1.この世界に連続性なんてなかったらよかったのに
世界は西から東へ、過去から未来へ、常につながっている。
そんなつながりは、常に先を予見する一助となってしまう。
当然不確かなことだってたくさんあるけど、わかってしまうことの方が多い。
天気の予報、なんてのは人工衛星だとか、過去のデータだとかを組み合わせてずいぶんと正確になったらしい。もっとも、天気なんかわかっても私の生活はそう変わらない。友達との約束が隣町の映画館から近場のカラオケに変わるくらい。
車の渋滞情報もAIの予測で事前に予想がつくようになった。渋滞と分かっても、私の乗るバスは一本道で避けてはくれないけれど。
目下のところ、少子高齢化による経済の先行き不安定というやつも気になる。……実情はよくわかってないけど、十年後だか二十年後だか。そのくらいのころは、今よりも悪くなってるんだろう、ということはうっすら感じている。しかし、それに対する具体的な対策なんてきっと誰も取っていないだろうし、取ることもできないだろう。少なくとも、私の知る限りで少子高齢化が改善した、なんて事例は聞かないし。
つまり、未来なんてわかったところで、それが大きなものであるのなら、避ける手段なんてのを用意するのは困難だ。
こんな意味もなくて、ただただ不幸な未来が訪れる確信を得てしまうくらいなら。見たくもない先を予見できてしまうのなら。そんな未来を予見するために費やされてきた過去というのは、ことごとくを忘れ去ってしまう方が人間は幸せなのかもしれない。そうすれば、毎日が新鮮で、幸福な時間は幸福を味わい、不幸な時間はただ耐えしのぐだけでいいんだから。
こんなこと、考えても仕方がない、と今までなら思っていた。考えるだけ無意味だし、考えたところで得をしない。思考が袋小路に行き当たったあたりで何の成果もなく考えるシナプスは途切れて終わり。
ただし、今年の春は少し違った。
そんな夢見がちな思考を実際に行えてしまう人間に一人、出会うことができたからだ。
いつも通りの朝。
バスを降りて通学路を歩く。
三つ目の角を曲がるあたりで、いつも通りの顔に出会う。
「おはよう」
私が声をかけると、少年はこちらを振り返った。
そのまま彼は数秒停止する。挨拶も返せないのか、と誰かは言うかもしれない。
本人曰く、朝が弱いせいもあるらしい。ただ、それ以上に彼には言葉もうつろになる大きな事情がある。
「おはようございます。……ええと、申し訳ないんですけど」
「知ってる。覚えてないんでしょう、永良詩文くん」
私の目の前にいる永良詩文は、記憶喪失だ。
正確には、一過型前向性健忘症と言う聞きなれない病名だった。いつの日からか、昨日のことを覚えられなくなったらしい。少なくとも、今年の春に私の学校に彼が転校してきた時には、すでにそうだった。
朝起きた時に昨日の記憶がリセットされる。そして、いつ治るかもわからない。いずれ医学が進歩するとか、大きな刺激を与えればとか、色々治療法は考えられているらしいけれど、そのどれも上手くいったためしはなかったそう。
「私は爪紅文乃。文乃でいいよ」
だから私は、今日も彼に自己紹介をする。
「ええと、文乃さん……は僕の友達?」
「詩文くんと私は同級生。だから堅苦しい言葉遣いはナシ」
「わかり……分かった」
「よろしい」
こんな朝の会話もいつも通り。
ただ、私にとっては毎日のことでも、彼にとっては初めてのこと。
彼にとって、過去と現在に連続性はなく、今この時だけが彼の人生なのだ。
「……急に友達が増える、っていうのは奇妙なもんだね。ああ、文乃さんからすれば何も変わらないのかな」
その愉快そうな表情は、飽きも不安もなさそうで、うらやましい。
詩文くんと出会った交差点から、学校までは歩いて15分ほど。
今日の記憶が目覚めたばかりの彼と話す時間も、やはり15分。
「不確定性原理っていうのを知ってるかい?」
その15分は、いつも彼の語りだしから始まる。
「いいえ、初めて聞いたくらい」
「簡単に言えば、量子論の世界では位置と運動量が同時には観測できないという理論なんだ」
彼は記憶を失っているくせに、毎日の15分でいつも違うことを話している。
曰く、昨日までに話したこと、起きた出来事はすべてメモをしていて、朝起きてから一時間かけてそれを確認する、と以前の彼が語っていた。
「そのなんたら原理がどうしたの?」
「今日の朝それについて少し調べていたんだけど、急に画期的な突破方法を思いついたんだ」
「私に理解できるかわかんないけどさ、言ってごらんよ」
その内容は突拍子もなかったりするけど、それなりにバラエティに富んでるので毎朝聞いていて飽きることはない。
「言ってみれば、それは測定誤差ってやつが原因なんだ。ほら、野球のスピードガンってあるだろう。電磁波をボールに当てて、その反射の速度で早さを割り出すやつ。あれは電子レベルの小さな物体でやるとその光の衝突が電子に力を与えてしまうらしいんだ」
妙に雑学というか、うんちくのようなものもよく知っている。曰く、思い出ではなく知識による記憶は思い出せるところもあるらしい。彼自身もその境目は分かっていないようなのだけど、少なくとも学校の授業内容で困ることはあまりないんだとか。
ただ、明確に言えることはただ一つ。誰かの顔や性格を覚えたまま、朝を迎えたことはこの一年以上ないらしい。人間を記憶できず、それに結び付く知識も蓄積できない。だから、彼の話題は科学にまつわる雑学が多かった気がする。
正直なところ、彼の言ってることは半分も理解できていなかったりもするけど。
「その解決方法は分かった?」
なので、あいまいな返事になってしまうのは仕方ないと思う。それでも永良詩文の語りは止まらないし。
「測定しないで位置を割り出せばいいんだ」
「……矛盾してない?」
「簡単に言うと、三つの箱のどれかに球が入っているとする。そのうちの二つに入っていないことを明らかにすれば、残り一つに入っていることは見なくたって確定する。これを電子レベルでくり返せば、光の反射なんて使わなくても位置を完全に把握できるってわけさ」
得意げに詩文は語る。
以前にも流体力学がどうとか、ピカソの名前の由来とか、そんなことを話していたときも楽しげに語るな、と感じていた。
「詩文先生のご高説で少し気になったんだけど」
「なにかね」
妙に偉そうだ。調子に乗った時に鼻が伸びる、なんて機能が人間にあればその高さは天を衝くであろう。なんとなく、その鼻っ柱をおりたくなった。
「何とか原理っていうのは位置と運動を同時には分からない、ってやつでしょ」
「運動じゃなくて運動量だよ」
確か物理の授業で先生が長々と語っていた記憶も無いでもない。確か、運動量保存の法則だっけ。
そんな大層な法則も私にとってはただの暗記する公式の一つでしかなくて、それ自体の意味はともかく、その先の使い道なんてことには興味すら沸いていなかった。
ただ、今だけはほんの少しだけ武器にする方法を思いついていた。
「どっちでもいいけど、最後の一つのカップにボールが入ってるのはいいとして、そこからどうやってそのボールの動きを見極めるの?」
場所は分かっても動きは分からない。その二つがない限り、運動量保存の法則は適用できないのだ。それでは、詩文の言う結論はたどり着かないでしょう、というのが私の反論だった。
私の疑問に対してふー、と大きく詩文はため息。
「明日の僕が考えるよ」
そう言うと、取り出したメモ帳に大きく一本の横線を入れて、すぐにしまい込んだ。
高く伸びた幻の鼻はぽきりと折られた。
私の疑問はおそらく、明日の彼には忘れ去られていることだろう。
都合の悪いこともまたすっぱりと忘れられる。そんなところも、実にうらやましい。
校門前。何人かの生徒が声を張り上げながら校門を通り抜けようとする生徒を足止めしていた。
「……なにあれ?」
つぶやいた詩文くんの声は困惑に満ちていた。昨日の記憶がない彼はともかく、私にも記憶のない運動だった。顔を見れば、生徒会の面々。
彼らにたすき掛けられた文字には、『風紀向上キャンペーン』と書かれていた。
ほんの少しばかりお洒落に気を遣っている程度の私と、模範生徒みたいな出で立ちの詩文。
「私たちには関係ないことよ」
そのまま呼びかけを行う生徒の横を通り過ぎようとすると、黒い影がその進行を遮ってきた。
「へいらっしゃい!」
縁日か、という突っ込みが頭をよぎった。
声をかけてきた少年は、頭に鉢巻を、上着に真っ青なはっぴを羽織り、暑い暑いと言わんばかりにポロシャツの半そでをさらに高くまで捲りノースリーブのようにしていた。
「……漁師?」
詩文くんのつぶやきも近しいところがあるかもしれない。網か釣り竿でも持っていればりっぱな海の男に見える。
少なくとも、学校の校門前に生徒の面をしていてもよい恰好ではない。なのだけど、私のクラスメイトにこの手の元気すぎる男の子には顔を見るまでもなく、一人心当たりがあった。
「おはよう、黒部君」
「よく見れば詩文と爪紅じゃん。おはよー!」
はっぴを振り回しながら元気いっぱいな声。いつものことながら、彼はずいぶんと体力があり余っている。
去年から同じクラスだったからよく覚えているけど、朝のホームルームで彼のあいさつが聞こえなかったことはなかった。無遅刻無欠席、風邪の一つも引かない超健康優良児である。
「ああ、詩文くんは彼のこと覚えてないか」
「いや、黒部……時雄だろう。なんとなくわかる」
どうにか、といった調子で目の前のはっぴを着た男のフルネームを言い当てた。
記憶はないはずなんだけど、どうしてだろう。
「んー、さすがは詩文っち! オレ達の友情パワーは時間も記憶の壁も越えちゃうぜ!」
「一目でわかった。まるきりメモと同じだからね」
詩文は出会った人の特徴をある程度メモにまとめているらしい。なので、記憶がなくなっても次の自分にその記録は引き継げる、ということだとか。
ただ、彼にとって黒部はおろかこの学校の人間は記憶にない。それを一目で見抜く、なんてのは並大抵ではないはず。現に、私も名前を聞いてきたくらいだし。……やっぱり、こんなはっぴでハッピー野郎は彼のメモの中にも一人しかいないのかな。
「それはそうと、オレたちは今、亡き風紀委員長の意思を継ぐべく、抜き打ちで風紀向上キャンペーンなぞに取り組んでいる」
「風紀委員長って相田君でしょう。彼、短期留学してるだけじゃない」
はっぴ男の中では勝手に死んだことになっているが、相田君は多分一週間後くらいには帰ってくる。
しかし、私の言葉なんて聞かん、と言わんばかりに彼の腕は空を裂き、はっぴは翻った。
「そんなわけで、君らも校則違反をしていないか、チェックさせてもらうぞ!」
その視線は私たち二人を上から下まで見回す。
「うむ、詩文はなんも言うことなし。いつも通りだな」
「そいつはよかった」
うんうん、と黒部君がうなずくと、詩文くんは安堵したように息をついた。
記憶のなくなる彼も、習慣は残っているらしい。少なくとも、私が知る限りで彼が校則を破るような真似をしているのは見たことがない。
「問題は爪紅だな」
黒部は先ほどよりは真剣な表情でこちらに振り向いた。学生服とはっぴのアンバランスさのせいでなんだかパッとしない顔に見えるけど。
「……なにかダメなところあった?」
「まずスカート。膝が出てるのはダメだぞ」
ダメなのは校則の方である。今どきそんな長さを強要する方が間違っているのだ。
しかし、ここで校則違反だと指摘されたまま学校に入れば、その事実は先生たちの眼に入る可能性がある。疑いの目はここで晴らさねばならない。
「黒部君、一度時計回りに一回転してくれる?」
「……なんで?」
「いいから、はやく」
不満気な表情を見せながらも、彼はくるりと一回転した。その一瞬で仕込みは十分だ。
「回ったけど、これが何か?」
「もう一回私の膝を見て。スカートで隠れているでしょう?」
間違いなく、黒い布で覆われた膝がそこにある。
とんちのようなもので、ちょっとかがんで膝を見えなくしているだけなので、指摘されると意味はない。
「……本当だ」
しかし、心底驚いた風紀委員長代理を見て、成功したと確信した。本当は校則には直立で膝を隠せ、などとは書かれていないなどといちゃもんを並べる気でいたのだけど、その必要もなかったらしい。
「しかたない、爪紅のスカートの長さは合格、と。しかし、なぜオレが一回転するだけでスカートが伸びたんだ?」
彼が名簿にチェックを入れたのを見て、私は姿勢を正す。もう小細工は不要だろう。
「逆なのよ。長い方が真実なの。今までは間違った世界を見ていただけ。コペルニクス的大転回ってやつね」
「……僕の知識だとそういう使い方をするものではなかったと思うんだけど」
詩文くんの訂正には耳を傾けない。とりあえず適当なことを言えば黒部時雄は騙せるのだ。現在に限り言葉の用法の正しさに意味はないのである。
「じゃ、私たちいくから」
「ちょっとまった」
横を通り抜けようとして、引き留められた。
「まだ爪紅は違反があるぞ」
「……なにかあったかしら」
「髪の毛のウェーブ。これもだめだ」
ビシッと指さされたのは、髪の先端。確かに少し波打っているが、こんなの気にする校則など百年は遅れている。
しかし、これも校則違反と言われては困る。なにがしかで切り抜けなければやはり、後々面倒だろう。
「……黒部君」
「なんだ、また回ればいいのか」
「回らなくても大丈夫よ」
さすがに一回転したくらいの時間ではどうにもできない。
「正確に確認を取らせてほしいんだけど、校則ではお洒落のために髪の毛をいじっちゃいけないってことなんだっけ」
「ええと、どうだったか。あいにく生徒手帳は制服の中なんだよな」
ううん、と悩む黒部君に、助け舟のように詩文が生徒手帳を手渡した。
「じゃあ、これを使って。僕には書いてある場所は分からないけれど、黒部なら探せるだろう」
「おう! 風紀委員長の遺言で45ページに髪について書いてあると教えられた記憶がある」
まだ死んでないのに、と再度口を出しても意味はないんだろう。黒部君の中では留学と永久の別れは近いところにあるんだろう。あるいは、外国と天国が似たような認識なのかも。
ぺらら、と生徒手帳を少しめくった後に、彼はおお、あったあったとつぶやいた。
「第七条に、髪の毛を改造、加工は禁止する、と書いてあるな」
それは私の記憶通りだ。だからこそ、私は最低限の洒落っ気を見せているのだし。
「なら大丈夫よ。私のこれ、改造でも加工でもなくて、寝ぐせだもの」
そんな綺麗な寝癖があってたまるか、みたいな視線を横から感じるけど、それは無視する。
「……そうか、そういうこともあるか。髪の毛も合格か」
黒部君は納得したようで、名簿にチェックをさらに一つ入れてくれた。
「これでいい?」
「なんか騙されたような気もするけど、校則違反はなかった。入っていいぞ」
しぶしぶ、といった調子で下がった黒部君をしり目に、校内へ一歩踏み出しながら振り返る。
何度目になるか分からない、「初めての登校」になる詩文の顔がそこにある。
彼の表情はこわばったもので、緊張していることなんて見て取れるようだった。毎度の「初めて」で、彼が緊張しながら教室に入る様子は何度も見てきた。
「じゃ、風紀委員長代理の許可もでたし、早く教室に行きましょ」
「――ああ」
彼の緊張はどれほどか分からないけど、それが少しでも和らげばいいと思って、その腕を引いた。
でも、一歩踏み出した彼はどちらかと言えば緊張よりも、楽しげに笑っていた。それは、きっと、わくわくしているとか、興味があるとか、そう言うことなんだろう。
私にとっては今日も今日とていつも通りで、新しく感じることなんてこれっぽっちもない。それは決して悪いことではないのだけど、代わりに面白いことでもない。
だから、毎日が新鮮で移り変わったものだと感じ続けられることが本当に、うらやましい。