2.鐘の音
登校後、詩文くんは必ず教壇の上にある名簿を確認する。どの席に誰が座っているかを確認することで、顔を知らなくてもできる限り人を覚えようとする努力らしい。
無論それだけでは分からない人もいるだろうけど、メモなんかを見合わせながらある程度はコミュニケーションに困らない程度に人を覚えることはできるんだとか。
彼を遠巻きに見ていると、ドアがガララと開く音がした。そちらから現れたのは、眼鏡をかけた男子生徒。名前は確か、伊岳だったと思う。この学校の生徒会長でもあり、その傍ら学年でも上位の成績を取る人だ。
そんな秀才生徒は詩文くんを見つけると、少し笑みを見せながら近づいて、その背中をとん、と叩いた。
「おはよ、詩文」
「おはよう。伊岳怜雄くん……であってる?」
思い出すような口ぶりで、詩文くんは口を開く。それが正解だったのがうれしかったのか、伊岳君はニッ、と歯を見せて笑った。
「怜雄でいいぜ」
「怜雄、怜雄ね。覚えた覚えた」
お決まりのようなあいさつ。誰に対しても呼び方を教えられるのは変わらないようだ。
「おはよう、文乃!」
ぼうっとしていた私の後ろからも、声がかけられた。
この元気で活発な少女の声には聞き覚えがある。
「おはよう、佳代は今日も元気だね」
「まあね、今日は悪いことはなにもなさそうだから、それはつまりよい一日ってことだもの!」
彼女の言う悪いこと、というのは例えば彼女の苦手な英語があるとか、例えば小テストがあるとか、そう言った学生らしい悩みである。どうせそれがあっても、終わった後には彼女はすぐに元気になるけれど。
……しかし、今日は彼女の言う『悪いこと』があったような気がする。
「お、そういや古文の小テストが今日あるんだけど、詩文に教えてやろうか」
教壇の方から聞こえてきた雑談。おそらくは伊岳が記憶のない詩文に事前情報を教えているのだろう。このクラスの委員長はずいぶんとおせっかいなのである。
なぜなら、私の横で凍り付いてる佳代にも伝わるように言ってくれたんだろうから。
「……ねぇ、文乃」
「なあに?」
振り向いてみれば、今にも涙が出そうな少女が一人。
「古文のテストなんて記憶からすっぽり抜けていました。助けてください」
乞われて拒むほど私も鬼ではないので、カバンの中に半分になってしまわれていたプリントを手渡す。
「はい、出題範囲。これ暗記すれば何とかなると思うよ」
ありがとう、あやのさまー! などという声が遠ざかりながら聞こえてきた。
私は古文得意だし、出題範囲はすぐに覚えた。ただまあ、古文が一時限目であることと、数分では整理しきれないであろう範囲であることを鑑みるに、彼女の得点は悲惨なものに違いない。
まあ、今更私にできることはない。せいぜい、今日のテストで赤点にならないことを後ろから願うばかりである。
なんて軽く心の内で祈りを捧げていると、背中をとんとんと叩かれた。振り向けば、クラスメイトの凛菜が元気そうに笑っていた。
「おはよ、文乃」
「おはよう、凛菜」
彼女に続いてクラスメイトが教室に入ってくる。凛菜は確かバスケ部だったし、彼女たちの朝練がちょうど終わったのかもしれない。人が増えると当然のように、教室が騒がしくなってきた。
「ねぇ聞いてよー、実はさ――――」
「よし、席につけ」
何でもないおしゃべりをしていると、がらがら、と扉を開きながら担任が入ってきた。黒板の上につけられた時計を見ると、八時二十九分。教室でおしゃべりをしていた生徒たちはいつの間にかそそくさと席に戻っていた。
「ホームルームを始めるぞー」
担任の言葉と共に一日の始まりを告げる鐘がなった。
「時間だな。挨拶よろしく」
先生が視線を向けた先には今日の日直。それは飛び切り声が大きい黒部くんだった。
「うっす、きりーつ!」
良く通る声で、一日は始まりを告げた。
学生の日中は長い。なんせ、興味もない授業を聞かされているからだ。それも延々と。
特に、興味がない科目なんて集中も持続しない。我が二年二組は文系の生徒が多いせいか、理系の時間なんて特にひどい。一人は教師にばれないように居眠りをしている。一人は教科書の下で古文と思しき教科書を広げている。他の科目の自習だって、うまく隠している人間も含めれば十人くらいはいてもおかしくないかもしれない。
自称進学校、という何とも言えない風聞が我らが学校の立ち位置をこれ以上なく表現していた。そも、学校よりも塾や家庭教師の下で勉強をしている人間ばかりであるから、半周どころか一周半くらい出遅れている学校の授業を真面目に聞く人間はそう多くない。
ただ、その中で唯一。どんな授業であれ、永良詩文は興味深げに聞いている。
彼は昨日の記憶がない。その前も、そのさらに前も。だから、今日受けている授業は今日だけのもの。ゆえに、新鮮なんだろう。
それをうらやましいと思う気持ちもある。
けれど、同時にそれは賽の河原。積み上げても積み上げても彼の学習は崩れ去る。それはとてもむなしいことで、つらいことではないか。そう思ったこともあった。
長い長い四つの授業を越えて昼休みになった。この時間は校舎内が最も騒がしい時間だ。デシベル換算でも数倍となっているに違いない。
ある生徒は昼飯などすでに食い終わっておるわ、と言わんばかりに校庭にボール片手に飛び出す。確か彼は三限目と四限目の間に昼食を食べていた気がする。それにしても、昼休みの鐘と同時に飛び出すなんて小学生張りの元気の良さである。期末試験も近いんだけど大丈夫かな。
ある生徒は食事の片手間に英語の単語帳を開いている。彼女はいつもああなのだけど、どこを目指しているのだろう。間違っても地元の公立大学なんかじゃなくて、東京かどこかの誰もが憧れる大きな大学を目指しているんだろう。
ある生徒は、数人の友達と共に机を寄せて共に昼食を食べる。私もその一人である。
いくつもの机が一つのテーブルとして合体したところで、各自が持ってきた弁当を机に置く。
いただきます、だけそろえて、あとは今日の授業の愚痴を中心に会話が進む。大概、面白くもない授業を淡々と進めるだけの生物教師か、ランダムな法則でこちらを指名してくる数学教師のどちらかの悪口が多い。前者は眠くなるのにテストが難しいし、後者は分かりません、と答えると黒板の前でその数式を解かされるのだ。
後者に関しては私たちが勉強不足なのが悪いとはうっすら気づいている。でも愚痴は言いたいので言う。完全に憂さ晴らしである。でも数学が難しいのが悪いとも思う。数学そのものに簡単になってもらえないだろうか。
なんて言ってみたところで授業は優しくならず、学生の身分たる我々の向上心も微々たるもの。故に、この愚痴は入学当初から輪廻のように繰り返されている。
「――いや、こういうひせいさんてきなはなしはよくないのではないか」
私の隣の佳代はさっきまでその非生産的な愚痴にノリノリだったくせに、食べ終わったお弁当を綺麗にしまい込むと、急に真面目そうな顔をしてそんなことを言った。
確かに愚痴なんて言うものが生産的だったためしはきっとない。
「でも、非生産的というけど、だったら生産的な話ってなにさ」
私が聞くと、佳代はぐるりとクラスを見回してから、再度私に向き直ってこう言った。
「恋バナ」
それを聞いて、私もクラスを見回した。普段からうるさい男子たちはクラスから消えていた。外の様子を見るに、サッカーでもしに行ったらしい。あまり活動的ではない人たちや女子も姿を消していたけれど、ここのところ梅雨で外に出られなかったから、彼らもうっぷんがたまっていたのかもしれない。
なんであれ、このクラスにいるのは私たち四人だけになる。
「邪魔者はいないし、聞くのは私ら女子だけ。となれば舞台は整った。そう言いたいわけだ」
私の正面に座る、バスケ部の凛菜は好戦的な表情で笑いながらそう言った。……私の記憶の限りだと、恋バナに戦いの要素はなかったと思う。
「その通り! さあ、ぱっきりぽっきり話してもらおうじゃないの!」
多分、根掘り葉掘りと佳代は言いたいのだろう。それでもちょっと意味は通らないけど。
「でもでも、私はそういう話をするなら、まずは言い出しっぺが自分の話をすべきだと思うの」
斜め向かいの文芸部の浅香が、おっとりとした調子でつぶやくと、私と凛菜はうんうん、とうなずいた。
恋バナに戦いの要素はない。ただ、相手からどれだけの情報を引き出せるか、という点においては駆け引きの要素はあるのだ。
『私、今は好きな人いませーん』、なんて切り出しだった恋バナはせいぜいが好きなアイドルくらいの話にしか発展しない。誰しも、自分の秘めた思いを代償なしには話したがらない。
だからこそ、言い出しっぺである佳代がどれだけの様子見をしてくるのか、というのが今回の焦点になる。
「ふふ、聞いちゃう? この佳代ちゃんの恋バナ聞いちゃう?」
にやにやと、さも聞いてほしそうに頬を緩ませる佳代を見て私は思い違いを察した。この子はそんな遠回しな駆け引きにみじんも興味なかった。単に自分の恋路を聞いてほしかっただけのようだ。
私はあきれるばかりだったけれど、凛菜は興味があるようでほほう、と食いついた。
「なんだなんだ、そんなに佳代はいい相手を見つけたのか?」
「うん。サッカー部の副キャプテンなんだけどさ」
ああ、と三つの声が感嘆のような、消沈のような声で唱和した。
「かわいそうに」
「なにをー!」
ぼそりとつぶやかれた凛菜の声に、佳代は噛みつかんと言わんばかりに声を荒げる。
「どうしてそこまで憐れむのさー!」
「サッカー部の副キャプテンって鈴木でしょう?」
うむ、とうなずく佳代に、だろうねぇ、と凛菜はうなずきながら口を開く。
「あいつ、彼女いるよ」
「……え? だれ?」
「マネージャーのハスちゃん」
ぴきり。凍り付くように、佳代の動きは数秒停止した。
「ああ、そういえば昨日も一緒に帰ってるとこみたよ」
私の追撃がとどめになったか、失恋女は机に突っ伏した。
「……大丈夫?」
「憐れめよ。存分に憐れんでくれ、愚かな私をー!」
浅香の慰めも聞かぬと言わんばかりに、おんおんとわき目もはばからずに佳代は騒ぎ出した。多分泣いてはいないんだろうけど、大声を出したい気分ではあるに違いない。なんせただの道化である。まあ、この子は恋多き乙女で、いつもこの調子なので、なにも慰める気にもならなかった。
「……ダメになった佳代は放っておいて、凛菜こそ好きな相手はいないの?」
おずおずと、伺うように、浅香は凛菜へと話題を転換する。
「ダメになったはひどいな。しかし、私は私でそんなになあ」
「いないの、好きな人?」
「まあな」
「じゃあ好きなタイプは?」
「そのくらいは答えるのが義理か。意志の強い人は好きかな。それと、頼りになる人も」
ふうん、と興味のない素振りで返事をしながら、浅香はピンク色の背表紙の手帳にさらさらと何かを書き連ねている。
「まあ私の好みはどうあれ、女子バスケ部に男はそう寄り付かないし、出会いがないのさ」
そうあっけらかんと言う凛菜だけれど、彼女のバスケの時の動きは実に躍動的で、羽が生えたように飛ぶようなその挙動は時折見ただけでも、コートの中で一番と言ってもいいくらい輝いていた。きっとそれを見せるだけで何人のもの人を惚れさせるに至ると思う。
「そういうものかなあ」
「そういうもの。ま、見惚れるような相手は近くにいないし、魅力がないから言い寄られることもないから惚れたなんだは縁遠いんだよねぇ」
「ううん。凛菜ちゃんに魅力がないなんてことは絶対にない」
浅香は力強く首を振り凛菜の言葉を否定した。
「……そうか?」
「うん、凛菜ちゃんはとっても魅力的だよ。私は知ってるよ!」
「そうかあ、浅香にそう言ってもらえると嬉しいなあ」
ほわほわとした雰囲気が、二人の間に漂っているような気がする。
「……むむ。私と言えども、さすがに切り込めないなあ」
佳代は複雑な表情で、情の芽生えた暗殺者のようなことをつぶやいた。おそらく、凛菜に熱烈な視線を送っている浅香を見てのことだろう。
彼女たちは中学時代から仲が良かった、と話は聞いたけれどそれは誰が見ても友人止まり。けれど、浅香が送る熱い想いはそこに留まる類のものではないだろう。
「ま、私たちが口を出す問題でもないし」
「そうだね。ただ祈るのみだよ」
通ぶって私と佳代はうんうんとうなずきながら二人を見守る。自分が好かれているとも思っていない凛菜を振り向かせるのは並大抵ではないだろうが、私たちにできるのは祈ることと見守ることだけだ。
「しかし、そうなると後は文乃なんだけど」
「……私? 何もないよ、私も」
それこそ、バスケ部に所属している凛菜以上に出会いも無ければ相手もいない。
「またまた、彼がいるでしょうに」
ニヨニヨと笑いかける佳代は実に不細工だ。いや、ちょっとばかり顔が崩れているといった方が正確か。
しかし、彼と言われてもピンとは来ない。
「私も気になるなあ、文乃ちゃんの話」
声の方を見れば、浅香もこちらの話が気になる、と身を乗り出してきていた。
「そうだな。あいつとどうなってるのか、ってのは私でも話を聞いたし」
凛菜まで『彼』とやらは自明であるかのように私に問いかけてくる。
「誰の事?」
「そりゃあ、永良くんでしょう。毎日のように同じ通学路でくるんだから、少しくらいは進展があったんじゃあないかって誰もが思うよ」
「……なるほど」
誰の名前を言われても驚くつもりだったのだけど、つい納得してしまった。確かに毎日のように学校に共に来るし、今日だって何でもないことを話しながらたった十五分だけではあるけれど一緒に登校してきた。積み重ねれば少しくらいは恋心も目覚める、ということはあるかもしれない。
でも。
「でも、無理でしょ。だって……彼には昨日までの記憶がないもの」
彼にはその積み重ねはない。少なくない『知識』の積み重ねはあるらしいし、『経験』も少なくない程度は蓄積があるらしい。されど。決定的に、『記憶』だけは積み重ねられない。
「でもさ、でもさ。彼には無くたって文乃にはあるわけでしょう」
「……私に?」
「そう。永良くんは忘れちゃってもさ、文乃は覚えてられるんだし、それがあるからこそ仲良くしてるわけじゃない?」
「まあ、記憶がなくなっても彼が彼じゃなくなるわけじゃあないけど」
昨日までの記憶がなくなるだけで、永良詩文という男の子は永良詩文であることに変わりない。
「なら、文乃なりに思うところはあるはずでしょ。さあ、言ってみようそうしよう!」
「言ってみよう、って言われてもなあ」
「ならクエスチョン! 永良くんのことは好き?」
「……さあ、分かんない」
「違うって言わない辺り好きなんだよ、多分」
好きかと言われて答えを出せるほど彼を知らないだけかな、と思うんだけど。
「じゃあ、聞き方を変えよう。永良くんの一番いいと思うところは?」
良いところ、と言えばいくらかは思いつく。外観だけでも、すらりとした後ろ姿、楽しそうにうんちくを語る横顔とか。それなりに整っている彼の顔はほめようとすればいくらでも褒められるだろう。
ただ、それが一番かと言えば、首をかしげてしまう。
「………………ごめん、分からない」
だから、不明としか私には言えなかった。
「悩んだね。思いつかないんじゃあなくて、多すぎて答えられないと見た」
「好きに言えばいいけど、結局私は何も出せないよ」
少なくとも私にとって彼は少しばかり変わったクラスメイトで、少しだけその境遇をうらやんだり憐れんだりすることはあっても、それより先の感情を抱くことはなかった。
だって、仮に私が詩文くんのことを好きだったとして。それは明日には忘れられているのだから、あまりにも意味がない。
「……つまんないなあ」
惜しげもなく不満げな表情を前面に押し出す佳代の表情は先ほどと比べればいくらかかわいらしい。
すこしくらいは申し訳ないかな、という気分にならないでもなかった。
「ま、浮いた話があれば佳代に話してあげるよ」
少しくらいのリップサービスをすると、佳代の表情は輝かんばかりのものになった。
「ホント? 待ってる!」
楽しそうに私の恋バナに興味をひかれるその顔からは、先ほどの失恋の悲しみはポロリとどこかに転がっていったらしい。そうは言っても、すぐに発展する話なんてあるはずもない。なんせ、件の彼がどこにいるかすら今の私には分からないのだし。
「……そういえば、永良の奴は図書館にいるって聞いたな」
情報を差し出してきたのは、興味なさげに聞き流していた凛菜。
確かにあまり体を動かさない彼がどこにいるのかは少し気になっていたし、図書館にいると言うならなんとなく納得した。
しかし、要らないことを言ってくれた。
「いよぅし、れっつごー!」
きらきらと輝く佳代に手を引かれては、私もいかないとは言えなかった。
「……まあ返却する本もあるし、別にいいけどさ」
カバンの中にしまっていた、今日の放課後にでも返そうと思っていた本を取り出してから、佳代に引かれるままに立ち上がった。