなと納得させられてしまう奇妙な現実感が特に印象に残っている。その相反する奇妙さの調和には一周回って感嘆してしまった。
まあまあ面白かったけれど、その面白さはなんだか人には勧めづらい。そんな一品である。
「……もしかして、詩文くんこれ借りたかったの?」
うん、とうなずいたのは詩文くん本人ではなく、カタカタとタイプ音をさせる司書さんだった。
「貸し出し中でも書庫に予備があるんじゃないか、と彼が訪ねてきて困っていたところだったんだ。さすがに業者さんの点検作業の邪魔をさせるわけにはいかないからさ」
確かここの図書館は年に二回蔵書点検をする決まりがあり、その日は生徒の出入りは禁止になる。
「でも、珍しいですね。確か生徒の自学自習の邪魔にならないように、って理由で去年は休みの日にやっていた気がするんですけど」
「困ったことにね、その辺の担当が今年入ってきた先生だったらしくて、そういう細かい話を知らなかったみたい。私も書庫の点検なら別にいいかな、と思ってたんだけど、悪いタイミングでバッティングしちゃったわけさ」
私も書庫の本を勉学に使う生徒はめったに見たことがない。それに点検だと言えば明日来ればいいか、と大概の人間は思う。明日にはその気持ちを忘れてしまうとわかっている、永良詩文という男子生徒を除けば。
ピピ、と言う音がしたと同時、私のもとに学生証が返ってきた。この学校では本を借りるときは学生証で貸し借りを管理している。十年前からすればハイテクノロジーらしいけど、私にとってはこのちょっとだけ分厚い学生証はちょっと不便に感じる。スマホに入れられるアプリか写真に収められるバーコードで管理してくれれば、財布に余計なものを入れなくて済むのに。
「で、ちょうど借り手の居なくなったこの本をどうするんだい永良君。この場で読んでく? それとも貸し出ししようか?」
ひょいひょい、と司書さんは持ち主の居なくなった『ロマンは未来の彼方に』を振って見せつけてくる。
詩文くんはぜひ、と借りるなり手に取るなりするのだろう、と思っていたのだけど。
「……いいえ。なんとなく納得したので大丈夫です」
とだけ言い残して、難しい顔をしながらすたすたと図書館から去ってしまった。
「……なんだったんだろう」
「さあねぇ。『昨日の彼』が言い残したことでもあったのかもね」
司書さんの言葉は奇妙な言い回しではあったけれど、ああ、と納得するところもあった。
確か詩文君はよくこの図書室を訪れる。自然、この司書さんとも話す機会があったのだろうし、その時に彼の記憶のことも知ることもあったに違いない。そう考えれば、昨日の彼と今日の彼の間の断絶を理解している理由にもなる。
けれど、分からない所もある。
「言い残すってどういう意味ですか」
こんこん、と司書さんは私の借りていた本の背を叩く。
「ほら、彼はどうしても覚えていないといけないことをメモに残しているじゃないか。次の日の自分が思い出せるように。その中にこの本に関わることがあったんだろうさ」
言われてみれば、記憶を忘れてしまう彼にとっては当然と言えば当然のことである。メモえもでなければ、次の日に記憶を引き継げない。
「……でも、その本を借りなくちゃいけない理由って何?」
ぼそりとつぶやかれた佳代の疑問は私も抱いた。彼は『なんとなく納得した』と言っていた。彼が見たのはせいぜいが表紙くらい。
けれど、この本の表紙は渋谷のスクランブル交差点を闊歩する白馬の王子様しか映っていない。何を納得したというのか。
「さあ、そればっかりは聞いてみるしかないんじゃない?」
司書さんの言う通りではあるのだけれど、それを今すぐに行動に移せない理由が一つ存在した。
私と同じものを見ていた佳代が「げ」と女の子らしくもない呻き声を上げた。
「もう五時限目始まるじゃん」
時計の針は十二時と五十分。次の授業が始まるまで十分とない。
「しかも体育だし、急がないとね」
移動時間と着替えも考慮に入れれば時間ギリギリだ。
「じゃ、センセ私ら授業行ってくるね!」
ぶんぶん、と佳代は手を振りながら扉の外に飛び出していく。
「廊下は走っちゃだめだよー」
司書さんの声を背にして、私も佳代の後ろを追うべく教室へ戻る足を踏み出した。