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第三章 レアルセア帝都宮殿

      ☆


 夕刻。

 落ちてきたら圧死確実(かつて本当にそうやって暗殺された某国皇子がいたらしい)の巨大な装飾燭台シャンデリアの下。

 侍女のお仕着せを着た、帝宮付き電素人形の奏でる電素式鍵盤の静かな楽曲が流れる中で。

 どこかいい香りのする無闇に広い食堂(と言っていいのか?)の、ひたすら長い食卓の端っこに座ってひとりレイテルガニと格闘していると、両開きの大扉が開くや、こちらは正真正銘、王立学院初等科の女子制服に身を包んだユーリが(やっぱり)飛び込んできた。

「あーおまえ自分だけ!」

「……他に言うことはないのか、ユーリ」

 ぼくが頭の上に掲げるように持ち上げたカニの大皿へ向かって、細っこい手を伸ばしながらぴょんぴょん跳ねていたユーリは、

「あーこの制服か? かわいいだろ! ユーナが着せてくれたんだ!」

 カニのことはひとまずおいて、その場でくるるんと回って見せる。

 ユーナというのは、ユーリの妹姫たるユユリナース姫殿下の愛称。ユーリにことさらかわいい服や妹である自分の「お下げ」を着せることで、憎き兄王子ユーリの自尊心を大きく傷つけ苦しめている(と本人は信じている)。

 それはユーリも重々承知している──はずだ。

「もちろんだとも!」

 言ってまた回る。だからもういいって。また目を回すぞユーリ。

 ちなみに服を褒められたらくるんと回ってお礼せよ、というのも妹姫の仕込みだったりする。

 さらに今回は、自分が初等科時代に身につけていた制服を着せるためだけに、わざわざ帝都まで出張って来たらしい(もはや口実もへったくれもない)。

「で、ユーナさまは?」

「もう帰った!」

 本当にユーリへいらがらせをするためだけに来たんだ、姫……こわ。

「そうだハル、ユーナからお前に伝言がある──我が愚兄たるユーリ兄王子に何か粗相があれば遠慮なくお仕置きくださいませ──っておい、何だそれは!」

 言うに事欠いて愚兄とは何だ愚兄とは! などと今さらぼく相手にノリ突っ込みされても。

 ところでユーリ。「愚兄」というのは確かリデル語よりも古い王国語で、文字通りの意味ではなく、自分の身内を謙遜して言う言葉だったと思うぞ(うろ覚えのシジマ知識より)。

「しかしユーナさまも遠慮ないというか、懲りないというか」

「ハル!」

「ああいや、別にユーナさまを悪く言うつもりはないよ。ぼくだってユーナさまの気持ちはわかっているつもりだし」

「そうか──じゃなくって! どうしてユーナはさま付けで、おれは呼び捨てなんだ!」

「親友だったら呼び捨てにしろって言ったのは、だからお前の方だろ」

「無論だ! だが『ここ』ではやはりユーリさまと、いやユユリアス王子殿下と呼べ!」

「わかった。アリスルーン神聖王国ユユリアス・イヅナ・レイドセイダース二世殿下」

「おおお、おう!」

 自分でもめったに名乗り上げない本名を告げられてうろたえる王子(ちょっと笑える)。 

 ──と。

「リリゼリカ・レアルシド皇女殿下!」

 そんな姿なき声に導かれるようにして。

 長い食卓のさらに先にある大扉から、ユーリとは違ってこちらはゆっくりと、けれどもったいつける風でもなく淡々とした足取りで「帝國の姫君」が入室してきた。

 天文台で見た時とは打って変わって、いかにもお姫さま然とした白いドレススーツを纏っている。頭には──遠目からは一瞬わからなかったけれど、髪の色と同じ黒いティアラ。

 その背後に控えるのは、やはりあの黒眼鏡の軍人さん。大きく張った胸に各種の勲章や略章が輝く礼装(冬季第二種礼装)姿は、むしろ仕える姫さまよりも煌びやかに見える。

 とういうか室内でも黒眼鏡は外さないのかこの人。 

「紹介が遅れました。彼はわたしの護衛兼お目付け役、クロナ・ライダー帝國総軍少佐です」

 少佐出た! ……て、え? クロナ?

 クロナ・ライダーってまさか──思わずそう声に出かけたぼくの足を、けれど隣に立つユーリが初等科指定の無駄に頑丈な編み上げ靴でがつん! と蹴る(本気で痛い!)。

 長い卓の端っこについたリリゼ姫は、その反対側で起立しているそんなぼくらに向かって軽く目礼をすると、

「ユユリアス・イヅナ王子殿下。ハルツグ・ヨゾラ奇跡送達士」

 そこで改めてユーリとぼくを見て、

「ようこそ、我が帝宮──レアルセア首都宮殿へ」

 そう。

 あの天文台から、まるで装甲車のような黒い大型自動車(乗り心地は良かった……と思う。たぶん)で連れて行かれた先は──何となく予想はついていたけれど、この帝宮だった。

 レアル帝國レアルセア首都宮殿──別名レアル宮、もしくは単純に「帝宮」と呼ばれている。

 帝宮へは大学街を抜けて行くとけっこうかかるけれど、実は天文台からはすぐ目と鼻の先にあった。道もきちんと整備されていて、なるほどあれなら大型自動車でも楽に行き来ができる。とはいえ皇族方が公務やお忍びで帝都大へ行く際に使う道なので、残念ながら一般の自動車は進入禁止(どうせ帝宮への一本道だけど)。

 裏門とはいえ本宮へ続く守衛門を問答無用で(減速すらせずに)突っ切ると、こちらも裏口とはいえ大層な造りの車寄せで自動車は停まった。

 そこでいったんリリゼ姫と別れて、かつてのユーリよりもさらに背の高い黒眼鏡の軍人さん(この時はまだその名前も身分も知らなかった)に連れられて宮殿内へ。

 受験の時に入った場所とはまた違う、一般に公開されている回廊よりも一回り細い(けれど倍は凝った装飾の施された)廊下をてくてくと歩き、案内された別室で真新しい奇跡送達士の制服に(ちょっと複雑な気分で)袖を通すと、またあの軍人さんの案内で、この「大食堂(たぶん違う)」へと連れて来られたのだった。

 その間、簡単な案内以外で軍人さん──クロナ少佐と交わした会話はただの一度だけ。

 着替えのために別室へ入る直前、彼の方から、

「そういや、例のアレはその鞄の中か?」

「シジマ・セレイナの奇跡──ですか?」

「だといいがな」

「……どういう意味ですか?」

「さあな」

 その後、新しい制服姿で外に出るとクロナ少佐はもういなかった(お仕着せを着た電素人形が案内してくれた)。

 今こうして再会を果たしたものの、どこを見ているかもわからない黒眼鏡に守られた顔からは、やはり何の表情も読み取れない。

 クロナ・ライダー少佐──シジマと同じく帝都大へ首席入学を果たし、けれど中退してしまった天才少年と同じ名前。

 少佐というのも含めてただの偶然か。それとも……

 ユーリの靴がまた上がるのを見て、ぼくはあわてて(小さく)首を振った。

 振ったついでに、それまで座っていた椅子の、食卓に負けないくらい長いその背もたれに引っかけておいた鞄が目に入った(他に引っかけておける場所が見当たらなかったのだ)。急いで外して足元へ置く。

 目の前ではもうリリゼ姫が席に着くところ。今さら外しても手遅れだけれど。

 帝宮へ入る際にも特に改められることのなかった(というか端から無視されていた)その鞄の中には、筆記用具や財布、帝都観光案内(大学街詳細図付き)、読みさしの文庫本(もう何度も読んだやつ)、子どもらしく(?)生傷の絶えないユーリのための絆創膏、これもユーリ用の髪留め紐と櫛(女性用の大きなやつ)、捨て紙(やっぱりユーリの鼻かみ用……ってぼくはユーリの母上か!)──等々に混ざって、あの猫缶が(けっこう適当に)突っ込まれてある。

 一応新品の薄布(縁起担ぎの赤色)に包んであるけれど、それだけといえばそれだけ。

 もっと厳重かつ慎重に扱うべきなのかもしれないが、どうもそんな気がしない。

 だって猫缶だし。

 いや別に自分宛ての奇跡じゃなかったからって、ぞんざいに扱ってるわけじゃない。決して。

 何よりもふと思った時、すぐに取り出して触れられるようにしておきたかったから。

 たとえば頑丈な箱とかに入れて封じてしまったら、取り出すのにさらに余計な気遣いをしてしまうかもしれない。なんとなく手にして眺めたいと思っても躊躇してしまうかもしれない。

 それはやっぱり違う気がする。

 気が向いたときにさっと手にできるように。

 朝起きた時や夜寝る時に気軽に挨拶ができるように。

 それこそいつも隣にいたシジマに声をかけるように。

 いつも身近に置いておきたかった。ただそれだけ。

 新しい制服へ着替える時にも、それを出して置いておいた。

 おかげで少しだけ、またそれを着る勇気をもらえた気がする。

 ぼくが届けるべき奇跡にぼく自身が勇気づけられてどうするって話でもあるけれど。

 そのあたりはまあ、持ちつ持たれつってことで──なんて。

「──ハル、ハル!」

「うん? ……ユーリ?」

 ユーリにしては小さな声で、ぼくは危うく聞き逃すところだった。

「王子だ。もういい、座れ。着席!」

 食卓の下で、ぼくの制服の裾をつんつんと引っ張る。

「また蹴られたいか!」

 見ればリリゼ姫はもう着席していた。後ろに控えているクロナ少佐共々、ぼくらが座るのをじっと待っている。

 うわうわ!

 どうにかあわてず、でも急いで静かにゆっくりと席に着く(何のこっちゃ)。

 すぐ隣の子ども用(といっても作りは自体は大人用と変わりない)椅子に座ったユーリが、ことさら見せつけるように大げさなため息をついた。

 さすが妹姫に玩具にされてても王子は王子。こういう場所では頼りになる。

「何か言ったか」

「さすが王子、頼りになるって」

「その台詞の間に他にもあったような」

「気のせいだろ」

「──よろしいかしら?」

 ひそひそ話していたぼくらの一瞬の隙を突くようにして、リリゼ姫が口を開いた。

 ぼくと王子は、授業中に見とがめられた(シジマ以外の)生徒のようにぎゅっと口を閉ざし、背筋を伸ばしてリリゼ姫と正対する。

 黙ったせいか、壁と一体化した巨大な暖炉に薪の爆ぜる音がやけに耳につく(暖房自体は分厚い絨毯の下に巡らされた配管式の蒸気暖房が担っているので、それは完全に飾りだが)。

 静かになったな……と思ったら、電素式鍵盤の曲の音が聞こえなくなっていた。

 それで気づいたけれど、今この場所にいるのはぼくらとリリゼ姫、それにクロナ少佐の四人だけだった。

 鍵盤を弾いていたお仕着せ姿の電素人形も、ぼくの前にあった食器を片付けてくれていた給仕の人も、扉の開け閉めをしていた執事風の人も、いつの間にかいなくなっている。

 どうやら人払いされたらしい──それがどういう意味を持つかくらいは、宮廷儀礼に明るくないぼくにだってわかる。

 余興はおしまい。これからが本番ってことだ。

 足元の鞄をちらりと見る。ごくりと喉が鳴る。

「あなた方はお二人共、古式剣術に通じていると聞いた」

 リリゼ姫の口調が変わった。飾り気のない本気の声。本音の声。

 王子は黙っている。なのでぼくも、ちょっとうなずくだけで黙っていた。

「わたしにも多少の心得がある。よって単刀直入に申し上げる」

 クロナ少佐の手がさりげなく腰にかかる。むろんそこには何もない。けれど帯剣していれば間違いなくその柄に手のかかる位置。脅しとしては充分すぎる。

 そんな中、リリゼ姫の目線がはっきりぼくへと向けられる。

「ハルツグ・ヨゾラ奇跡送達士。あなたが預かっているシジマ・セレイナの奇跡を、それを宿した器を──『聖櫃』を、こちらに引き渡していただきたい」


      ☆


「何も言わず、黙ってその猫缶を譲ってほしい──そう言われましたか」

 そら来た──と身構えるぼくの横で、いつものような張り上げ声ではなく、でもやっぱりどうしようもなく子どもの声で王子が言った。

 対して、要求は伝えたとばかりに黙して肯定するリリゼ姫。

「あの、すみませんが──」

「お断りだ!」

 いきなりの代役で試合に挑む補欠の覚悟で口を開いたぼくよりも先、ばん! と食卓を叩いて立ち上がり、それでも足りないとばかりに椅子の上によじ登って仁王立ちする王子(そういえば昔から高いところが好きだった)。

「お断りだ!」

 そして二度言った。椅子の上から。ぼくを差し置いて。

 ていうか王子、靴を履いたまま椅子の上に立っちゃだめだろ──じゃなくって!

 あの頼りになるアリスルーン王国第一王子殿下はどこへ行った!

「無論、対価は用意してある」

 こちらはこちらでまったく動じる風もなく、そんな王子を無視して先を続けるレアル帝國第七皇女殿下。

 ぼく自身寡聞にして知らないが、実はこれも宮廷儀礼の一つなんだろか(そんなわけない)。

 頑として椅子から降りようとしない王子はさておき(蹴っ飛ばすわけにもいかない)。

 リリゼ姫が示したシジマの奇跡への「対価」は、一言でいえば帝都大への無試験・無条件入学だった。

 リリゼ姫によれば、通常の推薦枠とは別に、帝國には彼らが指名した者を帝都大へ入学させることができる特別な枠を持っているという。

 それはぼくもうわさ程度には知っていた(シジマ言うところの「帝國皇族枠」)。

 毎年一人分だけ確保してあるその枠は、ぶっちゃけ帝國が大学へと送り込む監視役用だ。

 帝都大への不可侵を誓った帝國が、それを受け入れる対価として要求したもの。

 ただし帝都大側との間で妥協した部分もあって、たとえばその枠を使って入学させた場合、その者が正式に卒業するまで他の者は入学できない。中退の場合は(理由の如何を問わず)、その後四年を経過するまで以下同文。

 つまりもしぼくがその枠を使って入学したら、ぼくが卒業する(か退学する)まで、帝國はその枠を行使することができなくなってしまう。何かあって帝都大の動きを探りたいと思っても、その時に彼らが望む人間を確実に入学させることができなくなってしまうのだ。

 もちろん正式に試験を受けて合格すれば別。とはいえ常に狙ってそれがきるなら、そもそもこんな約束など必要ない──だが。 

 それでもいい、と。

 それをくれてやる、と──リリゼ姫は言っているのだ。

「無論のこと、帝國のために何か働いてもらおうなどということはない。入学にあたっての条件は一切ない。好きなように学生生活を楽しんでくれてかまわない」

 リリゼ姫はことさら大きな笑顔を作って、

彼女シジマの分までな」

 この場ではむしろ逆効果にしかならない、それはいっそ挑発といっていい言葉。

 リリゼ姫だってそれを知っているはず。だったらなぜ──と考える間にも、そんなぼくを追い越すようにして姫の説明は続く。

「学部も学科も自由に選んでくれていい。第一志望は奇跡現象学科だったか? 合格するのはもちろん、進級するのも大変な学科だな。だが特別枠ならばその心配も無用だ。成績の如何を問わず四年間在籍できる。極論、一度も大学へ顔を出さなくても卒業できるぞ」

 つまり今この場でシジマの猫缶を引き渡すだけで、四年後には奇跡現象学修士の学位と、さらに帝都大卒業生の証たる「老師グールド」の称号が得られる。

 その間、学費は無論のこと生活面も帝國府が保証してくれる。どころか毎月一定額の「教材資料購入費」まで支給してもらえる(両親の月給を合わせたよりも多い……)。

 他にもぼくの場合は、年二回の帰省用として特別寝台車(必要に応じて国際列車に連結される王族皇族専用客車)も確保してくれるという。

 もし街の下宿で不満なら帝宮の一室を使ってくれてもいい──とまでリリゼ姫は言った。

 黙って聞いていれば次から次へと出るわ出るわ。宮廷儀礼をぶっちぎって引くに引けなくなっている、どこぞの無作法な王子主宰の宴会のお品書きを見るようだ(げっぷ出そう)。

 まあ作法を語るなら、そもそも宮廷序列的には、第一王子たるユーリと第七皇女たるリリゼ姫では、王子の方が格上ではあるのだが(だからといって椅子の上はだめだろ王子)。 

「どうする? 帝都大入学は彼女の願いでもあったのだろう?」

「ふざけるな! あいつの奇跡をそんなことのために使えるもんか!」

 だろハル! ……って、啖呵を切った後でぼくに同意を求められても。

 いやその通りだけども。

 まったくその言葉通りだけれども!

 ──でも。

「でも、断ったらどうなるんです?」

「実力に訴えるしかなくなる」

 即答された。まるでそちらこそが本題であるかのように。

 これまで景気よくずらずらと並べ立てていた豪華賞品の全てを卓の上から蹴落とすように。

「遺憾ながら我が帝國総軍情報局が、その全力をもってきみの猫缶を奪取すべく行動を開始することになる」

 リリゼ姫の背後で、うなずくでもなく──といって否定するわけでもなく、いっそつまらなそうに「ふん」と鼻を鳴らすクロナ少佐。

 王子も負けずに「ふふん!」と鼻息を荒くして、

「おれが──王国がそれを座視するとでも?」

「そんな脅しが我が帝國に通用するとでも?」

 むしろ王子とのやり取りを楽しむかのように、食卓の上に肘をつき、合わせた手の甲にその細いあごを乗せて微笑むリリゼ姫。

「七〇年前の王国独立戦争──『アークスアンティーク大戦』の二の舞になるぞ」

「連合帝國には、六華連合帝國にはその覚悟も準備もある」

 神殺しの聖戦を別にすれば、これまでの人類史上最大最悪の戦争まで持ち出してきた!

 何だかもう、行き着くところまで行った感じすらする。

 この二人、たかが猫缶一つで世界を滅ぼすつもりか。

 これで本当に世界が滅んだら誰のせいだ(断じてぼくではない──と思う)。

 まったく誰とは言わないが、せめて死ぬ時くらいは静かに死んでくれ、だ。

 そしていいから王子は早く椅子から降りろ。

「嫌だ!」

 王子は、腰に当てていた細っこい腕を制服の赤いリボンの前でちまっと組んで、

「帝國の姫が前言撤回しない限り、おれもここを退かない!」

 言ってることは頼もしいが、していることは思いっきりお子さまだぞ王子。

 対するリリゼ姫は、これまでの作り笑いから一転、わがままな妹に苦笑する姉といった顔で、

「残念ながら、わたしにはその権限が与えられていないんだ」

 帝國第七皇女という立場にあってなお、自身はだたの交渉役でしかないと──裏を返せば、これはそれだけの奇跡なのだとリリゼ姫は言っているのだ。

 ぼくはさらに何か言い返そうとする王子の前に手をやって(座ったままでも王子の口元まで手が届くところがまた泣けてくる)黙らせると、改めて足元にあった鞄を手に取った。

「……姫は、リリゼ姫は、この奇跡がどんなものかご存じなのですか?」

「わかっている、と言ったら?」

「教えていただくというわけには……いきませんよね」

「むしろ知らずにいた方がそなたのためだ……と言ったら、納得してくれるかな」

 たとえそれが偽らざるリリゼ姫の本音なのだとしても、悪いけれどそれを決めるのは貴女の方じゃない。

 だからぼくはきっぱりと(笑顔で)首を横に振る。

「いいえ」

 リリゼ姫も笑って応える。

「だな」

 ただひとりユーリだけが怒って、

「ふざけるな! ハルも笑ってるんじゃない!」

「いや笑うしかないだろ」

 いったいシジマは、死んでからもどれだけぼくを──世界を引っ掻き回せば気が済むんだ。

 リリゼ姫は手をほどいて顔を上げると、そのまま椅子の背もたれに体を預けるようにして、

「だが……ではどうする? ここにいる全員がそれなりに武芸に通じているようでもあるし。いずれ立場も身分もある者同士が、たかが猫缶一つを巡って命懸けの争奪戦を始めるのか?」

 むしろそれを期待するかのようなリリゼ姫の口振りに、

「臨むところだ!」

 だから力勝負になれば真っ先に倒されるのが確定の王子がなぜそこまで自信満々なんだ。

「じゃあ聞くがお前はこのかわいい顔を本気の拳で殴れるのか!」

「うっ……」

「殴れるぞ」

 けれどあっさりとリリゼ姫は言って、さらに拳まで作って見せた。

「電素人形という存在には、個人的にはいろいろと思うところがあってな──王子殿下の、そのいかにも人形面をしたお可愛いらしい御尊顔を、本気の拳で力いっぱい遠慮なくぶん殴れるのなら、むしろ望むところだ」

 顔は相変わらず笑っているけれど、間違いなく本音だった。

 その証拠に、我が王子に返す言葉がない──どころか圧倒されている。戦う前からすでに。

 体はともかく、心の方は未だ古式剣術烈士たるを忘れていない(はずの)王子が。

 ぼくの祖父から「一刀奥義」と呼ばれる秘技も伝授され、大会では敵なしだった暴走王子が。

 どこをどう見ても「帝國の姫」の見本のようなリリゼ姫に対して。

 こちらも相変わらず黒眼鏡のまま姫の背後に立つクロナ少佐に対して──というのならまだわかる。

 けれど逆に彼の方からは、その手の気迫や闘志といったものがまったく感じられない。

 いっそやる気がない、といった方が正しい。

 先に腰にやっていた手も、今はだらんと下がったまま。

 実はさっき、顔をそらせてあくびをしていたのもしっかりと目撃している。

 だからといって油断できる「敵」ではないことは、もちろんぼくにだってわかる。

 けれど今、この場を支配しているのは──たとえ学生試合とはいえ、それなりの「実戦」を潜り抜けてきた王子を(椅子の上に)釘付けにしているのは他でもない、レアル帝國第七皇女たるリリゼ姫なのだ。

 だめだ──勝てない。

 たとえ王子が──ユーリが元の姿だったとしても勝てる気がしない。

 もしかしたらリリゼ姫には、他者に対して致命的な力を行使できる奇跡があるのかもしれない。だがそれならそれで教会に登録されているはずだし、こういう場では特に、そういう奇跡のあることは前もって相手に開示しておかなくてはならないはずだ。

 いずれそんな奇跡があろうとなかろうと、ぼくらが現状不利であることに変わりはないが。

 このままではどちらにせよ猫缶は──シジマの奇跡は奪われてしまう。

 今さら奇跡送達士の預かる奇跡に手を出すことの是非を問うても始まらない。

 たとえ教会に助けを求めることができたとしても、「敵地」たる帝國では──ましてやその中心たる帝宮の腹の中では、その力は隣に立つ王子の腕力ほども期待できない。

 ではどうしたらいい?

 ぼくは──どうしたら。

「……決まってるだろ」

 固く食いしばった歯を無理やりこじ開けるようにして王子が言った。

「王子」

「もういい。ユーリでいい」

 王子は──ユーリは、怒り顔から一転、笑っていた。

 そうだ。こいつは厳しい時ほど笑うんだ。本気になるほど笑うんだ。

「戦うんだ。戦えハル」

 相手の──リリゼ姫の「実力」を知ってなお、いやだからこそ、ユーリは笑う。

 その笑顔に、ぼくは──ぼくらはどれだけ勇気づけられてきたか。

 国際大会出場をかけた最後の戦いで。

 残り一人ぼくが負ければ敗退が決まる敗者復活戦で。

 土壇場で出場を決めたものの、主力三人を欠いた決勝戦で。

 そしてシジマが逝ってしまった、あの日の夜も。

 それでもユーリは笑い。踏ん張り。

 決してあきらめることなく。

「これで勝ったら宴会だ! レイテルガニ食い放題だ!」

 言って。そう言ってユーリは、いつも前に出る。

 へこたれる時はもちろんへこたれるけれど。

 ゼヨナの悲劇からはまだ立ち直れていないけれど。

 それだってユーリはいつかきっと、自分でちゃんと立ち上がる。

 懲りずに、くじけずに。

 どんな修羅場でも、誰よりも先に──真っ先に自分が一歩を踏み出してゆく。

 ここでもまた、ユーリはそうする。

 どん! とユーリの編み上げ靴が食卓の上に乗る。

 椅子に座ったままのぼくからその真っ白な下穿きが丸見えになろうとおかまいなく(まあいつものことではあるけれど)。

 どんなに苦しくても、厳しくても、かわいくなっても──ユーリはユーリだから。

「もちろんだ! おれはユーリだ! ハル、お前とシジマの親友だ!」

 最高の笑顔で。楽しくてたまらないといった声で。

「だから守る! だから戦う!」

 小さな体で。試合用の真剣どころか初心者用の模擬木剣すら持てない細腕で。

 それでも退かない。絶対あきらめない。

「行くぞハル! 大丈夫! お前ひとりを死なせはしない!」

 ありがとうユーリ。けど死ぬことはもはや前提か。

 それでもやっと立ち上がったぼくを称えるように、ぐい! と拳を突き出す。

 ぼくも拳を固めて突き出す。冗談のように大きさの違う二つの拳が、それでも二人の間で確かにぶつかり合う。

「電素人形のまま死んでも奇跡は遺らないぞ」

「おれの奇跡ならとっくに『アリスルーン』にくれてやったさ!」

 だったな。

 もっともそれ以前に、電素人形に「死」という概念があるのかどうかすらまだよくわかっていなかったけれど(回復不能の損傷を受ければ二度と動かなくなるが)。

 まあいい。そんなことは生きていたらまたその時に考えるさ。ユーリと一緒に。

 中途半端に開いていた鞄の上蓋をしっかり閉じて背負い直し、ぽんと叩く。

「よし!」

 気合を入れる。覚悟を決める。

 見ればリリゼ姫も立ち上がり、静かな笑みでこちらを見返している。

「──姫」

「黙っていろクロナ。どうせ加勢する気はないのだろ?」

「加勢してほしいのか?」

「断る」

「だったら聞くな──まったく何気に武闘派だからなお前さんは」

「帝宮の内では姫と呼べと言っている」

「嫌々じゃなかったのか」

「これはこれで悪くない」

「じゃあ姫」

「だから何だ!」

 リリゼ姫の顔からとうとう笑顔が消え、体ごと背後のクロナを振り返って怒鳴りつける。

 向こうは向こうでいろいろと事情がありそう……ていうか背中がガラ空きなんですけど姫。

「隙あり! ハル!」

「おう! ──って待った!」

「うりゃあ──ぐえ!」

 食卓へ飛び乗って走り出しかけたユーリの制服の大きな襟をつかんで止める。

 その向こうでは、同様にクロナ少佐がリリゼ姫に向かって、

「忘れたフリをしても無駄だ、姫」

 リリゼ姫の方を向いたま、クロナ少佐が背後の大扉を指し示す。

 いつの間にか扉は開いていて、そこに一人の「少女」が立っていた。

 その存在に気付いたらしいリリゼ姫の口から、およそ帝國皇女という立場からは想像のつかない「ちっ!」と舌打ちする音が聞こえた(ような気がした)。

「……総長」

「リリゼ皇女殿下。次はわたしの番ですよ」

 背中へするりと流れるような真っ白の髪に、まるで戦場に立つ電素人形のように顔の半分を覆う大きな仮面を付けた彼女は、その小さな口元だけでにこりと笑ってみせると、

「交渉が決裂して命のやり取りをするような状況になったら、戦う前にまずはわたしの話を聞くこと──約束したでしょ?」

「あの、あなたは?」

 食卓の上でひっくり返ったユーリが目を回しているのを幸い(ひどい)、ぼくは話を進めようと、無礼を承知で積極的に割って入った。

「──知らないのか?」

 ぼくのあまりの無知っぷりに驚いた時のシジマそっくりの顔で、ぼくを見るリリゼ姫。

「だから総長だ!」

「総長、総長って……まさか!」

「う~ん、どうしたハル? って新手か! よし! おれに任せ──ぐおん!」

 起き上がりかけたユーリが、まだつかんだままだった襟に首締めされて悶絶するのを知らん振りしつつ(それどころじゃない!)、

「──帝都大総長!?」



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