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第四章 再試験

      ☆

 

「そちらのお二人には初めまして、ですね。レアルセア帝都大学総長、メリル・コーデリア・飛鳥アスカです」

 どうぞ慈愛と憐れみと親しみの想いをたっぷり込めてコー総長とお呼びくださいね、と付け加えて小首をちょこんと傾げてみせる。

 たぶんきっと、にこやかな笑顔で。けれどそれは想像するしかない。

 総長──(親しみ云々をこめて)コー総長の目元は、大きな「仮面」で完全に覆われていた。

 小さな角のように突き出た「耳」とその下で弧を描く糸目、さらに両頬の三本線──仮面というか、それはどう見ても「猫のお面」だった。

 広めのおでこ(気にしてたらすみません)を含めて顔の上半分を覆う白猫のお面──それはいいとして(いいのか?)、けれどあんな細い糸目で外が見えるんだろうか?

 でも他に外が見えるような隙間や穴はどこにも見当たらない。

「大丈夫。ちゃんと『見えて』ますよ」

 ひょいとその猫面を上げて笑う。意外に(というか見た目通りの?)子どもっぽい大きな桜色の瞳が、しっかりとこちらを見据えていた。

 でもってまたすぐに猫面を下ろす。

 それが合図であるかのように、お仕着せ姿の電素人形軍団が、部屋中のあちこちからわらわらと湧いて出てきた(どれだけ隠し扉があるんだ)。

 食卓の上に転がっていたユーリを降ろして敷布を交換し、五人分のお茶とお菓子を並べ、リーフチェリー(帝國花)とサーシアリーズを一緒にあしらった花飾りを置き、最後にユーリが土足で上がっていた椅子をまるごと交換すると、人嫌いの野良猫よろしくあっという間に姿を消してしまった。

 卓が整うまでの間ずっと不機嫌そうだったリリゼ姫が、宮廷序列も儀礼もすっ飛ばして真っ先にどすん、と席に着く。

 ユーリもまた、リリゼ姫に対抗するように椅子の上で少し体を浮かせてどん(ぽん)! と勢いよく座ろうとして、けれど座面の厚みに押し返されてずっこけそうになる(知らんわ)。

 ぼくはコー総長が座るのを待ってから、何はともあれ、大きくほっと息をついてやっと席に着いた。

 最後に残ったクロナ少佐は相変わらず、用意された席を無視してリリゼ姫の背後に立ち続けている(黒眼鏡もそのまんま)。

 ちらっとぼくと目線があったような気がしたけれど──気のせいか(バレたかな)?

 ……それはともかく。

 まずはコー総長にならってお茶とお菓子を頂く。

 とはいえクロナ少佐はもちろん、リリゼ姫も手は付けなかったけれど。

 まさか毒入り? ──なんてぼくの心配そっちのけで、我がユーリ王子殿下は一口食べるや「これはどこの菓子だ! 菓子司を呼べ!」と声を上げたり、「帝都ではごくごくありふれたショコラだが? まあ一応は帝室御用達のアヴァロンという老舗の品でね。彼の国の姫──いや失礼、王子殿下にあっては気に召されたようで何よりだ」などと、なぜか思いきり鼻にかかった声でリリゼ姫が応えてユーリを歯ぎしりさせたりしていた。

 そんな中で改めてぼくは、コー総長の猫面や人となりについての話を興味深く拝聴していた。

 元々帝都大なんて別世界には興味も関心もなかったので、コー総長のことは本当に何も知らなかったのだ(シジマとの受験勉強も試験対策でいっぱいいっぱいだったし)。

 何よりもまず、コー総長は光ではなく「奇跡」によって周りを見ている(認識している)。

 それは光のみに頼った知覚よりもずっと便利なもので、昼夜の別なく人の風貌や色、建物の外観といった視覚情報はもちろん、その位置関係や材質までも正確にわかってしまう。

 認識範囲も自由自在で、その気になれば大学街くらいの範囲なら常時把握できるという。

 けれど「常にそんな広範囲を意識していたら頭がパンクしちゃう」ので、通常はその認識範囲を「かなり控えめ」に設定しているとのこと(具体的な範囲については「学内最高機密」として教えてもらえなかった)。

 猫のお面については、少しでも頭の負担を減らすべく、余計な情報(特に目から入るもの)を遮断するために付けているのだという。

「奇跡の力によって得られる知覚情報は増大したけれど、それを処理する頭の方は、残念ながら使い古した自前のそれを使うしかないのですから」

 ぼくは、もしシジマがこの奇跡を得ていたら──と考えてみた。

 その結果に戦慄して身震いしていると、コー総長もこくりとうなずいて、

「けれどできることなら、この奇跡を得た彼女も見てみたかったですねえ」

 などと平気で物騒なことをのたまうのだった。

 もしかしたらシジマ以上の危険人物かも──さすが帝都大総長(というかそんな人が総長やってる大学って……)。

 ところでその猫面は、(主に奇跡現象学科出身の)卒業生たちが作ってくれたもので、白猫以外にも数多くの種類があるらしい。

 さらにはこう見えて御年八〇歳を超えておられるそうで──ならそのどう見てもリリゼ姫と大差なさげに見える外観はどうなっているのかと、それとなく遠回しに尋ねてみたところ、

「あらあらお上手ね。ありがとう──さて。場も温まったところで本題と参りましょうか」

 ことり、と茶碗を置いてコー総長は言った(遠回りすぎて伝わらなかったらしい)。

「早速ですが当該事案における帝都大学側の見解──というか提案を述べさせて頂きます」

 コー総長はこほん、とわざとらしく咳払いをすると、ぼくの方を見て(ただの黒眼鏡とは違って、なぜだか見られていることはちゃんとわかる)、

「ハルツグ・ヨゾラくん。あなた、帝都大学入学試験の再試験を受ける気はありませんか?」

「……………………は?」


      ☆


 以下、レアルセア帝都大学第七四期入学試験・特別再試験(受験者一名)実施要項より抜粋。

      

・実施者/監督官 メリル・コーデリア・飛鳥レアルセア帝都大学総長兼奇跡現象学部長

(※試験期間中は特に親愛の情を籠めて「コー総長」と呼称すること)

・受験者/防衛側 ハルツグ・夜空奇跡送達士

(※いわゆる「シジマ案件」送達任務達成に不可欠の要件に付き聖櫃教会了承済み)

・試験者/攻撃側 リリゼリカ・レアルシド・セヴンステイル第七位皇女殿下

・助言者/防衛側 ユユリアス・唯津那・レイドセイダース二世王子殿下

  同 /攻撃側 クロナ・佳慈・ライダー帝國総軍情報局神級聖櫃担当特務少佐 

・試験項目

 故シジマ・瀬玲南アリスルーン王立学院生(当時)により遺された聖櫃(※形状にあっては左記参照)の争奪戦

・試験内容

 受験者側にあっては、可能な限り全ての手段を講じて、指定された期間内(別記)においてシジマ・セレイナより遺された聖櫃(※形状/缶詰~ネコナデ堂「ねこねこ大満足シリーズ・ほんのり塩茹でレイテル鯖大盛り」/内容物無)を守り、保持し続けること(※隠匿のための一時的放置は可)

・試験期間

 三ノ月 第一七日〇六時〇六分(日の出)より第二〇日〇六時〇二分(日の出)まで

・合否判定及び合格発表 即日

・入学許可対象学部学科 

 奇跡工学部奇跡現象学科並びに奇跡理学部奇跡考古学科(※同時選択可) 


・補足

①受験者及び試験者は当該大学領(※レアルセア帝宮内含む)を超えて移動しないこと

②第一日及び第二日において、受験者は当該区域内の地理把握・聖櫃の保全に努めること

③右記②期間中、試験者にあっては受験者の妨害不可(※レアルセア帝宮指定場所にて待機)

④受験者にあっては当該大学在学生への接触/協力要請可(※学生にはあっては拒否権有) 

⑤試験者は第一九日〇五時五九分(日の出)より行動可(※当該聖櫃取得時点で試験終了)

⑥実力行使は素手または古式剣術規則(※実戦形式/実剣許可)に則った場合のみ可

⑦本特別再試験全関係者の総意に基づき、試験実施期間中の負傷/死亡は不問とす

(※レアル帝國にあっては帝國第七皇女特例第〇〇〇一号規定/非開示/に基づき承認済み)

(※神聖王国にあってはユユリナース・神無奈・レイドセイダース王女殿下により承認済み)

⑧右記⑦において、受験者死亡の場合にあっても試験者が当該聖櫃を確保するまでは試験続行

⑨右記⑧において、試験者にて当該聖櫃未確保の場合、当該聖櫃の全所有権にあっては、試験終了時刻をもって当レアルセア帝都大学側へ無条件譲渡されるものとす

⑩本特別再試験全関係者にあっては、当該聖櫃の変形、汚損、破壊等は厳にこれを禁ずる。


・特記

 ハルツグ・夜空君入学の暁には、当該聖櫃共々、当君の身柄は当レアルセア帝都大学の完全なる庇護下に置かれるものであることを、当大学総長メリル・コーデリア・飛鳥の名において特にここに記し宣言する!


・追記

 三ノ月第二〇日〇九時挙行予定の学生有志による故シジマ・瀬玲南学生葬はこれを許可する 


      ☆


 帝都大再試験/第一日(一七日二〇時一〇分)/大学街(帝都大学領内)某所


「つまり……とにかく何でも、何が何でもあと三日間、帝國皇女殿下の魔手からシジマちゃんの奇跡を守り切れればハルくんの勝ち──いや合格ってことか」

 やっつけ仕事のでっち上げにしては、やたら凝った作り(帝室専用書体写植印字+皮革装丁の書類綴り+帝室及び帝都大学花押+ユーリ王子の署名付)の再試験概要をぱたん、と閉じたヒーナさんは、改めて(簡単にほこりを払っただけの)机の上に置いたレイテル鯖サンドに手を伸ばした。

 自分で持ってきた差し入れを美味しそうに頬張りつつ「実はこの書類、うちの学科が作ったんだよ。昨日徹夜でさ。ほら古書学科って古い本とかの修復や装丁もしたりするから」などと無駄にくつろぐヒーナさん。

「ていうかハルくん、結局古書学科は志望しなかったんだ──ね?」

 ね、のところでぎろりっと睨まれる。

「いやあの。そのあたりは、ぼくが何か言う前にもう出来上がってたところだったので」

 できるだけ目立たないよう携帯蝋燭を使っていたのを、「暗すぎる!」の一言で切って捨てたヒーナさんがつけた天井の電素管照明の、その煌々とした輝きをちょっと見上げてから、

「たぶん最初にぼくが提出した願書を参考に、先回りして作成しておいたんだと思います」

 最初からこうなることを見越した上で、帝都大としても可能な限りの手を打っておいてくれたのだ。もっともぼくが普通に試験に合格していれば、こんな手間は不要だったのかもしれないが(いやあ無駄にならなくてよかったよかった)。

「けどじゃあ何? 合格したらハルくん、奇跡現象学科と二股かけるん?」

 うわかっけー、とヒーナさん。そうですか?

 でも二股って、それだと別の意味に聞こえますけど。

「さすがに無理ですよ。素直に奇跡考古学科を選ぶと思います」

「けど奇跡の届け先の手がかりは現象学科の方にあるんじゃなかってん?」

 てん?

「……ええと、そこはぼくも悩んだところなんですが。でもせっかく入学できるなら、できればちゃんと卒業したいかなって」

 だからといって、奇跡考古学科なら落ちこぼれないという保証はまったくないけれども。

 それ以前に、まずはこの無茶苦茶な試験に合格できたらの話だけれども。

「ふうん──にしても、あれだねえ。最終日をシジマちゃんの学生葬にぶっつけるとか。コー総長らしいっちゃあらしいけど、ちーょっと辛子が効き過ぎてるよね。あたしは好きだけど」

 ぼくも遠慮なく差し入れに手を伸ばしつつ(夜は買い置きの菓子パンで済まそうと思っていたのでこれは素直に嬉しい)、

「辛いのが、ですか? それともコー総長が?」

 ちなみに今夜のレイテル鯖サンドは「トマトオイル風」とかで、別にそこまで辛くはない。

「んー、どっちも? ていうか好きって言わないと泣いちゃうから。コー総長」

「泣いちゃうんですか」

「泣いちゃうんだよ。マジ泣きだよ」

 見たら引くよーあれは、と、声を低めるヒーナさん。

 うん、ちょっとわかる気がするかも──と、それはそれとして。というかあのですね。

「……ところでヒーナさん。あの、どうやってこの場所がわかったんです?」

 あれからぼくは、まるで最初から細目まで決まっていたような再試験の提案をその場で承諾(どうせ他に選択肢はない)、その申請書類(これもきっちり整っていた)に必要事項を記入して、そこにコー総長が署名捺印して正式に帝都大の再試験を受けることになった。

 その夜はコー総長と一緒に帝宮内に泊まり、日の出と同時に行動開始。

 とにかくぼく(とユーリ)は、試験要項にもある通り、まずは試験会場(?)たるこの大学街の地理把握から始めることにした。

 これまでにも何度となく訪れてはいたものの、それはただ漫然と歩いてただけ。どこに何があって、街全体がどういう構造になっているのか等々、きちんと頭に入っていたわけではない。

 そうして改めて巡ってみると、やはりいろいろと新しい発見があった。

 例えばこの街には空き家が多い。確かに大学の規模(学生数や学部の数)に比べても大きな街だとは思っていたけれど、意識して調べてみると、ざっと三軒に一軒は空き家だった。月の竜観測所周辺──帝宮へ近づくほどその割合は多くなって、天文台付近ではむしろ空き家の方が多いくらいだった(あの人気のなさにも納得)。

 何かすごい無駄のような気がしたけれど、実はそれにもちゃんと理由があって、要はこの街自体が帝宮を守るための一種の要害なのだった。

 帝宮の周囲にわざと頑丈な建物を密集して建てることで、敵の大軍団が一気に通れないように邪魔をしているのだ(道幅が狭いのもそのため)。

 いざ戦いとなれば、それらの空き家は伏兵を忍ばせる格好の隠れ場所にもなる(逆に敵の浸透を阻止するため、域内への入退場者はきちんと管理されている)。

 そしてそれは、まさに今のぼくらにも当てはまることだった。

 とりあえず隠れ場所になりそうな空き家を探して、ぼくらはさらに街の中を歩き回った。

 日が暮れる頃には入り組んだ道の先にあるこの空き家を見つけて、今夜の宿に定めた。

 そこで明日以降の作戦会議をユーリとしようと思っていたのだが──そこに「差し入れだよーん」と、まだ温かい(作り立ての)夜食を手にヒーナさんが現れたのだった。

 一日中歩き回って疲れたのか(電素人形が疲れるってのもあまり聞かないが)、奥の寝台で一足先に眠ってしまったユーリはそのままに(半端に起こすと機嫌が悪い)、二個目の鯖サンドを手にしつつ(ユーリの分はちゃんと残してある)、

「まだリリゼ姫側は動かないとはいえ、この場所もけっこう気を使って探したんですが」

 もしやコー総長が、あの猫面越しの奇跡で調べてくれたとか。

「そりゃ見てるとは思うけど、でもそんな必要もないって」

 わざとらしく目を眇めるようにして、ふふーんと鼻で笑うヒーナさん。 

学生うちらの情報網をなめんなよ──ってね!」

 ぼくが再試験を受けること、相手が「あの帝國の七姫」であること(思ったより有名人らしい)、その試験概要等々──は、大学街に残っている学生たち全員がすでに知っているのだという(情報漏洩元は間違いなく試験書類を作成した古書学科だろうがそこは黙秘)。

 要するにぼくらは、再試験のためにこの街へ足を踏み入れた瞬間から、全学生たちの監視対象となっていたのだった(全然気づかなかった)。

 さらに今は、シジマの学生葬実施の話を聞いた連中も、春季休暇を切り上げて続々と戻ってきているのだという。

「二〇日には間違いなく、在籍してる学生の大半が揃ってると思うよ」

「たった一人の再試験が、本当に大事になっちゃいましたね」 

「お祭り好きだからねえみんな──でも大丈夫、うちらはみんなハルくんの味方だから!」

「……ありがとうございます」

 それは心強い。けれどやっぱり、こうもあっさりと見つかってしまうのは心配かも。

 帝國側──リリゼ姫には、それこそ情報を扱う専門家たる情報局将校がついているのだ。

「クロナ──少佐だってか」

 こんなところにいやがったかと鯖サンドを食いちぎるヒーナさんに、ぼくは、

「やっぱりあのクロナさん、なんでしょうか」

 飛び級かつ抜群の成績で帝都大に入学したものの、けれど退学してしまった悲劇の天才少年。

「ハルくんから聞いた年恰好からして、間違いないよ」

 一四歳で入学した彼が三年目を前に自首退学したのは今から六年前──ならば今は二二歳になっているはず。

 帝宮で見た彼は確かにそのくらいの人に見えた(目元がわからないので確信はないが)。

「でも二〇歳そこそこで少佐って、たぶんすごい出世ですよね」

「だろね」

 まあ天才だからねえ──なんとなく投げやりに言うと、でもヒーナさんは、食べさしの鯖サンドをじっと見つめるようにして、

「うちの実家ってさ、料理屋さんなんやよね」

「レイテル小王国、でしたったけ?」

 さっきもですが、今ちょっとお国訛りがでましたヒーナさん。

「うん。レイテル湖畔小王国──海みたいにバカでっかい湖の畔にあるちっちゃな国」

 ヒーナさんは実は、その国ではけっこう有名な「天才少女」だったという。

 それを聞いてもぼくは別段何とも思わなかった。

 天才というなら、良くも悪くもその代表例みたいなやつが一番身近にいたし。

 何より帝都大に入学しちゃうような人なら、誰だって一度はそう呼ばれているだろうから。

 でもヒーナさんは、相変わらずのんびりと鯖サンドを食むっているぼくに、どこかほっとしたように息をつくと、

「あたしは──うちはきっと、けどシジマちゃんとは全然違ちごうてたと思うよ」

 本当、嫌な奴やったんさ、と。

 幼い頃からヒーナさんは、言葉を話すのも字が書けるようになるのも、周りの中では一番早かった。小王国に一つだけある教学院へ上がっても相変わらずで、教科書は一度読めば全部頭に入ったし、走っても泳いでも一番だったし、同学年の中では一番背も高かった。

 九年生(王立学院の中等部三年に相当)の時、試しに教学院最終学年の卒業試験を解いてみたら満点だった。

「もうさー、周りがみんなバカに見えて見えてしょーがなかって!」

 以降は学校へは通わず、実家でずっと料理の手伝いをしていた。

「料理は違うんよー。ちょーっとした塩梅で味が全然変わってまって。一応レシピもあったけど、そんなんいくら覚えても全然役立たんしな! その日に揚がった魚次第で全部変わって来る。けどそこがいいやよ!」

 あー何か飲みたい気分やわーとヒーナさん。さすがに試験中の受験生に酒精の差し入れはないやろて遠慮したんは失敗やったわーと愚痴りつつ(いや大正解ですヒーナさん)、

「だからま、帝都大受験もある意味予定通りゆーか、やっぱ甘く見てたんよ自分」

 で、打ちのめされた。最初の最初から。

 不合格。

 あっさり不合格。

 確かに推薦枠ではなかったけれど、でもまさか自分が「試験」に落ちるとは思わなかった。

「ちょーどあの広場でな、もうホント、おんなじ不合格でもハルくんとは正反対やよ。目の前にレイテル湖あったら一目散に突っ走ってってそのままの勢いで飛び出して躊躇なく身投げしてたわ!」

 でもレイテル湖は列車を乗り継いで一日半の彼方。戻る気力もないゆーか。

「つーかどの面下げて帰れゆーんよ」

 帰れるわけがなかった。さんざ自分がバカにしてきた連中から、ここぞとばかりしっぺ返しを食らうとわかっていて。

「帝都大くらい余裕で受かるわと、出発前日まで店で出す料理の試作とかやっとったしなー」

 ちなみにその時考えてたんがこの鯖サンドなんよー、とヒーナさん。

 最後の一口を手にしたまま固まる。思わずそれを見つめてしまう。

 ヒーナさんはけけけと笑うと(酔ってませんよね?)、

「とにかく国へはもうぜーったい帰りたないて、ここで働き口みつけてん」

 それがあの食堂『田舎の湖畔亭』だった。様々な国から学生がやって来るこの大学街には、それぞれのお国柄を色濃く反映した食堂や惣菜店がいくつもある。その中でヒーナさんが選んだのは、やはりというかレイテル湖産の魚をよく扱う店だった。

「好きな料理しいしい、もいっぺん最初っから、ぜーんぶ勉強し直してな」

 そうして受験した二年目──でもやっぱり落ちた。がくっと頭を落とすヒーナさん。

「落ちてもーた」

 うわあ。

「でもな!」

 ぐわっと顔を上げるヒーナさん(首は大丈夫ですか)。

「うーん、ちょっと痛い?」

 まあええわ、と(いいのか)。

「もうそこまで来たら意地やんさ! もー合格するまでやるしかないやっさ!」

 そして受かった(それはそれでやっぱりすごい)。ついに──けど。

「え? けど?」

「けどやさ。入ったら入ったで、これがまたきっついで!」

 送達士になったハルくんと再会した日ーな。実は退学届け出そう思うてたんよ、と。

「だからヒーナさん、礼装で……」

 確かにちょっと変だとは思ったのだ。指導教授に泣きつくにしても、わざわざそこまでする必要があるだろうかって。

「クロナ・ケイジの話も聞いとったしなー。飛び級までした天才も退学するほどのおっとろしい学校やったんさここ。ははー、そんなん、もーうちには無理やんさ! ってな」

 でも一方で、そんな「クロナ少年」のような人間を出してしまったことを、大学が──コー総長が本当に悔やんでいることも知った。

 ううん。だけやない──あの人は本当に、本当に全ての学生を同じように思うてんよ。

「あの日の前にも一度同じようなことしててんよ、うち。でそんとき、教授に辞めたいゆーたら、その日のうちに総長から直で呼び出しあってな」

 来年は面白い子が来る、あの子はきっとこの大学を変えてくれる。大学も、わたしも、そしてあなたも。みんなまとめて! それを見ずして、体験せずして去るのはもったいなさすぎる。

 だからヒーナさん、あなたもあとちょっとだけ頑張ってみない? ね、ね。ねー?

「その面白い子ゆーんが、」

「──シジマ」

 やってん。とヒーナさん。

「だからな、だから本当に楽しみにしてたんよ。本当に」

 けれど──死んでしまった。

「それで何かこう、心ん中ぽーっきり折れてもーてん」

 真っ二つやん、と。

 いったん持ち直したつもりやってんけど、やっぱあかん思ーて。

 それで今度こそ退学しようと。そしてどうせ後から呼び出されるのなら自分の方からコー総長のもとへ乗り込んでやれと。卒業を控えた先輩から無理やり借りてきた礼装に身を包んで。

 したらな、と。

「大学落ちたはずのハルくんが、その次の日にはもう奇跡送達士になっとってー、また堂々とこの街を歩いててん!」

 ホントはこっそり学内鉄道カレット降りて逃げよ思おて。けどな──けど。

「あーうちはもー何やってんにゃろー、って」

 にゃろ?

「大切ん人に死なれてー、けどその奇跡も遺されんで、とどめーにその子と約束してん大学まで落ちてもーて!」

 ぐさぐさ、ぐさ!

「なのにそいつ! ハル! おいてめーあんた。何でそんなに頑張ってるっちゃ!」

 ちゃ? そしてとうとう呼び捨てですか?

「とっておきの罰ゲーム用黒紅茶も全部飲み干して!」

 そんなん飲ませたんかあんたは!

「大丈夫あれ味は最悪やけんど健康にはめっさええから!」

 それはどうも!

「だからな──だから! うちは、うちだってな!」

 うちだって! とヒーナさん。机越しに一段と身を乗り出すようにして、

「負けてらんないやん! こんな頑張ってんハルに! うちだって、うちだって── !」

 ……ぐす。

 え、ヒーナさん泣いて──?

 ぐず。ぐすぐす──ちーん!

「え? 何い? 誰か他におるんやっけ?」

 ヒーナさんじゃない。

「あー。ヒーナさんが来た時にはもうおねむでしたので、お忘れかもしれませんが」

 ぼくはまだ手にしたままのレイテル鯖サンドを口へ放り込むと(美味しゅうございました)、斜めに傾いだ椅子から立ち上がった。

 部屋の隅に一つだけ残っていた寝台(それもここを選んだ理由の一つ)の、ボロ雑巾のような毛布を摘まんで持ち上げる。

「う、うう、うっう……ぐっすん。──はぐ?」

 小さく丸まっていた肌着姿(だから寒くないか?)のユーリが、枕代わりにしていたぼくの鞄(コラ!)の上でちまっと顔を向ける。ちなみに髪はほどいてざっくり三つ編み。朝に結び直すのはめんどうだが仕方がない(双翼尾髪の髪型は妹姫指定、就寝時を除き絶対厳守)。

 涙と鼻水だらけのその顔に(泣いたり鼻水たらしたりする電素人形はきっとこいつだけだろうな)、取り返した鞄の中から捨て紙を出して押し付ける。

 ちーん! と鼻をかむユーリ。

「毛布でかむな。あとでぼくも寝るんだから」

「う、うーわがってうー。けどはぐ、はぐー!」

「ハグって誰だ。いやわかってる。だから皆まで言うな。ほら、ちーん!」

「ちーん!」

 まったくこういう話には本当、とことん弱いんだから(さすが体育会バカ)。

「ま、そんなわけなので」

 ぼくは大きくふうっと息をつくと、自然に浮かんだ笑みをそのままヒーナさんへ向けて、

「話の続きは、また後日ということで」

「やね」

 ヒーナさんも席を立つ。

「けどそれには──」

「わかってます」

 ぼくは、ぽん! と鞄を叩き、まだぐずぐずやっているユーリへもう一度うなずくと、

「合格してみせます──あいつの奇跡を守って。絶対に!」

「うん、待ってるよ!」


      ☆


 帝都大再試験/第二日(一八日〇九時四五分)/大学街/学内聖堂(主聖堂)


「……で? 何であいつ、お前の奇跡を受け取らなかったんだ?」

「わたしの奇跡はあなたのものだ、って──」

「あいつらしいなあ。はっは」

「笑い事じゃないよ。このままじゃわたし、奇跡喰らいになっちゃうぞ」

「……それ冗談でもあいつの前で言うなよ?」

「あ、うんそうだったね。ごめん──って、もう言えないけど」

「──けどまあ、あいつだって本当のお前の気持ち、知ってるくせにな」

「本当のあなたの気持ちも……ね?」

「はん、てめえで言うか」

「あは」

「それでやつは?」

「退学しちゃった。神官になるって。今頃はもう王国かな。アリスルーン王立修道大学院」

「逃げるにしてもまた思い切ったな」

「そうじゃなくて、戦術葬奏士でしょ。最終目標は」

「んなことも言ってたっけ」

「ゼヨナの町で何もできなかったことが、ずっと引っかかってたみたい」

「まったく……しゃあねえなあ」

「だよねえ」

「しゃあねえから、おれも王国へ行くよ」

「ふうん──え? はい? 何ですと!?」

「あいつが葬奏士なら、おれは送達士になる」

「あなたまで大学辞めて、神官になっちゃうの?」

「違うって。そっちは確かフツーの人間でもなれるんだよ──ですよね? 奇跡送達士?」

「──あ? ああ、はい。臨時でよければ」

「ほらな! 大学の方はまあ、長引くようなら休学すればいいし」

「でも……いいの?」

「いいさ。送達士ならどこへでも入れるはずだし──ですよね?」

「え? ええはい……まあいろいろ注意とか、気遣いとかは必要ですけど」

「てなわけで帝宮だろうと王宮だろうと入れるんだ。修道大学院なんて軽い軽い」

「だけど──ああもう、わたし奇跡なんて、いっそのこと遺さなきゃよかったよ!」

「バカ言ってんじゃねえ!」

「── !」

「どこの誰宛てだってかまわねえよ! おれでなくても、あいつのでなくてもいい!」

「だって……」

「だってじゃねえ! 一番大事なのはお前だ! お前の想いだ!」

「わたしの……想い」

「奇跡を遺せるほど大切に想えるやつができた──もうそれだけで最高の人生さ、だろ?」

「最高、だったのかな……だってもう死んじゃうし。死んじゃったし」

「決まってるだろ! おれとあいつ、最高の二人がおまえを取り合ってたんたぜ?」

「あははは、自分で言ってる」

「笑うな。本気だぞ」

「ありがと……でも、でもさ。それでもわたしの人生、ここで終わっちゃうんだよ?」

「まだ終わってねえよ──終わらせねえよ」

「……!」

「お前の奇跡、お前の想い。おれに預けろ。必ず絶対、おれが届ける。届けてやる!」

「……うん」

「あいつがお前の奇跡を手にするまで、絶対おれは諦めない」

「……うん」

「見てろ、絶対あいつ泣かしてやる!」

「見れないって。……でも泣くかな? 泣いて、くれるかな?」

「任せろい。殴ってでも泣かしてやる!」

「それ涙の意味違う!」

「オトコの拳には特別な力があるんだよ」

「えー何それ」

「だから笑うとこじゃねえよ」

「あははは。ごめん」

 でもだから。な、きっと。絶対。

 うん。わかった。約束。だよ。

 約束だ。おれは。おれは必ず──ああ待て、待ってくれ! まだ言いたいことが!

 ああ、ああ……ちくしょう、ちっくしょう! 

 ちっくしょおおおおおおおおお!

 うおおおおおおおお!


「はい、ちーん!」

「ちーん!」

 昨日あれだけ鼻水たらしてたのに、まだこんなに残ってたか。

「うるはい! ずびずび!」

「けどユーリも確か、聖櫃教会神官の位階を持ってたはずだよな──はい、ちーん」

「ちーん! 教区司祭補だ!」

 神聖王国では、王位継承権を持つ王族は全て神官位に階されるのがしきたりとなっている。

 そのためユーリも、高等部一年の夏には修道院で神官となるべく促成栽培を──もとい特別の修練を行っていた(おかげでその年の古式剣術大会の成績は散々だった)。

「だったらこの手の修羅場というか、愁嘆場も多少は経験あるだろ」

「だからって慣れるもんでもない! だいたい人間、感動する心を失ったら終わりだ!」

 何気にいいことを言っているがユーリ。やっぱりお前には教会司祭は務まらないだろうな。

 毎度毎度こんな調子で大泣きされてたら、訪ねて来る方も遠慮しちゃうだろうし。

「そもそもハル、お前がこんなところに来るから悪いんだ! ちーん!」

「はいちーん。だな。でも他に思い当たるところもなかったし」

 そう。ぼくらはある意味、この教会堂へ逃げ込んできたのだった。

 試験二日目。

 その朝早く──ほとんど日の出と同時に起き出して行動を開始したぼくらだったが、すでにその時点でかなりの「視線」を感じていた。

 いや起きたのは(ユーリの懐中時計が正しければ)確かに日の出時刻だったのだが、ユーリの髪を結うのにやたらと時間がかかってしまい(結う位置が違うだの左右の長さを揃えろだの注文が多い! 寝癖を「いやこれ夜の奇跡がくれた贈り物だから」などと真顔で平然と言い訳するシジマを見習え!)、結局外へ出た時には、もう街は完全に目覚めていたのだった。

 さらに昨日はまだ遠慮がち(?)だった学生たちも、今日はなぜか積極的に声をかけてくる。

「頑張れー!」

「やーん、かわいい!」

「彼女の分まで絶対合格しろよー!」

「ユーリたんもっと回ってー!」

「ここだけの話、実はあの帝國の七姫さまはな──うわ!」

 げろーん。

 等々──ていうかユーリ、大事な話の途中で吐くな(いつもより余計に回り過ぎ)。

 ……どうやらあの後、ぼくらと別れたヒーナさんがいろいろやらかしてくれたらしい。

 何でもあれから、街の食堂や居酒屋を歩き(飲み)倒してぼくらのことをぶち上げた挙句、最後はあの合格発表のあった広場で『ハル君を合格させて一緒に苦しむ落ちこぼれ共の会』を結成(仲間に入りたくない……)、夜明けまで気炎を上げ騒ぎまくっていたという。

 その中には怪しげな猫のお面をつけた「白髪の女の子」も混ざっていたとかいなかったとか(……聞かなかったことにしよう)。

 応援してくれるのは本当にありがたいのだが、でも目立ち過ぎて逆に隠れ場所を探すとか最終日の対策を練るとか、もはやそんな雰囲気ではなくなってしまっていた。

 他人の振りをしたくても奇跡送達士の白い制服はそれだけで目立つし、何より桜色の「双翼尾髪ツインテイル」をなびかせてぼくの周りを走り回る(犬か!)ユーリのやつが、これでもかと人目を引きまくってくれる。

 そんなわけで送達士姿でも目立つことなく、さらにユーリをおとなしくさせておける場所として選んだ(逃げ込んだ)のがここ、学内聖堂だったのだった──後者に関しては完全に逆効果だったけれど。

 主にユーリが迷惑をかけたお詫びと挨拶を兼ねて、暇そうだったシステル・メガネのもとへ。

「おやおや~? ここにはそんな名前のお洒落な美人システルさんなんていませんよ~?」

 などと言いつつ、(前回とはまた違う)眼鏡に手をやってにこっと笑うシステル・カデン。

 けれどすぐシステル・セリルに呼ばれて、奇跡送達士志望の彼を別室へ案内すべくその場を離れて行ってしまった。残念。

「さてと。じゃあ仕方ない、ぼくらもそろそろ出発しようか」

 けれどユーリからは何の返事もない。

「ユーリ?」

「──ハル」

「何だよ改まって」

 まだ少し赤い目元もそのままに、ユーリはぼくをじっと見上げるようにして、

「どうしてお前は泣かないんだ?」

「ぼくだってぐっと来たさ。けど横であんなに大泣きされたら、出る涙も引っ込むって──」

 違う、とユーリ。小さく首を振って、それからまたぼくをじっと見つめて、

「シジマのことだ」

「……何だって?」

「お前はまだ、シジマのために泣いていない」

「……泣いたさ」

「泣いてない──本当に心の底から、必死に泣いてるお前を、おれはまだ知らない」

「……ぼくにはまだ、あいつのためにやることがあるんだ」

「その奇跡か」

「そうだよ」

 ぼくは肩掛け鞄の上蓋をぎゅっと握るようにして、

「泣いてる暇なんてない。ぼくにはまだやることがある──あいつから託された奇跡を届けるまで、泣いてなんか──」

「関係ないだろ!」

 バカでかいユーリの声が聖堂内で幾重にもこだまして、またぼくの耳へと戻って来る。

「関係ないだろ! そんな事!」

 何事かと別室からちょこっと顔を出すシステル・カデン。けれどユーリはおかまいなし。

「ハル! お前はまだあいつの死とちゃんと向き合ってない! その奇跡を口実にずっと逃げてるだけだ!」

「逃げてるのはお前だって同じだろ!」

 上から怒鳴るのは卑怯だとわかっていたけれど、でもぼくは膝を折ることができなかった。

「おれは自分が逃げてることからは逃げていない!」

「何のこっちゃだ!」

 ぐっと胸をそらすようにして顔を上げたまま、ユーリはぼくをにらみ続ける。

「逃げて逃げて逃げまくって、どれだけ醜態をさらそうが泣こうが吐こうがもらそうが、でもそれでも! おれは絶対立ち止まらない! 決して許しを請うことはしない!」

 そこは立ち止まってちゃんと謝れ! いろいろ後始末する方の身にもなれ!

「おれだって辛い! でもおれが逃げることで、そんなおれを憎むことでどうにか頑張れているユーナのためにも、おれは逃げて逃げて逃げまくらなくちゃならないんだ!」

 おれ一人許されて楽になるわけにはいかないんだ! とユーリ。けど。

「知ったことか!」

「当たり前だ! お前におれの妹の面倒まで見てくれなんて言わない! けどな!」

 はあはあ! と小さな──上から見ると本当に小さな細い肩を上下させて、また涙ぐんで。

「けどシジマは違うだろ! あいつはおれの親友でもあるんだ!」

 ぐずぐず、と鼻を鳴らす。でもぼくの鞄の中の捨て紙はもう品切れだ。

「そしてハル! お前もそうだ!」

 涙も鼻水も流れるままに。それでも嗄れることを知らない人工の声に任せて、ユーリはその想いを容赦なくぼくへと叩きつけてくる。

「シジマのために泣けないお前を、おれはいつまで待ち続ければいいんだ!」

 紺色の制服の袖に包まれた細っこい腕が上がり、ぼくの白い制服をつかんで揺らす。

「おれは泣きたんだ! シジマのために! でも泣けないんだ! お前が泣かないから!」

「……泣けばいいだろ、泣けよ。ていうか泣いてるだろ今!」

「こんなんじゃない! こんなもんじゃない!」

 わーん! と聖堂内の全員が思わず耳を塞ぐほどの大声で泣きながらユーリは、それでも、

「これは悔し泣きだ! シジマのために泣きたいのに泣けないお前を泣かせてやれない、情けないおれ自身を心底悔やむ心の叫びだ!」

「いい加減にしてくれ!」

 ぼくは制服の裾を払うようにしてユーリの小さな手を強引に振りほどくと、

「勝手に泣いてろ、もういい。この先はぼく一人で行く!」

 言って。あとはもう振り返ることなく真っすぐに聖堂を出る。

 歩く。とにかく歩く。

 ユーリに合わせたゆっくりした歩調ではなく、本来のぼく自身の歩幅で。

 ひたすら歩く。

 振り返らない。振り返るもんか。

 前だけを見てただひたすら道なりに進み、でもそのままだと聖堂前の守衛門から出てしまうと気がついて仕方なく横道へ入る。

 その瞬間、横目に来た道がちらりと見えた(決して自分から見たわけじゃない)。

 そこにあいつの姿はなかった。

 ただ道の向こうに建つ学内聖堂の開きっ放しになっている扉の前で、まるでリーフチェリーの花びらのように小さな桜色の光が見えたような気がしただけだ。

「……上等だよ。ユーリ」

 上等だ。

 そしてまたぼくは歩き出す──と。

「よお。偶然だな」

 薄暗く狭い路地の先。壁に体を預け、長い足をわざとらしく放り出して通せんぼするように立っていたのは。

「……クロナ、少佐?」


      ☆


 帝都大再試験/同日(一八日一二時一〇分)/大学街(異国通り)/『田舎の湖畔亭』


「飯でも食わないか、奢るぜ」──と言われて、半ば強引に街中を連れ回されること実に二時間半(おい!)。連れて来られたのは結局、あの『田舎の湖畔亭』だった。

 レイテル湖畔の漁師宿を模したという店内(二階では本当に宿泊できる)は、お昼時にもかかわらず閑散としていた──というか、人っ子一人いなかった。

 ヒーナさんがいないのはわかる(二日酔いで死んでるのだろう)。けれどぼくらの他には、お客さんはおろか、あの気のいい店長夫妻の姿まで見えない。

 というか、大学街にあって様々な国の料理が楽しめると人気の「異国通り」自体、まったく人通りがなかった。

「遠慮するな。貸し切りだ」

「……また人払いしたんですか?」

 鞄を抱え込むようにして警戒するぼくに席へ座るよう勧めたあとで、私服姿──とはいえ、相変わらず黒い上下に黒い眼鏡(ただし今回は小さめの丸いレンズ)をかけたクロナ少佐は、勝手知ったる足取りで厨房へと向かいながら、

帝國軍おれたちがこの街でそんな真似できるか。やったのは総長だよ」

「コー総長が?」

「個人的にちょっとした貸しがあってな。そいつをまとめて返してもらったのさ」

 惜しかったが、まあ最後だしな──とクロナ少佐。

 あの総長にどんな貸しがあるのかも気になったけれど、その前に。

「最後──って、何がですか?」

「んー? ああいきなりだったから、さすがのあいつも少々時間がかかったようだ。けどまあ昼時には間に合ったし、結果オーライってことで許してくれ」

 思いきり聞こえない振りをされた。

「……あいつって、コー総長のことですか?」

「気にするな。むしろ距離を置かれる方が嫌なんだ──そういう人なんだよ」

 腕まくりしつつクロナ少佐は、さらに腰巻風の白いエプロンを手慣れた様子で身につけると、

「いつまでも一六歳のままのつもりなんだ。あいつはな」

「一六歳って、コー総長が? それってどういう意味──」

「お、今日はまたいいレイテル鯖が入ってるぜ。さすがに冷凍ものだが脂もよく乗ってる。こいつは旨そうだ。お前も好きだろ?」

「あ、はい──じゃなくって!」

「心配すんな。一人暮らしで料理には慣れてる。ちょっとしたもんだぜ?」

「だからそうじゃなくて!」

 思わず席を立つぼくへ、開放式の厨房から青銀色に光る大ぶりの魚を振り振り、

「悪いと思ってるよ。人払いが済むまでただ待ってるのも暇だったんでな。下の街へ来るのも久々だし、つい懐かしくてあちこち引きずり回しちまった」

 すぐできるから、まあ座って待ってろ──とその口元が笑う。

 ぼくはすとん、と席に着く。

 ……どうやら、まともに応えてくれる気はなさそうだ。

「実際あの観測所より下へ降りるのは、ここを中退して以来だからな──つーと」

「六年振り……ですか?」

「ふん、もうそんなになるか」

 顔は手元へ向けたまますっとぼける(わかってるくせに)。どうやら魚を捌いているらしい。客席からその様子は見えないけれど、せわしなく動く腕に迷いはない。

 ヒーナさんといい、頭のいい人はみんな料理が上手なんだろうか(だったらなぜシジマの作る「受験の夜食」はあんなにマズ……ごほんごほん)? 。

「おれもさ、引っ張り込まれんだよ。この店」

 魚の下ごしらえを終え、天火箱を余熱する間に付け合わせの野菜を刻み、汁物用の大鍋にも火を入れる。まるで器楽演奏が始まったかのように、厨房が一気に賑やかになる。

「推薦枠だったから、合格発表なんてのは別に見に行く必要もなかったんだが。あの頃はおれもまだガキだったし──何せ一四だぜ。うわ!」

 一四歳……ぼくはまだ中等部二年で、シジマと一緒に教会の裏で猫に餌をやっていた。

「で、来たのはいいが、たった何歳か違うだけだってのに周りの連中がすごい大人に見えてな。正直、とんでもないとこへ来ちまったって後悔してた」

 といって「一四歳の天才少年」には他に行く場所などなかったし、それ以上に帰れるところもなかった。

「おれにはお前や、あのちびっこ王子みたいな連中もいなかったしな」

 その辺はまあ、わかるだろ? と大きく口元を釣り上げてにやりっと笑う。

「そうして途方に暮れてぼんやり歩いてたら、突然腕をつかまれて」

 クロナ少佐は、片腕をぐいっと上げて、

「ちょうど今、お前さんがいるテーブルに座らされた。そこから先はもう料理の皿が出るわ出るわ──あとから聞いたら、おれのことは総長から聞かされて知っていたらしい」

 この店はコー総長も常連なのだという。

 以前来た時にも気づいていたけれど、この店の壁には、学生たちが撮影したらしい大小の写真が何枚も貼られてあった。この席からはよく見えないが、たぶんそのどれにもあの白髪仮面(というと何かの物語の悪役みたいだ)の「少女」がいるのだろう。

 それは何年も前からずっと──どころかこの店で一番古い、最初に貼られた写真の中にも。

 じゅうう、と景気のいい音がして、すぐに脂の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。

 ぼくはお腹がぐう、と鳴るのをごまかすように、

「今さらですけど、まだ試験二日目ですよ──ぼくとの接触は禁止のはずじゃ?」

「そいつは姫──試験者の話だ。助言者たるおれには関係ないさ」

 要項をよく読め。試験の基本だぞ──まるでシジマみたいなことを言いつつ、焼きあがったレイテル鯖を熱くした鉄板へ乗せ、上からお店秘伝のたれ(だと前に聞いた)をさっとかける。

「ほいできた! ちくしょう旨そうだな」

 さらに汁椀と、白飯ではなく軽く焼き目を付けた酵母なしパン(王国の主食)まで添えて、少佐自ら席まで運んできてくれる。

「熱いうちにさっさと食っちまえ」

「じゃあ遠慮なく……ええと、いただきます」

 レイテル小王国では一般に広く使われている「箸スティック」を操り、湯気の立つ白身をほぐしてたれと絡める。箸使いの方は店に来る度ヒーナさんから猛特訓を受けていたので、どうにかこぼさす口へ運ぶことができた。

「──げ、うま!」

「げって何だ」

「ああえっと、でもほんと美味しいですこれ!」

「旨いのはタレのおかげだ。おれはただ切って焼いただけさ」

 腰のエプロンを外し、自分は厨房前の席(換気扇近く)で煙草を咥える。

「いいか?」

「どうぞ」

 店のマッチを(それだけは軍用らしい)厚手の靴で擦って火をつけ、煙草の先に移す。

 ほっとしたように一つ大きく煙を吐く。吐いた先から換気扇に吸い込まれてゆく煙。

 傍目には何だがものすごく無駄なことをしているような気もするけれど、たぶん当人的にはちゃんと意味があるのだろう。

 ぼくは言葉通り遠慮なく(まさか今さら毒入りってこともないだろう)、少し無作法だけれどパンにほぐした鯖を載せて食べたりして(これがまた旨い)、素直に食事を楽しんだ。

「あー(もぐもぐ、ごっくん)、もしかして少佐、ぼくが一人になるのを狙ってました?」

「まあな」

 黒眼鏡越しに煙草の先から立ち昇る煙を見つめつつ、クロナ少佐。

 やっぱり。

「あのちっこい王子さまがいちゃあ、ゆっくり話もできそうにないからな」

 わかります。わかりすぎるほどに。もぐ。

「もっとも一番の理由は、王国の奇跡──『アリスルーン』に聞かれたくなかったからだが」

「……どういう意味ですか?」

「さあな? ──とにかく今は」

 長い指先に煙草を挟んだまま、クロナ少佐はその手で少しだけ黒眼鏡をずらすようにして、

「今は、お前さんが守ってるあの猫缶の中身を教えといてやろうと思ってな」

「……帝宮では、聞いても教えてもらえませんでしたけど」

「気が変わった。知らないままリリゼに──姫さまに喰われるのもかわいそうだろ」

「喰われる?」

 ぷかあ、と煙草の煙を吐く。煙幕か。

 さらに疑問だらけで食事の手が止まったぼくへ、追い打ちをかけるように、

「そいつの中身は間違いなくアークスアンティーク──神さまが遺した奇跡だよ」

 今度こそ、ぼくの手から箸スティックが滑り落ちる。

『神級聖櫃』──アークスアンティーク。

 ゼヨナの悲劇を終わらせ、同時に今なおユーリを苦しめ続けている神さまの奇跡。

 その名を冠した我がアリスルーン神聖王国(要は聖櫃教会)においては、彼の奇跡は人によって殺された神さまが最後に纏っていた聖遺物が奇跡となったもの──とされている。

 人の姿を得て復活した神さまが、月の竜に守られた奇跡を得るために必要な七つの奇跡。

 人に殺された神さまが、いずれ復活する自分のために遺した奇跡──その正統な継承者であることの確かな証。

 けれど一方、帝國では、それは人が再び神さまを殺すために必要な力であるとされていた。

 神さまを殺した姫『ラグナリリティア』は、その身に纏っていた七つの装具(頭冠、胸当て、剣、楯、ガーターリボン、靴)それぞれに神さま自身から奪った奇跡を付与することで、最終的に神さまを滅したと──殺したと言われている。

 どちらが本当に正しいのか、未だ決着は出ていない。

 いずれにせよ、再び訪れるだろう神さまの復活に関わるその七つの奇跡を、ラグナリリティアは、共に戦った六人(七人とも言われる)の勇者と共に分かち合った。

 現在の王国や帝國を統べる王たちは皆、その勇者たちの血を引く「神殺しの末裔」なのだ。

 神殺し──それは人類が、創造主たる神の枝から自らを切り離し、新たな大地へと芽吹いたことの証。

 それは人類最初の試練。もしくは(シジマ言うところの)究極の親離れ。

 結果として人類は、旧神に代わりこの世界に君臨することとなった。

 さらに神さまが遺した奇跡によって驚異的な発展を遂げ、この大地へしっかりと根を下ろし、のみならず今やその枝先は月にさえ届こうとしている。

 その月に封じられた竜は、人類に対して神さまが遺した最後の贈り物──もしくは呪い。

 神さまを殺して世界を人の世としたことが正しかったのか間違っていたのか、その裁定を下すもの。

 もし正しければ、人は神さまが遺した様々の奇跡により更なる繁栄を得ることになる。

 けれど間違っていれば、文字通り人の世は終わる。

 人の中に生まれた次なる世界の継承者によって、人は滅ぼされる。

 その者(教会にあっては「復活した神さま」)によって封印の解かれた月の奇跡によって。

 神聖王国──聖櫃教会は、その「約束の時」をひたすら淡々と待ち続けている。

 人類の存在が許されるか否か。その裁定が下される「審判の日」を。

 いざその時が訪れた際には、人類存続を是とする「正しい裁定」が得られるよう、今を生きる人は皆かくあるべし──とその指針を与え導きながら。 

 対して。もしそんなやつが出てきたら、それこそアークスアンティークの力を再び結集させて排除してしまえ、何度復活しようがその度に殺してしまえ、何ならいっそ月ごと破壊してしまえ! ──というのが帝國の立場だったりする(あくまでもぼくの理解する範囲において)。 

 人に奪われし七つの奇跡を得て月へと昇り人類の裁定者ならんとする者(復活した神さま)が、今度こそ我ら人と共にあられるべく、その慈悲をひたすら待ち続けている聖櫃教会。

 月の竜へと至る鍵でもあり、さらに神殺しの最終兵器でもあるアークスアンティークの守護を人類永遠の義務とした俗世の諸王君主たち。

 両者の対立はおよそ七〇年前、最悪の形で表面化してしまった。

 人類同士による神級聖櫃争奪戦──アークスアンティーク大戦。

 神殺しの聖戦を唯一の例外として、「奇跡の力」を無制限に使った人類史上初の──そして今のところ最後の大戦争。

 多くの悲劇を生み、あの悪名高き「最弱の殺戮兵器」たる電素人形が初登場したことでも有名なその戦争は、最終的には、レアル宗主帝國を筆頭とする護帝五国(通称六華帝國連合)と、聖櫃教会主導のアリスルーン神聖王国(レイテル小王国含む)の二大勢力が対立均衡する形で一応収束した。

 その後、各々が封じるアークスアンティークを不可侵とすること、及び国際間紛争における奇跡の永久不使用(電素人形を除く)を定めた条約──『ラグナリリティアの誓い』が結ばれ、現在に至っている。

 けれど。

「そうやってどうにかこうにか均衡を保っているこの世界に、どの勢力にも属さない新たな奇跡──八番目のアークスアンティークが顕現したとしたら?」

 その可能性自体は、大戦以前から様々に指摘されていた。

 神殺しのラグナリリティアが身につけていた中で唯一、今なお行方不明となっているもの。

 その右手の薬指にあったとされる安物の、それでも金の台座に真紅の宝石をあしらった指輪。

 また子どもだった頃、大切な幼馴染の少年から贈られたという彼女の宝物。

 彼女を描く神殺し英雄譚には必ず登場する悲恋の象徴。伝説の存在。

「ラグナリリティアの指輪……『セアルシア』」

 世界唯一の大陸と同じ名を持つ、古い古い言葉で「大切な宝物セア・ル・セア」と呼ばれる幻の指輪。

 指輪──猫缶の中にあったシジマの宝物。

 はめれば恋が叶うという、ただそれだけの小さな奇跡──そのはずの。

 でも、けれど──もしかしたら。

「心当たりがあるようだな」

 舟形の陶器製灰皿で煙草をすり潰しつつ、クロナ少佐はその手元に顔を向けたまま、

「そいつには、人として生まれた神さまを本物の神さまにする力がある──と言われている」

 人として生まれた神さまを──本物の神さまに。

 天文台で出会った、白い翼の「少女」……

 シジマと同じ顔をした、赤い髪の、自称「神さま」。

 人の身でありがら、けれど人ではない、不思議な存在──

「もう一つの方にも心当たりがあるって顔だな──やっぱりか」

 さっと立ち上がるクロナ少佐。ぼくも、はっと目を覚ましたように、

「……もしかして、はったりですか? ぼくをだました?」

 ぼくから必要な反応(情報)を引き出すための。

「飯は奢ってやったろ」

 思わず食べかけの鯖焼きに目を落とす──え? じゃあこれって、まさか情報料代わり?

「おれはこれでも情報局の将校だからな。ただで情報をもらおうなんてケチはしない」

 ぼくから得た情報の価値はレイテル鯖の網焼き程度ってことか。

「こっちも猫缶の中身を教えてやったろ。おまけに一つヒントまでつけて──おれにとっちゃこれは、対等どころか出血大サービスの情報交換だよ。料理の方はせいぜい、再試験中の大事な時間をさかせちまった詫び料ってとこかな」

「おまけのヒント──手がかり?」

 はて? そんな話どこかにあったっけ?

「あの、すみませんがそれ、もう一度聞かせてくれませんか?」

「知るか。聞き逃したのならそっちが悪い」

 えー!

「あとそいつは残さず食えよ──おれが飯を奢るなんてもう二度とないぞ」

 席を立って店を出ようとする彼を追って腰を浮かせたぼくへ、さらに少佐は、

「食い残したら、戻って来た店の連中だっていい思いはしないだろうしな?」

 うわきったね!

 でもまさか、それを見越しての食べ物提供だったとか? さすが情報局少佐。自分が消えるまでぼくをここへ足止めするための見事な高等戦術だ(というほどのものでもない)。

 むろんそれ以前に、王立学院古式剣術部前副主将(兼宴会幹事担当役)として、「出された食い物を残す」という選択肢は最初から存在しないのだが。

「少佐! クロナ少佐!」

 しかし黒衣の青年将校は、ちろんと鈴の鳴る薄緑色の扉を開けると、背中を向けたまま、

「……人として生まれた神さまを本物にする奇跡。ならそれを『人以外』のやつに使ったらどうなるかね」

 え? と疑問を向けるぼくを例によって無視すると、少佐は少しだけ迷ったように頭をかいてから、やっぱりぼくへ顔を向けるようにして、

「姫は──リリゼはああ見えてけっこう寂しがり屋だ。よければ友だちになってやってくれ」

「……は、はい?」

 一介の──本当にまだ何者でもないただの少年が? 仮にも帝國のお姫さまと?

「お前はそんなこと、気にしないやつだと思ってたがな」

「ユーリ……王子のことですか? いえあいつはまた別で──」

 それより何より。リリゼ姫とぼくは今、シジマの奇跡を巡る敵同士ですし。

 だったな、忘れてたぜ──と少佐ウソつけ。さらに後ろ手に扉を閉めつつ、

「おっとそうだ。入学したらちゃんと卒業しろよ? でないとコー総長が泣くからな」

 じゃあな後輩──大学と世界を頼んだぜ。

 扉の隙間からひらひらっと手を振ると、今度こそ本当に扉を閉めて去ってゆく。

 ぼくは席に座ると、転がったままだった箸スティックを持ち直して、とにかく料理の残りを食べ始めた。一人で。黙々と。がつがつと。

 いったいぼくは何をやっているんだか。でも。

 すっかり冷めてしまったけれど、やっぱりレイテル鯖は美味しかった。


      ☆


 帝都大再試験/同日(一八日二三時五九分)/大学街(古本屋街)/空きたぶん


 気がついたら、「今日」はもうあと一分しか残っていなかった(ユーリから預かったままの懐中時計が正確ならばの話だけれど)。

 一つだけ生きていた電素灯のぼんやりした光の下で寝転がっていたぼくは、開いたまま胸の上に置いていた本をまた手に取った。

 本を眺めながらゆっくり寝返りを打つ。と、それだけでぎしりと床が悲鳴を上げた。

 無造作に積み上げられた無数の本のせいで、もういつ床が抜けてもおかしくない(近隣の本屋が共同で倉庫代わりにしているとか)。はっきり言ってヒーナさんの研究室よりもひどい。

 昔は高価かつ人類文明の代名詞的存在でもあった(それゆえ奇跡を宿す『聖櫃』として選ばれる機会も多かった)本だけれど、奇跡絡みの電素技術が発達して大量生産が当たり前となった現在にあっては、その値段も文化的価値も下がる一方だ。

 王国でも本はどんどん安くなっていて、子どものお小遣いでも気楽に買える娯楽物となっている。今も鞄に入れている文庫本だって、初等科時代に背伸びして(シジマに対抗して)自分で買ったものだ。古い城に閉じ込められたお姫さまと、その近くの村に住む少年との出会いと別れを描いた(ありがちな)娯楽小説。けれど本当にに面白く読めるようになったのは、買ってから三年目、初等科の最終学年になってからだった。それでも今では、家を離れる時には必ず鞄に入れておくほど好きな本になっている。

 とはいえさすがにここは学徒の街。ゴミ同然の扱いとはいえ、そのほとんどは今のぼくですらまったく歯が立たない専門書だったり、まったく知らない言語で書かれた何かだったり(内容の見当すらつかない)した。一方で料理指南系の本が意外に充実していたりして、何となく納得してみたり。

 それでも探せば、読めるものもけっこうある。本当はラグナリリティアについて書かれた学術書的なものを探していたのだが、気がつくと娯楽寄りの物語ばかり読んでいた。

 本当なら明日(おっともう「今日」か)の日の出には行動を開始するはずの、リリゼ姫とクロナ少佐への対策を考えるべきなんだろうか、どうもそんな気分になれない。

『リリゼと友だちになってやってくれ』

 まるで自分の妹のようにその名を口にしたクロナ少佐の言葉が、喉に残った小骨よろしく、ずっと頭に引っかかっている(上手く捌いたレイテル鯖に小骨は残らないが)。それだけじゃない。街を歩いていても、むしろ枯れてしまったサーシアリーズばかりが目に付いてしまう。

 相変わらず声を掛けられることも多いけれど、まともに笑顔さえ返せない。

 ラグナリリティアに関する情報収拾というのも半ば──というかほとんど口実で、要するにぼくはまったくやる気を失っていたのだった。

 まだ日の暮れないうちから潜り込んだこの場所で、たった一人、山ほどある相談事を話したいのにその相手もなく、日付が変わる頃までほとんど何もせず、結局は試験中の貴重な時間をただ本を眺めて過ごしていた。

 一人──そう、ユーリはいない。ぼくの居場所くらい、コー総長に聞けば教えてもらえるだろうに(試験要項にそれを禁じる項目はない)。

 まさかクロナ少佐よろしく、単独でリリゼ姫の元へ突撃しているわけもないだろうし(ないよなユーリ? まさかだよな? ……何か不安になってきた)。たぶんあいつは、まだあの教会にいるんだと思う(きっとそうだ)。そこでぼくを待っているのだ。

 だからといって、もちろんこっちから迎えに行くつもりはない。

 また要らない意地を張り合って──と、ここにいない誰かがもう忘れてしまった声で笑う。

 黙れ、とぼくはわざと声に出して言った。

「文句があるなら面と向かって言え。ユーリの枕元には化けて出るとか言ってたくせに」

 反対方向へ寝返りを打つ。床が悲鳴を上げるのを無視してさらに転がり(さすがに送達士の制服の上着だけは脱いでいたが)、ほこりまみれになりながら買い置きの菓子パンに手を伸ばす。でも途中で止まる。お腹はすいているのだが、さっきからずっとそんな調子だった。

 日が昇れば、いよいよあのリリゼ姫との本格的な猫缶争奪戦が始まる。それに備えて体力を蓄えておかなきゃいけないのに。それはわかっているけれど。

 昨日の夜はヒーナさんの差し入れがあったな、と思い出す。

 受験の時に初めて知り合ってからずっと元気で賑やかな人だと思っていたけれど(まあだいたいはその通りなのだが)、でもやっぱりヒーナさんはヒーナさんで、いろいろ悩んだり苦しんだりしていたのだった。

 それはでも、コー総長も、ユーリも、あのクロナ少佐だって変わらない(はずだ)。

 悩んで、苦しんで、悲しんで。たまには笑って。

 まったく生きてゆくのも大変だよ。シジマ。

 だからって死ぬのが楽だとは思わないけれど。

 だってきっとお前は死にたくはなかっただろうから。

 死んでよかった、楽になったなんて絶対に思っていないだろうから。

 菓子パンの横に置いた鞄をじっと見つめる。

 シジマが遺した奇跡──ラグナリリティアの大切な指輪。

 バラバラになった神さまの奇跡。その最後の一つ。

 猫缶の中にあった古い指輪。シジマの宝物。

 白い翼の少女。シジマと同じ顔の。赤い髪の。

 名前は──


『次に会った時、その名前で呼んでくれたら奇跡をあげる』


 何かがつながりそうで──でもまだ何かが足りなくて。

 ただ一つ確かなのは、この古本の山の中にそれはないってこと。

 だったら探しに行かなくては。でもどこへ?

 小さな灯りの下、積み上がった本に窓もふさがれ、ひたすらほこり臭い空気の中で(古本の匂いは嫌いじゃないが)、すきっ腹を抱えて、ぼくはただじっと丸くなっていた。


      ☆


 帝都大再試験/第三日目(一九日〇六時一〇分)/大学街(古本屋街)/空き家の前


 結局ほどんど寝付けないまま、ユーリの懐中時計(母王妃の形見)とにらめっこしていたら朝になっていた(おかげで寝坊せずに済んだが)。

 これから明日──シジマの学生葬がある日──の日の出までが、史実上の再試験本番。

 奇跡送達士の制服に袖を通し、鞄を肩に掛け、ほどんど陽の射さない薄暗い部屋を出る。

 本を踏まないよう、何より途中で踏み板が抜けないよう祈りつつ階段を降りて(二階にいたのだ)、やっぱり本まみれで細くなった廊下を横歩きで抜けてやっと扉を開ける。

 一応は不意の襲撃があっても積み上がった本で防げるかも──とか期待していたが、むしろぼくの方が閉じ込められていた気分だ。

 外に出て、裏通りにしては広めの道の真ん中に立つ。振り向けば長い影。

 本が傷まないよう、日中の日差しを避けるべく寄り集まった書店街にも、斜めに差し掛かった朝の光が容赦なく降り注いでいる。

 うん。今日もいい天気だ。

 陽の光を浴びる花のように大きく伸びをして、やっぱりまだどこか古本臭い空気を大きく吸い込んで、はっと吐いて顔を戻す──と、その先に。

 新鮮な陽光を背景に、一人の「少女」が立っていた。

 ユーリ……と出かかった声が、あわてて喉の奥へ駆け戻ってゆく。

「おはよう。ハルツグ・ヨゾラ受験生」

 代わりにぼくへ声をかけ来たのは。

「おはようございます。──リリゼ姫殿下」

「一人、かな?」

「そちらも」

「お互い、助言者とはうまく行っていないようだな」

 あいつの料理はうまかったか? と姫。

「すごくおいしかったです」

「らしいな。食った者は皆、口を揃えてそう言うんだ」

 まるで他人事のように言うと、リリゼ姫は、

「残念ながら、わたしは味わったことがないのでね」

「それってやっぱり、正式な宮廷料理師が作ったものしか口にしてはいけない──とか?」

 だとしたら少しもったいない気もする(ユーリなら断固抗議するだろう)。

「いいや──ただお前の人形王子とは違い、わたしの方は、人の食べ物は口に合わないんだ」  

 リリゼ姫のその言い回しは気になったけれど、それよりも。

「……あの、もしかして昨日、そのユーリ──王子がそちらにお邪魔しませんでしたか?」

「さあ、どうだったか──わたしに応える義務はあったかな?」

 ぼくは小さく首を振ると、改めて鞄の中から懐中時計を出して、

「ところで、ずいぶんと早いお着きのようですが」

「わたしはちゃんと日の出を待って行動を開始したぞ。疑うならコー総長に聞いてみろ」

 聞かなくても、そもそも規約違反をしたのならその時点でコー総長にはわかっていただろう。

 つまりリリゼ姫は、日の出までは──つい数分前までは、間違いなく待機場所である帝宮にいたのだ。

 ちなみに帝宮とこの古本屋街は、多分直線距離でも半理路リールは離れている。まっすぐ歩いても三〇分はかかるだろう。曲がりくねった道を歩けばさらに時間がかかるし、走ったところでたかが知れている。自動車で走れる道は少ないし、スクータを使ったにしては近くにその姿もない。

「どうやってものの五分で帝宮からここまで来たのか、聞いてもいいですか?」

「走ったのさ。この足で。我が同族の──ユーリ王子殿下の匂いを頼りにね」

 最初に天文台の前で会った時と同じ(に見える)、濃紺の制服風ドレスの裾から伸びる黒いタイツで覆われた細身の足を、軽く叩いてみせる姫。

「殿下の匂いが消えてしまったので最初はあてずっぽうだったのだが、そちらがさっさと外に出てきてくれたおかげで、無駄に走り回らずに済んだ」

 ありがとう、と笑う姫。けれどぼくは、

「王子の、ユーリの匂い?」

「言ったろ? わたしは電素人形には少々思うところがあると」

 お前には彼の王子の匂いが染みついているしな、と姫。

「ほこりや古本の匂いで隠そうとしたのはさすがだ。そのまま籠られていたら、発見するのにあと数分は余計にかかっていただろう」

 褒められているのか嫌味なのかわからないけれど(そもそもそんなつもりで古本にまみれていたわけじゃないし)、いずれにせよ余裕たっぷりの姫に、

「匂いを頼りに走ってきた? 街の中を?」

「──の、上を」

 上? ……ってもしかして、屋根の上?

 でもそんなことが? だってとても人間業じゃないし(ユーリの匂いも含めて)。

 たとえできたとしても、たった五分程度で来れるはずがない。

 それこそゼヨナの悲劇で山向こうの町を襲った奇跡喰らいでもあるまいし──え?

『知らないままリリゼに──姫さまに喰われるのもかわいそうだろ』

 唐突に忘れていたはずのクロナ少佐の言葉が蘇る。

 喰われる──何を? 奇跡……シジマの奇跡を? 姫に? 

 奇跡を喰う──喰らう姫。

 日の出からたった数分でぼくの前に姿を見せた、人を超えた異能の姫。

「いやでも、だって、まさか……帝國のお姫さまが」

 けれどリリゼ姫は、まるでぼくがその結論を自分で導き出すのを待っていたかのように、

「そうだ。わたしは『奇跡喰らい』だ」

 口元に浮かべた笑みが広がるにつれて、隠されていた一対の「牙」が姿を現す。

「世の中には、まるで生きているかのように表情豊かな電素人形もいるのだ。人のように笑ってしゃべる『奇跡喰らい』がいても不思議はなかろう?」

 言って──どこに持っていたのか、何かを包んだ赤い薄布を手にした腕をぼくへ突き出してみせる。

 自ら正体を明かしたリリゼ姫の手にある、あちこちユーリ用の絆創膏がくっついている薄布の包みを見ても、ぼくはどうにかその場に立ち続けることができた。

 どれだけ心で動揺しようと、絶対それを相手に見せるな──古式剣術の試合前に必ずかけられるユーリの言葉。でも。

 でもそれは。その包みは。

「奇跡だ──おまえの。シジマの。その器たる聖櫃だ」

 あの帝宮での会合の時、ぼくはこっそりとそれを長机の下へ貼り付けておいた。

 シジマの猫缶を包んだ薄布ごと、ユーリ用の強力な絆創膏で。

 まだコー総長の話が始まる前。リリゼ姫との「対決」の直前に。

 せめてもの抵抗のつもりだった。

 その後に再試験が始まっても、あえてそのままにしておいた。下手に持っているよりも相手の裏をかけると思って。そう期待して。ユーリにも内緒にして。

 けれど無駄なことだった。

 リリゼ姫には最初からわかっていたのだ。奇跡の場所は。

 だって『奇跡喰らい』には、それがわかるから。わかってしまうから。

 リリゼ姫は果物の皮をむくように薄布を外すと、あの猫缶を顔の前に持ってきた。

 そして──噛みついた。

 喰らいついた。

 がりがり、ばりばり。

 それはものを食べる音ではなく、破壊する音だった。

 金属の空き缶を──猫缶を。

 シジマの奇跡を。

 シジマの想う大切な人のために彼女が遺し、そしてぼくへと託した大切な奇跡を。

 破壊し、喰らい、飲み込む音だった。

 ぼくはただ立ち尽くしたまま、他に何もできないまま、異能の姫が──帝國の第七皇女が、人ならざる鋭い牙を晒してそれを喰らい尽くすのを、ただひたすら見つめ続けていた。

 ……くっくっく。

 最後のひとかけらを咀嚼し飲み込んだ姫が──『奇跡喰らい』が、嬉しそうに喉を鳴らす。

「くっくっく──はーっはっはっは! 見たか! 見たかクロナ! 見ているか! これで、これでわたしは、わたしはおまえと一緒に── !」

 すこーん!

「──うきゃん!?」

 高笑いするリリゼ姫の頭のてっぺんに何かが当たった。

 道に張り出していた軒先から向かいの庇へと飛び移った猫(黒かった!)が、その大跳躍の間に咥えていた何かをリリゼ姫の上で落っことした。

 姫の頭を直撃したあと、ころころと転がってきたそれが、ぼくのほこりまみれの靴先に当たって止まる。

 思わず拾い上げたそれは、塩茹でレイテル鯖の空き缶だった──もちろん、猫用の。

「これって……」

 それはぼくがシジマから預かって、そして今リリゼ姫に喰われたはずの、あの猫缶だった。


      ☆


「……どういうこと?」

 たった今、目の前のリリゼ姫に喰らい尽くされたはずの猫缶が、なぜここに?

 けれど当のリリゼ姫は、高笑いから一転、どこか怒っているような顔で腕組みをしていた。

 確かにあの状況で頭の上に猫缶を落とされれば、舞台劇なら大笑い確実だろうが、もちろん今はそんな喜劇を演じているわけではない。シジマの奇跡(とぼくの帝都大入学)を賭けた、本気で命懸けの真剣勝負の場なのだ。

「やはりか──」

 腕を組んだまま、やっとリリゼ姫が言った。

「やはり? じゃあ何か心当たりでも?」

 けれどリリゼ姫は、肩をすくめるようにして「そいつをよく見てみろ」としか言わなかった。

 ぼくは言われた通り、手にした猫缶を陽に透かすように掲げてみたり、中を覗き込んでみたり、匂いを嗅いでみたり、「ねこねこ大満足シリーズ! ほんのり塩茹でレイテル鯖大盛り」の文字と猫の顔(あんまり上手じゃない)が描かれた缶周りをじっくりと観察してみた。

 いつの間にか顔がくっつくほどに体を寄せてきたリリゼ姫も、じっと息を詰めるようにしてぼくの手元を──そこにある猫缶を見つめていた。

「違う──シジマのじゃない」

 帝都大筆記試験問題に臨むような慎重さで吟味した結果、ぼくはそう決断を下した。

 そう判断するしかなかった。

 なぜって、それにはまだ値札の封紙シールが貼られてあったから。

 シジマが遺した猫缶は、そのあたりは綺麗に剥がされてあったから。

 一方で猫缶の底に打刻されていた消費期限は去年の年号になっていた。この手の缶詰の消費期限がおおむね三年間であることを考え合わせると、それは最近のものではなく、やはりシジマとぼくが買っていた頃に店に置かれていたものであったと推察された。

 では結局、先にリリゼ姫に喰われてしまった猫缶が本物だったのか?

「違う」

 こちらは当のリリゼ姫が即座に断ずる。

「もしそうなら、その空き缶が『出現』することはないからな──だがよりによって猫が咥えて来るとか! 絶対わかってて喰わせたなあの黒眼鏡野郎!」

 本当に悔しそうに(石畳にひびが入るほど)地面を踏みつけるリリゼ姫。こわ。 

「あの……つまりこれって、どういうことですか?」

「帝國皇室枢密院、帝國総軍情報局の双方から生涯追われる身になりたいなら教えてやる」

「帝國の姫殿下が『奇跡喰らい』だと知っただけで、もう半分死んでます」

「だったら残り半分、せいぜい大事にするんだな」

 それでも割れた石畳を爪先でほじくるようにしながら(道を破壊するのは止めましょう)、リリゼ姫は、

「そもそもわたしは、自身が『奇跡喰らい』であることを明かすのは反対だった」

 何よりそれは、「帝國の極秘事項」を知ることでぼくの身が危うくなることを案じて。

 しかしクロナ少佐が言うには、本物のシジマの猫缶を手にするには、いずれにせよぼくの目の前でそれを喰らってみせる以外に方法がなかったのだという。

 もし喰らったのが偽物だったとしても(たぶん偽物だろうが)、それで「本物」が出てくるはずだ──と。

「まさか頭の上から落っこちて来るとは思わなかったがな!」

 いやそれも偽物だったが! ──眇めのジト目でにらむ姫。

 ぼくはクロナ少佐よろしく知らん振りをして、

「……シジマの猫缶に偽物と本物があるって? 本当ですか?」

「こっちこそ聞きたい」

 ぼくの手にした猫缶を前に、二人してにらみ合う形になってしまう。

「何か心当たりはないのか?」

 猫缶。偽物と本物。複製──シジマの仕業。あいつのやりそうなこと。

 そういえば、前にもこんなことがあったような……あ。

「あ、って言ったな今! あ、って!」

「あーいやいや何でもないです。あ、そういえば朝ごはんまだたったなあって……とか?」

「わたしの拳でよければ力一杯ご馳走してやる。それこそ一発で目が覚めるようなやつを」

 一発で永遠に眠っちゃいますって。

 ぼくは観念して、改めて猫缶をリリゼ姫に示しながら、

「……聞いたところで、状況はむしろ悪くなると思いますが」

「かまわない! さっさと吐いて楽になれ!」

 ユーリじゃあるまいし──とぼくは少しだけ(本当に少しだけ)寂しく思いながら、

「ぼくの考えが正しければ……シジマの猫缶は、あと二〇〇個はあります」


      ☆


 帝都大再試験/第三日目(一九日一五時五四分)/大学街/奇跡古文書学科研究室


「──あったよハルくん!」

 猫缶を掲げつつヒーナさんが戻って来る。

 相変わらず雑然とした室内は、ヒーナさんを始め、入れ代わり立ち代わり訪れる学生たちでいよいよ騒然となっていた。

「ひのふのみー、……よーし一〇〇の大台突破!」

 がたつく椅子へ膝立ちになって、机の上に積み上げられた缶詰の数を数えていたコー総長がその小さな拳を突き上げる。

 いつの間にか『ハル君を合格させて一緒に苦しむ落ちこぼれ共の会』の仮作戦本部と化した古文書学科研究室──その場にいた学生たちも、各々腕を振り上げて「おおー!」と応える。

 少しずつ、でも確実に数の増えてゆく猫缶を前に、ひとり黙々と真贋鑑定をしていたぼくは、

「ていうかコー総長、あなたまで参加してていいんですか?」

「大丈夫。奇跡の力は使っていないから!」

 ここに集まっている人たちの中で一番楽しそうなコー総長は、三毛猫風の猫面越しでも満面の笑顔とわかる口元で(というか猫面自体が笑っているような糸目だし)、

「わたしのことはいいから、あなたは早く本物を見つけて頂戴ね!」

「はい──わかってます!」

 事ここに及んで、ぼくの帝都大入学再試験の内容──特に合格条件は大きく変更されていた(そもそもコー総長はそれを伝えるためにぼくの元へやって来たのだ)。

 リリゼ姫がシジマの猫缶(結局偽物だったけれど)を喰らったことで、何より帝國の──というかクロナ少佐とリリゼ姫の──真意が明らかとなったから。

 シジマの遺した奇跡が八番目の『神級聖櫃アークスアンティーク』と断じた上で、なおそれを『奇跡喰らい』たるリリゼ姫に喰わせることが彼らの──コー総長に言わせれば「クロナくん個人」の──目的だったのだ(もちろんこれらのことはヒーナさんたちには内緒)。

 今や試験云々よりもまずは猫缶の確保が最優先。その上で、先にぼくが本物の猫缶を手にした段階で試験終了となる特別規定が(双方合意の上で)採用されることとなった。

 おかげでぼくは、朝からずっと猫缶を探し回っていたのだった。しばらくすると、どこから話を聞きつけたのか、ヒーナさんを筆頭にあの『ハルくんと一緒に苦しむ会』の学生たちもそれに加わってくれた(ひどい略し方だ)。それでぼくの方は、みんなが探し出してきてくれた猫缶の鑑定に専念することになったのだった。

 そもそも論としては、リリゼ姫が猫缶を喰らった──破壊した段階で、この試験は終了するはずだった(試験規定違反で)。

 けれどシジマが猫缶に仕組んだ「罠」のせいで、言わばこちらも最初から試験規定を違反してしまっていたのだった。

 要はぼくが試験に持ち込んだのは最初から偽物だったわけで、もしあの場でリリゼ姫が喰らわなければ、それはずっとわからないままだったのかもしれないのだ。

 とはいえ、単純に「偽物」というわけでもないところがまたややこしい。

 詰まるところぼくが最初に持っていたのは、本物の猫缶──シジマの聖櫃ではなく、それを現出させるための「鍵」なのだった。

 たぶんシジマには、自分の遺した奇跡がどういうものなのか、それがこの世界にどういう影響を及ぼすのか、それなりにわかっていたのだろう。その上で帝國の妨害に備え、奇跡を宿した聖櫃たる猫缶にそんな「細工」をしたのだ──というのが、コー総長の見解だった。

「本物の猫缶を現出させる方法は、たぶん複数用意されていたと思うわ」

 ぼくが偽物と判定した猫缶を、それでも大事そうにきちんと並べつつ、コー総長は、

「クロナくんにも、具体的な方法まではわかっていなかったはず。リリゼ姫のことは、あの子にとってもかなり無謀な賭けだったのよ」

 気持ちはわかるけれどね──と、コー総長(というかクロナ少佐を「あの子」扱いですか)。

「あの子には……あの子たちには、もう時間がないから」

 コー総長は、何か言う前にその手をぼくの前に掲げて、

「今のは聞かなかったことにしてね?」

 ぼくは黙ってうなずくしかなかった──ならば残る問題は。

「ぼくに本物の猫缶が見分けられるでしょうか?」

 むしろあなた以外には無理でしょうね、とコー総長。

 実際、帝國組(クロナ少佐とリリゼ姫)の方は今、猫缶を見つけるそばからそれを喰らっているらしい(さすがに学生たちの前ではしてないようだが)。いずれにせよ、大学街に出現した猫缶を全て喰らってしまえばどれかは本物だろうという、それこそ乱暴な(ある意味帝國らしい)考えによって。

「だいたい何の妨害もなければ、最初にシジマちゃんがハルくんに託した猫缶が本物になっていたでしょうし」

 具体的には、ぼくが「シジマの大切に想う人」へ届けた段階で、それは本物になる──と。

 しかし今や、それは二〇〇個以上に分裂増殖して、この大学街じゅうにばら撒かれている。

 ちなみに二〇〇というのは、シジマとぼくが野良猫のために買った猫缶の数。

 あの猫との付き合いは初等部四年の夏から中等部二年の秋頃まで、おおよそ四年間。

 その間は週一回の割合で猫缶を買っていたので、少なくともそのくらいにはなっているだろう──という程度の予測でしかない。でもなぜか、ぼくにはその数に確かな自信があった。

 とにかく一六時を回った現在、ぼくらが確保した猫缶は一〇〇を超え、さらに順調に増加中。

『落ちこぼれ共の会』(だからこんな略でいいんですかヒーナさん)の仲間はもちろん、シジマの学生葬のために戻ってきた学生たちまでもが、今や大学街を走り回って探してくれている。

 いかにクロナ少佐が情報の専門家とはいえ、その数の差は圧倒的。

 加えてリリゼ姫側は(『奇跡喰らい』たる正体を隠しておきたい以上)、大っぴらにその異能に頼ることもできない。

 何せここは帝都大学──そこら中にうじゃうじゃいる(そして今は猫缶を探してゴミ箱まで漁っている)若者たちは皆、揃いも揃って優秀な奇跡研究者の卵たちなのだ。

 人語を操り人のように振る舞う『奇跡喰らい』なんてことが露見すれば、いかに帝國の姫とは言え、かなり厳しい状況に追い込まれるだろう(「帝國の七姫」といえば、それでもなくても帝都大では様々な噂の的になっているし)。帝國の秘密云々以前に学生たちに追い回され、少なくともシジマの猫缶を探す余裕はなくなってしまう。

 実際の話、午後を回って猫缶探しに参加する学生が増え始めた頃から、リリゼ姫側はすっかり鳴りを潜めていた。ぼくが猫缶鑑定に専念し始めたあたりからは、学生たちからの目撃情報もぱったりとなくなっている。

 その意味でも、現状ではぼくらの側が圧倒的に有利と言えた。

 けれど油断はできない。何たってこれは、あのシジマが人生の最後の最後で仕組んだ「いたずら」なのだから。

 それに(これはまだ誰にも話していないが)、ぼくには二つ、ちょっとした確信があった。

 まず第一に、シジマの猫缶は、きっと最後に見つかる一つが本物だ。

 こうして探している途中で本物が見つかることはない(と思う)。

 とはいえ、もしかしたら見つかる可能性もなしとは言えないので(シジマのやることを疑い出したらきりがないが)、探し出した猫缶の真贋鑑定はやるに越したことはない。

 それともう一つ。先のコー総長の言い分じゃないけれど、別の方法が──「最後の一つ」を見つけるよりも早く、本物の猫缶を発見できる近道がある。これはもう絶対に。

 シジマがそれを用意していないはずがない。あいつの思考に慣れていれば、ちょっと考えるだけで(ぼくでも)一瞬で答えの出る問題を前に、学院の教師たちが授業中ずっと悩んでいるのを何度も見てきた。出題者たるシジマはその間、ぼくと「黒王子ブラックジャック」という絵札遊戯に興じていたりする(他者には絶対無敗を誇るシジマだが、ぼくは何とか五〇回に一回くらいは勝てる。その時のシジマの悔しい顔がすごく面白い)。

 だから間違いなく、最短で真っすぐ本物に行き当たる方法はある(はず)。

 残念ながら今のところは、まだ何の見当もつかないけれど。

「……そういえばその、コー総長、」

 調べ終えた猫缶を渡す際に、ちょっと声をかけてみる。でもそこはコー総長、

「ユーリちゃんのこと?」

 さすがというか、もうバレバレというか(ていうかユーリもちゃん付けですか)。

「あの子なら、昨日のうちに一人で帝宮へ乗り込んで行って返り討ちに遭ってたわ」

 ああ……やっぱり。

 けれどコー総長は、ぺろんと小さな舌を出して、

「なーんて、うっそ! さすがに止めたわよ。試験監督権限で!」

 ぼくも「ですよねー、はっはっはー」と笑ってから、でもすぐ真顔に戻って、

「ウソですね?」

「ぎくり──なんちゃって?」

「誤魔化してもダメです──ユーリは、本当に一人で帝宮へ乗り込んだんですね?」

 そして返り討ちに遭った。たぶんリリゼ姫に。

 あのバカ。

 ぼくはまた猫缶鑑定に戻り。

「ハルくん」

「わかってます」

「ユーリちゃんのこと、心配?」

「知ったこっちゃないです」

「……ハルくん?」

「はい何でしょう!」

「さっきからずっと、同じ猫缶見てるけれど?」

 ……くっそう。あのバカ!

「──ユーリはまだ帝宮ですか?」

 お菓子を諦めた子どものように、力なくこくんとうなずくコー総長。

「ハルくん」

「止めないで下さい! やっぱり行きます!」

 確かにあいつの存在は試験の合否とは関係ない。

 助けに行ったところで、リリゼ姫側の時間稼ぎにしかならないこともわかっている。

 でも──だめだ。

 帝都大の試験も、シジマの奇跡も、もちろん大切だ。

 でもそれとはまったく別の意味で、別の気持ちで──あいつも大切なんだ。

 親友なんだ。

 本気で命のやり取りも辞さない真剣勝負の真っ最中で、ぼくの大切な親友を。その命を。

 無視なんてできるか。放ってなんておけるもんか!

「ハルくん」

「コー総長、だから止めても無駄で──」

 違うわ、とコー総長は、手袋をはめたような真っ白な手に何かの鍵をぶら下げつつ、

「あなた、電素バイクの運転はできて?」


      ☆


 帝都大再試験/第三日目(一九日一六時二九分)/大学街/月の竜観測所(天文台)前


「わわわわ、わーっ!」

 そろそろ色あせてきた空へ飛び出さんばかりの勢いで坂道の上へ躍り出た電素二輪を、やっとの思いで止める。

 研究室前に置かれていた電素二輪バイクは、ぼくが想像していたもの(あの足を揃えて乗る「スクータ」)とは全くの別物だった。

 帝都大学電素自動車研究部二輪班から総長権限で徴発したという電素二輪車は、涙滴型に成形した強力な電素箱を膝で挟むようにして乗る、要するにガチガチの競技用車両だった。

 その場で二輪班の学生から簡単な操作方法だけを聞き、三度転んで(すみませんごめんなさい!)二度ひっくり返りそうになり、一度コー総長を轢き殺しかけたところで「もう行け!」とお許しが出た。

 それでも走っているうちに何とか形になってきて、気がつけばもう目の前にはあの天文台の半円形の白い建物が見えてきた。途中、何度となく猫缶を探している学生たちを轢きそうになったり、お祭り騒ぎをかぎつけてやってきた屋台とぶつかりそうになったけれど(ぶつかったかもだけれど)、あまりよく覚えていない。

「……何とか生きているようね」

 ぼくの背中へしがみつくようにしていたコー総長が、やっと体を離す(道案内を兼ねて一緒についてきていた)。

 よっこらしょ、なんて見た目に似合わない(けれど年相応の?)掛け声ひとつ、ぼくの体を伝うようにして二輪から降り立つと、大きく手を広げて深呼吸をする。

「ああ、生きているって素晴らしい! ……そう思わない?」

 ぼくは返事をしなかった。だって(いつの間か黒猫の面に替わった)コー総長が話かけていたのは、ぼくではなく。

「生きる? 今のわたしたちには最も遠い言葉だな」

 帝宮へと至る道の前。背後に(こちらもやっぱり黒眼鏡の)クロナ少佐を従えて、リリゼ姫が答える。

 クロナ少佐は、その腕に小さな人影を横抱きにしていた。

 なぜ二人揃ってここにいるのか──などという疑問は一瞬で頭から飛ぶ。

「……ユーリ?」

 紺の制服をまとった小さな体。クロナ少佐の足元近くまで垂れ下がった桜色の髪。

 気がつくとぼくはリリゼ姫を押しのけるようにしてその前に立っていた。

「ユーリ? ユーリ、おい、ユーリ!」

 その小さな胸のやや左側。ぼくの拳が入るほどの大きな穴が開いていた。

「すまん」

 まるで本物の人形のように動かないユーリを抱えたまま、そっと頭を下げるクロナ少佐。

「あなたにしては失態ね──クロナくん?」

 ぼくの隣へ来たコー総長が、優しくも厳しい声で言った。

「もう歩くのも大変だってのに、昨日はあんな無茶をするから」

 わたしが帝國との約束で、自分からは帝宮の中を「見れない」ことは知っているでしょうに、とコー総長。

「ちょっと『後輩』にいいところを見せようと思って、張り切り過ぎた」

 そしてクロナ少佐は、再度、ぼくとコー総長へ頭を下げた。

 昨日──(ぼくの予想通り)たった一人で帝宮へ乗り込んだユーリは、もちろんリリゼ姫にあっさり返り討ちされて、とりあえずリリゼ姫の部屋へと放り込まれた。

 ただし「姫の部屋」といえば聞こえはいいが、そこは要するに『奇跡喰らい』たるリリゼ姫を拘束しておくための封印施設──座敷牢。帝宮で最も厳重な「監獄」だった。

 そうとは知らず脱出を試みたユーリは、対リリゼ姫用の監視装置(制御不能に陥った彼女を「強制停止」させるための自動破壊兵器)の攻撃を受け、人としても、電素人形としても重大な(致命的な)深手を負ってしまったのだという。

「帝宮へ戻った時、ちゃんとおれが引き継げればよかったんだが──」

 目を閉じたまま動かないユーリの顔から目を離せないぼくの頭上を、クロナ少佐の淡々とした言葉が流れ過ぎてゆく。

 実はクロナ少佐は、文字通りの意味で死にかけていた。

 自らの奇跡を──その命のほとんどをリリゼ姫に「喰われて」しまって。

 そしてクロナ少佐の命を喰らい尽くしかけているリリゼ姫もまた、それは同様だった。

 ……、くん。──ルくん!

「ハルくん!」

 はっと気がつくと、コー総長が必死にぼくへ呼びかけていた。

「まだ間に合う。ユーリちゃんを救えるわ!」

「ほ、本当ですか── !」

 救える、と力強くうなずくコー総長。

「ユーリちゃんは今、半分『奇跡喰らい』になったような状態なの──ううん大丈夫! むしろそのおかげで、ユーリちゃんはクロナくんの──帝國のアークスアンティーク『レアルライン』の支配下にある」

『レアルライン』は、その分身たる頭冠ティアラを介して『奇跡喰らい』を操る力があるの、とコー総長。確かにリリゼ姫の頭には、最初に会った時から黒い髪飾りのようなそれがあったし、今のユーリにも、その桜色の頭に黒い頭冠があった。

 その頭冠さえあれば、『レアルライン』の真の所有者たる当代皇帝(レアル帝)でなくとも、その命を対価として『奇跡喰らい』を操ることができる。

 本来それは、例えば帝國にとって好ましからざる人間が余計な奇跡を遺さないよう、それを喰らうために使われたりするもの──らしい(詳細は軍事機密)。

 ちなみに「帝國の第七皇女」がそのような存在であることは、護帝五国を含む六華連合内にあっては公然の秘密なのだという(連合帝國内にもいろいろと事情があるらしい)。

 もうバレバレ。でもだからこそ効果がある(相手に伝わらない脅威では脅しにならない)。

 一方相手国側にしても、彼女を正式な「お姫さま」として認めてしまうことで、逆にその行動に制限をかけられる利点がある。

 帝國の姫ともなれば、単独で勝手に街を出歩いたりできない(大学街のような場所は本当に例外)。その目的はさておき、他国を訪問するには(ユーリのように)必ずその通告や目的が必要になるし、相手国にとっても「下準備」という名の時間稼ぎができる。

 リリゼ姫以外にも、歴史上「帝國の第七皇女」として他国で裏工作をする「お姫さま」は何人もいたらしい。

 要するに「帝國の七姫」というのは、そんな「使い捨てのお姫さま」たちの総称だったのだ(そりゃいろいろ噂にもなる)。

 さておき今のユーリは、そんな背景を持つ『帝國のアークスアンティーク』とクロナ少佐の奇跡──命によって、辛うじてその存在を保っているのだった。

「だがおれの命は、もう限界に近い」

 さんざんリリゼに食い散らかされちまったからな──この期に及んで苦笑するクロナ少佐。

「ユーリちゃんを確実に救うには、だからシジマちゃんの奇跡が──あの猫缶が必要なの」

「あれはユーリ宛ての奇跡だった、ってことですか?」

「それはわからない」

 素直に首を振るコー総長。けれど。

「けれどシジマちゃんは、ハルくんと同じく、ユーリちゃんの親友だったんでしょ?」

 その親友の命の危機に、あのシジマちゃんが黙っていると思う?

 たとえ奇跡となっても。ううんだからこそ、きっと絶対、何かあるはず。起こるはず。

 それはとても奇跡研究の最高峰たる帝都大の総長から出て来る言葉ではなかった──が。

「わかってる。でもだからこそ、そんなわたしだからこそ、言えることがある」

 わたしたちはまだ、奇跡の何たるかを本当に理解してはいない。

 奇跡に関しては、まだ何も知らないに等しいのだ──と。

 何も起こらないかもしれない。

 けれどそうあきらめられるほど、わたしたちはまだ奇跡を知らない。だから。だからこそ。

「ハルくん。奇跡を──シジマちゃんの猫缶を!」

 クロナ少佐もうなずく。

「だがあまり待ってはいられない。そうだな……せいぜい日没までってところか」

 リリゼ姫は動かなかった。彼女が動けば、それだけクロナ少佐の負担が増えるから。

 今やユーリと彼女、二人分の命を支えている彼の命──その奇跡を無駄にしてしまうから。

 リリゼ姫は、だからじっと黙ってクロナ少佐の横に立ち続けている。

 まるで泣いているかのように、唇をきつくきつく引き結んだまま。

 コー総長の「力」も役には立たない。だってシジマが──シジマの奇跡が待っているのは他の誰でもない、このぼくなのだから。

 ぼくしかいない──シジマの奇跡を探し出せるのも。ユーリを救えるのも。

 二人の親友たる、このぼくしか。

「行きます!」

 手にした電素二輪の鍵を砕けよとばかりに握りしめ、ぼくは走り出す。


      ☆


 帝都大再試験/第三日目(一九日一七時〇八分)/大学街/天文台~異国通り


 もう自分でもどこをどう走っているのかわからない。

 振動の絶えない二輪車のハンドルにくくり付けた懐中時計(ほとんど見えないが)とにらめっこしつつ、とにかく走る。

 事情を知らない学生の誰かが、たまに自分の見つけた猫缶らしきものを掲げて声をかけてくる。けれど全部無視すみません。もう一つ一つ鑑定している時間も、最後の一つを探している余裕もない。

 近道──一発で本物が見つかる裏技。それしかない。

 けれどまだそれはわからない。手がかり一つない。何も思いつかない。

 でも──でも必ずそれはある。あるはずなんだ。ぼくのすぐ目の前に!

 天文台周りをぐるり巡った後、下の街へ降りて『田舎の湖畔亭』を横目に異国通りを行く。

 日没まであと五六分──


 出発直後からぼくの頭の中では、甲高い電素原動機の回転音に混ざって、コー総長の祈りのような「声」が続いている。

 ──全ては、当時のクロナ少年がリリゼ姫と出会ったことから始まった。

 帝都大の奥底で数十年もの間封印されていた禁忌の人形姫。

 成長する電素人形──その失敗作と。

 七〇年前のアークスアンティーク大戦で「実用化」された電素人形。

 人の代わりに人を殺す殺戮兵器。その最大の不満は「成長」しないこと。

 子どもではなく、大人の姿にまで成長させることができれば、より強力な武器を扱える。

 戦車だって運転できる。相棒たる人の兵士がいなくても、電素人形だけで戦争ができる。

 そうして当時の帝國大学院・奇跡研究所にて「それ」は始まった。

 成長しない電素人形を「成長する人形」化する禁忌の実験。

 手がかりはあった。電素人形を特別な方法で「殺す」ことによって一種の『奇跡喰らい』とし、『それ』に人の奇跡を喰わせることで、成長に必要な「奇跡の力」を補充するのだ。

 けれど、そもそも命のない、ただの人型でしかない電素人形をどうやって殺す?

 命がなければ与えればいい──たとえばユーリのように。

 すでに当時からそういう事例はあった──人の身を捨てて電素人形に成ろうとした人々が。

 電素人形に命を移し、永遠に朽ち果てることのない体を手に入れようとした人々が。

 そうして命を得た人形であれば──命があれば、それを奪える。それを殺せる。

 その実験台がリリゼ姫だった。

 大戦時代に生きた暗殺少女。先のない少女。自分の行く末を知って絶望していた少女。

 そんな彼女へ「救ってやる」と声をかけ、その命を「利用」したのが当時の帝國大学院院長──コー総長の父だった。

 その過程で、彼の娘だったコーデリア──今のコー総長と「暗殺少女」リリゼは出会う。

 早熟の天才少女として父の助手をしていたコーデリアは、父の計画を知ってどうにかリリゼを逃がそうとする。

 だが結局「どんな形でもいい、ちゃんと生きてちゃんと死にたい」と願うリリゼを翻意させることは叶わなかった。


 古書店街を行く。手がかりは見つからない──日没まであと四九分。


 結果として「実験」は一応の成功を見る──電素人形へと命を移され、それを奪われ(殺され)、『奇跡喰らい』と化すリリゼ。

 帝國のアークスアンティーク『レアルライン』に操られるまま、秘密裏に敵対勢力(後のアリスルーン神聖王国)のとある町へと送り込まれた彼女は、そこを拠点に奇跡を喰らい続けた。

 ちゃんと生きられる新たな体を手に入れるために。

 ちゃんと生きてちゃんと死ねる、新たな人生を生きるために──そう信じて。

 志願して彼女と共に町へ向かった若きコーデリアは、その一部始終を記録し、記憶し続けた。

 最初女児姿だった電素人形はやがで少女の姿まで──元の彼女くらいにまで成長する。

 だがそこまで。以降はどれだけ奇跡を喰わせても成長しなかった。

 逆に成長するにつれて、『レアルライン』による制御も難しくなっていった。

 折しもこの時、大戦は重大な局面を迎えようとしていた。聖櫃教会を擁護する諸国が集結、『アリスルーン神聖王国』として連合帝國からの独立を宣言したのだ。

 事ここに至り、帝國は(すでに計画破棄の決まった)リリゼを彼の国のアークスアンティーク『アリスルーン』へぶつけるという暴挙へ出る。


 枯れたサーシアリーズと(明日の学生葬のために)新たに掲げられた花環が混在する中を、ただひたすら走り続ける。依然手がかりなし──日没まであと四二分。

 

 無駄にするくらいなら潰してしまえ。敵になるくらいなら喰らってしまえ──けれどさすがに『神さまの奇跡』には、急造の奇跡兵器程度では文字通り歯が立たなかった。

 愚かな人造人形──その身を永遠の牢獄とすべく、リリゼの時間を永久に止めてしまおうとする『アリスルーン』。けれどコーデリアは必死に願う。それはリリゼの意志ではない。彼女はただ生きたかっただけなのだと。ちゃんと生きて、ちゃんと死んで、ちゃんと奇跡を遺したかっただけなのだと。

 果たして『アリスルーン』は応えた。

 ならばそれを成せ。お前が成せ。それまではお前自身、生きることも死ぬことも許されない。

 当時一六歳だったコーデリアは、そうして人としての時間を止められてしまった。

 リリゼを人へと戻し、命を与え、その彼女の命が死を迎えるその日まで。

『アリスルーン』の奇跡によって事実上不死となったコーデリアは、リリゼの秘密を守ることを条件にその研究の全てを引き継ぎ、表向きはさらなる奇跡と電素人形研究のため、帝國大学院から独立した電素人形研究所を設立する(後の帝都大学)。

 不死、という以前に「死ぬことを許されない」コーデリアが相手では、暗殺して口封じをすることもできない──結果的にコーデリアを総長とする帝都大学は、帝國内にあって唯一絶対不可侵の特権を得た事実上の準独立国家として、七〇年の時を経た現在もなお、その存在と地位を守り貫いている。


 学内聖堂付近は明日の学生葬の準備たけなわで二輪通行不可。私服姿でこっそり酒精をあおっているシステル・カデンと目が合ったような気がする──日没まであと三五分。


 そうして一度は帝都大に封印されたリリゼだったが、数十年後、その「彼女」を目覚めさせたのが当時一四歳の天才少年──クロナだった。

 ひょんなことから彼は、帝國の黒歴史──電素人形の『奇跡喰らい』化実験と、そしてその犠牲となった「暗殺姫リリゼ」が今なお存在し続けていることを知ってしまう。

 どこにも居場所を見出せない少年は、彼と同様、誰にも顧みられることなく帝都大の秘密施設に封印されている少女を助けたいと切に願った──理由はどうあれ、要は一目惚れ。

 一度はリリゼを連れて逃亡に成功。けれど(コー総長の奇跡の力で)見つかり拘束されてしまう。さすがの帝國もこれには黙っておらず、結果としてクロナは大学を自主退学となる。

 大学の庇護を失ったものの、一方で総長の施したリリゼの封印処置を突破してみせたクロナは、そのまま帝國総軍へと迎え入れられる──コー総長による再度の封印を拒絶し、彼と共にありたいと願うリリゼ専属の情報局員として。

 特権的な昇進を重ねて『七姫計画』責任者となったクロナ「少佐」は、その裏でコー総長と組み、帝國の第七皇女とされたリリゼ「姫」を「命ある本物の人間」とすべく研究を重ねていった。そんな中でクロナは『幻の八番目のアークスアンティーク』の存在を知り、そこに一つの可能性を見出す。

 人として生まれた神さまを真の神さまとする奇跡。

 ならばもし、それを人ではない電素人形に使ったなら──


 気がつくと二輪車の電素供給が止まっていた。電素切れ。

 動かなくなったそれから降りようとしてずっこけて倒してしまう(慣れない運転で疲れていたらしい。ほんとすみません!)。

 二輪車と一緒に地面に寝転がっていると、枯れたサーシアリーズが目に入った。

 黄色い方だけが枯れ、青い方はまだ残っている。

 サーシアリーズは通常、青も黄も一緒に枯れる。でもシジマによれば、たまにそのどちらかだけが残る場合もあって、そんな時は──シジマ?

 はっ! として体を起こす。四つん這いのままそのサーシアリーズへと迫る。

 片方だけ残ったサーシアリーズ。それについてシジマは何と言っていたか。

 ──日没まであと二四分。


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