9.瞬間を生きる
私にとって、夏の夕暮れは特別だ。
普段はすでに帰途についていて、夕暮れが照らす情景なんて感傷にふけって見ることはない。
だから今日は特別なんだろう。
そっと緩やかな風が撫でる奥に。
夕陽が照らす、横顔が見えたのだから。
「……ごめんね、まった?」
私が声をかけると、木々を眺めていた彼はこちらを振り返った。
「いいや、全く」
見上げた顔はやはり、輝いて見えた。
太陽の光も月明りもないのに、どうしても輝いて、まぶしくて、なのに目が離せない。
さっきは思ったのだ。ほれ込んだ人から見れば、その人は輝いて見えるのだろう、と。
そして、私の目の前の人はとても、輝いて見える。
私はきっと、恋をしている。
誰よりもこの恋心を忘れてしまうであろう目の前の人に、たった一日しか保てない恋を。
「それで、僕を呼び出したってことはこの時間まで探してくれてたってことだよね」
「別に、成り行きだったし、私が勝手にやったことだよ」
「それでも、探してくれてたのには変わりないんだろう。ありがとう」
そもそも、私がこの手帳を探し始めた動機は君に礼を言われるなんてことじゃあない。また、明日も君に会いたいというだけだったんだから。
「別に、お礼なんていらないけどさ、それでも感謝の気持ちがあるなら聞いてほしいことがあるんだ」
けれど今は。ほんのちょっとだけ、背中を押された言葉がある。
「ああ。聞くだけでいいなら」
「ちゃんと返事もしてよ?」
「分かってる。そんな真剣な顔をされたら僕だってふざけたりはしない」
おどけた調子で釘を刺したつもりだったのだけど、どうも私の方が気合を入れすぎていたらしい。
一度口を小さく開けて深呼吸する。
肌を撫でる風の音よりも、鼓動の音がより響く。
「じゃあ、私の告白を聞いて」
それを打ち消すように、声を張る。決して明日に続かない告白を伝えるために。
代わりに、詩文くんの表情は直視できなかった。
「私、詩文くんのことが好き」
分かりきった結末に目を伏せてしまった。
「自覚したのは今日だったけど。間違いなく、君のことが好きになっていました」
私のことを何とも思っていない人に、私のことを好きになってもらうのは不可能だろうから。
「昨日までの君も、毎日のように記憶を失っても変わらないその姿に。憧れ以上に好意を抱いていました」
それでも、言葉を絞り出す。
「――もしも、私の言葉に応えてくれるなら」
最後の言葉だけは彼の瞳を見つめながら。
「私のことを好きと言ってくれますか」
ただ、詩文くんの瞳は見ただけで、返事がわかってしまうほどに。
「……ごめん。僕はそれにうなずけない」
答えは頑なに、分かりきっていた、否だった。つよく握りしめた手の痛みで、自分がとても悔しがっていることを自覚した。
分かりきっていた。なにも引っかかるものが何もないんだから。
それでも、その理由を聞かないと。
「もし、聞けるなら、詩文くんが答えてくれるならでいいんだけど」
「ああ」
「私の告白にうなずけない理由、聞かせてくれないかな」
うん。とうなずいた彼の表情は決して笑顔ではなく、ぼんやりと夕暮れを見る瞳はどこか悲しげだった。
「時間はあるかい。短く答えてもいいけれど、僕なりに君に伝えられる限りのことを伝えるのが礼儀だと思うんだ」
私もうなずく。それを聞くことは、私にとってのこの想いを伝えてしまったことに対する義務だと思うから。
「文乃さんは自分が何日前から自分だったと思う?」
漠然としていて、それでいて人間性というものに根本的に触れる問いだ、と思った。
その突然すぎる問いに、普通の人なら困惑が先に来るだろう。けれど、私はそう驚くこともなく落ち着いて返答できた。
私もまた、似たようなことは時折考えるから。
「生まれた時かな。考え方が変わっても、それまでを含めて自分だと思えるから」
だろうね、と詩文くんは小さくうなずいた。
「なんとなくそんな答えを返してくれると思ってた。文乃さんは芯がしっかりしているからね。それはとても素晴らしいことで、とても敬うべきことで、――そして、とてもうらやましい」
永良詩文という人間にとって、過去の自分という存在が至上の命題であることは私にもわかることだった。
彼は昨日の記憶がない。そして、明日に自分の記憶を引き継げない。
「僕はね。三年前までのことしか記憶を思い出せない。代わりに、誰かは僕のことを覚えていてくれる――その不一致が、僕自身を僕ではないものとして認識せざるを得ない」
淡々と話す彼の表情は逆光のせいか、よく読み取れなかった。ただ、抑揚のない声の調子から楽しげに話しているとはことはないだろう。
「……誰かが覚えていることが、君にとっては矛盾なんだね」
もし否定してくれれば彼の言葉は今までの積み重ねが無駄にはならないという意味にもとれないか、とも思った。けれど、彼は私の言葉を肯定するようにゆっくりと首を縦に振った。
「本当は誰かに覚えていてもらえるのはとても良いことなんだけど、僕はそのせいでこの三年間も間違いなく生きてきたと実感できてしまう」
それは、決定的な矛盾だ。記憶はないのに、実感はある。
「そのせいで僕は今まで生きてきたどの僕にもなれなかった。記憶がないから昨日までの僕にはなれない。実感があるから三年前の僕ではいられない」
そのどちらでもない彼はと言えば、今日の彼になるしかなかった。実感と記憶の矛盾した新しい永良詩文に。
「もしも生まれた時から自分であり続けるというのなら、僕は今日生まれ直していると言ってもいい。毎日のように、昨日までの永良詩文は死に、今日だけの永良詩文が生まれる」
私にも、以前までの自分と違うと感じる瞬間は少なからずある。人間は変化する生き物で、決して過去と同じ答えを出し続けられない。
ただ、それは私なりの成長であり、過程を経てのことだ。そしてその過程を私は確かにたどって来た記憶が存在する。
「少しでも明日以降に記録だけでも残そうと思ってメモなんて残しているけれど、そんなものを見て明日の僕は今までの出来事をすべて思い出せるわけがない。この手帳も、明日の僕に残すためのものじゃなくて今日の僕が悔いを残さないためのものなんだ」
けれど。彼にはない。彼の中には今日の記憶だけがあり、それ以前は紙の中の記録。彼の記憶はいつまでも私の知らない時間で止まり続けていて、そして周囲の時間だけ進んでいくからこそより彼は世界との断絶をより確かにしてしまう。
「だから、だめなんだ」
あきらめたようにつぶやく彼の言葉は悔しさがにじみ出ていた。
「文乃さんが好きになった僕は昨日までの僕だろう。それはもうすでにこの世にはいない」
悔恨が抑えきれないような彼の表情。それがどうも、ひどく新鮮な表情だった。
「仮にそれが今日の僕だったとしても、明日にはいない。今日で死ぬ僕と明日も生きる君とは同じ世界に居られない」
彼は断絶を語る。決して彼と私は重ならないと。
けれど、彼が語れば語るほど。
「だから僕は文乃さんの告白に応えることはできない」
「違う」
それは違うと私の心が言う。
「それは私の告白の答えなんかになってない」
私が聞いたのは、私のことを好きになってくれるかどうか。
「そして、例え今の詩文くんが明日に消えるとしても、私は今まで積み重ねた詩文くんを知っている」
私はその答えを今までの彼の記録からも読み取れなかった。もしかしたら、今までの彼は私のことを何とも思っていなかったのかもしれない。
「もちろん、今日の君だって知ってる」
それでも、今告白したのは目の前にいる彼。
「だから、聞かせてほしい。今日の君が私のことを好きになってくれるかどうか」
彼は目を伏せる。悲し気に。あるいは、分かっていた返答で、そして拒絶の言葉を明確に伝えたくないためか。
「明日の僕は別人だし、昨日までの僕もまた僕は忘れるんだ。文乃さんの顔も名前も、文乃さんに抱いてきた感情だって。そのすべてを忘れるんだから、意味がない」
――それは違う。意味がないなんてことだけは、決してない。
彼の語る言葉を否定する必要が、今の私には明確に生まれた。
「なら、明日の詩文くんも好きになる」
これは、告白の続きだ。
「昨日までの詩文くんも好きだったもの」
「全部違う人間だよ。昨日までの僕は同じ顔と記録を持っていても、記憶が違う時点で明確な別人だ。毎日別の僕に成り代わっていたに過ぎないんだ」
否定なんてさせない。私の想いを受け入れてくれないとしても、私の想いそのものだけは否定させない。
「だから、昨日までの詩文くんが全部好きって言ったのよ」
「――なんだそれ」
恋多き女、と佳代のことを笑えない。私は毎日恋をしていたことになるんだから。
「私ね、毎日別人の詩文くん全員が好きだったの。そうでないと説明できないでしょ、今日までの詩文くんが好きだなんて」
「――――」
絶句、という言葉これほど似あう彼を初めて見た。三か月見てきたけど、今日はどうも新鮮な詩文くんをよく見る。そして、そのどれも愛おしいとさえ感じる。
「そして、詩文くんがどれだけ忘れても、私は忘れない。毎日のように消える君を私がずっと忘れないから。意味がないなんて言わせないから」
だから、聞かせてほしい。
「今日の詩文くんは、私のことを好きと言ってくれますか」
最初の告白と変わらない言葉。
けれど、それを受け取る詩文くんの表情は違い、憂いだとか、悲哀だとか、そういったものが剥がれ落ちていた。
「――そうか。昨日までの僕も、そして今日の僕も忘れないと言ってくれるんだね」
「もちろん」
「じゃあ、僕が何を言っても傷つく覚悟はできている?」
消え入るような声で、それでも彼の言葉は私の耳に一言一句たがわず聞き取ることができた。
「ええ」
「嘘をつくことはきっとできないと思うから、僕の思ったことをそのまま言わせてもらうよ」
彼の瞳はまっすぐに、私を貫いて。
そっと。少しだけ、心の内でどんな鋭い刃が飛んでくるのかと身構えた。
「一目ぼれだった」
「――え?」
「僕も文乃さんのことが好きだったってこと」
彼もまた、私のことを好いていたと。口にしてくれた。
それを自覚して、心が熱くなった。それはもう、マグマのように。
構えていた心も解け行くような熱さだった。
「初めて見た時に、確信があったんだ。君のことが好きだったと」
淡々と語る彼の表情も赤い。照りつく夕陽の影響も、もしかしたらあるかもしれないけれど。
「今の告白もとてもうれしかった。明日を忘れる僕を、それでも受け入れてくれるなんて思わなかったから」
赤裸々に彼は語る。その声を少しずつ震わせながら。
「とてもうれしいけど、とても悲しいな。今日でこの気持ちを忘れるしかできないなんて」
彼は忘却する。
決して、彼の中にだけは今日の記憶は残らない。
連続性を失っている彼。今日の彼に、二度と出会うことはない。
「ありがとう。僕のことを好きになってくれて。そして、僕に君のことを好きだという機会をくれて。本当に感謝しかない」
明日からもきっと彼を好きになる。
そして、今日の詩文くんに好きだと言わせたのだから、きっと明日からの彼にも好きだと言わせられるだろう。
「明日もきっとあなたに一目ぼれさせてあげる」
そう思っても、なぜだか視界はにじむ。
――だって、私の初めての告白を受け入れてくれた彼は今日消える。
「――うん。約束だ」
始まりからわかっていたことだ。
決してこの告白は明日に続かない。
それでも、どうしても、別れが惜しくて、その体を抱きしめた。
「だから、今日のあなたとはお別れね」
どちらともなく、口づけを交わした。
恋と愛の違いなんて私にわかるほど経験もない。
ただ、恋はいずれ愛に変化するという。
なら、私の恋はいずれ愛に代わり。
彼の心はずっと恋に残るのだろう。
この先私たちは交わらない。
それでもこの一度だけ、私たちは互いに恋をできた。
一時ばかりではあるけれど。私たちは重なり合うことができた。
それはとても喜ばしいことだ。
――だから。たとえ明日になって私の名前すらも忘れられているとしても、私は悲しむ姿を彼に見せてはいけない。
今日を知る私が、今日を知らない明日の彼を悲しませるわけにはいかない。
だから、悲しみを持ち込まないために。
少しだけ、涙を流そうと思う。
ああ。この世界の誰もに連続性があればよかったのに。




