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終章 奇跡


      ☆


「サーシアリーズってさ、たいていは両方の色が同時に枯れちゃうんだよね」

 未開封の猫缶を手に二人で一緒に帰る途中、ふとシジマが言った。

 でもね、たまに片方だけが先に枯れることがあって。

 特に何か迷っていた人の傍で咲いていたものが枯れた場合、残った花が青なら「進め」──もしくは「続けよ」。

 黄色なら「止まれ」または「やり直せ」──とかいった風の意味になるんだって。

 シジマはずっと前を向いたまま、猫とは関係のないサーシアリーズの話を続けていた。

 他にも青なら「右」、黄なら「左」といった意味もあって、分かれ道でその通りに進むと迷わず目的地に着ける──とかね。

 立ち止まったシジマとぼくの足元で、季節終わりの野咲きのサーシアリーズが咲いていた。

 黄色い方だけが枯れたそれを見て、ほらね、とばかりにシジマが笑う。

「止まるな。進め。先へ行け!」

 さあ行こう! ──と歩き出すシジマと繋いだままの手を、けれど引くようにしてぼくは、

「でもぼくらの家は、この先を左だけど?」

 一瞬悔しそうに眉を寄せて唇を突き出したシジマは、

「きっと花の後ろ側から見ていたのよ!」

 

 かなり傾いた日差しの下を潜るようにして駆ける。

 ひたすら駆ける。自分の足で。

 その先で枯れたサーシアリーズを見つけたら、残っている方の色に従って道を曲がる。

 いつもは一緒に枯れてしまうサーシアリーズ。けれどぼくの先にあるのは、なぜか片方だけ咲き残っているものばかりだった。

 日没まであと一九分。

 ぼくがどこにいても、コー総長が天文台までの最短距離を「案内してくれる」らしいけれど、電素二輪車がない今、時間の余裕はもうない。

 石畳の道に足が滑る。気ばかりあせって、まるで夢の中のように手足がうまく動かない。

 心が迷う。本当にいいのか。これで正しいのか。ぼくは間違っていないか。

 サーシアリーズは、本当に猫缶のある場所へとぼくを導いてくれているのか。

 たまたま偶然、そのように咲いているだけじゃないのか。

 けれどもう他にない。これしかない。

 シジマの言葉を──異国の地に咲く彼の花の導きを、ただ信じるのみ。

 止まるな。進め。先へ行け!

「はあ、はあ、はあ! ──おっと!」

 目の前の花壇に植えられていたサーシアリーズが、一つ残らず黄色い花を残していた。

 ここか──大きく肩で息をしながら、ぼくはぐるりと周りを見渡す。

 そこは広場だった。通称合格広場(ぼくが勝手にそう呼んでいるだけだが)。

 帝都大一般入試の合格発表があった場所。

 ではここに、ここのどこかにシジマの猫缶が?

 だけど──でもここは。

「これ……どうやって探せっていうんだ」

 それなりに広い場所のはずだったそこは、けれど今は人と物でいっぱいになっていた。

 明日のシジマの学生葬──その実行委員会総本部として。

 中央の噴水前にはすでに立派な祭壇が設けられていた。シジマの柩は聖堂ではなく、言わば全ての帝都大学生の「始まりの場所」でもある、この合格広場へ安置されることになっている。

 彼女の柩とご両親(ぼくの両親と国王の名代たるユーナさまも含む)を乗せた神聖王国発の特別急行列車も、今夜半には到着する予定になっていた。

 そんなこんなで、奇跡送達士姿のぼくがいても気づかれないくらいに人の出入りが多い。

 みんな忙しそうに動き回っている。広場の一角にはいつも通りに屋台も出ていて、今の時間からもう大いに賑わっている。

 この大騒ぎの中、あの小さな猫缶一つを見つけ出せるのか?

 途方に暮れたまま、噴水池の中心に立つ時計台を見上げる──日没まであと一二分。

 ……だめだ。

 ふっと、そう思ってしまう。

 だめだ。もう……もう間に合わない。

 たとえこの瞬間に猫缶を見つけられたとしても、天文台まで戻る時間がない。

「じゃあ、もうあきらめちゃうんだ?」

 仕方ないだろ。これ以上ぼくに何ができるっていうんだ。

 ぼくはできる限りやったんだ。頑張ったんだ。それでいいところまで来たんだ。

 でも力不足だった!

 シジマのことも! 受験も! ユーリも! 猫缶も! 何もかも!

 花壇の端に腰を下ろし、がくんと頭を下げたまま、ぼくはひたすら言い訳をしている。

 ひたすら情けない、仕様のない言い訳を──言い訳?

 ──って、でも誰に?

 ぼくは、ゆっくりと顔を上げた。

「本当にもうないの、できること?」

 すぐ目の前に、一人の少女が立っていた。

 それは赤い髪の、紅い瞳の──あいつとそっくりの……

「シジ、マ──?」

 直後。少女の姿が消えて、代わりに小さな光が、まるで忘れ物のように宙に残る。

 ぽろっと落ちる光。思わずその下に手を伸ばす。

 落ちてきた光が手のひらに当った瞬間、それは大きく広がって一つの形を映し出す。

 空に残る陽の光で金色に光る円筒形の、それは猫缶だった。

 ぼくはただじっと、息をするのも忘れて手の中に現れたそれを見つめて。

 それから体を折るようにして、額に猫缶を押し付けるようにして、祈る。

 その名を心に叫ぶ。

 シジマ。シジマ──シジマ!

 日が暮れてゆく。聖堂の鐘楼で鐘が鳴る。

 途切れることのない喧騒の中、午後六時の鐘が鳴り響く──日没まで、あと四分。

 

      ☆


 目を閉じてひらすらその名を呼び続けるぼくの手に、ふと誰かの手が重なる。

 冷たい手。小さな手。

 その手が逃げないよう、離れないよう、静かにゆっくりと顔を上げる。

 花壇に座るぼくと大差ない背の、頭に大きな猫耳を二つくっつけたちびシジマが、それだけは変わらない一八歳の瞳でぼくを見返している。

「──ハル」

「シジマ……?」

 広場には相変わらず大勢の人がいた。

 けれどぼくらの周りだけがなぜかぽっかりと空いていた。

 気のせいか人声すらも遠く感じられる。

「シジマ──ユーリが、ユーリが死にそうなんだ」

「人は死ぬんだよ。いつかは必ず」

 わかっているさシジマ。それは嫌というほど。

「でもまだ、あいつはまだ救えるかもしれない」

「人は死ぬんだよ」

 淡々と、でも辛抱強く猫耳シジマは続ける。

「でもだからこそ、次の命が生まれて来る。生まれて来られるんだよ」

 わたしの命が死んで、終わって。そうしてまた別の命が生まれて来る。

 わたしも、ハルも、ユーリも、みんなそうやって生まれて来たんだよ。

 誰かが死んだから、死んでくれたから。わたしは生まれた。ハルが生まれた。

 そうしてわたしたちは出会うことができた。

 ここで。この世界で。

 手を取り合うことができた。笑い合うことができた。

 だから、次はわたしやユーリの番なんだよ。

 わたしが、ユーリが死んで、その代わりに誰かが生まれる。

 それはもしかしたら、ハルと、ハルの大切な人との子どもかもしれない。

 だったら本当、嬉しいな。

「ぼくの──大切な人?」

「そう。ハルの大切な人」

「シジマ以外の?」

「そう。わたし以外の」

 そしてそれは、わたしの大切な人でもある──とシジマ。

「シジマにとっても、大切な人?」

「それはそうでしょ。ハルの大切な人なら、それはわたしにとっても大切な人だよ」

 シジマが笑う。

 ぼくは思わず二人の手に包まれた猫缶を見る。

 人は死ぬと奇跡を遺す。

 それは大切な想い人へ。大切な人へ。

 シジマの想う──心から想う、大切な人へ。

 それは──

「……そういうことか」

「やっと気がついたか」

 シジマが遺した奇跡。その届け先は。

 それはこの先、ぼくが本当に大切に思える人。

 それこそぼくが奇跡を遺せるくらいに、大切に想える人。

 その人を、シジマも大切に想いたいから。

 大切に想いたいと、願っているから。

 まだ見ぬその人へと、シジマの奇跡は遺された。

「……にしても、またずいぶんと大層な奇跡を遺してくれたよな」

 知らないよ。神さまの奇跡なんて──とシジマは笑う。

「わたしが遺したのは、あくまでもただの指輪。幼馴染の男の子がお祖母ちゃんに買ってくれた、はめると恋が叶うって──好きな人が好きでいてくれるって、ただそれだけの」

「お前はそれ……結局使わなかったのか?」

「だって必要ないじゃん。ハルは最初からわたしのことが好きだったんだし」

 あー……

 多分ぼくの顔は、もう見ていられないくらい赤くなっていたと思う。

 シジマもわざとらしく斜め上に視線を逃がしつつ、

「けど見たかったなあ。この先、ハルがわたしよりも大切に想う人」

「……どうせならシジマがよかった」

 やっと言ったぼくへ、シジマの目線もようやく戻って来て、

「だから生きてる間に言いなさいよ、そういうことは」

「言う前にあっさり死んじゃったのはどこのどいつだ」

「だったら今度は、その人が死ぬ前にさっさと想いを伝えなさいよね」

「急いで告白して、それでもし間違ってたらどうするんだ」

「知らない。自分で何とかしなさい」

「助言くらいないのか。天才だろ」

「……本当に天才ならこんなところで死なないよ」

「シジマ?」

「本当に天才なら、大切な人を──ハルを遺して死んだりなんかしないよ」

「……」

「本当に天才なら、ハルと一緒に大学生になって。ハルと一緒に勉強して。ハルと一緒にご飯を食べて……何て言ったっけ、ハルの行きつけの店」

「まだ行きつけっていうほど通ってないよ」

「でもきっとそうなる」

 うん。

「シジマ──」

「──ハル」

 そっとぼくの手から離れる、シジマの手。

「まだ間に合う。ユーリを救う方法はある」

「うん」

 ぼくにもわかる。

 思い出したから。


『次に会った時、わたしがあなたの名前を憶えていたら──そしてあなたがまだわたしの名前を覚えていたら──そう、呼んでくれたら』


「呼びなさい、その名を。ハル」

「でも……だけど。それは──」

 確信。

 その名を呼べば、たぶんきっと、ユーリは助かる。

 けれど、たぶんきっと、目の前のシジマは消えてしまう。

 もう二度と現れることはない。

「わたしはもう死んでいるんだよ、ハル」

 猫耳の彼女は、ただの幻でしかない。

 二人が餌をやっていた猫の、そしてシジマが助けようとした猫からの、ちょっとした恩返し。

 でも。だけど。

「シジマ……だめだよ。選べるもんか」

 ユーリか、シジマか──なんて、そんなの選べるもんか!

「選ぶんじゃないよ」

 選ぶんじゃないんだよ、とシジマは二度言った。

「好きになるんだよ。好きになればいいんだよ」

 猫缶の奇跡。

 それはハルが本当に好きになった人へ届く奇跡。

 でもね。どうせハルのことだから、そう簡単には決められないでしょ?

 だからちょっとだけ、助けてあげる。

 ハルが好きになりそうな人には──その候補になった人には、ちょっとだけ、奇跡のお零れをあげる。

 だからたとえば、ハルがユーリのことをちゃんと大切に想っていれば、大丈夫。きっとユーリは目覚める。

 もちろんそれはただの先延ばしでしかない。それでも時間はできる。

「あとは自分で何とかしなさい」

 うんと勉強して、悩んで、迷って、考えて、研究して。

 何たってここは──帝都大学は、そのための場所なんだから。

 そのための学部学科だって選べるんだし。でしょ?

「奇跡現象学科……結局そこか」

 本気で落ちこぼれそうだよ。

 猫耳を揺らせてシジマが笑う。

「──ハル。ユーリのこと、好き?」

「決まってるだろ」

「だったら迷うことなんかない」

「でもシジマ、お前のことだって、ぼくは──」

「……やっと泣いてくれたね、ハル」

 言われてようやく、ぼくは自分が泣いていることに気がついた。

「もう何度も泣いてるよ」

 でも確かに、心の底から、そこに溜まっていた涙をやっと流せた──そんな気がする。

 心から悔しくて、悲しくて、叫びたくて泣きたくて。

「お前が見てる前では泣きたくなかったのに」

「じゃあどうしたかったの?」

「それは……」

 ぼくへ顔を向けたまま、シジマがふっと笑って目を閉じる。

 いつの間にかその背が伸びて、ぼくの知っているシジマの最後の姿になる。

 つられるように立ち上がり、その細い肩に手を置く。

 シジマも応えるように背伸びをして、顔を寄せてくる。

「シジマ」

「だめ」

 ぱっと目を開かれて、鼻先がくっ付くくらいまで寄せていた顔を仰け反るようにして離す。

「あの名前を呼んであげて」

 早くしないとユーリが持たないわよ、とシジマ。

「でも言わせてくれ。最後に一言だけ」

 頬を伝う涙はそのままに急いで息を吸って。吐いて。そして。

「シジマ。好きだ。ずっと好きだった。たぶんきっと、間違いなく──生まれた時から」

 お前の言ったとおりだ。たぶんぼくは生まれてすぐ、隣に寝ていたシジマに恋をした。

「だから言ったでしょ」

 シジマが笑う。シジマとしての最後の笑顔で。その瞳に涙はない。でもそれでいい。

「ありがとハル。そしてさよなら」

「さよならシジマ。そしてありがとう」

 改めて目を閉じて背伸びをする少女。

 ぼくはその唇に軽く触れてから、

「シジマ──セレ」

 彼女の背中に光が集まる。

「セレ!」

 集まった光が、今度は花開くように。花咲くように大きく広がってゆく。

 それは翼だった。天文台で見た、竜の骨から白い羽の生えた『彼女』の翼。

 黒い色を光に変えて、その光を蹴散らすように赤く染まってゆく髪。

 やっと開いた瞳も、奥から湧き出る光を湛えるように輝く真紅へと。

「──ハル」

 あいつの声で、『彼女』が言う──『わたし』の名前を呼んでくれたね、ハル。

「そう──ハル、だったね」

 わたしも、あなたの名前を憶えていた。

 だから、だからハル。


「約束通り──奇跡をあげる」


      ☆


 白く輝く翼をはためかせて、赤い髪の少女が飛ぶ。

 手をつないだままのぼくと一緒に。

 宙ぶらりんの足元には、すっかり見慣れたはずの大学の街々。

 大小の屋根。入り組んだ道々。行き交う人々。

 その先で、暮れゆく最後の光を惜しむように輝く白い半円形の建物。

 天文台──月の竜観測所。

 意外に近くに見える海(実はレイテル湖)の向こうへと消えてゆく光。

 その陽光が完全に没するのと同時、ぼくの足も地へ降りる。

 猫の仮面に真の笑顔を封じた少女。

 大切な人の命を宿した奇跡の人形。

 その心を優しく護る黒眼鏡の軍人青年。

 そして。

「ユーリ」

 ぽっかり空いたその胸の穴へ、手にした猫缶をそっと置く。

 まるで寸法を測ったかのように、ぴたりと穴に収まる猫缶。

「ユーリ」

 応えるかのように、ふっと息を漏らす小さな、本当に小さな唇。

 それはかすかに笑っているようにも見えて。

 だからぼくもつられるように笑ってしまう。

 今はお休み。ユーリ。ぼくの親友。

「でも忘れるなよ」

 ぼくは我慢できず、そのちっさな鼻先をつん、と弾くようにして、

「これで貸し一つだからな!」


       ☆


 夜。

 眼下に広がる光の街。帝都レアルセアに暮らす六〇〇万人の──その命の光。

 街のざわめきが風を揺らせてここまで届く。

 帝宮──その最上階に近い、国賓専用の豪奢な客間(いったい何部屋あるんだか)。

 その外に立つ、このぼくのところまで。

「──ユーリ王子殿下は?」

 開け放した大きな窓から外に出てきたリリゼ姫が、ぼくの横に並ぶ。

 いつものかっちりした姿ではない。ゆったりとした、ひと続きの室内着姿。

 柔らかい風に、薄手の生地がふわふわと揺れる(目のやりどころに困りますって)。

 鼻先までずり落ちた黒眼鏡をもはや直そうともしないリリゼ姫に、ぼくはちょっと笑って、

「あいつなら向こうの寝室で眠ってます。朝には目覚めるだろうって、コー総長が」

「よく眠るな──電素人形のくせに」

 いやすまん、とリリゼ姫。

「かまいませんよ。本当のことですし」

 さらにぼくは、窓越しに室内を見渡すようにして、

「こちらこそ、たくさんの料理やお菓子を用意して頂いたのに、全部無駄になりそうで」

 客間の一番広い部屋には、あの「アヴァロン」の高級菓子を始め、帝國を代表する宮廷料理やお菓子の類がこれでもかと運び込まれていた(もちろんレイテルタラバガニも)。

 なぜかぼくとユーリが計画していた受験後の宴会話を知っていたリリゼ姫が(帝國総軍情報局恐るべし!)、自分の財布で調達してくれたのだ。

 そのリリゼ姫は、華奢な針金細工のように見える柵の外へ身を乗り出すようにしながら、

「気にするな。これくらい、衛士の一分隊も呼べば一瞬でなくなる」

「それはそれで、あとでユーリが悔しがりそうですが」

「はは──まったく、その身が電素人形であることを忘れているとしか思えないな」

 まったくもってその通りです! ──と。 

「……ふうん?」

「ええと、何か?」

 鼻先にかかった(たぶん軍用の)大きな黒眼鏡越しに、何となく風景の一部みたいにぼくを眺めていたリリゼ姫は、

「そういえば、私服姿のお前を見るのは初めてだな」

「でしたっけ」

 といっても別に奇跡送達士の上着を脱いだだけで、無地の襟付きシャツにズボンという、ごくごく普通の恰好のはずですが。

「いやいやあまりに地味に平凡すぎて、最初は一瞬誰だかわからなかったぞ。不審者と思って危うく殴りりかか……衛士を呼ぶところだった」

 そこまで言いますか。

「気にするな。お前の奇跡を喰らえなかったことの、ただの八つ当たりだ」

 八つ当たりで殴られてはたまらない。でも地味で平凡な顔つきはどうにもならない。

 これからはリリゼ姫の前では送達士の上着はちゃんと着ていよう、と心に決める。

 ぼくは、部屋の食卓に山盛りにされている真っ赤なレイテルガニをちらっと見て(やっぱりちょっともったいない)、

「──ところでリリゼ姫の方は、本当に何も食べないんですか?」

 うん、とうなずく姫。 

「食べないし、眠らない──いや眠れない、と言った方が正しいか」

 そう言っているそばから、けれど口を大きく開けてあくびをする。

「なのに今夜は、やたらと眠い」

 なぜか横目でぎろりとにらまれる。

「誰かさんの奇跡のせいでな」

 クロナ少佐が力尽きても、彼女は死ななかった(そういう言い方が正しければ)。

 あの神さま少女が言うには、これもまたシジマの遺した奇跡の「お零れ」らしい。

 つまりそれは──

「わたしは気にしないぞ」

 先回りしたようにリリゼ姫が言う。

「お前の──あの猫缶の奇跡があれば、わたしも神さまになれるかもしれないんだ」

 そうなれば、神さまになってしまえば、きっとクロナを蘇らせることだってできるだろう。

「しかも強引に奪ったり喰らったりする必要もない。お前の寵愛さえ得ることができれば、それだけで幻のアークスアンティークを手にできるんだ」

 むろん貴様はクロナには遠く及ばない。同じ帝都大生でも飛び級の総代と再試験合格の落ちこぼれ。むしろ比べないのが慈悲というもの。

「まあ経緯はどうあれだ。明日からは文句なしの帝都大生──そこは認めてやる」

 わっはっは! ──と笑う寛大なお姫さま(こんな性格だったっけ?)。

 何だか逃げたくなってきた。

 けれどもう、それもできない。

「これで夜が明ければ、晴れてお互い同期の帝都大生同士。仲良くやろう!」

 そうなのだ。リリゼ姫もまた、帝國の特別枠を行使して帝都大へと入学したのだった。 

 とはいえその第一の役目は、リリゼ姫自身のことはもちろん、(コー総長のせいで)帝國や帝都大に関わるかなりきわどい秘密を知ってしまった、このぼくの監視役だったけれど。

 ちなみに試験要項にもある通り、奇跡送達士としてのぼくの身分はそのまま。

 シジマの奇跡を届ける上で帝都大へ通うことが必要不可欠と判断された──という建前だが、実は裏では、その解釈を巡ってコー総長とシステル・セリルとの間で壮絶なやり取りがあったとかなかったとか(だから怖いって!)。もっとも建前も何も、ぼくの第一目的は間違いなくシジマの奇跡を届けることだけれど。

 そんなぼくをよそに先に部屋へ戻りかけて、やっぱり立ち止まるリリゼ姫。

「こんな使い捨ての、名ばかりの姫だがな──でも選んでくれれば一生苦労はさせないぞ?」

 帝都大特別枠どころじゃない。帝國が一生の面倒を見てくれる。その気なら生涯働かなくていい。死ぬまで好きなことだけをして過ごせるぞ?

「──ぼくがそれを望んでいるとでも?」

「言ってみただけだ。その気なら本当にできるけれど」

「……」

「……ハル? まさか貴様──」

「え? い、いいえまさか! そんな働いたら負けだ! みたいなぐーたら生活、嫌に決まってるじゃないですか!」

 あはははー、みたいな?

 おっほん。

 だいたい、ぼくにはもうそんな暇はない。

 奇跡送達だけじゃない。

 奇跡現象学科でも、しっかり勉強しないと。

 シジマが学ぶはずだったその場所で。

 ユーリを死なせないためにも。

 そしてもちろん、リリゼ姫のためにも。

「ふん」

 自分の面倒くらい自分で見られる、と姫。

 それから鼻先の黒眼鏡を外すと、それをぼくの顔へかけて──また笑った。

 お腹を抱えて(ひどい)。

 ひとしきり笑ったあとで、一言。

「全然似合わない」

「……外してもいいですか」

 だめだと言う姫の声は、もう笑っていなかった。

「あいつは──クロナは、奇跡喰らいにすらなれなかった」

 リリゼ姫に命を喰らい尽くされて。奇跡も遺せず。ただ眠るように逝ってしまった。

「奇跡喰らいになり果ててもいい。この世界に残ってほしかった。わたしと一緒に」

「たとえその『彼』を、リリゼ姫自身の手で滅することになっても?」

 暗い視界の向こうで、けれどはっきりとうなずく姫。

「わたしのこの手で殺すことになっても」

 最初に出会った時は、本当にまだ子どもで。背もわたしの方が高かったのに。

 まったく、いつの間にあんなに大きくなったのやら。

「人はいいな。成長できて」

「でも死んじゃいます」

「確かにな」

 けれど。

 人は死ぬ。でもだからこそ、新しい命が生まれて来る。

 そうあいつは言ったんです──と、ぼく。

「少佐の──クロナさんの死も、だからきっと、この世界のどこかで新しい命となって、生まれてくると思います。きっと。必ず」

 リリゼ姫はぼくから黒眼鏡を取り返すと、またそれを鼻先へ引っかけるようにして、

「……信じていいか?」

「シジマを?」

「お前を」

 ハル──わたしはお前を信じる。

 ぼくはこくりとうなずいた。

 リリゼ姫もうなずいて、小さく笑う。

「長居をした」

 部屋へと向かう窓の取っ手に手をやって、それから思い出したように一言付け加える。

「──また、明日だ」

「はい。また明日です」

 そうして再び一人になったぼくは、改めて夜の街へと目を向ける。

 死んで行く命。生まれ来る命。それはきっと、この瞬間にも。

 そんな世界のどこかにいるかもしれない、シジマの奇跡を届ける相手──それは。

「ぼくにとって大切な人。大切に想える人──か」

 でも本当にこの先、シジマよりも大切に想える人がぼくにできるんだろうか。

「──できるわよ」

「セレ……?」

 風切り音と共に柵の端に降り立った彼女は、背中の白い翼を風に遊ばせるようにしながら、

「ずいぶん楽しそうだったじゃない? お姫さまと」

「頼まれちゃったからね……クロナ少佐から」

 リリゼと友だちになってやってくれ──

 ずっと一人ぼっちだった元天才少年から。

 彼が奇跡の代わりにこの世に遺した、大切な大切な──大切な「命」に対して。

「好きになっちゃった?」

「それとこれとは別問題だろ」

「同じことだって」

 人が人を想う心に、名前も理由も言い訳も──何一つ必要ない。

「人は嫌でも死ぬし、逆に嫌でも生きなくちゃならない──それはつまり嫌でも成長するってことだし、そして嫌でも人を好きになるってこと」

 要するに放っておいても、好きな人なんてそのうち勝手にできるわよ──と、セレ。

 ぼくが好きだった人の顔がそこにあるのを、ぼくは少しだけ不思議に思いながら、

「ずいぶん簡単に言ってくれるよな」

「簡単じゃない。人を好きになるなんて」

「そうか?」

「そうよ。ただ人に恋をすればいいだけ」

 何のこっちゃだ。

 でもシジマの顔で、シジマの声で言われると、本当にそう思えてくる(もはや刷り込み)。

「だけどお前は──セレはいいのか?」

「何が?」

「八番目の奇跡──それがないと本物の神さまにはなれないんだろ?」

「あー、そうだっけ」

 おい!

「まあいいよ、今のところは」

 セレは一息つくように小さく背中の翼を振ると、またぼくの方を見て、

「どうせハルは、最後はわたしのことが一番好きになるんだし?」

「大した自信だな」

「そりゃ神さまだし、わたし?」

「今のところは空を飛ぶくらいか能がなさそうだけどな」

「ハルが奇跡をくれたら、今すぐにでも本物の神さまになってみせるけど?」

「そして七つの奇跡を集め、月の竜が守る最後の奇跡を手に入れて──この世界を滅ぼす?」

「滅ぼしてほしいの?」

「まさか」

「じゃあ頑張って、わたし以外の人を心の底から好きになることね」

 できるものならね──シジマの顔をぐんと寄せてきて、ほとんど耳元でそうささやく。

 卑怯な(ていうか世界を滅ぼす気だったのか)!

「だからハル! 世界を救うためにも、まずは恋をしよう!」

「結局それか!」

 ぐたっと柵に寄りかかって、心の底から大きなため息を一つ。

「恋って……せっかく苦労して帝都大に入ったのに?」

「何言ってるの、恋することこそ学生の本分でしょ!」

 違うと思うぞ(たぶん)。

 けれど──

 奇跡は大切な人へ届く。

 人が人を大切に想うからこそ、奇跡は残る。

 つまり人が人を好きになるから──恋をするからこそ、奇跡はある。

「わかってるじゃない」

「そうかな」

「恋をするからこそ奇跡がある──ならば奇跡探求の聖地に学ぶ帝都大生たる者、なおのこと恋をせずして何とする!」

 夜空に大きく翼を広げ、セレはさらに声を大きくして、

「恋することが奇跡の始まり。恋することこそ全帝都大生に課せられた最優先課題なのよ!」 

「ウソつけ!」

「ウソだと証明できる? 期限は夜明けまで。自由記述。その後に口述諮問を二時間──」

「やめてくれ、やっと試験から解放されたばっかりなのに!」

 ぼくはセレから逃げるように空を見上げる。

 ぼくの名前と同じ、星々の輝く夜空へと──この世界へと。

 そこは夜の月に竜の住む世界。

 人が死ぬと奇跡を遺す世界。

 自分たちが殺した神さまの奇跡によって輝く、

 出来損ないの、いい加減でご都合な世界。

 それがぼくの、ぼくらの世界。

 そこでぼくらは、ぼくは。

 生きてゆく──これまでも、これからも。

 頑張って。前を見て。

 ちゃんと生きるために。ちゃんと死ぬために。

 そのためにも。

「恋をしよう! ハル!」

 空から見下ろすようにこちらを向いた、もう二度と見ることのできないと思っていた笑顔へ、ぼくもせいいっぱいの笑顔を返しながら、

「言ってろ! セレ!」


      ☆


 故シジマ・瀬玲南帝都大学学生葬当日/二〇日〇五時四九分/学内聖堂(鐘楼台)


 夜明け前に目を覚ますなり「日の出が見たい!」と駄々をこねるユーリを連れ、借りっぱなしの電素二輪車(整備済み)で下の街へ向かった。徹夜で最後の準備しているヒーナさんたちに挨拶しつつ、学内聖堂へ。

 たった一人で主聖堂の掃除をしていた(どう見ても罰当番の)システル・カデンにお願いして、朝の鐘を鳴らす前の鐘楼台へ昇らせてもらう。

 見上げれば、空はもうだいぶ明るくなっていた。

 ぼくが帝都大生として迎える初めての朝。

 それは同時に、シジマと本当にさよならをする日。

 延び延びになっていたシジマの葬儀──帝都大生有志によるシジマ学生葬の日。

「さみしいか?」

 真新しい礼服(もちろん昨晩到着したユーナさまに着せられた)に身を包み、日の出る方へ向けて鐘楼台の石造りの手摺に立つ(危ないぞ)ユーリの横へ、ぼくも奇跡送達士の制服を纏った身を乗り出すようにして寄りかかると、

「もちろんさみしいさ──でも」

「でも?」

 この時間からもう広場に、聖堂に集まり始めている学生たち──仲間たち。「先輩」たち。

 それ以前から、夜を徹して準備をしてくれているヒーナさんたち。

 たぶんその中に紛れて暗躍しているコー総長(さて本日の猫面は?)。

「みんながいるから。支えてくれるから」

 これだけの人が、みんなでシジマを送ってくれるから。

「だからぼくは、大丈夫──」

「ウソつけ!」

 完全復活を告げるかのようなユーリの声音に、聖堂前の連中が何事かと顔を上げる。

 その中には、ぼくたちの様子を見に来たのか、ヒーナさんやコー総長の姿(定番の白猫面~たぶん礼装用)もあった。

「ウソをつけ!」

 手摺の上でぼくの方へくるりと体を回し(だから危ないって)、さらにユーリは、

「いいから腹の底から声を出して叫べ! あいつの名前を!」

 そして泣け! 全力で! 一生分の涙を流し切る覚悟で! がーっと泣け!

 そう言って、大きな目をうるうるさせて、自身もう泣く気満々のユーリが迫る。

 ぼくはちらりと眼下の群衆を見て、

「ここでそんな恥ずかしい真似ができるか!」

「この場でその恥ずかしい真似ができるのは、ハル、この世界でお前だけなんだ!」

 小さな両手をぎゅっと握り、本当に必死の顔でユーリは、

「たった一人、お前だけが、ここであいつの名前を叫んでやれるんだ! 本当に泣いてやれるんだ! 声の限り、心の限り! だから、だから── !」

 その先は涙と鼻水で声にならない。

 ええいちくしょう!

 ぼくは体を支えるように手摺へ両手をつくと、ぐっと顔を上げた。

「──シジマ」

 一度声に出したら、もう自分でもどうしようもないくらい、涙と一緒にあとからあとから想いがあふれてくる。

「シジマ……シジマ!」

 自分で鼻をかんだ(えらいぞ!)ユーリも、待っていたように叫ぶ。

「ハルの声──おれたちの声、聞こえてるかああーー!」

 下のみんなが見上げている。でももう止まらない、止められない。

 声も。涙も。この想いも。何もかも。

「シジマ! シジマ! シジマー!」

「好きだああーーーーー!」

「おいコラ今何て言った!」

「うわあああああーーん!」

「泣いてごまかすな!」

「じじばああああー!」

「誰だそれ!」 

 ていうか名前呼んだろお前も! 今!

 けれどユーリは、その先はもうただひたすら大泣きするばかりで、何も言葉にならない。

 それはぼくも同様だった。

 朝の光に照らし出された鐘楼台の上で。

 ユーリと──かけがえのないぼくの親友と二人。もう何振りかまわず。

 声の限りに。涙の限りに。

 二人にとって一番大切な友人の──好きだった女の子の、初恋だった人の名を叫び続ける。

 それはとても悲しくて、辛くて、さみしくて。そしてやっぱり、ちょっと恥ずかしくて。

 けれど、だけど。でも。

 この時のぼくは、でも同時に、やっぱり笑い出したくなるくらいに幸せな気分だった。

 そうして顔を上げた先──青い空の上を白い翼を広げて舞う、小さな光が見えた。

 まるでぼくらを導くかのようなその光が、シジマの声で。

  

 行けハル!

 心に大切な仲間と共に!

 止まるな。進め。先へ行け!

 さあ!

                                       おわり

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